Re:alize





「はぁ、はぁ……着いた……」

 アパートの駐輪場にへとへとになって辿り着いた私は、施錠すると荒い息を整えた。

 いや、整えるなんて無理だ。こんな状況で落ち着いてなんて、それこそ無茶な要求だ。

 大慌てで部活を飛び出し、自転車で地を蹴ってからまだ数分。そこまでしてでも、気になる。本当に拓磨くんの記憶が元に戻ったのなら……。


「ただいま」

 鍵を開けて入ると、拓磨くんは窓の外を眺めているところだった。

 その顔が、くるりとこちらを向いた。

 昨日、いや今朝までとは違うのが明らかなくらい、目付きが変わっていた。全てを知っているような、もしくは知らないような……、そんな悲しくて強い目付きだ。

「お帰りなさい」

「記憶、戻ってきたの? 本当に?」

「はい、僕が倒れる前の記憶の全てが。僕がどうしてここにいるのか、その目的も含めてです」

 そう言う拓磨くんの声には、不思議な冷たささえ湛えられている。

「そっか……」

 それは良いことなのに、喜ぶべきなのに、素直に喜ぶ気になれないのはどうしてだろう。いや、それ以前に突然どうして記憶が戻った? 昨日も一昨々日も戻らなかったのに、どうして?

 聞きたい事は色々あったけれど、それを口にする前に拓磨くんに先を越された。

「咲良さん、このあと、時間ありますか?」

「時間? ある……けど」

「探しに行きたいんです、僕がかつて追っていたモノを。警察も動き出しています、早くしないとここにも気づいてしまうかもしれません。そしたらもう、手遅れなんです。咲良さんに無理にとは言えませんけど」

「……行くよ」


 行かないなんて、言えないじゃない。拓磨くんにも自分にも。




 記憶が鮮明になった事で、拓磨くんの探していた景色ももっと明確になった。

 あのイラストの構図自体は間違っていないけれど、建物の高さに違いがあるのだそうだ。手前に並ぶ戸建てくらいの建物は、実際には三階建ての商業ビルくらいの高さがあるらしい。

 となると、奥のビルの高さも必然的に高いか、近い事になる。

「やっぱり、吉祥寺だね」

 私は言った。

「繁華街のあの街になら、それなりの大きさを持った高層ビルが建ち並んでる。可能性が高い場所をこの市内で探すなら、あれしかない」

「繁華街ですか」

「警察にも、より注意が必要だって事だよ」

「分かっています」

 拓磨くんは真っ直ぐ前だけを見ながら、そう答えた。

 吉祥寺は、武蔵野市東部の中心に位置する都市だ。中央線のほか、京王電鉄井の頭線の始発駅でもあるこの街は、明歴の大火と呼ばれる江戸時代の大火災の後に、町人たちが移ってきて出来たという歴史がある。そのためか、中央線の前身である甲武鉄道が駅を開設した当時から商業集積地として発展を続け、武蔵野市はおろか区部を含めた周辺地域でも最大の繁華街を形成している。都内の都市を評価する「住みたい町ランキング」では、ここ数年連続で一位を獲得した実力を持っている人気の街だ。

 表通りにはデパートや家電量販店の巨大店舗が建ち並び、その規模は他の追随を許さない。一方で、ちょっと裏道に入ればコジャレたお店もたくさん並んでいて、散策するにはとても楽しい。

 そしてそこに、拓磨くんの求めるモノはある。私は、そう踏んだのだ。




◆ ◆ ◆




 全てのきっかけは、二ヶ月前の九月二十三日に遡る。

 そう、拓磨くんは話した。


 当時の拓磨くんは、武蔵野市内の児童養護施設の居住棟に住んでいた。その日、拓磨くんは郵便受けに手紙を取りに行く係だったそうだ。


「僕の父は、僕が四歳の時に交通事故で死んでしまったそうです。そして同じ年、僕は母にあの施設に入れられました」

 道を歩きながら、拓磨くんはつらそうに語っていた。

 別れ際、母は言ったのだという。『もう拓磨とは、二度と会えない。会わない』と。そして、ついぞその意味も分からないまま、母とは生き別れてしまった。


 ともかく、手紙や葉書を腕一杯に抱えて建物に戻ろうとした拓磨くんだったが、多すぎて落としてしまったらしい。慌てて拾い集めようとして、その場で固まった。

 落ちた茶封筒の名前の苗字が、『御殿山』だったからだ。

 御殿山円佳──。そう、それは空き地で見つけたあの封筒だった。


「施設の人たちは、僕が母の事を尋ねる度に、『君にはもういないんだよ』と答えていました。でも、そこには確かに御殿山って書いてあったんです。祖父母はもう皆いないので、書く人がいるとしたら一人しか考えられません」


 もちろん、施設のスタッフを問い詰めたそうだ。その茶封筒を掲げて。

 けれど封筒は取り上げられ、また同じ言葉を繰り返されただけだった。拓磨くんはその時、決めたのだ。

 施設ここを出て、自力で母を探そうと。


「どうしても……肉親に会ってみたかった。聞いてみたかったんです。僕がどうして、孤独にならなければならなかったのかって」

 いけない事でしょうか。そう言って小さく項垂れる拓磨くんに、私は何と声をかけるべきか分からなかった。


 話はまだ終わらない。

 深夜に事務室に忍び込み、件の手紙と少しのお金を懐に忍ばせて施設を飛び出した拓磨くんだったが、今いる場所がほとんど分からなかった。何せ、捕まらないように闇雲に走り続けていたのだ。気がついたら大きな道路に出ていて、その先には高い建物が軒を連ねていたという。

 そこで──思い付いたのだ。


「母の思い出はもう、かなり消えてしまってはいるんですけど……たった一つだけ鮮明に覚えているモノがあるんです」

 拓磨くんはあのイラストを広げて見せた。昨日、逃げる時に強く握りすぎてしまった所為か、少し鉛筆の線が掠れてしまっていた。

「ここ?」

「こんな感じの場所にあるお店に、母と何度か出入りしたような記憶があるんです。だから、ここを見つけられたら、お店の人が何か事情を知っているかもしれないって思いました」

 なるほど、頭がいい。

 しかしこの広い東京で、具体的な目的地の地名も何も分かっていないというのは大きな痛手だった。僅かなお金を使いながら、この二ヶ月間東京中を探し回り続け、ついにこの武蔵野市まで辿り着いたのだという。いや、正確には市内に戻って来たんだ。

 そして、疲れてふらふらになって歩いていた所を突然、後ろからの強烈な衝撃に襲われ、意識を失った……。そこから先は、記憶が戻る前の話と同じだった。


「地名や地図は途中から確認していたので、都内で可能性が残っているのは武蔵野市が最後だと思ってたんです」

 もしここになかったら……。その問いに拓磨くんは、神奈川に足を伸ばすとまで言った。

 拓磨くんは、本気だ。改めてそう認識した私の目に、傾いた夕方の光に照らされたビル群が映り始めた。




 記憶が戻った事。

 それそのものは嬉しい。

 記憶を無くして一番つらい思いをしていたのは拓磨くんだろう。私が貢献出来ていたのかは分からないけれど、とにかく結果は出たのだ。


 でも、記憶の回復は即ち、拓磨くんが私のもとを出ていく事をも意味する。あまりにも唐突に見えてきた終わりを、まだ私は認める準備が出来ていなかった。

 初めて拓磨くんに出会い、その存在を受け容れた時、こんな気持ちを抱く事はなかった。私は確かに、変わってしまったんだ。

 重い足取りの為か、でなかなか歩が進まない。吉祥寺の街が近づくにつれ、ここ井の頭通りを往来する通行人もずいぶん増えてきた。いや、住所の上では既に吉祥寺の中にいる。


「……ちょっと、人が多すぎますね」

 前を歩く拓磨くんが、独り言のように溢す。

「うん……」

「道、換えますか」

「そうだね。じゃあ、そこで曲がろうか」

 拓磨くんの言葉に、私は一も二もなく頷いた。すぐそばの交叉点を左へ曲がれば、吉祥寺の中心街を避ける事ができる。ちょうどいい道のはずだった。




 はずだった。



 井の頭通りを逸れた道と、商店街『中道通り』との交叉点に差し掛かろうとした、その時だった。

「そこの二人!」

 後ろから声がしたのだ!

 振り返るまでもないけれど、私はちらりと目尻を後ろに向けた。自転車に乗った警察官が走ってくる。

 やばい、昨日とおんなじだ……! 戦慄が身体を駆け抜け、全身の筋肉が走る準備を一瞬で済ませる。

「逃げましょう!」

 小声で叫ぶなり、拓磨くんは走り出した。




 私は…………走り出せなかった。

 迫り来る警察の姿に、目が釘付けになっていた。


 分からない。

 訳が分からない。

 どうして?

 どうして、急に?

 ああ。疑問が、頭の中で点滅し続けている……。



「咲良さんっ!!」


 拓磨くんの大声が、私を現実に再召喚した。

 そうだ。今は、逃げなきゃ……!

 拓磨くんはもうかなり先を行っている。負けじと私も、拓磨くんの背中を追いかける。後ろの警察官が、また何かを叫んだ。

 ビュンと耳が風を切る。

 前から通り過ぎる人の間を縫って、拓磨くんは全速力で走り続ける。ついて行くのがやっとだ……。

 と、拓磨くんは急に立ち止まった。

「前からも来てる……!?」

 思わず私は口に出していた。数十メートル先の交差点のそのまた先から、同じような制服の人影がちらちら覗いている。

 このままじゃ、挟み撃ちだ!

「こっち行きましょう!」

 怒鳴り様、拓磨くんは横向きに地面を蹴って左に跳ぶと姿勢を変え、人波に飛び込んでいく!

「ちょ、ちょっと待って……!」

 息をするのも苦しい。ひゅうひゅうと鳴る喉を押さえて叫んだ私も、左折した。驚いて道を空けながらも、往来を続ける人々の身体が、私たちを隠してくれたはずだ。

 が、警察官はホイッスルを吹き鳴らした。

『ピリリリリ────!』

 まずい! 他の警察官を呼ばれる!

「こっち──!」

 拓磨くんは細い路地裏へと駆け込んだ。必死に追う私の背中は、人波の中へと消えたに違いない。それでも、怖い。

 どうして、こんなにタイミングが悪いんだろう……。昨日と違って、今日は楽しんでいる余裕なんてとてもない。

 もうどの辺りを走っているのかもよく分からなくなったけれど、それでも私たちは走り続けた。とにかく頭を真っ白にして逃げ続ければ、やがて警察官も消えると信じて。私たちの、頭からも。


「あ……!」

 拓磨くんが変に高い声を上げて立ち止まったのは、その時だった。




 吉祥寺の街は、井の字のように貫通する四本の大通りの周辺と、囲まれたその中心に展開する街だ。

 今の私たちがいるのは、南北に走る道のうち西側に位置する公園通りから、さらに二本くらい外側にずれた道。だと、思う。並ぶ低層の建物の向こうに、東急百貨店の箱みたいなビルが見える。

 ……って、あれ?

 低層建築の向こうにビル?


「ここだ……」

 拓磨くんが、また呟いた。その顔ははっきりと、目の前の景色に向けられている。

「ここです、咲良さん。間違いないです」

 乾いて色を少し失った唇が、そう言った。

「……ここの辺りのどこかに、来たことがあるの?」

「そのはずなんですけど。正直、どれがどれだか……」

 私たちは並ぶ軒先を眺めた。普通の三階建て住宅が一軒、小さな工場が一軒、『closed』の看板を掲げているのが一軒だ。営業していそうなお店は一軒もない。どれなんだろう……。

 焦りで、目の前の景色がぶれる。こうしている間にも警察は私たちを発見するかもしれないのだ。何か、何か……!


 そうこうしているうちに、閉まっているお店の中から人が一人出てきた。






「……あっ」

「あっ」


 同時に声が出た。

 小型のホウキを手に路面を掃こうとしていたその人は、誰あろう有沙だった。

 いやいや、こんな偶然ってある!?

 私は思わず駆け寄った。もちろんそんな事情を知らない拓磨くんは、突っ立ったままだ。

「咲良じゃん、どうしてここに?」

「……私も同じこと聞いていいかな」

「いやーあたし、一年くらい前からここでバイト──」

 言いかけて有沙は、口を開けたまま私を見た。いや、私じゃない。私の斜め後ろにいる、拓磨くんだ。

「……咲良、その子」

 有沙の血相が変わっている。しまった、拓磨くんが既にテレビの全国放送で顔を知られているってこと、すっかり忘れてた!

 私も拓磨くんも身構えた。しかし、有沙の取った行動は、予想の真逆だった。

「なにボーッとしてるのよ! 中入って!」

「えっ……今、なんて」

「いいから!」

 横を見ると、都合よく通行人の多くは私たちに目を向けていない。

 何だか分からないけれどとにかく、私は拓磨くんに頷いた。大丈夫、この人は私の知り合いだから、大丈夫。そう目で言うと、拓磨くんも首肯する。

 私たちの駆け込んだ後ろで、有沙はばたんとドアを閉めた。『closed』の看板が跳ねた音がした。



 入口のカーペットには、『ヘッドウェル』と書かれている。内装から察するに、ここはどうやら喫茶店の類いらしい。

「危なかった……」

 息を荒げているのは、有沙も同じだった。違う、ため息をついているだけだ。

「あの……あなたは」

 おずおずと尋ねる拓磨くんに、私が横から説明する。

「久保有沙っていうの。私の知り合い」

「友達って言ってよ」

 一瞬むっと頬を膨らませた有沙だったけれど、すぐにその目は引き締まる。何だろうか、私も不安になってきた。

 有沙はすぐにまた、口を開いた。

「咲良、まさか知らないで出歩いてたの? さっきから夕方のニュースで、二人のことをずっと報道してたんだよ?」


 え。

 ちょっとそれ、初耳なんですけど……。


「ほら」

 ポケットからスマホを取り出すと、有沙はニュースのヘッドラインを見せてきた。細かい文字ながら、辛うじて読める。

 『行方不明の男児、武蔵野市内で目撃証言多数』

 『警察も集中的に捜索中』

 『高校生くらいの女が関わっている模様』

 画面が下に向かうにつれ、口が利けなくなっていった。

 高校生くらいの、女……。

「これ、咲良だよね」

 真正面から見つめられて、私は逃げる事ができなかった。小さく、でも確りと首を振った。たぶんそうに違いない。

 途端、有沙は傍らの椅子に崩れるように座り込む。

「良かった、捕まらなくて……。咲良が逮捕されでもしたら、あたしどうしたらいいのか分かんなかったよ……。無用心に歩かないでよね、ほんと」



 帰ってきてすぐに荷物を置いて出た私に、そのニュースを知る術はなかった。

 スマホを見ても、拓磨くんは表情を一切変えなかった。間違いない、拓磨くんはこの事を知っていたんだ。そうだとしたら、記憶が戻ってきたきっかけもニュースなのだろう。

 それにしてもこんなに急展開するなんて。やっぱり昨日、二人でいるところを見つかったのが痛かったか。今さら後悔しても遅いけど、もっと注意しておけばよかったよ……。


「今日、北口広場のライトアップ記念式が駅前で開かれるみたい。そっちに動員されて警察の数も減るはずだから、それまではここで時間、潰してなよ。いま外を歩くのは、危なすぎるよ」

「……いいの?」

「いいっていいって、どうせ開店はまだ先だから暇だったの。奥にマスターがいるから、話つけてくるね」

 そう言って有沙は立ち上がると、お店の奥の方へと姿を消した。何から何まで、今日は有沙にお世話になりっぱなしだ。

 ……それでも、疑問を完全に払拭する事は出来ない。

「本当に信用して大丈夫なんでしょうか……? こっそり通報でもされたら、お仕舞いですよ」

 拓磨くんの声は、怯えているようにも不審感を抱いているようにも聞こえた。

 疑りたくなるのも仕方ない。友達として扱われている私だって本音は今、不安だ。

 でも、有沙は知り合いだ。あのため息がニセモノだとは、本人の性格を考えるとあまりにも考えにくい。

「……大丈夫だとは、思うよ」

 私はそう答えてあげた。ドアの向こうから、くぐもった会話がこちらに漏れ出している。お店の人に、有沙が話をしているのだろう。


 バタン!

 突然ドアが開いた。有沙がさっき、入っていった所だ。

「!」

 私と拓磨くんは、びっくりしてドアを睨む。出てきたのは有沙ではなかった。五十代半ばくらいの、おばさんだ。

 心の警戒レベルが思いっきり引き上げられる。おばさんは私たちに目をやるなり、叫んだのだ。

「拓磨くん!? 御殿山拓磨くんなの!?」

 あの、って……ニュースのって事だろうか。

「はい」

 拓磨くんははっきりとした声で応えた。怯んでいる様子は、その声色の陰にすっかり隠れていた。


 次の瞬間。

 拓磨くんはおばさんに抱きしめられていた。


「んが!?」

 もがく拓磨くんを──と言うより抱くおばさんを、私は唖然として見つめた。目が点か何かになっちゃったような気がする。

 おばさんの声は、震えていた。

「どうして、どうしてを飛び出すなんてしたの!? 一体どこで、何をしていたの!?」


 ……拓磨くんのこと。

「知っているんですか?」

 私は口にせずにはいられなかった。おばさんは逃れようともがく拓磨くんをそっと離すと、私へと視線を流した。何、言ってるのよ。もう既にそう言われているような気分だった。

 果たして、おばさんは言った。

拓磨くんこのこは九年前まで、ここに何度も来ていたのよ。あんな悲しい出来事もあったのに、忘れるはずがないじゃないの!」


 ……今、九年前と言った。確かに言った。

 それじゃあ、拓磨くんが探していた場所って、ここ……!?




 少し落ち着いたところで、おばさんは自己紹介してくれた。

貫井ぬくい悦子えつこっていうの。今は、このお店の女将マスターをしてるわ」

「……御殿山、拓磨です」

「大丈夫よ、言わなくても分かってる。何をしたのか詳しい事は知らないけれど、警察なんかには突き出したりしないから安心なさい」

 その言葉を待っていたみたいに、拓磨くんは深く深く椅子に腰掛ける。私ももうさっきから立ち上がれずにいた。足が疲れて、仕方なかった。

「有沙ちゃん、二人に得意のコーヒーでも淹れてあげなさい。外は寒いでしょう」

「はーい」

 元気よく返事をすると、有沙はカウンターに立った。横目にそれを見届けたおばさん──悦子さんは、尋ねる。

「聞いたわよ。施設から、脱走したんだってね」

 こくん、と肯定する拓磨くん。悦子は一つ、ため息をついた。

「問い詰めるつもりじゃないけれど……、どうしてこんな騒ぎを起こしたの? そんなに、あの施設が嫌だった?」

「母を、探したくて」

「お母さんか……」

 呟いた悦子さんの唇が、些か強く閉じられている。少し椅子を動かすと、ぎいと音が鳴った。

「……あなたのご両親がどうなったのかは、知っているんでしょう?」

 また、拓磨くんは頷く。

「知ってます。四歳の時に父は交通事故で死んで、母はそのあと僕を手放してどこかへ消えてしまいました。施設の人は、亡くなったって繰り返し言ってました。でも僕、どうしても信じられなかったんです」

「そうか……」

 じゃああの事は伝えてないのね、と悦子さんは溢した。何だろう、あの事って。

「何か、知っているんですか?」

 拓磨くんは座り直すと、正面から悦子さんを見据えた。言いにくそうに目線を下に落とそうとした悦子さんだったけど、やがて……小さく口を開ける。

「あなたのお母さん──御殿山さんは、よくうちに遊びに来てくれたわ。拓磨くんも来てたのだけど、気づかない?」

「来ていたのは覚えています。ただ、僕の覚えている記憶の中の内装は、ちょっと違うような」

「一年近く前に、改装工事をしたのよ。うちも主人が死んで、私独りで切り盛りしなきゃならなくなったから」

 なるほど、だから有沙を雇ったのだろうか。私はさっきから一言も発する事のないまま、黙って二人の話に耳を傾けていた。

「まだ覚えているわ、最後に御殿山さんが顔を見せに来てくれたあの日。拓磨くんはどうしたのって聞いたら、施設に渡して来たって言っていた」

「渡して、来た……」

「もちろん、理由を聞いたわ。あんまり唐突だったから私もびっくりしちゃってね」

 悦子さんは一拍挟んで、すぐに答えを続けた。

「……御殿山さんは、何か重病を患ったって言ってたの。その病気が何かまで私はとても聞けなかったから、そこは私にも分からないわ。ただ、あの口調はとても冗談には聞こえなかった」

「母が、重病……?」

 当たり前だけど、初めて知ったのだ。目を丸くした拓磨くんは、次いで唇を噛んだ。

「僕、ついこの前母が送って来てくれた手紙を読んだんです。母はきっとまだ、この国のどこかで生きているはずなんです。ただ、その場所が分からなくて……」

 旅の目的を白状する拓磨くんに、悦子さんももう視線を向けてはいなかった。二人とも、木製の古びたテーブルに目を落としている。

「……ごめんなさいね。そのあとどうなったのか、どこの病院に入ったのか、私も何一つとして知らないのよ……」

 申し訳なさそうに謝る悦子さんに、拓磨くんも遠慮がちに頭を下げる。

「いいんです。元より、僕独りで探さなければいけない事なんですから。僕の方こそ、辛い話をさせてしまってすみません」

 二人の、あるいは喫茶店の中に、緊張が切れたように沈黙が流れ込んだ。それは同時に、拓磨くんの母に繋がる情報の一つ──それも最後の一つが、糸のように呆気なく切れてしまったようでもあった。



 つまり、こういうことになる。

 拓磨くんのお母さんは、何らかの重い病気にかかってしまった。で、拓磨くんを施設に預けて自分は病院に入院する事になった。その後に亡くなったと施設の人は説明するけれど、二ヶ月前に届いた手紙の主はお母さん。ということはまだ、生きている可能性が高い。

 お母さんの送ってきたたった一葉の手紙が、『肉親なんていない』という拓磨くんの世界を一瞬にして崩してしまったのだ。

 可能性がある以上、探してでも見つけたい。そう思うのは当然の帰結だろう。私も、親を失ったから分かる。血の繋がっている家族というものが、どれだけ幸せで、どれだけ有難い存在なのかを。そしてそれを喪うことの大きさを。



「はい、できたよー」

 有沙の声がしたかと思うと、コトンと目の前にカップが置かれた。飲んで飲んでと言わんばかりに、コーヒーがほかほかと湯気を立てている。

「冷めないうちに召し上がれー」

「え、でも私、お金とか払ってないし……」

 というか持って来てさえいないし。同じ顔をしてる拓磨くんと私を眺めた有沙は、次に悦子さんを見た。ああ、頷いた。

「いいよ、あたしのお金で飲んだと思っといて。その代わり咲良、今度また宿題見せてね」

「少しは自分でやりなさいよ……」

「分かんない事に時間かけてるくらいならお菓子の練習するし」

 立派な弁でも垂れたみたいに鼻を鳴らす有沙に、でも私は心の中では感謝した。ちょうど、寒かったんだ。いただきます。

 縁に口をつけると、ふとしたように悦子さんは私に顔を向けた。

「あなたは、咲良さんっていうの?」

「あ、はい」

「ニュースで言っていた、拓磨くんとずっと一緒にいる女の子っていうのは、あなたのこと?」

「……そうみたいです」

 真面目な場面のはずなのに、面と向かってそう言われると恥ずかしい。顔の前までカップを持ってくると、白い湯気越しに私は悦子さんを見た。

 彼女の面持ちは真剣だ。

「──拓磨くんとは、どんな関係なの?」

「数日前に会ったばかりです」

「じゃあ、拓磨くんが施設を抜け出したのはあなたの意思ではないのね?」

 私の指示で抜け出したのかどうか、って聞いているのだろうか。そんな訳はないと思ったけど、悦子さんにしてみれば心配なのだろう。私は頷いた。

「それなら、余計に拓磨くんを警察なんかに差し出す気にはならないわね」

 悦子さんは笑って先を続ける。

「あなたのお母さんの行く末は、私もずっと知りたかったの。こういう事を言っていいものかは分からないけれど……、頑張りなさいね」

 拓磨くんは首を縦に振った。悦子さんは次には私に振り向き、一言だけ告げた。

「拓磨くんを、宜しくね」


 当の拓磨くんは、じっと黙っている。




◆ ◆ ◆




 有沙の提案の通りに、お店の中で時間を潰すこと一時間半。

 そろそろいい頃合いか、と思って私は外を覗いた。人は増えたけど、殺気立った空気はもうだいぶ薄れている。本当に、やり過ごせたのかな。

「暗いし、フード被っていけば大丈夫じゃない?」

 そう言われて、私も拓磨くんも着ていたパーカーのフードを前にやってみる。ああ、確かにこれなら分かりづらくなるだろうな。

「これからどうするの?」

 悦子さんに尋ねられ、拓磨くんは少し考えていたようだった。前髪を払うと、答える。

「まだ、分かりません。もうちょっと色々聞いてみながら、今の母がどこでどうしているのかを探ってみようかなって思っています」

「そうね。私の方でも……聞いてみる事にするわね」

「今日は、ご迷惑かけてすみませんでした」

 俯く拓磨くんに倣って、私も頭を下げる。

「お時間、取ってしまって」

 悦子さんの微笑みはまだ、優しかった。

「いいのよ。どうせうちのお店、八時くらいからの開店だからね。何か困ったら、またいつでも来なさいね」

 そうか、それなら良かったんだけど……。

 外に出ると、冷たい温度がすぐに私たちを包み込んだ。パーカーの中だけが、天国みたいな暖かさだ。

 せっかく匿ってもらったのに、ここで警察に見つかる訳にはいかない。

「急いで、帰ろう」

 私は小声で拓磨くんに言った。拓磨くんも、無言で頷いた。






 吉祥寺の街が、背中の彼方にどんどん遠くなる。

 私たちはただひたすら、黙って歩き続けた。警察の巡回もなさそうな細い道を探しながら、ただ黙々と家を目指した。もう、追いかけっこは御免だ。

 真っ暗になった街の灯りは闇の中にあまりに白く、そこの下を通るのも何となく嫌だった。



 街灯が点った代わりに、希望の灯が消えた。

 そんな気さえした。

 拓磨くんとお母さんを繋げるルートは、たった一つしかなかったはずなのに。その一本は途中で途切れていたのだ。これからどうしたらいいのか、正直、私にももう分からない。



 このまま、別れてしまうの?

 離れ離れになってしまうの?

 さっきから──いや、もういつからかなんて分かりはしない。私はずっと、そんな事にばかり意識を向けていた。

 拓磨くんの当てが外れた以上、一旦はその危機は回避されたと言えるだろう。でもまた、いつその恐怖に脅える事になるかも分からないのだ。

 我ながら、おかしい事くらいは分かる。でもどうしても、今は待ってほしい。せめて私に話をさせてくれるくらいの時間は……残っていてほしい。

 私の願いはただ、それだけなのに。それは願ってはいけない願いなんだ。


 ラッキーな事に警察との遭遇もなく、私たちは無事に家に着いた。

 洗面台の鏡に、唇を噛む拓磨くんと俯く私が映っている。どうしよう、今日の晩ごはんの献立とか、何一つ考えていないや。

「……晩ごはん、適当でいい?」

「はい」

 私の問いかけに、拓磨くんは上の空で応じた。いいや、何とでもなるでしょ。そう思って、私は台所に立つ。

 拓磨くんは、床に座り込んだままじっとフローリングの一点を見つめていた。






 疲れた。

 本当に、長い一日だった。

 ご飯を食べてもお風呂に入っても、全身を包み込む倦怠感だけはどうしようもなかった。身体も疲れたし、心はもっと疲れた。

 幸いにも明日は高校の創立記念日、だから学校はない。それでも、小説は書き進めなきゃいけない。拓磨くんが黙って襖の向こうに消えて行った後、私はいつものようにパソコンを起動した。締切が地味に近いのだ。

 でも、いざ始めてみると執筆は全く進みはしない。書きたいモノはあるのに、設定も組んであるのに、頭が回らない。


「────ああもう!」

 ついに私は匙を投げた。もういいや、明日バイトに行く前にでも書き進めればいいでしょ。昨日の今日ならぬ今日の明日だ、さすがに拓磨くんも行動を起こそうとはしないだろう。

 冷えたデスクに腕を乗せて枕にすると、私は頭を乗せた。ひんやりして気持ちがいい。疲れとか何とか、要らない何かが冷たい方に流れ出していくような気は……しないや。熱じゃあるまいし。





「…………?」


 顔を上げた。

 誰かの泣き声がする。

 どこからだろう、隣家かな。壁に耳を当てたけれど、別段泣き声なんて聞こえては来ない。

 慎重に耳を澄ませると、それは襖の向こうから聞こえてきているみたいだった。私は抜き足差し足、襖にそっと近づくと、ほんの数ミリだけそれを開けてみた。



 拓磨くんだった。

 いつも洗濯物を干していたベランダに凭れて、拓磨くんは、泣いていた。

 顔一杯に溢れている涙を腕で何度も拭っては、しゃくり上げていた。


 泣いている理由は、すぐに見当がついた。

 でも私は、動けなかった。

 何をしていいのかも、してはいけないのかも、分からなかった。いや、きっと何をしても失敗に終わるだろうと思った。

 襖の向こうが、急に異世界にでもなったみたいだった。




 私、忘れるところだった。


 私はあくまでも、拓磨くんのサポートの為にいる。お母さんを探すという拓磨くんの行動を、私は横から支援する為だけにいる。私には、ただそれしか求められてはいないんだ。

 私が私の為に拓磨くんに干渉する事なんて、あってはならない。私たちは協力者と被協力者だ。それ以上にも、それ以下にもなれないんだ。


 私、何やってるんだろう。

 拓磨くんの為にと繰り返しておきながら、結局目的は果たせないままだ。頼みの綱も全て失って、警察には居場所を知らせてしまい、拓磨くんは今、涙に暮れている。

 本当、私、何の為にいるの?




 私はポケットから、一枚の手紙を引きずり出した。

 つい数時間前に書いた、拓磨くん宛のあの手紙だ。

 今日はもう、渡せなくなっちゃったな……。

 そっと机の上にそれを置くと、私は天井を懸命に睨んだ。




 泣きたいのは、私も同じだった。








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