第3話 脳筋には脳筋の言い分がある

 柔軟、腕立て、腹筋、背筋、スクワット、ブリッジ、ランニング。

 俺は放課後、トレーニングに励んでいる。

 秋をどう説得させればいいのか、わからない。

 しかし、悩んでいる時間があったら、動かなくてはいけない。

 血反吐を吐くまでトレーニングし、体を頑丈にしなければ。

「はい、休憩です。飲んでください」

 伊柄獅がストップウォッチを首から下げ、ペットボトルを差し出した。

 汗臭いだろうに、嫌な顔一つせず自主的に付き合ってくれている。

「サンキュ」

 頭からかぶろうとすると、横から伸びた手に奪われてしまう。

「どれどれー、ボクが飲んであげよう」

 巳羽が粘りっこい笑みを浮かべて、ペットボトルに口をつける。

 天に突き上げられたボトル、空気が上に向かって上がっていく。

「なにすんだよ。返せ」

 このくらいのことは日常茶飯事だから、感情が湧いてこない。

 いつの日か現金を踏み倒されても、またか、で済ませるようになってしまうのではないかと思うと……ゾッとする。

 巳羽はのどの渇きを潤せたのか、ちらりと目を向け、片手を上げる。

 手を差し出し、伊柄獅を見た瞬間、その眼鏡の奥に輝く瞳が大きく見開かれた。

 スローモーションで口が開かれて行く。

「かーらーのー」

 口に水を含んだ状態でゴポゴポした声が聞こえた。

 振り向いたときには、巳羽の顔が間近にある。

 口から勢いよく、飛沫があがる。

「毒霧!」

「ぶわっ! なにすんだ!」

 巳羽に吐き出されたことにより、顔がみずびたしになった。

「へへー、油断したな」

 得意げに笑う巳羽に、秘められた闘志と燃え上がる怒りが爆発する。

 でんでーででんーでででんでーででんでーで。

 ぱーーぱぱぱーぱぱぱーぱぱぱーぱんぱーぱ。

 ぱーーぱぱぱーぱぱぱーぱぱぱーぱんぱーぱ。

 俺の中に熱い入場曲が鳴り響く。

「今宵の南浦和は嵐の予感。試合開始前から、両者は殺気立っております。恐怖の人間ブレイカーサミー石居VS地獄の墓掘り人間ヨシイ。はたして、どんなドラマが待ち受けているのでしょうか」

 伊柄獅の実況と、あるはずのない歓声。

 今、ゴングが高らかに鳴った。

「せいっ!」

「うわっちょ! いきなり! ひっ! やめろ!」

「さあ、決戦の火ぶたが切られました。おーっとこれはいきなりのバックドロップ! ヨシイはなんとかこれを避けます。いきなりでしたね。『はい。試合前に毒霧をお見舞いされたことにより、サミーは冷静さを失っていますね。ここはヨシイのチャンスなんじゃないですかね』なるほど、おーっと、逃げ惑うヨシイがこけました! すかさずサミー石居が足を取る。サソリ固めだーーーー! 決まったぁぁぁぁぁ! これは痛そうだ! ロープに逃げようとするも届かない! 抑え込んだ! カウント、ワン、ツー、スリー! なんということでしょう! 試合開始四十八秒! プロレス史に残る秒殺劇です!」

 巳羽は綺麗に泡を吹き、地面にひれ伏した。

 ふん、鍛え方が甘いわ。

 試合を終えた俺に、実況兼解説を務めた伊柄獅が駆け寄る。

 手にはマイクが握られている。

「おめでとうございます」

「いや、ちょっと待って、なんでマイクなんて持ってるの?」

「女の子のマストアイテムです」

「嘘つけおい」

「女の子はいろんなものを持ってるんですよ。鎖とかメリケンサックとか」

「お前が女の子を語るな。だいたい、そのふぬけたジャージ姿から女子力のかけらも感じられないんだが?」

 だぼっとしたジャージ姿。

 男ものと同じ柄で、劇的に似合っていない。

 似合わせる努力をしていない。サイズすら合っていない。

 どうやら妹がいるらしく、メイクもそいつがしてくれるのだそうだが、女子力を全部吸われてしまったのではないかと思わざるをえない。西の魔女騒動も、妹が遊びで校舎を訪れた際に、姉の杜撰なノーメイク姿を見て決行したものらしい。

 せめて妹に眼鏡を選んでもらえば、人気も出ると思うのだが。

「女子力? それは誰を倒せば手に入るんですか?」

「その思考が女子のものじゃねえよ! なんでも気合いと力で解決できると思うな!」

「了解しました。では、インタビューに移りたいと思います。サミーさん、今のお気持ちをお聞かせください」

「ついにヨシイの野郎をぶっ倒した。俺の時代が来たってことだ」

「ところでサミーさん、受け身が失敗したように見えましたよ」

「うん、ちょっとだけ痛かった」

 受け身は身を守るためにも、相手の技をダイナミックに見せるためにも必要な技術。

 プロレスマニアの伊柄獅に指摘されているようでは、精進が足りない。

 練習あるのみだ。

「てかお前、巳羽はともかく何人かの生徒が顎外すくらいの勢いで驚いていたぞ? 全然隠しきれていないが、いいのか?」

「……はっ! こみ上げてくるプロレス愛を抑えきれませんでした。これが、ラブの波動なんですね。大好きが溢れて止まらないですぅ」

「止まらないですぅ、じゃねえよ」

 もうそこまで突っ走れるのなら、周囲の目なんて気にしなくてもいいだろ。

 どうせそのうちボロが出るだろうし、擁護しきれない。

 倒れ続ける巳羽を尻目に、俺は呆れながらも腕立てを再開し始めた。

「おいちょ待てや! なぁに女のやわ肌に傷つけてくれちゃってんだよ、おら!」

 驚くべき回復力の巳羽がゲシゲシと背中に蹴りを入れてきた。

 女である自覚があるのなら、毒霧なんてすべきではない。

「心配するな、今のはブックだ」

「はぁ? なに言ってんだおめえ?」

「ブックとは試合展開の構想なんかのことです。誤解してもらいたくないのは、すべてのプロレスにブックがあるわけではないと言うことです。ブックはあくまで観客を楽しませるためであり、悪いものでもありません。迫力や試合運びには、選手の技量や能力も必須ですし」

「ブックじゃにゃぁよ! ガチで蹴られかけたよ、こっちは! なんの予告もねぇよ!」

「すまん、責任はとる」

「え、責任って……まさか……ちょっと待って、まだ心の準備が……」

「うむ、再試合だ。リベンジマッチを受けてやる」

「でぇぁだぁぁ! もう嫌だ! 帰りゅぅぅ」

 巳羽は泣きながら帰った。

 泣いた数だけ強くなれる。

 いつかあいつもそれを理解してくれるだろう。

 悲しげな背中を見送っていると、その先に秋がいた。

「いつからいたの? あいつ」

「トレーニング開始前から、ずっと見ていますよ?」

 こともなげに言う伊柄獅。

 見ていたのは問題ではない。確実にストーク技術が上がっていることが問題なのだ。

 トレーニングに集中していたとは言え、全然気付かなかった。

「謝ってくるべきでしょうか? 教室で話しかけても無視されてしまいましたし」

「そんなやつじゃないはずなんだけどなー」

 秋はこれまでよりも憎々しげな顔をしている。

 まるで本当に恨みでもあるかのような表情だ。

 感情を出さないクールな顔で見られ続けるよりは、よっぽどわかりやすくていいのだけれど、ずっとあんな顔をしていたらせっかくの美人が台無しだ。

 和解に至るかと思ったのに、後退してしまったようにも感じる。

 これは俺一人の手には負えそうもない。

 姉さんは俺を期待してあんな課題を出したわけだから、頼るわけにもいかない。

 プロレスという共通項があり、秋と現在の関係に至らしめた当事者でもある伊柄獅に相談するのは、当然の流れかもしれない。女ん心を理解しているかと問われれば、俺と五十歩百歩なんじゃないかと疑わしくもあるが、まあ、一人よりはましだろう。

「実はな……」

 俺は姉さんに言われたことをかいつまんで話した。

 秋と携帯電話がどうこうは置いておき、一時的に気を取り乱していたことも抹消し、秋に認められたらめでたく問題が解決することだけを簡単に。

 伊柄獅は顎に手をあて、神妙そうな顔で考え込んだ。

 巳羽にも言えることだが、かわいい系の顔だからこういう表情が似合わない。

「碧木さんはそもそも、プロレスラーになることに反対しているのでしょうか?」

「そうじゃないのか? 普通に考えて」

「いえ、確かにお姉さんの指示には従っているみたいですけれど、秋さんの口から直接言われたわけではなさそうですので」

 言われてみればそうだ。

 プロレスラーなんてあきらめろ、とは言われていない。

 秋は俺にかわいさなんて求めていないだろうし、筋トレを注意されたのも部屋が汗臭くなるからという理由だったはずだ。

「なら、秋に俺の夢を認めさせる、ってどうすればいいんだ?」

「うーーーーん」

 あまり物事を深く考えないタイプの二人が集まったところで、クエスチョンマークが一つ増えるだけだった。

「とりあえず」

「トレーニングしましょうか」

 単純明快とはこのこと。

 考えても無駄なら仕方ない。

 思いっきり体を動かして、飯をたらふく食って、ぐっすり眠ればいい。

 秋との問題を解決するに当たり、時間制限も設けられてはいない。

 あいつの機嫌が直るまで待ってから、話し合っても遅くはないだろう。

 


 秋の監視は続いた。学校にいる間はずっと、視線を感じる。

 それだけではない。

 ときには口を出してくるようになったのだ。

「うおっしゃぁぁぁぁ! 昼休みだあああああああ! あさみー、どうするー? 北国とか行っちゃう? 温泉入っちゃう? いやー、楽しみだにゃぁ」

「そこまで休めないから。むしろそのテンションだと疲れるだろ」

「オヤジくせえこと言ってんなよ。休み時間は遊んでなんぼだろー? どこで食う? 屋上? 中庭? ファミレス?」

「職員室だ」

 巳羽は学年主任によって雷鳴のごとき早さで連行された。

 またもや一言もしゃべらせないほどの見事な手際だった。

 恐ろしいまでのそつのなさ。さすがの対問題児用学年団だ。

「熱人、飯にしよう」

「すまん、今日は部室でミーティングなんだ」

「そうか」

 いつものメンバーがいなくなってしまった。

 教室を見回すと、あらかたどこも毎日同じグループで固まっている。

 どこで食べるか考えていると、伊柄獅と目が合った。

 あいつもいつも一緒にいる相手が休みみたいだ。

 唇を結んで、慎重に様子を窺いながら近づいてくる。

「ご一緒しても――」

「それはない」

 ピシャリと遮ったのは俺ではない。秋だ。

 行く手を邪魔するように、手を横に伸ばしている。

「いいよいいよ。一緒に食おうぜ」

「それを決めるのは浅海じゃない」

「いやいや俺でしょ」

 戸惑う伊柄獅は伸び過ぎた前髪の隙間から上目づかいに、俺と秋を交互に見た。

 ライオンに睨まれた野兎のようになってしまっている。

 立ちすくむ野兎の方に、俺から歩み寄ることにした。

 依然涙目で怒らせたことに、引け目があるのかもしれない。

「ダメ」

「なんでだよ」

「……あ、あなたには一人がお似合い」

「言うに事欠いてひどいな」

「ボッチに見られるのが嫌なの?」

「そ、そういうわけじゃ……」

 反撃を受けた。

 いつも一人で食べている秋は孤高だが、俺がそれをやったら孤独に映るだろう。

「嫌がらせを思いついた」

「なんだよ、おい。飯ぐらい好きに食わしてくれよ」

「わたしが見張りながら食べてあげる。どう? 嫌でしょ? 嫌なら一人で食べて」

「別にかまわないよ。三人で一緒に食おうぜ」

 長い押し問答を経て、なぜか緊迫した食事グループが成立した。

 机をくっ付けに動いた時、教室内がざわついた。

 孤高な西の魔女が他人と接点を持ったからだ。

 みな気付いてはいないが、実のところ西と東の両魔女が集結している。

 ただのプロレスマニアと、気難しい幼馴染ではあるが。

「え、えっと……じゃあ、女の子の方が多いわけですし、女子プロレスの話をしましょう」

 会話もなく箸を進め始めたところに、壊滅的な打開策を打ち出した。

 伊柄獅に会話の主導権を握らせるわけにはいかない。

 そもそもこいつ、普段は他の女子となにを話しているんだ。

 皆目想像がつかない。

「食事中は静かにして。誰もそんな血生臭い話聞きたくない」

「まあまあ……。伊柄獅は普段、プロレス以外ではどんなテレビを見るんだ?」

「聞こえなかった? 静かにして。次に歯を見せたら、そのとき、弁当箱に収められているのはあなたかもしれない」

「お前の方がよっぽど血生臭いよ」

 凍りついた空気が、楽しいはずの昼食に重くのしかかる。

 なにを食っているかわからない。味がしない。

 果敢にも膠着を打ち破ろうとしたのは、伊柄獅だった。

「わたしはプロレス以外だと、音楽番組くらいですかね。妹ちゃんがバンド好きなので、深夜の放送を録画しておいて見たりします」

「へー、なんか意外だな。カラオケでも最低点叩き出しそうなイメージなのに」

 秋の顔色をうかがったが、特に文句は言ってこない。

 ただ黙々と、ミックスベジタブルからトウモロコシだけを拾っている。一色全部食べ終えてから、ニンジンに移行し、最後にグリーンピースを食べるはずだ。

「歌は下手ですね。聞くのもそうですけど、見ているのが楽しいんですよ。ライブ映像なんかでも、ステージと観客が一体になって盛り上がる。コール&レスポンスってやつですかね、あれを見ていると、プロレスと同じで楽しくなるんです」

「またプロレスか」

「おかしいですね、いつの間に……」

 無自覚かよ。

 いつもは巳羽みたいなバカ話や、熱人のナチュラルクレイジーな話で盛り上がったりしているが、こういう落ち着いたほのぼの話も悪くない。ちゃんと女の子と話している気分にさせてくれるからだ。

「ごちそうさま」

 秋は弁当をほとんど残し、たたみ始めた。

「食欲ないのか?」

「別に」

 虫の居所が悪いような、わざと小さく切られた短い言葉だった。

 扱いが非常に難しい。

 今のはなにが気に障ったのだろうか。

 鞄に弁当箱をしまうと、どこかへ行ってしまった。

「お菓子食べ過ぎたのかもしれませんね」

「君、あんまり賢い子じゃないのね」

 敬語を使っているし、眼鏡キャラだから、頭もいいのだと思い込んでいた。

 テストの成績はいいのかもしれないが、抜けているところが多過ぎて、穴あきチーズみたいになっている。

「穴あきチーズって、干し草が原因で穴があくらしいよ」

「アナーキーチーズ? なんですかそのパンクロックが大好きそうなチーズ?」

「いや、なんでもない。しかし、秋の監視はいつまで続くんだろうな?」

「監視からは逃れられません。金網デスマッチのようです」

「そうだな。その弁当うまそうだな」

「冷凍食品が多いですよ? あ、このふりかけのCMソング、守矢選手の入場テーマと一緒なんですよ」

「へー、意外だな」

「なぜかさきほどから、いろいろと会話を諦められているような気がするのですが……」

「気のせいだよ」

 ボケもオチも狂気もない分、無駄なエネルギーを使わなくていい。

 決してないがしろにしているわけではない。

 なんだかんだあって、最近疲れてしまっているだけだ。

「意識が低いですよ? プロレスラーは日ごろからキャラクターを意識しなければなりません。ツッコミマシーンとして、ビシバシとモンゴリアンチョップをぶちかましてください」

「あれをツッコミのたびにやったら、みんな鎖骨を折ると思うよ」

「………………芳井さん相手だけにしましょう」

 苦渋の決断の末、巳羽を売った。

 あいつはすぐに痛がる癖に、やたら頑丈だからな。

「にしてもなあ、伊柄獅よ。俺たちは思考を停止し過ぎじゃないか?」

 何度か秋の態度について話し合うきっかけがあったのに、それをみすみす逃している。

 席を離れている今のうちに、なにか対策を考えるべきなのではないだろうか。

「そうかもしれませんね。そう言えば、サミーさんはフィニッシュについてどうなさるつもりですか? やっぱり空中殺法がかっこいいですよね。フィニッシュにはスピードと華がないと。

バランス感覚と跳躍力、特に背筋を鍛えるといいでしょうね」

 ダメだこいつ。

 脳みそ後楽園ホールだ。

「話聞いてた? ま、いっか。空中殺法は基礎を鍛えて、レスラーの体になってからだね。いちおう、バク宙なんかは時々やってるけど」

「おー。パワー系の技もできるオールラウンドが理想ですよね」

 俺と秋の問題だ。

 なにより、伊柄獅は使い物にならない。

 すぐ脱線してプロレスの話しかしないから。



 逆立ちをしながら考える。

 頭に血が上れば働き出すかもしれないし、逆転の発想が生まれるかもしれない。

 頭と指先でバランスを取り、この状態のまま腕立てをする。

 うん、やはり負荷のかかるトレーニングはいい。

 乳酸がたまってきたので足を下ろす。筋肉が歓喜している。

 はて、俺はなにを考えていたのだったか?

 玄関にはいつからいたのか、秋がじっとりとした目で俺を見ていた。

「廊下でなにやってんの?」

「考え事」

 そうだ、秋のことだった。

 手の埃を払い、最近すっかり顔が焼き付いてきた幼馴染を見る。

 水色と白のふわっとした服に、暖色のポンチョを肩から羽織っている。

「どいてくれないと動けないんだけど」

「姉さんなら出かけているよ?」

「そうなの?」

「うん……預かり保育の児童のために、ボランティアに……」

「素晴らしいことなのに、なんでそんな悲嘆に暮れた顔なの」

 男子児童と姉さんの将来が心配だ。

 やっていることは褒められるべきことだし、姉さんも悪いことなんてしないのに、心のどこかが警鐘を鳴らしている。下心なんてないと信じているけれど……。いや、せめて一線だけは越えてしまわないよう、切に願った。面会時間だけしか会えないのは家族として心苦しい。

「上がってくか? 母さんも公営ジムでエアロビやってて、俺しかいないけど」

 引き返そうとする秋を誘う。

 姉さんの出した条件だとか、そんなのは関係なく、久しぶりにゆっくり話したい気分だった。

 今日は暇だし、することと言えば筋トレくらいしかない。

 それに、あんなものを見てしまったら、黙ってはいられない。

「お昼は?」

「ササミでも茹でて食おうかなと思ってる。食ってくか?」

「いらない」

 ゆっくり時間をかけてブーツを脱ぐと、妙にそわそわしながら俺の前に立った。

 またブーツを履くのが面倒だから、女性は一所に長居するのではないだろうか。

「姉さんにはなんの用だったんだ?」

「別に。一緒に買い物でも行こうかと思ってただけ」

「だから余所行きの服装なんだな」

「…………バカ」

 罵られながらリビングに案内する。

 勝手知ったる我が家でも、どこに座ったらいいかわらないみたいに視線を泳がせている。

 テレビをつけ、畏まって正座する秋にお茶を出す。

「前ってさ、どんな話してたんだろうな? 四年たったらすっかり忘れちまった」

「どうでもいいこと、だからでしょ」

「そんなことはない。噴水騒動とか教室掃除事件とか、バーベキューだとか、そういうことははっきり覚えてるんだよ。ただ、普段、なにを話していたのかってあんまり覚えてなくてな。テレビのことだったりしたんだろうけど、それだけじゃ毎日はもたないもんな」

 家はもっと大きいと思っていたし、坂は長く、世界は広く感じた。

 今では隣町なんてなんでもないのに、自転車で移動しただけで大冒険。

 毎日が小さな小さな新しい発見で溢れていたのかもしれない。

 つまらないことでも笑っていたはずだ。

 俺も、秋も。

「漫画とか、ドラマとか、アニメとか、ゲームとか、おもちゃとか」

「だよね。今はさ、みんなそれなりに大きくなって、それぞれがいろんな趣味を持つようになった。昔はみんな知ってることなんてだいたい一緒で、見ている番組も一緒だったような気がする。どんどんとさ、みんな自分の好きなこと見つけて、散り散りになっちゃうんだろうな」

 今はネットでのコミュニティーが幅を利かせている。

 趣味の合う者同士で集まったり、情報交換をしたり。

 昔ながらの友人関係やご近所関係は希薄になる一方だろう。

 それが悪いことだとは思わない。ただちょっと、寂しいとも思う。

「秋は今、なにが話したい?」

「なにも」

「俺とは話したくないか」

 姉さんは知っていた。

 知っているから、知られているから、秋も心を許していたのか。

 それとも、心を許しているから教えたのか。

 どちらだろう。

 俺は今、踏み込んでしまっていいのだろうか。


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 我が家にはデスクトップパソコンがない。

 あるのは姉さんのノートパソコンだけだ。

 朝も早くからボランティアに出かけると言うので、そのパソコンを借りた。

 目的はプロレス団体の入団テストや養成所について調べるため。

「エロ目的だったらあなたを殺してお姉ちゃんは生きるわ」

 という一方的な殺人をほのめかされたので、自重しておく。

 ブラウザの使い勝手がわからず、ブックマークリストを開いてしまった。

 …………おぞましかった。

 姉さんには綺麗なままの、穢れなきままの心でいてほしかった。

 整理されたリストに並ぶ「男児」や「ショタ」の文字。

 めまいを覚えて閉じようとしたところで、一つ異質なものがあることに気付いた。

 ブログだ。

 姉さんがやっているのかとも思ったが、ブログタイトルがどうも似合わない。

 ちょっとした興味本位。

 俺の知らない姉さんの趣味が見えてくるのではないかと思い、そのページを開いた。


『タイトル:今日の失敗[十七]  カテゴリ:日常』

 今日もダメダメだった。

 勇気を振り絞ってみても、先を越されてしまう。

 焦っているのに、動きだせない。

 冷たく当たってしまう。

 せっかく一緒にお弁当を食べたのに、気の利く言葉すら出せなかった。

 夢なんて忘れたはずなのに、ちょっとした話題で胸が苦しくなった。

 逃げだした。

 明日はがんばれるといいな。


 特に劇的な日常を語ったわけでも、面白い語り口でもない。

 手帳につける日記みたいな自分にしかわからないブログ。

 姉さんがこんなものを見て喜ぶのだろうか。

 カウンターはあまり回っていないみたいだが、コメント欄には必ず二件のコメントがある。

 一つはブログ管理者の返信、もう一つはMAIという人による励ましの言葉。

 これは姉さんだろう。

 ということは、これは姉さんの知っている人物のブログである可能性が高い。

 そこでピンときた。

 秋のブログなのではないか、と。


『タイトル:今日の失敗[十二]  カテゴリ:日常』

 今日ほど自分を恥じたことはない。

 自分勝手に拗ねて、勘違いしていることに気付かなかった。

 わたしはきっと、世界一の愚かものだ。

『コメント:MAI』

 私は以前コメントした言葉を引用して、あなたに送ろうと思います。

 諦めることは誰にでもできる。諦めないこと、それはあなたにしかできない。

『コメント:管理人』

 今日はありがとうございました。

 まだ結論は出せそうにありませんが、もう少し考えてみようと思います。


 さかのぼっていくと、確かに秋が書いているものだとわかる。

 具体的な名前は一切出てこないから、当事者でなければなんのことを言っているのかわからない文章だ。

 その日の――俺が秋の部屋に無理矢理上がり込んだ日のブログ。

 そこには、MAIに対しての感謝が告げられていた。

 間違いないだろう。

 俺に対して勘違いをしていたことを、後悔してくれているのだ。

 冷たく当たってしまうことにも、反省をしている。

 これ以上はプライバシーに触れるから見ないでおこうと決めたとき、姉さんのコメントが頭に引っ掛かった。あの文面では、以前にも秋がなにかを諦めそうになって、励ましたということになっている。

 いったい秋はなにを諦めてしまったのだろう。

 秘め事を覗き見するような悪い趣味。

 重々承知している。履歴を見られて姉さんに怒られることも受け入れる。消したら言い訳をしているみたいだから。

 俺はやっぱり、秋のことが知りたい。幼い秋がどんなことを経験して、どうして今のようなことになってしまったのか。なにがあったのか。卑怯者だと罵られようが、この先理解できずに段々と遠ざかって、本当に友達でなくなってしまうようなことがあるよりはいい。

 記事を流し見し、更新感覚が一年も空いている期間を見つけた。

 ブログ再開の記事の一つ前、そこにはこんな文章が書かれていた。


『タイトル:ドキドキが止まらない  カテゴリ:日常』

 今日、良くしてもらっている友達に誘いを受けた。

 彼女の手には都内で行われるライブのチケットが握られていた。

 そういう場に行ったことなんてなかったから、すごく緊張した。

 地下鉄を降りて駅からすぐの場所。

 開始前から妙な熱気のこもった会場。

 最初は耳が痛かった。スピーカーも近かったし、あんな大きな音、初めてだったから。

 青赤黄色緑、強い光がステージ上の女性を照らす。

 幾重にもなるライト。真っ赤なドレス。

 臓器に響くベース、心臓を叩くドラム、頭に刺さるキーボード。

 血を沸かせるギター、そして、心をギュッとつかんで振り回す、彼女の声。

 跳ねる、揺する、踊る。みんな彼女たちの信者だ。

 わたしはいつの間にか右手を上げていた。

 体を揺すって、声を上げていた。

 わたしと背丈も変わらないくらいの彼女に、魅了されていた。

 息つく間もないほど楽しい時間はあっという間に過ぎ、ちょっとしたトークが挟まった。

 そのときに、これがバンドの最後の演奏だと知った。

 休止期間に入るらしい。

 周囲から緊張感が伝わって来たのは、きっとそのせいだった。

 アンコールの拍手が鳴りやまず、泣いている人もいっぱいいた。

 二度のアンコールに応えた彼女たちは、最後にカーテンコールをした。

 感情移入して、わたしも泣いた。帰りの電車でも泣いていた。

 夢みたいな時間。現実離れしていて、さっきまで自分があそこにいたなんて信じられない。

 汗びっしょりのTシャツを洗濯機に入れて、思った。

 わたしも、あの場所に立ちたい。


 それ以降の記事はどうやら削除されているみたいだった。

 なにがあったのかは結局わからないまま。

 でも、きっとこの記事は消せなかったんだ。

 なかったことにはできないんだ。

 秋の夢が生まれた瞬間だったから。


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 秋は顔を背けている。

 でも、知っている。

 本当はもっとちゃんと友達として、普通に話したいってことを。

 それはまあ、俺から手を差し出してもいいし、放っておいたって、秋ならちゃんと言いだしてくれるんじゃないかと思う。きっかけさえあれば、すぐに。

「そんなこと、言わない……ほうがいい」

 俺とは話したくないか、というちょっとズルい一言に対する秋の答え。

 わかってはいたけれども、秋は相手を傷つけるようなことをしない。

 少なくとも、したくはない。

 いつの間にか不器用な性格になってしまって、上手く伝えられないだけだ。

「なあ、なんでもいいから話そうよ。俺も四年間ため込んでいたことがあるし、秋にだってネタの一つくらいはあるんじゃない?」

 秋は頷かなかった。でも、拒否もしなかった。

 黙ってお茶に口をつける。

 オーケーってことだと、都合よく解釈することにした。

「メキシコってなんかいい加減な国でさ、刑務所出て就職先がないような人が警察官になったりするから、ポリスがめっちゃ怖いしやる気ないのね。近所のおっちゃんのほうが頼りになるんだよ。そしたら突然、うちの親父が『俺を今日から親父と呼べ』なんて言うのね。父さんって呼んでると弱そうだから、って理由らしいんだけど、日本語じゃどのみち伝わらないからね。でも、威厳がほしかったらしい」

 日本とは違うことを中心に、話の流れに従わず、話したいままに話した。

 思い出そうと思わなくてもすらすらと言葉が続く。

 秋はほとんど飲んでいないのに、カップに何度も口をつけていた。

 一言もしゃべらないけれど、一言も聞き洩らしていないように感じた。

 掛け時計が昼の一時を知らせたとき、話題が止んだ。

 頭の中が真っさらになった途端、腹の中にもなにもないことに気付く。

「腹減ったな。なにか作るか? ほとんど煮るか焼くしかできないけど」

「……いらない」

「昼飯食ってないんだろ? じゃあ、なにか食いに行く?」

「……行く。待ってるから早くして」

 俺の提案にちょっと驚いたみたいに目をぱちぱちさせ、控えめに返事をした。

「は? うん、じゃあ、行こうぜ」

「その格好でいくの?」

「なんでもよくね」

「よくない。着替えてきて」

 ジャージ姿の男と外に出るのは嫌ならしい。

 高いところに連れて行かれるんじゃないだろうな。

 懸念を抱きつつも、適当なものを着て外に出た。秋と出かけるのは久しぶりだ。

「なに食う? タコス?」

「そんなもの、売ってるところのが少ないから」

「知っての通り、俺、うまいもの知らないぞ」

「ファストフードでいいよ」

「そんな投げやりな」

 俺を試す一言なのかと思ったが、本当にファストフードを食べた。

 町中に行く途中にある、ハンバーガー店。

 ジャンクな味は嫌いではないが、望んだ秋自信があまりおいしそうに食べていない。

 モソモソと口を動かし、水で流しこみながら、ほとんどスマホでメールをしていた。

 笑顔の店員に見送られて外に出ると、まだ入店してから十分しか経っていないと知った。

 待たせるのも悪いから高速で食ってしまったし、会話もなかった。

 本当にただ空腹を満たすための食事だった。

「……ちょっと付き合って」

 満たされない感情を覚えていると、秋は強がったみたいな口調で言った。

 今日は一日秋の言われたとおりにすると決めていたから、すぐに隣に並ぶ。

 行き先も告げない秋は、自分の歩調で道を行く。

 付いた先はモバイルショップだった。

 店に入る前に、秋はスマホを手に取り、メールを確認すると、俺に突き出してきた。

 電話をかけているみたいだった。

「出て」

「誰?」

 わけもわからないまま耳を当てると、聞きなれた人の声がした。

『もしもしー、秋ちゃん?』

「母さん?」

『秋ちゃんが息子みたいな声になってる。なにこれ? 詐欺?』

 いたずらに辟易して非難の目を向けると、秋は平然とした顔をしている。

「携帯、買お? ……おばさんを説得して」

「お、おう……」

 甘えたような言葉に、俺はどぎまぎしてしまった。昔の秋ならぴったりだったその口調も、今の風貌からでは甘い誘惑に感じる。こんな顔が、こんな話し方が、こんな態度ができるのなら、ずっとそうしていてほしい。

 あれば便利だとは思っていたし、母さんも持たせようとしていたから問題はなかった。

 話は簡単に進み、モバイルショップの前にいることを言うと、来てくれることになった。

「おばさん、来てくれるって?」

「すぐ近くだからな」

 母さんが来る前に機種を決めておき、合流してから契約をした。

 すさまじく手際のいい運びだった。

 母さんに対しての秋は礼儀正しく、運動後のお茶会を抜け出して駆けつけてくれたことに何度も感謝をしていた。買ってもらった俺よりも、秋に感謝されている母さんのほうが断然嬉しそうで、満面の笑みをぶら下げて来た道を引き返して行った。

 コンビニの前で設定に四苦八苦していると、スマホをすっと抜かれた。

 秋は慣れた手つきでいじくりまわし、少しすると俺に突き出した。

 渡されたそれは、通話中になっていた。

「もしもし?」

 秋の声がすぐ隣と耳元から聞こえる。

 いつもより刺のとれた、ちょっとだけ柔らかい声だ。

「おう、秋か?」

「うん、わたし。久しぶりだね」

「そうだな。四年ぶりか」

「長かったね」

「長かったな。変わりはない?」

「ちょっとだけ。でも、元気だよ。浅海は?」

「俺も元気だ。同じく、ちょっとだけ変わった」

「そっか、早く会いたいね」

 電波を介して、心が近づいていく。

 失った時間を埋め合わせるように。

 秋の声がだんだんと優しくなる。

 朝日に照らされ、雪が解けていくように。

「今から帰るよ」

「うん。待ってる」

 あの日できなかった会話だ。

 こんなことなら、空港を出て最寄りの店で買えばよかった。

 電話を切ると、秋に向かい合う。

「ただいま」

「……は? なに言ってんの? バカみたい」

「えぇぇ……」

 見事に裏切られた俺は、電話の向こう側にいた少女が誰だったのか不安になった。

 ツンツンして先を行く秋。

 でも俺はちゃんと見ていた。

 小さくガッツポーズをする秋の姿を。



「っと言うわけで、晴れてスマホをゲットしました! はいはい押さないでー。俺のアドレスは逃げたりしないから。おい、押すなって、ははは」

 俺の連絡先を知りたくて仕方がない架空の友人たちに話しかける。

 列を作って並ばせる。

 女の子を優先する。

 整理券を配る。

 遅れたお詫びにスナップ写真をプレゼント。

 ASAMIコールが起こる。

 胴上げされる。

 全部虚構だ。

「一人でなにやってんだぁ? ついに頭がおかしくなっちまったのか?」

「だって誰も聞いてこないんだもの! 頭もおかしくなるよ!」

 なぜ、俺が朝からスマホをちらつかせているのに誰もそれに気付かない。

 できもしないゲームをやっているふりしているのに、気にも留めてくれない。

「いやいやぁ。そんな地味なアピールしてても気付かにゃぁよ。ま、なんだ? かわいそうだから、ボクのを登録してあげても、いいっていうか? まぁ、好きにすればいいんじゃ――」

「なんだその『にゃぁよ』っての。前々から思ってたけど、気持ち悪いからやめろよ。サブイボができるって、もっぱらの不評だぞ」

「今更言うなよぉぉぉ! もっと早く言ってくれよ、気づいてたんならさぁ! みゅぅぅぅ」

 巳羽は号泣しながら廊下に飛び出した。

 強く育ってくれ。

「なんだ浅海、ついに買ったのか」

「うん、土曜にね」

「そうか。俺のを登録しておいてくれ」

 熱人とアドレス交換すると、それに気付いた人が続いてくれた。

 伊柄獅とも交換し、SNSでプロレス情報を得るならどうたらと、かなりテクニカルで初心者には理解できない単語を羅列してくれた。あの域に達するにはあと数年かかるだろう。

「へいへーい、あさみー!」

 元気に復活した巳羽が軽快な足取りで戻ってきた。

 打たれ強さに磨きがかかってきたな、こいつ。

「なんだ?」

「馬阿の妹に似たエロ画像見つけたぜぇ。送ってやるからよ、メアド教えろ――ぎゃぁぁぁぁ」

 巳羽の前髪の先数ミリを振り下ろされた金属バット。

 それは見事にスマホを真っ二つにした。

 熱人は記憶領域が粉々に砕けたことを確認し、それを巳羽の手の中に戻した。

「弁償はする。だが、謝罪はしない」

「こ、こここ、こちらこそすびばべんべヴぃだぁ」

「俺にも姉がいるし、熱人の気持ちもわからないでもないが、ちょっとやりすぎだろ。クラスの人だけじゃないんだしさ、連絡付かなかったら大変だよ」

「大丈夫、家族のアドレスしかねーから。けっけっけけけけけけ」

 粉々の電子機器を見ながら、おかしく感じてきてしまった巳羽が壊れたように笑う。

 おかしくなってしまった、の方が正しいだろうか。

「それ、大丈夫じゃないだろ。……俺が素直に最初から交換してやればよかったな。ごめんな。新しいの買ったら、すぐに交換してやるから、泣くな」

「ふぉっふぉっふぉ、そんなにボクのアドレスが知りたいのかー?」

「立ち直りはやいなー」

 今日も我がクラスは平常運航。

 秋もちょっとデレてくれたのに、すぐにまた元通り。興味なさそうにこちらを見ている。

 巳羽はかつてスマホだったゴミをポケットにジャラジャラ入れると、腕を掴んで顔を寄せてくる。本当に立ち直ってしまっているのだからすごい。散歩歩いたら忘れるだけかもしれないけど。

「照れるなってー。ボクのが聞きたかったんだろぅ」

「近づきすぎ。馴れ馴れしい」

 そこに割って入ったのは秋だった。

 堂々とした態度で、見下すように巳羽を見る。

 巳羽も負けてはいない。

「んだよこらぁ、文句あんのかぁ? こいつはな、ボクのアドレスをほしがってんだぞ?」

「浅海が最初に、家族よりも先に登録したのは誰だか知ってる?」

「そんなの迷惑メールのユミちゃんに決まってんだろーが!」

 俺のことなんだと思ってんだこいつ。

 鼻息荒く豪語するようなことじゃないだろ。

「わたしよ」

「な……なんだ、と……。浅海の初めてを奪った、とでもいうのか……くっ」

「おいしくいただいてやったわ」

「なーんて、騙されるとでも思ったか? お前みたいなクッソ美人に、浅海がアドレス交換なんてするわけねーだろ! 浅海はな、泣く子も黙るブス専、ブス専のなかのブス専、大ブス専なんだよぉぉぉ!」

「バカな……」

「バカな……じゃねーよ。バカはお前らだよ」

 巳羽のバカが秋にまで感染してしまった。

 そして俺にはブス専のレッテルが貼られてしまった。

 自分のことをかわいいと思っている女子は、俺と付き合いたくないだろう。

 実はブスだと思われるから。

「とにかく、ベタベタしないで」

「はっはーん、さてはお前、この右腕がほしいんだな? ほしいならくれてやるよ。ほら、浅海、いつものウエスタンラリアットをやってやれ」

「女の子にそんなのできるわけないだろ」

「ボクは! ボクの性別を言ってみろ!」

「はいはい、もう席につけ。言うこと聞かない巳羽がいたらチョークかけるからな」

「ボク限定じゃん! なんでいつもボク限定なんだよ! 御当地ストラップかよ!」

 なんでクラスメイトとアドレス交換するだけで、こんなに騒がれないといけないのだ。

 スマホがぶっ壊されるところなんて、海外でも見ねえよ。

 どんなクラスだよ。授業に切り替えが遅れるよ。落ち着きがないとかの次元じゃねえよ。

 こんなクラスをまとめられる担任に尊敬の念すら感じてきた。

 トイレに向かうと、秋からメールが届いた。

『浅海って、ブス専なの?』

 間に受けるな!



 直接的口撃とメールの殴打により、授業間の休み時間はノックアウト寸前だった。

 秋はことあるごとに突っかかり、文句をつけてくる。

 急にどうしてしまったのか。

 関係改善はしたと思うのだが、なにを考えているのか分らないから始末に負えない。

 放課後のトレーニングにも、秋は当然のごとく付いてきた。

 一定の距離を取り、スマホの電池を気にしている。

 あれが切れれば終わりだと思っていたのに、携帯式の充電器を持ってきていた。

 スマホが振動すれば、相手が誰かわかっていても反応してしまうのが人間の性。

 筋トレ中に、『喉渇かない?』なんてメールを受けてもどうすればいい?

「ちょっと話付けてくる」

 プロレス偉人伝と発生学の入門書を交互に読みふける伊柄獅に、断りを入れる。

 このままではトレーニングに集中できない。

「ついに、碧木さんと決着を付けに行くんですね」

 眼鏡をくいっと上げ、伊柄獅は神妙な口調をつくる。

「今の呑気な空気感から、そんなふうに読み取れた?」

「違うんですか? てっきり、碧木さんを説得するのかと。彼女の夢について訊くのかと」

「なんでそうなるんだ。メールについて注意してくるだけだ」

「最近の碧木さんは人間らしくなったと好評だそうです。男子の人気もこれまで以上に沸騰しています。こんなに良い汁が出てる相手、放っておいていいんですか? 戦うなら今でしょ!」

「なに言ってんだお前。たまにでいいから、自分の話したことを文章に起こしてみると良いぞ。いかに自分が常軌を逸しているかわかるから」

 首をかしげる伊柄獅。

 人の苦悩懊悩なんて、わからないみたいだ。

 これだけ能天気なのに、プロレスのことだけ周囲に隠すなんておかしい。

 周囲にばれているのを気付いていないのも、本人だけだし。

「もうちょっと時間をかけて、秋が話したくなったらでいいよ」

「夢は待ってくれませんよ?」

 向かおうとした俺の背中に、純粋無垢な言葉が突き刺さった。

 時間でも人でもなく、夢が待ってくれない。

 夢に置いてかれてしまう。

 なにも知らずに、なにも考えずに、そんなことが言える伊柄獅は、ある意味無敵だ。

 プロレスラーは○○だ、の一言で片づけてしまうから、誰にも止められない。

 止まるつもりもない。

 一直線。

 俺も、そうでありたい。

 そして、秋にも夢がある。

 それはステージの上に立って歌うこと。

 俺は直接聞いていない、秋の夢。ブログが消されていないのなら、今も夢であるはず。

 それとも、もう、捨ててしまったのだろうか?

 いや、だったら、あんなに激昂しないはずだ。

 秋は顔をあげ、冷めた目で俺を見る。

「ずいぶんと仲が良さそうだ」

「あいつとは同志だからな」

 俺のことに、秋は表情を隠すことなくムッとした。

 たぶんこれから、もっと歪ませてしまうことになるのだろう。

 そうなってからでは俺の言葉は届かないだろうから、先手を打つ。

「先に謝っておくな。ごめん」

「なに? いきなり」

「姉さんのパソコンを借りてな、ブログを見た」

「…………え?」

 予想だにしないことに、秋はポカンと口を開けた。

 反撃も怒りもなしに、瞬きを二つ。顔がカーッと赤くなる。

「バンドがやりたいんだね? 秋は」

 目に強い意志が宿った瞬間、前傾姿勢で駆けだした。

 逃げだそうとする手を掴む。運動で俺にかなうわけがない。まして俺は荷が好きもないし、ここで決着をつけようと本気になっている。

「なんで、諦めてるの?」

「しらない」

 手を振りほどこうとするが、残念。

 レスラー目指してる人間の握力をなめるな。

「どうしてそんな顔をしてるの?」

「しらないッ!」

 姉さんは知っていた。

 だから、俺に任せたんだ。

 無理にでも秋と接触を持たせた。

 最初に秋の部屋に行ったとき、どうだったかを聞いた。

 CDもギターもポスターも片づけられた部屋。そこは夢の跡地みたいだった。

 なにもなく無機質に感じたのは、きっとそんな理由だ。

「なんで、諦めちゃったの?」

 胸をポコポコ弱い力で叩く秋。

 徐々に周期が長くなるそれを受け止め、観念するまで、俺は問い続けた。

 やがて、秋は重い口を開いた。

「わたしは一人っ子だから……」

「そんなの気にしなければいい。俺たちまだ高校生だぜ?」

「バイト生活になる。お金にならないし」

「俺だって当面はそうなるだろう。やってみようよ」

 うわべだけの言い訳を続け、目をそらし続けた。

 空っぽな言葉が空回りをしていた。

 秋の本心がどこにあるのか確かめるまで、手を握ったまま、問い続けた。

 腕から力が抜け、顔を伏せる。

 下唇をぐっと噛んで、絞り出すように、ぽつりぽつりとこぼし始める。

「お母さんが倒れたら? お父さんが事故に遭ったら? そんなとき急に働いて、介護して、できるわけない。傍にいて気付けなかったことを……音楽をしていたことを悔やむと思う。だったら、最初から夢なんて見ない方がいいでしょ?」

「なんでそんなこと?」

「…………お母さん、去年倒れたんだ。わたしが遊んでいる間に」

 これから年を取っていく両親は、不意の病気になるかもしれない。

 それは誰にだって言えること。

 おばさんは元気そうだったから、きっと大したことではなかったはずだ。

 秋は重く受け止めてしまう。自分を責めたのだろう。優しいから。

 だから、今もそのときのことを思い出して、悲しい顔をしている。

 将来の不安もあるだろう。

 俺たちは高校生だから、先がなにも見えない。

 いい大学に入っていい就職先に就いて、親を楽させたい気持ちは、俺にもある。

 親のことを優先するのは、優しい子供だ。

 それが正しい。

 でも、人は時に、ヒールにならねばならない。

 大切なものを表面上突き放して、自分を律しなければならない。

 すっかり気弱になってボロボロと繕っていた体裁が壊れ出した秋に、俺は険しい顔を作ることで拒否し続ける。

「それに、わたしに人としての魅力はないし、こんな生半可な気持ちで、誰も一緒に戦ってくれない。最優先できないから」

「そんなことはない」

「いいんだ、自分が一番わかってるから。そのうち、平凡でありふれた幸せでいい、なんて、言うようになるから。そんないつかに向かってるから」

 秋は小さくつぶやく。

 自分で自分を納得させるみたいに、頷く。

「……うん、大丈夫。なれるから、きっと」

「考えているうちは甘いですよ」

 伊柄獅が眼鏡をはずし、秋の両肩をつかんだ。

 ずっと聞いていたらしい。

 離れた秋の手がダランと垂れ、支えを失ったみたいに揺らぐ。

「夢を持つことって、そんなに悪いことでしょうか? 夢を語ると、みんな冷たい目をします。辛くて退屈で暗い所へ導こうとします。夢って悪いものなんですか? 家族は大切でも、自分の方が大切です。みんな綺麗ごとをいっているだけで、本当は夢が欲しいんです。碧木さんは立派な夢があるんですから、諦めたらダメです」

 胸を張って、語りかける。

 これまで見たどんな伊柄獅よりも力強く、魂のこもった言葉だった。

 それがまぶしくて、秋は目をそらし続ける。

「碧木さんの好きなものを、もっとずっとまだまだいっぱい、好きになってください。本当に好きになったら、なんで好きになったのかも忘れちゃいます。好きであることが自分になります。そしたら、逃げられません」

 正気を取り戻させるみたいに、顔を近づけて言う。

 力いっぱい肩をゆする。

 そして、伊柄獅は秋にビンタをした。

 乾いた音がグラウンドに響く。

 青くなった秋の頬が、白くなり、赤くなる。

「……痛い」

「碧木さん、あなたの立っている場所、わたしにはリングサイドに見えます。悩んでいる暇があったら、一歩踏み出してください。ロープをまたぐまでには大変な苦労が必要です。でも、そこまで来てしまったら、リングしか見えなくなります。上がりたくなります」

 伊柄獅は待っている。

 ビンタし返してくれることを。

 でも、秋の腕が上がることはない。

 そっと指で伊柄獅の手をどけ、ふらふらとおぼつかない足取りで歩きだす。

 これだけ情熱をぶつけたのにもかかわらず、まだ持て余しているように、渾身の力を全身に込める。

「わたしは『天下の伊柄獅』これからはそういうつもりで人生という名のリングに立ちます。周りの目は気にしません。わたしはプロレスが好きです! 似合わないだとか、話しててつまらないだとか、そんなことは言わせておきます。だから、碧木さんも、自分の好きを叫んでください!」

 伊柄獅の言葉は沈みかけた夕日の先に消えた。



 人生に道案内はない。目的地もわからない。

 ただ、標識は多い。

 一方通行しか許されない道で、みんな振り返り、流れの邪魔をしないように走る。

 自由に走ることなんて難しい。

 俺は恵まれている。

 母さんはスピードを出さなくてもいいから、安全運転だけしろと言ってくれる。

 父さんは標識の一部を壊し、他にも道があることを教えてくれる。

 姉さんは間違った道にそれようとしたとき、そっと正してくれる。

 だから、俺は好き勝手できている。

 反対されることは、優しさの裏返しでもある。

 思う存分、ヒールができる。

 それに比べ、自分を縛ってしまう人がいることも確かだ。

 秋は今、自分で作った標識に惑わされ、なにも見えなくなっている。

 冬休みまでの期間、秋は抜け殻のように過ごした。

 休みに入ってからは、ずっと引きこもるように、家から出ない。

「浅海、荷物が届いているわよ」

「荷物?」

 形式外のパックに詰められたのは、文書でも手紙でもなかった。

 布の触感を引っ張り出すと、派手な柄のパンツみたいなものが出てきた。

 広げると、それがなにであるかが理解できた。

 送り主の伊柄獅は、『それ、余ってるんで使ってください』とメールしてきた。

 これも女の子のマストアイテムなのだろう、きっと。

 こんなものが余るなんて現象、一般生活ではまずあり得ないのだが、なんとなく使い道はわかった。使いどころは、俺が探すとしよう。

 笑っていると、姉さんは指先で俺の肩を叩いた。

「これ、チケットが二枚余ってしまったのだけれど」

「二枚余るなんて、普通は起きないでしょ」

「いらないのなら、つよしくんとのデートに使わせてもらうわ。補導されてしまわないよう、願っていてちょうだいね」

「わかった、もらう! いただきます。だから、ショタとデートなんてしないで!」

「なにか言うことは?」

「時は来た。それだけだ」

「…………ッ」

 堪え切れず、姉さんは噴き出した。

「……その、いつもありがとう」

「そう。がんばりなさいよ」

 姉さんは優しく笑うと、髪をなびかせながら上機嫌で部屋に戻った。

 こんな姉に面倒を見てもらっていたら、シスコンになってしまう。

 四年間離れていてよかったのかもしれない。

 ロックバンドのライブチケットを握り、俺は秋の家に向かう。

 おばさんは白髪染めを途中に、迎え入れてくれた。

 なんだか異様な光景だ。

 バランスを崩さないようにゆっくり歩く背中を見ながら、足並みを合わせる。

「ごめんなさいね、こんな恰好で。恥ずかしい」

「いえ、こっちこそいきなり来て」

「いいのよ」

 おばさんは目を二階方向にやり、不自然に笑った。

 聞いておかなければいけないことがある。

「秋から、倒れたことがあるって聞きましたけど、大丈夫なんですか?」

「いやだもう、ただの貧血よ。年なのかしらね」

「そうなんですか?」

「秋ったら大騒ぎして、思いつめちゃったみたい。あれからお風呂掃除とかお買いものとか手伝ってくれるし」

 やっぱり杞憂だった。

 おばさんはケロッとしているし、むしろ秋より健康的な顔色をしている。

 親に倒れられたら俺も気が動転するだろうけど、思いつめすぎているみたいだ。

「秋がそんなこと話すなんて。浅海ちゃんだからね」

「どうなんでしょうね」

「言っても聞かないから、お願いしてもいい?」

「もともと、そうするつもりですから」

「頼もしいわー」

「あの、秋の夢について、どう思ってますか?」

 遠い目をして、おばさんは首筋を触った。

 困っているようにも見えるし、寂しがっているようにも見える。

「毎晩お父さんに怒られるまで弾いてたのに、最近は静かすぎてダメね。指が痛いのも我慢して続けて、ようやくコードが弾けるとか言ってたのが、嘘みたいよ」

「反対とか、しませんよね?」

「もちろんよ。大学にさえ行けば、あとはあの子の人生だから、好きにすればいいのに。秋が食べられなくなったら、浅海ちゃん、お嫁にもらってね」

「勘弁してください」

 反応に困るようなことを平気で言ってくる。仕草も主婦のテンプレートみたいだ。

 おばさんも、すっかりおばさんになってしまったのだな。

 そんなことを思いながら階段を上がり、女の子のマストアイテムを装着する。

 静かにノックをすると、解錠音がした。

 おばさんと勘違いしたのだろう。

 顔を見られる前に、ドアノブを握り、中に入る。

「はあ?」

 秋は俺の顔を見るなり、眉間にしわを寄せた。

 ラフな部屋着を着て、髪も整えていない。

 ややあって、秋は服を隠すように、シーツを巻きつけた。

「バカなの? そんなものかぶって」

 伊柄獅が送ってくれたのは、レスラーの覆面マスク。

 これをかぶると力が二倍、勇気が八倍になるのだそうだ。応用物理学の計算であるため説明することはできない、と伊柄獅は語っていた。嘘つくな。

 力は変わらないが、勇気はいつもよりもらえた気がした。

「バカではない」

「なにしてんの? 浅海」

「私は浅海などという男ではない」

「浅海が男だなんて、一言も言ってないんだけど」

「ぐ……、名前的に男だと思い込んだだけだ。ときに少女よ、困っているのことがあるのではないかい?」

「現在進行形で、通報するか救急車を呼ぶか、困っているかな」

 秋は布団を頭からかぶり、手鏡で髪を直して、また顔を出した。

 服が見えないようにそーっと、スマホを手に取る。

「なんでも相談したまえ。私は君の味方だ。ちなみに、通報はやめておくことだ。うん、絶対」

 じっとりとした目で、秋は俺を睨んでいる。

 獲物を食べている最中の野生動物みたいに、俺から目を離さず、スマホをいじる。

 器用な奴だ。

 そう思っていると、ポケットから震動が伝わってきた。

 表示された名前は秋だった。

 背中を向け、電話に出る。

「もしもし?」

「もしもし」

「どうした?」

「ん? 今なにしてるのかなーって」

「俺か? 俺は……ちょっと立て込んでてな」

「そうなの? 具体的にはなにをしてるの?」

「突貫……工事? とにかく困った事態を力づくでなんとかしようとしてる」

「大変そうだね」

「ああ。かなり手こずりそうだ。アドバイスをくれないか?」

「わたし、工事なんてしたことないから」

「そうか、それじゃ――」

「待って」

「なに?」

「バーカ」

 通話が終了した。

 なんて茶番だ。

「どうかしたの? マスクマンさん」

「いや、なんでもない。さ、好きなだけ私に相談しなさい。なんでも答えてあげよう」

「じゃあ、宇宙は膨張しているらしいけれど、その先はどうなるの?」

「うー、あー、うーん、そうだな。なんかこう……バーンってなる」

「ぷっ」

 秋は噴き出し、口を押さえて笑った。

 こいつ、完全に遊んでやがる。

 ベッドから足を伸ばしぶらぶらさせているのは、上機嫌な時だ。

 不安定な時に来るよりはマシか。

「他にはなにかないかね? あるんじゃないかね? あるに決まっている」

「クラスの転校生がうるさい、とか?」

「それは……その人を取り巻く環境のせいでもあるかもしれない。よーく、誰が騒いでいるのか見極めてあげることが大切だね。それから、転校生も心細いだろうから助けてあげなさい」

「まるで見て来たかのような適切なアドバイスだ。ついでに……その人がわたしにあれこれと口を出すのだけど、どういうつもりなの?」

 試すような瞳が、マスク越しに俺を見つめてくる。

 物欲しげに、首を傾ける。その仕草の一つひとつと、部屋着姿をシーツで体を隠していることが重なって、脈拍数が急上昇し始めた。表情が読み取られない分、マスクを付けていて良かったかもしれない。

「その答えは、君もわかっているんじゃないのかい?」

「つまり……体目当てってことだ」

「なーんでそうなった!」

「あれ? 今、転校生の声が聞こえたような?」

「ん、んん、ん。私にはなにも聞こえなかったが、その転校生とやらは君が心配なのだろうね」

「勝手に心配されても困るんだけど」

「嫌なのかな?」

「嫌じゃないけど……」

「よかったら、詳しく聞かせてくれないかな」

 秋は目を伏せ、前髪の先をいじった。

 爪を限界まで切った指が、ハープを弾くように、髪を泳ぐ。

「夢を諦めるな、って言われたんだ。でも、わたしには技術もないし、人に堂々と話せるような自信もない。家族に迷惑をかけてまで、続けるほどの理由もない。諦めようと思ったときには心がすっからかんになっちゃって、そのときから胸がずっと痛いまま。どうしたら、この痛みがなくなるかな? 教えて、マスクマンさん」

 ふざけている口調だから、声が自然体だった。

 やっと秋の本心が聞けたような気がした。

「君はその夢の先に、どんな自分を見ているんだい?」

「……あの日の赤いドレスの彼女みたいに、キラキラ輝いて、かっこいい自分」

「なら、なれるさ。君にはそれだけの資質がある」

「歌声も、ギターも聞いたことないのに?」

「一番大切な資質は、憧れる力だ」

「憧れ…………。でもね、熱もきっと冷めちゃった。現実が見えたから」

「本当に? 確かめてみようか?」

 俺は姉さんにもらったチケットを渡す。

 秋があこがれたバンドの、活動再開後初公演だ。

 小さなライブハウスから、また彼女たちはスタートする。

 それを見た秋は、チケットを握りしめ、額に押し付けた。

 目をぐっと閉じ、気持ちが溢れて来るのを抑えようとしているみたいに。

「……茉衣さんが言ってた。『自分を押し殺すことも、立派な殺人なのよ』って」

 秋は唇を強く結んだまま、涙を流した。

 シーツに水滴の跡がつく。

 それは秋が押し殺してきた感情。

 溢れだして止まらない、秋自身。

 しばらく俺がいることも忘れて泣いていた秋は、ティッシュで鼻をかみ、真っ赤な目で俺を射竦めた。吹っ切れたように、憂いのない顔だった。

「これ、二枚あるよ? マスクマンさん」

「プレゼントだ。転校生でも、その姉でも、友達でも、好きな人と行きなさい」

「うん、ありがとう」

 俺の仕事は終わったみたいだ。

 着替えるから出ていろ、と言われ、部屋の外に立つ。

 リングアウト。

 やっと一つの戦いが終わった。

 デビューする前に、マスクマンとして夢を後押しするなんて思わなかった。

 あとで伊柄獅にお礼と、プロレスチケットでもあげることにしよう。

 蒸し暑いマスクを脱いで涼んでいると、いきなり扉が開いた。

「こんなところでなにしてんの?」

「ああ、さっき電話してきたから、なにかあったのかと思って」

「ふーん。あ、これ」

「なんだ、これ?」

 しらばっくれて、チケットを受け取る。

 しわくちゃになっているけれど、はじかれたりはしないだろう。

「わたしの大好きな……憧れのバンド。一緒に、行かない?」

「いいの、俺で? 一曲も知らないよ?」

「教えてあげる」

 そう言って、今度は部屋に引きずり込んだ。

 押入れから引っ張り出したギターをチューニングし、秋は笑った。

「その代わり、痛いビンタの仕方を教えて。やり返さないといけないから」

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その夢は諦めてください! 白米定食 @yomekaku

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