Re:frain
「行っ……ちゃった……」
呆けたように壁に寄りかかっていた私は、手を伸ばしてドアに手をかけた。冬の空気の染み込んだドアは、ばたんと少し乾いた音を立てて閉まった。
玄関先は、真っ暗になった。手探りでリビングに戻ると、私はその場に頽れた。
全身どころか、心にももう力は入らなかった。
「……拓磨くん、行っちゃったなぁ……」
たはは、と嗤いが喉につっかえた。
電気を点ける気にもならなくて、薄暗い部屋の真ん中で私はただじっとしていた。ただ、何もしないで。
私は、たった一人巡り会えた大切な相手を、失ってしまった。
拓磨くんとなら、分かり合えると思っていたのに。
拓磨くんになら、何でも正直に言えると思っていたのに。
拓磨くんなら、ここで一緒に暮らしていても苦になんてならなかったのに。
その相手を、私は失った。
私のせいだ。私が、こんな余計な気持ちを抱いたから。私があの時、走り出さなかったから。だから拓磨くんは私を急かすために、名前を叫ばなきゃならなかった。そして結果的に、警察に私たちの居場所を教えてしまった。
それに、もし仮にここがばれたとしたって、拓磨くんが出ていく必要なんてなかった。だけどあの子は自分から、率先して出ていった。直前まで私たちがケンカをしていなければ、お皿を割ったくらいで私があんなに怒らなければ、こうはならなかったのかもしれない。
全ては私が招いた結果なのだ。自業自得って、このことだ。
けれど。
「……無理だよ、そんなの……」
私は項垂れながら呟いた。
意図して悪いことなんてしたくない、するわけない。私は、私の思うままに振る舞っただけだ。
拓磨くんの記憶が急に戻ったから、驚いて戸惑った。拓磨くんのお父さんが事故を起こしたのだと気づいたから、憎しみが込み上げてきた。私の心境の変化に、何か一つでもおかしいところ、あっただろうか?
避けられなかったんだ、私には。
「こうなる運命だったんだね、きっと…………」
灰色に染まった部屋の中を見回しながら、私はまた微かに笑った。
台所に並ぶ食器も、あの短い詩を映し出していたパソコンも、襖が開け放たれた隣の部屋も、その奥の大窓から見える晩秋の武蔵野の景色も、何もかもが拓磨くんのいた頃より色褪せてしまっていた。机の上に放り出された一枚の手紙が、風もないのにカサッと音を出していた。
どれだけの時間、そうしていただろう。
時計は見ていなかったけれど、バイトの時間をとっくに過ぎているであろう事は分かっていた。行く気にもなれない。
もうかれこれ数時間も、私は蛹のようにじっとしていた。静かな部屋に突如鳴り響いたチャイムに、反応しない訳はなかった。
誰?
私は虚ろな目を玄関へと向けた。警察が戻ってきて、逮捕状を持ってきたとか言ったらどうしよう。いや、このタイミングからしてそうとしか思えない。
わざとゆっくりと玄関に向かうと、覚悟を決めた私は勢いよくドアを開いた。
「わわっ、変な開け方しないでよ咲良っ!」
……来訪者は、有沙だった。
「なんで、あんたが」
私の問いかけに、体勢を崩して後ろに下がっていた有沙は笑って後頭部を掻く。
「いやあ、何て言うの? ヒマだったから」
「これまでヒマだったって言って来た事なんてなかったじゃない……」
有沙、察しなさいよ。この部屋の空気、明らかにそのテンションじゃないでしょ。素の自分を大切にするのはいいことかもしれないけど、せめて空気は読んでよ。文字通りにさ。
ため息をつく私に、有沙はしがみつく。
「えー、いいじゃない入れてよー。この前も拒否られてあたし不機嫌だよー」
「知ったことじゃないわよ」
「ふふ、今日はあたし、マスターからの差し入れっていう大義名分があるからね。どうせあの拓磨くんって子、ここにいるんでしょ? あたしが前に家に入らせてもらえなかったの、それが理由でしょ?」
あっさり見抜かれていたみたいだった。いや、有沙を拒否した理由はそれ以外にもある。けれど私はもう、楽しそうに手にした紙袋を回している有沙を止める気にはなれそうもなかった。
「……そう」
「ほらやっぱり当たり! 良かったぁ、ここにいないって言われたらあたし、このお菓子をどこに持っていこうかと────」
「ここには、いないよ」
有沙の顔から色が消えた。
だめ押しするように私は続ける。その対象は、自分でもあったのかな。
「御殿山拓磨くんはもう、ここにはいないの。惜しかったね、つい数時間前まではいたんだけど」
「え……、マジ……?」
「警察が来たの」
立ち尽くす有沙を中へ入れると、私はドアを閉じた。窓から差し込む白い光が、暗い廊下に影を作っている。
「拓磨くんは、自分から進んで警察に身体を引き渡した。警察で話をさせられたあと、また施設に戻されるんじゃないかな。一緒にいた私には、何のお咎めもなしだった」
有沙は何かを言いたげに、口を何度も開閉している。その姿は、つい昨日の私によく似ているように思えた。
「分かったら、帰って。ここには有沙や悦子さんの望む人はいないから」
「…………」
「帰って」
もう一度念を押すと、有沙は私を見た。私は咄嗟に、目を逸らした。目があったら最後、そこから色んなモノが流れ出してしまうような気がしたんだ。
「…………あたしがここにいたら、嫌?」
やっと有沙は、そんな台詞を絞り出した。
考えるまでもなかった。私は即座に、返答する。
「嫌。今は、誰とも会いたくない。話したくない。孤独になりたいから」
「別に、いるだけなら──」
「嫌なの! 存在が嫌なの! お願いだから独りにさせてよ!」
私は声を荒げた。拓磨くんに怒鳴った時から、沸点がずいぶん下がってしまったみたいだった。
びっくりしたように有沙は一歩退く。空いた空間に私は一歩を踏み出して、尚も続けた。
「考える時間が欲しいの! いつだって、どこだって、誰とだって、私はいつも短い時間で判断を迫られてばっかりなの! 考えれば、時間があれば、もっとましな判断が出来たのにって後悔するのは、もう嫌! だから帰ってっ!」
俯いたまま、廊下に棒みたいに立っていた有沙は、小さな声で言った。
「……ごめん」
私が返事を返さなかったら、それきりもう何も言葉は戻って来なかった。草臥れた喉がひりひりする、痛い。
私はまた、床に女の子座りした。考える時間を寄越せと言っておきながら、頭がいっぱいで何も考えられなかった。
私って、どうしてここまで他の人に気持ちを表現するのが苦手なんだろう。
いつもそうだ。拓磨くんに私は最後まで、自分の悩み一つ打ち明けられなかった。そればかりか怒りに任せて、暴言までぶつけてしまった。
今だって。もっと違う言い方が出来たんじゃないの? 何もあんなに、有沙を全否定するような表現の仕方をしなくても良かったんじゃないの?
私、それでも小説書いてるつもりなの?
「やめて」
私は呟いた。
分かってる、分かってるんだ。私の書く小説が欺瞞だって事くらい。
拓磨くんと出会ったあの夜、拓磨くんのお母さんからの手紙を最初に見た時、私ははっきりと思った。ああ、これが本物の「テガミ」なんだって。
たとえ文字が掠れて読めなくても、文章に込められた力を感じ取る事は出来る。私の打つ文字に、そんな力はない。文面と内容が、僅かな人達の涙腺のツボに嵌まっているだけだ。悲しいフリを、しているだけなんだ。
だからこそ。
──『この作品に出てくる話ってどれも、言葉遣いとか表現の端々が何と言うか……すごく怒っていたり、呆れていたり、寂しそうに見えるんです』
拓磨くんは、ああ言ったのだ。そうでもして強調しなければ私の作品は人の心には響かないのを、拓磨くんは知っていたんだ。
「こんな……もの……!」
私は立ち上がり、ぐらつく視界にテーブルを捉えた。
そこには、昨日私がポケットから出したあの手紙が乗っかっている。
私の心を拓磨くんに見せようと、知ってもらおうと、ただその一心で書いたあの手紙。結局、読んでもらうどころか渡す事すら叶わなかった。今やこの手紙は、不出来な私の失敗を嘲笑うためだけにある。
見たくない、見たくない、見たくない、見たくない……!
私は迷わずそれを取ると、渾身の力を込めてぐしゃりと握り潰した。
私の手で紡いだ、産み出した文字たちが、圧倒的な力を前に一瞬にして死んでいった。
渇ききった声で笑った、その時だった。
粗い息をする私の肩に、誰かの手が乗った。
「……咲良」
有沙だった。さっき、出ていったはずじゃなかったの……?
「どうしてまだいるのよ」
「出ていく勇気が、出なくて」
意味が分からない事を言う。私が次の動作に移る前に、有沙は言葉を繋げた。
「咲良、悩んでる事があるんでしょ?」
「あっても有沙には言わない」
「じゃあ、誰に言うの?」
「誰にも言わない。私の中に溜め込んで、解決するまでとっておく」
「そんな事したら、いつかパンクしちゃうじゃん」
「したら何だって言うのよ」
「してほしくない」
有沙は握った私の肩を回して、私を無理矢理向かい合わせた。窓の光を映したその目が、ゆらゆらと揺れていた。
「咲良がパンクしたら、あたし独りになっちゃうよ。あたしの友達が咲良しかいないの、知ってるくせに。独りは、嫌だよ。寂しいよ」
何も言えなくなる、私。
独りの本当の怖さなんて、有沙には分かりっこない。そんな台詞、言えそうもなかった。
有沙が孤独なのは事実だ。いじめられっ子だった有沙は、今でこそクラスメイトとも普通に接することが出来るようになったみたいだけれど、私以外の人と会話してる場面なんて見たこともない。まだ、怖い。有沙はよく私に、そう言っていた。
「咲良は時々、あたしの相談に乗ってくれる。意見もしてくれたし、同情だってしてくれた。なのにあたしは、何も返してあげられてない。ずっと前から、それが苦しかった。情けなかった。咲良に友達って思ってもらえなくても、あたしにとってはずっと友達だから」
訴える声が震えていた。
有沙は何度も唇を噛みながら、私を懸命に見つめている。私も有沙を、じっと見つめ返した。
ふいにその目から、涙が溢れ出した。
「頼ってくれなくたって、いいの。あたし、バカだし、何も出来ないし、取り柄なんて何一つないけど、それでも、そっ……相談に乗るくらいなら、出来るから……。だから、せめて、チャンスがほしいよ……っ。咲良に友達って、思ってほしいよっ……」
有沙は紙袋を取り落とした。
空いたその腕で、涙を拭った。嗚咽の合間に、何度も、何度も。
言いたい事は全て言い切ったのだろう、もう有沙は何も言いはしなかった。ただ、泣いていた。
私、
心配されてた?
私、誰かに気をかけられてた?
そんな事、想像もしなかった。
有沙の言う通りだ。私は今まで、有沙を心から友達だと思った事はない。ただ長く傍にいるだけの存在、そのくらいに思っていた。
何万人もの人々が住まうこの街で、私はいつだって孤独のはずだった。……いや、違う。そうじゃない。そう思い込んでいた。
誰かが何かをするたびに、私はそれをフィルターを通して見ていた。こんな事をしておきながら、実は胸の中では別のことを考えているに違いない。自動的に、そう考えてきた。
今の有沙を前にして、それは発動しない。
これが、伝えるってこと?
泣いてるだけなのに?
何も、コトバにしていないのに?
その時。
ようやく、閃いた。
私は今まで九年もの間、何か大きな大きな勘違いをしていたのかもしれない──って。
「……涙、これで拭きなよ」
私はハンカチを差し出した。
「咲、良……?」
「ごめん、私が悪かった。有沙の気持ちなんて──ううん、
呆然と私を見る、有沙。当然よね、私が謝る事なんてこれまでなかったもん。
「でも、あたし」
「私、これまで有沙の事、撥ね付けてばっかりだった。受け入れようとしてこなかった。有沙の好意に、私は気づいてたのに」
「うん……」
「ごめん。本当に、ごめんなさい」
有沙は一歩近寄ると、私に抱き着いた。
それもまた、何も言わずとも有沙の気持ちを体現している。それは確信だった。
こんなに近くにいたのに、今の今まで知ろうとしてこなかった自分が、ただ恥ずかしかった。
私が知らない事。
知らなかったまま、終わりを告げようとしている事。
今ならまだ間に合う。はやる気持ちが、私の原動力になる。
「それ、中身は?」
身体を離し、紙袋を指差して尋ねると、有沙はしゃくり上げながら答えた。
「……クッキー」
「なら、生菓子よりはもつね。明日までくらい平気かな」
「うん、多分」
「私が拓磨くんに届けてくる」
有沙は目を見開いた。
諦めたりなんてするもんか。拓磨くんには無理でも、まだ私は自由の身だ。拓磨くんが追いかけたかったお母さんの背中、まだ私は探せる。それだけの力は残っている。
そうして、また拓磨くんと近づける機会を創る事が出来たなら。このクッキーと一緒に、今度こそ私の思い、伝えるんだ。
「いつまで鼻を啜ってるのよ。ほら、ティッシュもあるから」
「だってぇ、これは咲良が……」
「あ、そうだ。このあとヒマ?」
「ヒマだけど」
「キッチン使う?」
……瞬間、有沙の顔が輝いた。
何なのよもう、単純なんだから。感動を覚えた私がバカみたいじゃない。呆れながらも、私は提案する。
「これからちょっと出掛けるけど、お菓子の練習台くらいだったら私も多少は付き合えるよ。三時の時間だしね」
「うん、そうする。まだ調子が戻ってきてないから」
「じゃあ、そうしますか」
目標が決まれば、すべき行動も自ずと見えてくる。壁のスイッチを入れると、部屋の電気がぱっと点いた。あんなに寂しかった空間が、急に明るくなった。
腕を捲った私は、ふと床に転がっている一枚の紙に気がついた。
さっき私が握り潰したあれではない。拓磨くんが最初に持っていた、お母さんからの手紙だ。
そっと手にすると、開いてみる。くすんで見えなくなってしまった柔らかな文字たちが、その受難の多さを物語っていた。
……一週間近く前。このたった一枚の手紙のために、全ては動き出した。
今、私は再び動き出す。
今度こそ悔いの残らないように。思い残す事のないように。
決意を新たにして見上げた秋空は、薄い灰色に曇っていた。
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