二〇一五年十一月二十七日。

Re:nd






 秋も暮れになった、今日の朝は寒い。

 私が布団を這い出したのは八時頃だった。最近はもう、布団から出るのがつらい季節だ。厚着すれば抵抗なく出られるかと考えて実行に移してみたけれど、効果はさして上がらなかった。

 いいや。今日のバイトは、午後から。午前中はゆっくり出来るよね。

 小説を進めようと昨日の夜に決心したことは、もう忘れていた。


 拓磨くんはまだ、起きてこない。

 朝食はどうしようかな。布団を畳んでその辺に積んでおくと、私は冷蔵庫へと歩いた。扉を開けても、大した物は入っていない。作るのさえめんどうくさい。

 もう冷凍食品レトルトでいいか……。うん、いい。

 自分に妥協するのは簡単だ。それなら拓磨くんが起きてからでいいか、と私はまたリビングに戻ってきた。椅子に座ると、ぼんやりと部屋の中を見回す。

 もうすっかり目に馴染んだ我が家の景色は、来訪者を迎えても大きな変化を見せる事はない。靴の散らかった玄関も、何度整頓しても乱れてしまう本棚も、風が強くてよく洗濯物が飛ばされそうになるベランダさえも。




「…………」

 ふと、私は立ち上がった。

 ベランダで泣く拓磨くんの姿が浮かんだから……では、ない。テレビ台の後ろに隠してある、とあるモノの事を思い出したのだった。

 それは、日常の何気ない生活の中では、決して目にしないように置いてある。私が意図的にそうしたんだ。もういちいち、思い出してつらくなったりしないように、って。


 テレビ台の裏を手で探り、写真の納まった一枚の額を取り出す。埃を払えば、すぐに写真が姿を現した。

 それは、私と私の両親を写した写真だった。撮影日は2005年、両親が事故で死ぬ前年に撮られたものだ。

 私は目を細め、立ったまま写真を眺めた。

 撮られた場所は市内の井の頭自然文化園だろうか。だとしたら後ろに写り込んでいる象はたぶん、国内最長寿のアジアゾウ「花子」だ。彼女の顔が写るように私たちは並び、仲良く笑っている。

 燥ぐ私を真ん中にして手を添え、まるで私を守るように立っている二人。この次の年、両親は本当に死んでしまうのだ。

 あの頃は、毎日が心から楽しいと思えたのにな。記憶の海のはずれで錆び付いてしまったその感覚に、私は思わずふっと笑ってしまった。

 もう、あれから十年になるんだな……。




「……待って」


 事故から今年で九年目だ。

 拓磨くんは、何て言っていた? 確か、四歳の時にお父さんを交通事故で喪ったと言っていなかった?

 いつぞやのニュースの声が蘇る。拓磨くんの現年齢は、十三歳だ。

 だとすると四歳とは、九年前を意味する。


 どうして今まで、気づかなかったんだろう?


 嘘でしょ?

 嘘だよね?

 いくらなんでも都合が悪すぎるよね?

 信じたくない思いとは裏腹に、理性はどんどん理詰めを進めてゆく。

 事故のあと、警察の人は言っていた。君の親御さんは悪くない、横から突っ込んできた別の車が事故を起こした、そっちの車でも男性が一人亡くなっている、と。

 ぴったりじゃない。拓磨くんが亡くしたのはお父さんだけだ。交通事故死であること、発生年が一致すること。それだけでもう、十分に裏付けは出来ているじゃない。さして交通量の多くないここ武蔵野市内では、交通事故は頻繁に起きても死亡事故はそこまで起こりはしない。


 だとしたら、私の両親が死んだのは……拓磨くんの、お父さんのせいなのだ。



「……おはようございます」

 襖が開いて、拓磨くんが出てきた。

 私は咄嗟に言葉を返さなかった。寝起きの所為かまだ眠そうな拓磨くんの顔に、急に影が差して見えたからだった。

 この子は、私の未来を奪った人の、子供。この子は私の未来を奪った人の子供。この子は私の未来を奪った。この子は私を──


「どうかしたんですか」

 尋ねる拓磨くんに、私は低い声で呟いた。

「別に……どうもしてないよ。おはよう」




 駄目だ。

 一度そう思い込んでしまうと、そうにしか見えなくなってしまう。

 拓磨くんは、私の両親を殺した人の血を受け継いでいる。拓磨くんに非がないことくらい分かっている。それでも、拓磨くんの姿を見るたび私の心の中は荒れ狂った。

 これは、憎悪だ。私はそう確信していた。

 事故が起きて両親が死んで以来、私はやり場のない色んな感情を全て内に止めてきた。どうして死ななければならなかったのか、どうして私は独りにならなければならなかったのか、それを問える相手は私の周りには誰もいなかった。だから私は誰にもそれをぶつけず、あるいは小説という形で迷惑をかけないようにぶつけてきた。

 そして今、その答えを手にしているかもしれない人が目の前にいる。九年間、溜まりに溜まり続けた怒りを解き放てる相手が、私はずっと欲しかったんだ。


「…………」


 それでも、私は手を出したりしようとは決して思わない。思えない。

 勇気がなかったのはもちろんだ。けれど怒りと同時に、私は理解してもいた。私と拓磨くんは、同じ境涯なのだ。加害責任がどちらにあれ、結果的に私たちは両親を失い孤独になった点では共通なのだ。それも、同じきっかけによって。

 悔しかった。拓磨くんが完全に悪者だったなら、私は迷う事なく拓磨くんを問い詰めて張り倒せたのに。親を殺された怒りを、そのまま吐き出せたのに……!



 ガシャン!



「!!」

 ふっと我に返った私は、音のした方を顧みた。

 台所に立って食器洗いをしていた拓磨くんの手から、一枚のお皿が滑り落ちてシンクに叩き付けられた音だった。真っ白だったお皿はきれいに二つに割れ、一本の黒い影が筋のように中央を通過している。

 私は目の奥が白く光るのを感じた。ああ、忘れもしない。このお皿は私の両親がまだ生きていた頃、私の家で使っていたモノだったのだ。

「……あ、すみません」

 拓磨くんは至極落ち着いた様子で言った。

「落としてしまいました」

「──落としてしまいましたじゃないでしょっ!?」

 激昂する私を、私は止められなかった。

「当然の事のように言わないでよ! それ、私のモノなのよ!?」

 拓磨くんの顔に、皺が何本も走るのが見えた。

「仕方ないじゃないですか。落としてしまったという事実は事実です。それに僕、謝りました」

 その物言いに、頭のどこかで何かがぶちっと千切れる音が重なった。


 ……ここで冷静になりさえすれば、きっと分かっただろう。

 拓磨くんだってこの時、苛々していたのだ。お母さんの足跡を辿るルートを失って途方に暮れるあまり、神経質になっていたに違いなかった。そうしたら、もっとましな展開になっていたかもしれない。

 けれど今の私には、その要求はレベルが高過ぎた。


「謝ればいいと本気で思ってるの? 拓磨くん、何様のつもり?」

「……言葉のあやですってば。言葉尻だけ捉えるの、やめてください」

「捉えられるような言葉遣いをする君が悪いから。それと、論点をずらさないでくれる? 私は君に、何様のつもりなのかって聞いてるの」

「知りませんよ、そんなの」

「私の裁量で泊めてあげてやってるんだけど。偉そうな事を言うのは控えてもらえる?」

「それ、僕が望んだわけではないですよ。忘れていませんよね?」

 もう、止まれる気がしない。

「世話になった人間にそういう口の効き方をするわけ!? 感謝するのは君の権利である前に、義務よ! どういう育ち方をしてきたのか知らないけど、君をここまで育ててきた人たちっていうのはよっぽど無能だったのね!」

「……僕の親のことを言うつもりですか」

「さあね、君を育てたのは施設の人だろうけど、産んだ人たちだって責任は免れられないわよね!」

「咲良さん────」

「当然よね! 私の両親を殺した人たちだからね!」


 ああ。

 言ってしまった。


 拓磨くんの目が一瞬、どろりと溶けてこちらを見つめた。受け入れられない現実を、直視しないようにしているみたいだった。

 すぐにその顔は、怒りに染まった。

「……誰が、人殺しだって?」

「二度言わせないでよね、君の親だよ。九年前、私の両親の乗った車に衝突して事故を起こして、私の大切な家族の命を摘んでくれたのは」

「嘘だ」

「嘘じゃない!」

「嘘だっ!!」


 狭いリビングの真ん中に据えられたテーブルを挟んで、私たちは睨みあっていた。

 人生でこんなに憎しみを覚えた事なんて、きっとない。経験した例しのないその感情に、私は完全に流されていた。ただ、拓磨くんを攻撃する事以外は頭にはなかった。

 そしてそれは拓磨くんも、きっと同じだろうなと思う。でも、同情なんて考えられなかった。

 昨日までとは違う。今の拓磨くんは、私の仇なんだ────。




 ピンポーン。


 唐突だった。

 インターホンの音が部屋に響き渡り、私たちの間に流れる空気の険悪さのベクトルを変えた。来訪者だ。

「…………はい」

 受話器を取ると、私は力の入らない声で応答した。背後でガサガサと、拓磨くんが身を隠す音が聞こえた。誰かが家に来たら隠れるというのは、私たちが初期の頃に設定したルールだ。

 それにしても、こんな土曜日の微妙な時間に来るなんていったい誰だろう。そもそも来るような友達もいない。実家からおばあちゃんが来る時は、必ず先に連絡が来るのに。

 私は何となく、嫌な想像をした。そして結果的には、それは当たった。

「警察です。関前さん、ちょっとお話を聴かせていただいてもよろしいですね?」


 どうして、警察が?

 どうしてこんなに早くに?


「分かりました」

 私はそう言うと、玄関まで出て行ってドアを開けた。背広を着た男の人たちが、何人もそこには待ち受けていた。

「関前咲良さんだね」

 先頭に立つ背広は私にそう確認を迫った。私が頷くと、彼は印籠のように警察手帳を衝き出す。金色の五角形に光が反射して、眩しかった。

「武蔵野警察署の者です。どうして我々がここに来たのか、君は分かっているのではないかな」

「…………いえ」

「ならば単刀直入に言おう。君は────御殿山拓磨くんの事を、知っているな?」

 やっぱりそう来るか。先が読めていた私は、用意していた答えを口にする。

「御殿山……? それって確か、この前からニュースになってる子ですよね。武蔵野市内で逃げ回っているとかいう」

「よく知っているじゃないか」

 背広の声には吐き気がするほど皮肉が混じっていた。

「もっとも、我々は君よりも、もう少しだけ詳しい事を知っている。君が昨日と一昨日、その御殿山くんと一緒に行動していたという事をね」


 知っていたんだ。

 私、特定されていたのか。

 背広が目の前にいなければ、舌打ちでもしたい気分だった。


「……どうして、それを……」

「件の御殿山くんが、君のことを『サクラ』と呼んでいたそうだ。覚えがあるでしょう」

「…………」

「我々の捜査本部に、九年前の事故の事を知っている者がいてね。もしやと思ったそうだ。被害者の一人娘の名前が『咲良』であったことを、その捜査員は忘れていなかったものだから」

「…………」

「顔を目撃した警官に写真を見せたら、一発で合ったのでね。さあ、これで訳は把握出来たかな?」

「…………」

「まだ黙っているつもりかい?」


 私は……どうすればいいのだろう。

 私には分からない。分からないよ。

 あの時、拓磨くんに名前を呼ばれたのを私はちゃんと覚えている。あれがあったから、私は走り出せた。それが私たちを一層追い詰める事になるなんて、考えられる訳がないよ。

「……帰ってください」

 また一歩迫る警官を睨み付けながら、私はようやく言った。口の中を漂う外気が、冷たかった。

「捜査したいなら令状でも持ってきたらどうですか。私を取り調べたいなら逮捕状でも用意すればいいじゃないですか。帰ってください」

「君、本気で言っているのか?」

 当たり前だ。拓磨くんを渡すわけには、絶対にいかない。渡したら最後、拓磨くんはまた以前のように施設に戻されて、お母さんを探す事も叶わなくなってしまうんだ。

 けれど私は頷けなかった。拓磨くんが探しているのは同時に、を殺した人の妻だ。


 ああ、もし神様がいるのなら教えてほしい。

 私はどちらの道を選べばいいの?

 正解なんてないの?

 だとしたら私は、拓磨くんは、どうすればいいの!?


 ねえ、お願いだから教えてよ……!





「……ここにいます」


 その時、背後から聞こえてきたのは拓磨くんの声だった。

 私は振り向いた。目の端に消えた警官の顔も、驚きで固まっていたようだ。

 隠れていたはずの拓磨くんは、玄関の入口まで出てきて立っていた。

 そして、また口を開いた。

「お巡りさん、僕です。御殿山拓磨です」


 ちょっと、待ってよ。

 拓磨くん、まさか……!?


「……やはり、ここにいたんだね。話は聞いていただろう」

「はい。ただ、一つ聞いてください」

「何だ」

 警官が返事をすると、拓磨くんは私を指差した。

「この人は、悪くありません。僕が無理に泊まらせてくれと言ったので、仕方なく泊めてくれたんです。この人に咎はありません」

 私の口は、ぱくぱくと開くばかりで声を発せられなかった。それでも言いたい事は伝わったんだろうか、拓磨くんは私に一瞬──ほんの一瞬だけ、笑いかけた。蒼褪めたその顔は、すぐに見えなくなった。

 靴を履いて敷居を跨いだ拓磨くんを、警官がぐるりと囲む。私はあっという間に輪から弾き出され、玄関の壁に凭れ込んだ。

「御殿山拓磨くん、君の身柄に対して捜索願いが出されている。色々と聞かなければならない話もあるから、これから武蔵野警察署まで同行してもらいたい。いいね?」

「話って何ですか」

「先日、暴行容疑で市内で検挙した高校生のグループが、君に対する強盗傷害への加担も仄めかした。そうした事が本当にあったのかも含めて、調書を取らなければならない」

「分かりました。行きます」

 拓磨くんは、然りと頷いていた。

 いつからいたのだろう、家の前には真っ黒なボディの覆面パトロールカーが一台停車している。

 私に話しかけたあの警官は、私には一切顔を見せる事もなく、拓磨くんを車内に押し込んでしまった。他の警官も次々に車に乗り込み、最後に残った一人が私のもとへと上ってくる。

「君は、捜索対象となっている人物を隠匿した」

 やって来て早々、低い声で彼は続けた。

「本来なら君の事も捕まえなければならないが、なにぶん君の言う通り、我々には令状も何もない。今回は見逃しておこう。ただし今後、場合によっては君に話を聞く必要が生じるかもしれない。その時は、来てもらうよ」

 それだけを一気に言ってのけると、彼もまた階段を下りていってしまった。軽快なエンジン音と共にパトロールカーは走り出し、すぐに私の視界から消えてしまった。


 あまりにも突然な、拓磨くんとの別れだった。






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