二〇一五年十一月二十六日。

Re:deem






 ……嫌な夢で、目が覚めた。


「ふぁ……」

 欠伸をすると、私は身体を起こす。まだだいぶ時間が早いみたいだ。足元で鳴らずに転がっている目覚まし時計の設定を解除して、辺りを見回す。

──良かった、我が家だ。何も変わる事のない。


 目尻を拭うと、指先に水滴がついた。

 頬にも伝っている。欠伸で流れたにしては、量が多い。

 また……か。夢を見て、泣くの。

 拓磨くんにでも見つかったら羞恥心から自殺してしまいそうだ。布団を押し当てて完全に拭い去ってしまうと、私は顔を洗いに行った。

 今日もまた、いつも通りの日常が始まる。



 ごはんも食べ終わって食器も片付けて、出掛ける準備をしていると、拓磨くんが起き出して来た。

「……あ、おはようございます」

「おはよう。今日はけっこう早いね」

「なんか、眠れなくて」

「奇遇だね、私もだよ」

「そうですか……」

「ゆっくりしているといいよ。どのみち迂闊に外には出られないもん」

「そうですね」

 そう言って寝惚け眼を擦る拓磨くんの口元が、少し笑っている。この子の笑顔を見る事は、未だにあまりない。

 出会ってからまだ四日。早くも私には、拓磨くんの色んな事情が分かっているような気になってきた。


「……どうかしましたか?」

 尋ねる拓磨くんに比して、私の声は小さかった。

「……あのさ。拓磨くん、私がもし唐突な話を持ちかけても、乗ってくれる? 相談とか」

「いいですよ」

 今度は、にっこり笑った。

「僕も自分の記憶を探すの、手伝ってもらっていますから。咲良さんに悩みがあるのなら、相談に乗らせてください。僕で役に立てるかは分かりませんが」

 ……ほっとするあまり、その場に座り込んでしまいたかった。情けない事この上ないけれど、この程度の事を口に出すだけで、私には愛の告白レベルの難易度に思える。

 この前向きな気持ちが、消える前に。

「じゃあ、行ってくるからね」

 カバンを取った私は、手を小さく振った。振り返す拓磨くんの姿が、ガンという金属音と共にアパートのドアの向こうに消える。

 今日は晴れ。自転車日和かもしれないなぁ。また明日から、悪い天気になるみたいだけど。










 もっと小さい子供の頃から、ずっと悩まされてきた悪夢。

 その中身はだいたい決まっている。私がかつて経験した、心底嫌だった日々が思い出されるものだ。

 今日見た、両親のお葬式の日の夢も、その一つだ。

 まだ幼かった私には刺激が強すぎると言われて、死に顔は見せてもらえなかった。交通事故の時、二人の乗った車は激しく大破したため、身体の状態もかなりひどかったらしい。

 顔も見せられずに突然告げられた別れに、私は泣いた。泣いて泣いて泣いた。世界の全てが、絶望の色で塗りたくられているように感じた。


 けれど、それより不快なのは……いじめられていた時の夢だ。




 私はいじめられっ子だった。

 小学生の時の話だ。

 事故以来、私の周りでは『咲良の両親は咲良を見捨てて自殺したんじゃないか』なんて憶測が盛んに流れ出した。私にはとても信じられなかった。確かに裕福だとは思わなかったけれど、事故の前日まで私たち三人家族は仲良し一家だったのだ。そんな突然に、自殺なんてするわけがないと思った。

 私は自然と、そういう事を言い触らす人に嫌悪感を抱くようになった。そのうち、完全に人間不信になった。それまで親友みたいな付き合いをしていた友達の顔を見ても、ああ、こいつも腹の中では似たような事を考えているんだろうな、って疑うようになってしまった。

 事故から半年ですっかり無口になり、無愛想になった私に、いじめの標的マークがなされるのは必然だった。初めのうちは無視だったけれど、やがて腹が立つなんて無茶な理由をつけられては、暴行も受けるようになった。

 子供なんて単純なものだ。気に入らないと、すぐ攻撃したがる。けれど無抵抗を貫いた私も、かなりの単純脳だった。事故以来ずっとカウンセリングで通い続けてきた児童福祉施設の職員の人に、身体に生々しく残る痣や傷痕に気づいてもらえた時、私が真っ先に考えた事は──『構わないから、関わらないで』だった。

 中学受験で今の学校に入り、五年を過ぎた今でも、私は変わらなかった。自分から変わりにいかない限り、いじめられっ子はいつまでもいじめられっ子のまま。私は人付き合いを遠ざけて、干渉を恐れるようになった。

 もちろん、それでも毎日ストレスはたまる。そこで私が思い付いたのが、小説だった。文字通りやり場のない怒りや悲しみを、文章に変換して閉じ込めてしまえばいいんだ。私はひっそりと執筆活動を始め、次第にその魅力に惹かれていった。

 それまで参加してこなかった部活動に加入したのも、言うまでもなく小説書きが発端だ。でも、文芸部に入って話す相手の出来た今に至ってもなお、友達と呼べるような存在は私にはいなかった。

 有沙と出会ったのは、その頃だ。あの子もかつていじめられっ子だった。あんまり泣いているものだからハンカチを貸してあげたら、それ以来、頻繁に話しかけてくるようになった。美談でも何でもない、中学二年の時の話だ。

 今もなお、私の事情にあまり深く関わろうとしないでいてくれる有沙以外には、私は交流を持ちたいとは思わない。他は正直、鬱陶しかった。



 その上で。いや、だからこそ。

 拓磨くんという同居人を迎えて、一番変わったモノがあるとすれば。

 それは──、私自身だと思うんだ。






「何て言えばいいんだろ……」

 自転車を走らせながら、ぽつり、私は呟いた。

 相談すると言った以上、今さら「やっぱやめた」とは言いたくない。それに内容もはっきりしている。私の過去、今に至るまでの心境の変化、『他人との関係を持つのが怖い』という事実。そして、どうしたらそれらを解決し忘れられるのか。

 ここまで分かり切っているのに、言葉が思い付かない。どうしても、上手く言葉に言い表せる自信がなくなってしまうんだ。

 武蔵境駅前から真っ直ぐ北に向かう道に出ると、私は左折した。この時間帯、駅へと歩いて行く人の数はすごく多い。自転車の脇を、何人もの人影が掠めていく。

 この人たちに、私ほどの悩みはあるんだろうか。そんな被害妄想を抱いてしまう自分が、今日は何だか納得出来てしまうから不思議だった。

 まあ、構わないや。始業前の空き時間にでも考えよう。そう決めて、ペダルをまた強く踏み込む。



 でも、実際には考える余裕は与えてもらえなかった。

「咲良ぁあー……」

 席に座って早々、前の席から有沙が泣きついてきたからだ。

「……何? どうしたの?」

「なんか最近、料理の腕が落ちてきた気がするんだよ……。匙加減とか火加減とか、狂ってるんだもん……」

「ふーん……」

「特にお菓子が微妙な味になっちゃってぇ」

 曖昧な返事しか返せない私の机にかじりつき、有沙は訴える。

「クリスマスまでに挽回しないと、ユキヒロ君にプレゼント出来ないんだよお……!」

 ……そうか、この子って片想いしてる人がいたんだったな。かつてこの子に私、『好きな人が出来たの!』と唐突に宣言されたことがある。確かお相手は、堤くんとか言ったっけ。

 自慢のお菓子をプレゼントに出来ないとあれば、確かにショックだろうな。ついでに、その『挽回』って言葉の使い方も些か間違っている気がする。

「まあ、練習するしかないんじゃないの?」

 当たり前の事を私は口にした。むしろ、当たり前の事しか私には言えそうにない。

 でも、美味しくないもの渡されても、そのユキヒロ君とやらも嬉しさ半減だろうし。

「大概の結果は、努力のあとに附いてくるもんだよ。今ここで弱音吐いてる暇があるなら、次はこうしようって考えるべきだと思う」

「やっぱそうだよね……」

 そこはさすがに有沙にも分かっていたらしい。はぁ、とため息を吐きながらも、有沙は前を向いて座り直した。


「……ねぇ」

 先に動いたのは、私の口だった。

「ん?」

「どうやって、そのユキヒロ君に想いを伝えようと思ってる?」

 ……有沙の横顔が真っ赤になっている。

「わ、分かんないよまだ……。クリスマスに言えたら、言いたいけど。でも……」

「でも?」

「でも、叶うならあたしの口から直接言いたい……かな」


 有沙は照れながらも、しっかりと前を見ながら言葉を繋ぐ。

「そりゃあ、メールでも通話アプリでもキモチは伝えられるよ。でもそれじゃ、何だか価値が小さくなっちゃう気がするんだ……。せっかくあたしたち、生身の人間同士なんだから、伝えられるモノは直接言いたい。どうしても無理、って時の為の最後の手段が手紙かなって思う」

「…………」

「キモチってさ、相手の声で伝えてもらうのが一番伝わる気がしない? ……いや、少なくともあたしはそう思うんだけどね。文章で伝えるっていうのは本当に難しいし、でもそれが出来たら苦労しないのになって思うよ。文芸部の現役作家さんの咲良になら、出来るのかもしれないけど」

 有沙はちらり、と私を一瞥すると、よっしゃ今日のバイトも頑張るかー! とクラス中に聞こえそうな声で宣言してから自席に戻って行った。


 面と向かって言うのは、恥ずかしい。

 文章を使って伝えるのは、言葉を巧みに使う技術を要する。

 つまりは両雄並び立たず。それでも人類はこの数千年間、文字を使って何かを伝える事をやめなかった。そしてそれは、私も同じだ。

「難しいよ……」

 私は思わず、口にした。有沙はあれで、ずいぶん難しい事を考えていたんだなと思った。

 勝負事でないのは重々理解している。けれどこの時ばかりは、有沙に負けた気がして悔しかった。

 窓の外を、穏やかな冬先の冷風が浚っていく。




 その日一日、授業の合間にも、私は手紙の文面を考えた。

 真っ白な紙に何度もペンを走らせては、気に入らなくて消した。繰り返した回数なんて覚えていないくらい。

 今日は何事も無かったし、部活に出られそうだ。しかし部室に入って座ってもなお、書き上がらない。同じ手紙であるにも関わらず、私の書いている『MAIL』の方がよほど時間がかかってない。

「先輩、何してるんですか?」

 そう言って何人も覗き込んでくる後輩たちを、慌てて追い払い続けること三十分。



「……書けた」

 私は、ようやくペンを置いた。

 やっと満足のいく文章が書けた。私が拓磨くんに伝えたい、聞いてほしい話を、ちゃんと書き切ったつもりだ。

 よし、あとはこれを明日の朝にでも、枕元に仕掛けておくだけ。午前のアルバイトを終えて帰ってくる頃には、きっと読んでくれてるだろう。

「咲良、清々しい顔してるねー。何か作品でも書いてたの?」

 部長の間延びした声がかかったので、適当に返事しておく。

「まあ、そんな感じです」

 しかしこれからの時間は、本当に執筆に費やせる。んー、と伸びをすると、私はカバンから書きかけの『MAIL』の設定資料プロットを引っ張り出そうとした。



 ヴーン、ヴーン、ヴーン……。

 私のポケットが、振動を始めた。

 電話だな、誰だろう。震え続けるスマートフォンを手に取ると、画面をスライドして通話を始める。

「もしもし、関前です」


──「僕です、御殿山拓磨です」


「拓磨くん……?」

 私はすぐさま声を落とした。

 いざという時に連絡がつくように、拓磨くんには私のケータイ番号を教えてあった。だから、電話がかかってくる事は何ら不自然ではない。不自然ではないんだけど、不自然だ。

「どうしたの、急に」

「そろそろさすがに授業は終わっている時間だろうなと思いまして、かけました」

 拓磨くんの口調は妙に静かだ。スマホを当てる右耳と、こちらの音を拾っている左耳の温度差が、大きい。

──「記憶、戻りました」




…………今、なんて言った?






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