時は愛を越えて

ヨルノシジマ

第1話

─── 別れの場面さえ演じなければ別れられる。そう思った。


 ルイは閑散としたホームにたたずんで、電車を待った。この駅には普通電車しか停車しない。急行電車が停まるのは週末、駅のすぐ裏にある遊園地がにぎわうときだけだ。


 駅に着くまでに涙は乾いてしまった。もしかしたら、ナオが追ってきてくれるかも知れないと思った。真新しいスカイラインを走らせ、クラクションを鳴らして、また『もしもし?』とか言って、引きとめに来てくれるかも知れないと思った。


 改札の向こうで車が停まる音がした。ルイは振り向いた。けれど見えたのは、タクシーから降りる客だった。


─── これが現実よ。


 普通電車の到着を知らせるアナウンスが響いた。遠くで汽笛が鳴った。『もしかしたら』と願う気持ちもくたびれた頃に到着した電車はガラ空きだった。乗りこんだ車両にいたのは編み物をしている老婆だけだった。


 ほこりっぽいシートに身を沈めるのと同時に、発車のホイッスルが駅の空気をつんざいた。自動扉が何度かおざなりに開閉したあと、電車は動きだした。


 窓から見えるメリーゴーランドの青い天蓋が、少しずつあとずさりし始めた。それに続いて草色をした古いジェットコースター、小高い丘にある動物園、そして敷地のはずれにある大きな池、それらのもう二度と見ることのない景色が加速する電車のうしろへ、うしろへとちぎれていった。


─── 名無し指。


 太陽の光をさえぎるふりをして、ルイは左手を窓にかざした。薬指と中指の間にはさまった太陽がダイヤモンドのように輝いて、また目が熱くなった。昔は薬指のことを「名無し指」と呼んだ。そのことを知ったのはいつだったろうか。


 同級生たちは結婚ラッシュで、披露宴に招ばれるたびに自分もあの赤い絨毯の上を早く歩きたいと思った。


─── なによりも、一日でも早くナオといっしょに暮らしたいと思った。そしてあの美しい指を、優しい眼差しを、トランペットを磨くときの静かな横顔を、いつまでもそばで見ていたいと思った。二人のイニシャルを刻んだ指輪をはめれば、この指にも名前がつくと思った。



 チクチクと手術の痕が痛みだした。ルイは陽射しにかざしていた手を脇腹に当てた。感情が乱れると傷が痛みだす。電車はひこばえがのぞく田んぼの中を走っている。刈り取られた稲の株から伸びる緑、あれもやがて冬の寒さで枯れてしまう。

うらうらと暖かい陽射しにダマされて、枯れてしまう弱々しい緑がそれでも太陽に向かって伸びている。


 電車が弧を描いて、しつこくつきまとう太陽を振り落とした。電車の揺れに合わせてガタガタと音をたてる窓、その窓から吹きこむ風が船出の紙テープが切れるように匂いを変えた。


─── 看護師になる、と言えばナオも本気になってくれると思った。ナオが追ってこなかったのは当然のことよ、あんなケガさせてしまったんだもの。


 ルイは腹立ちまぎれにナオの首につけてしまった傷を思い出した。一瞬目の前が真っ暗になった。


 正しい現実にもどれば、もうこんな悲しみを味わわなくてすむ。だからこれから、一人で家に帰る。通りすぎる駅と思い出をひとつずつ、指先で消しながら。


─── わたしは一人で生きていきたかった。そう思っていたはずよ。


 泣きやんだはずの眼がまた熱くなってきたとき、『学園前』とアナウンスが流れた。ルイは身体を起こし、高架駅の向こうに広がる景色の中に砂色の校庭とレンガ造りの校舎をさがした。山の斜面いっぱいに広がる振興住宅地のすその方に、その場所はかすんで見えた。


 誰も乗車してこないまま、電車はふたたび発車した。懐かしく、そしてすべてが始まった場所は、ナオに出逢ってから今日までの日々は、飛び去っていった。


─── あのとき、わたしの机から赤鉛筆が落ちさえしなければ……。


 ルイは軽いめまいを感じ、背もたれに身体を預けた。暗闇の中で、これまでが始まったあの日が底光りした。



 赤鉛筆が落ちたのは、高校二年生の数学の授業中だった。 目前に文化祭がせまった秋の日で、教室にはソワソワした雰囲気が満ちていた。ころがった赤鉛筆を拾いあげたのは、隣りの席のナオだった。


『ありがとう』


 そう言って手を伸ばしたのに、ナオはまるで自分の落とし物のように制服の胸ポケットに赤鉛筆を差してしまった。その横顔はごく普通に平然としていて、教室を支配している落ち着かない雰囲気にも、突然ころがってきた赤鉛筆にも、小声で呼びかけた声にも、まったく動じていなかった。


 赤鉛筆は昼休みになっても、掃除の時間がきても、放課後になっても、ナオの胸ポケットに差さったままだった。


 そうして、とうとうやってきた文化祭。ブラスバンド部の発表会のあとで、体育館を出て行きかけたところをナオに呼びとめられた。そしてどこから持ってきたのか、赤いバラの花を一輪くれた。まるで、『この間の赤鉛筆を返すよ』とでも言うように。ふとナオの胸ポケットを見たら、赤鉛筆は姿を消していた。


 電車が山を越え始めた。まるで天にのぼるかのように車両が上昇していく、車両の揺れよりも激しく心が揺れる、引力に逆らう不快感よりももっと心が浮つく、気分が悪くなってしまいそうなくらいに。


─── これでよかった。わたしはナオを傷つけたのだから。さようなら、ナオ。


 遠ざかれば遠ざかるほど、自分のいない景色がはっきりと見えた。


─── あれからナオは店にもどって、仲間に笑って見せたことでしょう、いかにも仕方なさそうなクールな顔をして、なぜケガをしたのか、そんないきさつなんか話す価値もないといったふうに。

 

 高台にある駅に電車が停車した。


 ルイは眼を開いた。山林の薄汚れた葉群れの向こう、涙にかすんだ街の果てに、銀色に光る海があった。

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