二〇一五年十一月二十二日。
Re:---
「──わわぁぁっ!!」
その時、私の口から飛び出した第一声は、今にして思うとあまりにも間が抜けていた。
……だって、しょうがないじゃない! アルバイトから疲れて帰ってきて、アパートのドアの前までやっとたどり着いたと思ったら、そこに男の子が倒れていただなんて! そんな小説みたいな展開、誰が予想できたって言うのよ……!
「ちょっと、大丈夫!?」
慌てて駆け寄って揺さぶると、男の子は微かに目を開けた。口は動かしている、でも声は聞こえない。かなり衰弱しているみたいだ。
「立てる?」
尋ねてみたけれど、頷いてはくれない。そりゃそうか。
どうしよう、ここにこのまま放置しておく訳にもいかないし、救急車を呼ぶにしても時間はそれなりにかかるし……。
仕方ない。私は男の子の腕を掴むと身体を引っ張りあげて、腕を回して支えてあげた。その軽さにまたびっくりしながら、カバンから鍵を出してドアに差し込む。
とにかく、この子をどうにかしなきゃ。話は、それからよね。
男の子を抱き抱えながら中に入ると、私は後ろ手にドアをゆっくりと閉めた。
私とこの子の、一週間の物語は、この瞬間に産声を上げた。
◆ ◆ ◆
「どう? 食べられそう?」
おにぎりを頬張る男の子にそう尋ねると、男の子は今度こそ大きく頷いてくれた。
シャワーを浴びた身体が、ほかほかと湯気を上げている。よかった、口に合ったみたいだね。
「お茶もあるからね」
冷蔵庫の水出し麦茶をポットから湯飲みに移すと、私はそっと男の子のそばに置く。
急いで作れるものと思って、炊いてたご飯をとりあえず握ってみたんだけど。よっぽどお腹が空いていたんだろう、もうお釜の中は空っぽだ。こんなに食べる人が家に来たことは一度もないから、ちょっと驚いている。というか、私のご飯が……ない。
「落ち着いた?」
湯飲みをコトンと置いた男の子に、私は尋ねた。
満足げな笑みを浮かべていた男の子はその瞬間、ふっと真顔になって下を向いてしまう。
「ごめんなさい、こんなにお世話になってしまって」
「いいの、気にしないで」
私が勝手にお世話しただけだもん。玄関前で行き倒れとか、明日の寝覚めも悪そうだし。元気が出るまでの間くらいは、休ませてあげようって思っている。
執り成しの言葉をかけると、男の子は少しホッとしたように足を崩した。湯飲みに麦茶を注ぐと、立ち上がって冷蔵庫に向かう。ばたん、と少し乾いた音がした。
ぼろぼろに擦り切れ、汚れた服。上がパーカー、下は七分丈のズボンだった。
シャワーから出てきた後も、どことなく黒ずみの消えない身体。
どんな生活をしていたら、そんな身体になっちゃうんだろう。でも、見ているだけでも憐れになるその出で立ちとは別に、瞳に宿った光だけは異様なまでの輝きを放っている。
……まるで、どこかずっと遠い世界から今まで旅を続けていたみたい。
私の抱いた第一印象は、そんな感じだった。
「ねえ君、名前は何て言うの?」
男の子が戻って来ると、座り込んだ私は聞いてみた。これから先、どこに連絡するにしても必要な情報だもんね。知っておかなきゃ。
「名前……ですか?」
「うん。──あ、私は、
「さくら……」
「そうそう。近くの高校に通ってるんだ。君は見た感じ、中学生くらいに見えるんだけど。どう、当たり?」
湯呑みを握りながら尋ねると、男の子は少し目を細めた。その視界が、宙を所在なげに漂っている。
「…………分かりません」
「……えっ?」
突然、部屋がしんとした。
私の聞き返し方が悪かったのだろうか。男の子は俯きながら、小さな声で囁くように言う。
「僕、覚えてないんです。自分の名前も、住んでる場所も、何もかも。覚えてるのは「タクマ」って名前だったことと、警察が僕のことを探してるんだってことだけで……」
覚えて、いないって。
「ほんとに何も?」
「はい。昨日から先に見聞きしたことしか、記憶になくて……」
自分の目と耳が、一瞬信じられなくなった。
ちょっと、待って。
それってまさか、記憶喪失ってこと!?
◆ ◆ ◆
──男の子の話は、昨日の早朝に遡る。
気がついたら空き地で倒れていて、身体中が焼けるように痛かった。そして何より、頭の奥が霧に包まれたみたいになっていて、何も思い出せない。
ふらふらになって歩いていたら、不審に思われたのか警察官に呼び止められたらしい。咄嗟のことにびっくりした男の子──タクマくんは、反射的に逃げ出していた。
なぜその時、逃げ出そうと思ったのかは分からない。ただ、本能が逃げろと囁いたような……そんな感覚だったそうだ。
複雑な町の中を逃げ回って警察官を巻くことには成功したけれど、自分がどこにいるのかはいよいよ分からない。途方に暮れ歩いていたら、このアパートまで辿り着いたのだという。
「警察の人に名前を呼ばれて、僕がタクマって名前なのは分かりました。でもそれ以外には、何も……」
力ないタクマくんの声が、部屋に静かに響く。
「じゃあ今まで、どこで何をして生きていたのかも、分からないんだ……?」
「……はい」
記憶喪失って、そんなに簡単になってしまうんだ。急に室温が下がったような気がして、私は粟立った腕を擦った。
これは、素直に警察に頼んだ方がいいんじゃないか。私の手には負えないんじゃないか。直感的にそう思った。そうは言っても、警察というコトバを口にするだけで怯えを露にするタクマくんに、そんな考えを言えるはずもなかった。
「何か、手掛かりになりそうなものは持ってないの?」
そう聞くとタクマくんは立ち上がって、ハンガーに引っ掛けられた服のもとへと歩いた。ポケットをごそごそと漁ると、何かを取り出す。
紙……なのかな?
「倒れていた時、持っていたものと言えばこれしか……」
自信なさげにそれを机の上に置くと、タクマくんはそれを広げた。やっぱり、紙だ。文字が書かれているところを見ると、手紙らしい。
私はちらりとタクマくんを見る。
「読んで……いいの?」
確認を取ると、タクマくんはこくんと頷く。指で文字をなぞりながら、私はそれを声に出して読んだ。
[施 ─ の皆様、お久し振りでございます。
覚えていらっしゃるでしょうか。 ── 前、そちらに拓磨を預けさせて頂いた、御 ─ 山 ── と申します。
─── 、元気でやっておりますでしょうか。
あれからずいぶん ─── ちました。あの ─── う、 ─── になっている事で ─── 。
三歳 ── き ─ れるまではあんなに ─ 気一杯だった ── 。心も優しく、他人に ─── う事の出 ── 子でした。 ── 死に、私 ── れて行ってしまって、あ ── には本当に ─ しい思いをさせてしまいました。
今一度顔を見たい、会い ── と何度思ったか知 ── せん。我ながら、 ── しいと感じます。私の選 ── 道なの ─ すから、我慢するの ── だけではないのですから。そう、自分に言い聞かせてきました。
……その私にも、遂に ─ りの時が来 ─ ようです。
余命 ── の宣告を受 ── から九年もの ─ 、多くの人の助けを ─ りながら何とか生き存 ─ てきまし ─ 。しかし、最近はもうすっか ─ 身 ─ も腐ってしまって、駄目なのです。お医者様には言っていませんが、もう一 ── 中くらいもも ── いような予感がします。
─ とは本当 ── ろしい─気です。いつ自分の ── が喰い ─ られるのかと思うと、怖くて ─ くて、仕 ── りません。けれど例え ─── なくても、生き甲斐を無くした私には、もう未来はないのかもしれませんね……。
皆様。
どうか、どうか、 ── をお願い致します。
── は私たち家族 ── された、最 ─ の希望なの ── 。私の身など、どうなっても ── ません。あ ── に、福音を……幸せな日々を、与えてやって下さい。
勝手な ── 書き散らしてしまって、申し ─── ません。ですが、
……いえ。
それではここで、筆を置かせて頂きます。
── 山 ── ]
「…………」
泥汚れだろうか。あんまりにも汚くて、解読できない文字ばかりだ。
これじゃあ、何の手紙かさえも分からないよ。
「空き地で気がついた時、手に持っていたんです。宛名も宛先も何もなくて」
「……何一つ、ヒントになりそうなものがないね」
首を縦に振るタクマくんは、寂しそうだった。湯飲みの中の氷が、からんと鳴った。
「僕、自分で自分が分かりません……。僕はこんなものを持って、どうしてここを彷徨っていたんでしょう? 家族は、家はあったんでしょうか? 本当の僕は、どこで何をしているどんな人間なんでしょうか?」
何も言えない私を前に、解のない問いかけは虚しく壁に吸い込まれてゆく。
「……真っ暗、なんです……。何もかもが…………」
くすん、と鼻を鳴らしたタクマくんの目は、真っ赤だった。
昨日も今日も、悩みや不安に苛まれながら、この子はこの街をただ歩いていたんだろうか。空腹や疲労や痛みに、黙って必死に堪えながら。
その苦しみは、私には少なくとも半分くらいしか理解できそうになかった。想像なら、できるけれど。
「泣かないで」
肩を震わせるタクマくんの頭を、私はそっと撫でた。
「分かった。警察は嫌なんだよね? だったら今日は取りあえず、ここに泊まっていっていいから」
タクマくんは目を見張った。
「でも、そんな……」
「しょうがないじゃない。君を外にまた放り出すような夜叉には、私はなれないよ。今夜はゆっくりして体調を整えて、明日からまた始めたらいいよ。“自分探し”」
何を言われているのか、まだ把握できていないみたいだ。けれど私の心はもう、決まっている。
とりあえず今日はもう遅いし、明日になればまた何か打つ手が思い浮かぶかもしれないから……ね。
でも。
「……そんな申し訳ないこと、出来ません」
タクマくんは、すっくと立った。
ああ、きっとこの子も初めから、心は決まってたんだろう。真っ直ぐ私を見つめながら、タクマくんは少し躊躇いがちな声で話す。けれど、その目は決して揺らいだりしない。
「関前さんに、迷惑はかけられないです。僕が何とかしなきゃならない事なのに、巻き込むのは申し訳ないです。今日のご恩は忘れません、さよなら……!」
それだけを、彼は一気に言ってのけた。
で、私の返事も待たないで部屋の外へと飛び出そうとした。
途端、がくんとタクマくんは玄関の前で膝から崩れた。
「……大丈夫?」
私が恐る恐る声をかけると、震え声が返ってくる。「……足を、痛めたみたいで……」
だから言わんこっちゃない。きちんと休まなきゃ、何をするにしたって空回りするだけだよ。
立ち上がって傍まで行くと、私は手を差し伸べた。
「今日は寝たらいいよ。きっと君、歩き回りすぎで疲れてるはずだし」
タクマくんは振り子みたいに、私と私の手と、自分の足を見比べている。あ、私の事が気掛かりなんだろうか。
「心配しないで。私の寝る場所なら、あるから」
そう言いながら、私は奥の部屋の戸を開けた。私が普段、寝室にしている場所だ。毛布を二枚掴んでリビングに投げれば、私の寝床は完成だ。私なんてこんなものでいい。
そこまでして、やっとタクマくんは肩の力を抜ききったようだった。
「なんか……何から何まで、すみません……」
「いーの、気にしないで。私は独り身だから、夜とか案外ヒマなんだ」
もう一度ぺこりと頭を下げると、タクマくんは再び我が家の敷居を跨いだ。お風呂を涌かして入ってもらう間に、クローゼットからパジャマになりそうな服を適当に引っ張り出す。うん、これなら問題ないかな。どうせ見るのは私だけだもの。
お風呂から上がったタクマくんは、こっちが恐縮するくらい何度もお礼を言いながら向こうの寝室へと入っていった。襖がぴっちりと閉められて、ようやく居間に静寂が戻ってくる。
あの子、眠れるのかな。
大丈夫かな。
向こうを覗くのは明日にしよう。そう決めた私も、即席の布団に潜り込む。読書でもしようかと文庫本を手に取ったけど、何となく読む気になれなくてすぐに枕元に放り出した。
記憶喪失になった、少年。
その手に握られた、差出人の分からない手紙。
本当、小説じゃあるまいし。
ふふっ、と苦笑いすると、私は毛布をかぶった。なんだか、やけに眠い。
アルバイトの終わる時間はいつも深夜十時だ。明日からまた、学校が始まる。
東京都武蔵野市在住。
都立高校二年、文芸部副部長。
関前咲良。
退屈で孤独な日々に突然舞い込んできた、びっくりするくらいの非日常に。
この時の私は、どんな思いで臨んだのだろう。
ただ少し…………期待していたのは、確かだと思う。
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