粒状、未来形、蒼光。
もう何もかも、書き換えられてしまった。
不必要なまでに酷使した畑は栄養を失くし、二度と生命の母としての役割を担えなくなる。種を蒔いても適切な水分を与えても、土が極限までやせ細ってしまっては芽は出てこない。
この世界もそうなってしまったんだ。
俺たちは、書き換えすぎた。たとえ全知全能の神に等しいことができる身分だとしても、何が書き換えられたか、何が元からあったのか、それすらも分からないこの現状では、世界を元に戻すどころか時間を先に進めることすらもできない。
これ以上の下手な書き換えは、世界をさらに混沌に導くことになる。かといってこのままの世界で生きていくことは絶対にできない。
まさに八方塞がりの世界の中、俺は右手で頭を抱えてその場に蹲った。一部が焼け焦げているボロボロな服の胸ポケットから、緑色カバーの手帳が落ちた。
阿賀チミコさん。すみません。
俺は、あなたに託されたことを、今諦める。
生命の存在や原理、体の内部構造まで書き換えられたカオスの地獄。こんな世界を元に戻すことができないのなら、せめて。
ぐちゃぐちゃに汚してしまった絵の汚れを消せないのなら、新しい紙を用意すればいい。……それと同じだ。
何本ものナイフで刺され、何発もの銃弾で撃たれ、ほとんどボロボロの骨に肉がこびりついているだけになった脚を引きずる。血と死体が溢れたこの大地で、唯一一切の汚れや破損が見られない物体であるノートパソコンに、死に物狂いですがりつく。
この空の上を、地上の惨状などいざ知らず永遠に飛び続けている人工衛星。そいつが、世界をこんなふうにしてしまった。……正しくは、その人工衛星を操作していたあの連中が、だが。
やっと、乗っ取りに成功した……。
今まで不安定な方法で書き換えを行ってきたが、あれの操作権を奪えば、あとはもう簡単だ。
左手はもうない。誰のものかも分からない肉片がこびりついていたのを振り落として、震える指でキーを押す。真っ白だったノートパソコンが、俺の血、敵の血、仲間の血で、少しずつ汚れていく。
入力、完了…………。
【code:99999999 RESET;ALL】
プラシーボ世界論なんてムチャクチャな理論が世界の真理だったのだから、今まで信じていなかった転生論だって、あながち有り得ない話でもないのかもしれない。
それなら、ここでなかったことになる俺の命は、またいつかどこかで新しい命に生まれ変わり、再生するのだろうか。転生なんてシステムがこの世界になかったとしても、俺はそんなことが起きればいいなと願う。
……蓮、ごめんな。最初に出会ったときに、「幽霊なんていない」なんて言って。
お前が言ってた突拍子もない理想やオカルト話は、案外みんな真実だったのかもしれない。そしてお前を、それを2度と確かめることも、楽しそうに話すこともできない体にしてしまって、本当にごめん。
…………巻き込んで、本当にごめん。
ごめん。……ごめん……………………。
転生があるなら、生き返ってまたお前と出会って、謝りたい。
この戦争で身近な人を次々に失い、枯れ果てたはずの涙が、また出てきた。
手で目元を拭ってみると、それは赤かった。……血か。
涙も満足に流せなくなった自分につくづく絶望する。そして、やっぱりこんな世界は終わらせないといけないと、確信を強める。
そして、新しいまっさらな世界で、もう一度………。
「………………………………ごめん」
手を下ろす、というよりは、力を失って落ちるように。
力なく落ちた指先はエンターキーを叩いた。
#
目覚ましアラームがけたたましいサイレン音で室内に鳴り響く。
スマホを叩き、アラームを止める。ホーム画面のカレンダーに表示された日付は、8月7日だった。
もはや鏡を見なくても目の下にクマができていることを認識できる。ふとんを絞め殺すようにギュッと押さえつけて、ゆっくりと上体を起こす。
……もう何日連続だ、こんな悪夢を見るのは。
『お前が殺した?』の文字で視界が真っ赤に染まって終わるこれまでの悪夢とは毛色が違ったが、それでも夢の中で世界が荒廃していたり、何故か俺が偽薬聖会と戦っていたり蓮が死んだようなモノローグがあったり、変に現実とリンクしたものだっただけに、思い出すと数秒遅れで悪寒が走る。
……頭も、昨日に引き続いて痛いし重く感じる。悪化こそしていないようだが、風邪はまだ治っていないらしい。
……参ったな。今日も出かけないといけないってのに……。
眠ったはずなのに昨日よりも重く感じている疲労感に負けて、起こした上体をもう一度寝かせる。さっき目覚まし時計として働いてくれたスマホを開き、メッセージを確認。
サブからの『じゃあ明日の11時にそのビルに集合な!』という発言に対して、俺が『オッケー!』のスタンプを送って既読がついたところで会話は終わっている。
結局、俺が根気強く頼み込んだこともあって、栄さんは記憶復元装置の研究に協力してくれると言ってくれた。数時間のチャットでの説得の末に折れてくれたのが嬉しすぎて、スクショ撮ったくらいである。
外部の人が高専で生徒と一緒に研究を行うには何やら4枚か5枚の書類が必要な、面倒な手続きを踏まなければならないようなので、集合場所はいつも使っているあの廃ビルに決めた。
当然サブは廃ビルの場所なんか知らないだろうし、地図のだいたいこのへんだ、と地図アプリのスクショと以前撮っておいた外観写真を送っただけなので、無事にたどり着けるか不安だけど……。
……ていうか、栄さんに失礼しないか不安だけど。
まぁ、君野先生にも普通に接してたし、心配ないとは思うんだが……なにぶんアイツは守備範囲が広い(ていうかぶっちゃけ、アイツは顔とスタイルさえよければ何歳でもイケるんだと思う)し、栄さんはなかなかの美人だし。ナンパとか変な気を起こされて栄さんが怒って帰りでもしたら、目も当てられないからな。
それに…………。
「…………………………」
机の上の手帳を見ると、自然と眉間にシワが寄るのが分かった。
あの手帳に書かれていた内容によると、偽薬聖会という科学者のグループが記憶改変装置を使って世界の書き換えを行っている……らしい。
彼らはプラシーボ世界論を信じている。世界は人々の『認識』によって作られているのだ、Aという事象は人々がAを認識しているから存在できているのだ、私という人間は人々が私を認識しているおかげで世界に存在できているのだ、そう本気で信じている。
信じているからこそ、『記憶』を改変することによって『認識』を改変し、果てには『世界』をも改変しようと企んでいるのだ。
つまり……俺たちが今から作ろうとしている『記憶復元装置』は、偽薬機関の野望のファクターとなり得る、彼らにとって大きい影響力を持った装置だということになる。
これを開発するかどうかによって、世界の運命が……。
「……厨二乙、そんなセカイ系今さら流行らねーよ」
考えすぎだ考えすぎだ、考えすぎだって。
なんでこんなトンチキなおとぎ話を真に受けて悩んでるんだよ、俺……。自分の意志とは関係なく沸々と湧き出てくる不安、焦りのような言いようのない悪い感情を、必死に押さえつける。
――じゃあ、グリコの看板がいつの間にか『なかったこと』にされていたのは、どう説明するんだ?
昨日、俺はグリコの看板について何か知っていないか、親やサジ、双子葉ちゃんの住人にも聞いてみた。
結果は全滅。
あの巨大看板は最初からワシミグループのものだっただろ。誰もが口を揃えてそう言い、アイドルが『道頓堀に行ってきた♪』というタイトルで書いたブログ記事には、ちょっと前はグリコ看板の前でグリコポーズをするアイドルの写真があったはずなのに、それは全く別……ワシミグループの看板の前で、ワシミグループのキャラクターのポーズを真似る写真になっていた。
過去から現在まで、全ての『認識』が変えられている。
……いや、おかしいのは俺の方なのか………………?
「……またアタマが痛くなるな。2度寝しよう……」
思考停止と蔑まれようが、もうこれ以上考えたくない。こんなよく分からない、夢か現実かの判別もつかないような白昼夢な代物を受け入れろという方が無理な話だ。
幸い、今日はアラームを必要以上に早くセットしてしまったので、まだ時間には余裕が有る。
台所で茶を飲んで、もう一度アラームをセットし直して、今度こそ悪夢を見ないようにと祈りながらベッドに倒れ込んだ。
#
想定していた電車から1本遅れたものの、待ち合わせ時間の5分前には廃ビル前まで来ることができた。
オタクの街と電気街の境目とでも形容するべき立地。廃ビル前付近ですれ違う人々の多くはアニメショップなどの袋をぶら下げていて、電気街の方へと消えていく。
夏休み期間としては少ない人口密度だが、それでも暑い日にはちょっとウンザリするぐらいの人通りの中で、見知ったチャラい金髪頭が迷いなくこちらに歩いてくるのが見えた。
「よう。よく迷わずに来れたな」
「迷わず……あぁ。地図見りゃ楽勝だ」
なんだろう? なんか今、変な間があったような気がするが。
いや、コイツが変なのはいつものことだ。どうも最近、異変とか違和感に対して異常に敏感になってしまっているようだ、細かいことは気にしないでおこう。
とにかく、栄さんはもう来ているのかもしれない。こんなところで野郎とくっちゃべって無駄に待たせる必要はない。
外付けの階段を登って、いつもどおり2階へ。サブがついてこなかったので、こっちだぞ、と促すと慌ててついてきた。
「電子レンジ……というか、レールガンか。持ってきたか?」
「実験で使ったやつと同じ型番、同じブルーライト配置の、新しいモノ持ってきた。そもそも実験で使った方は急ごしらえもいいとこだったし、こっちのが正式版って言えると思う」
「テストは?」
「電流値、電圧値の平均を取ったら、前のやつとの誤差はどっちも0.02ミリ程度だった。無差別に人をプチ記憶喪失にさせるわけにもいかないから、人体実験はしてないってのが唯一の懸念事項かな」
「記憶復元装置を作るために新しい記憶喪失者出してちゃ、何のためにやってんのか分からないからな……電圧電流が同じなら問題ないだろ」
コインからビリビリと電気が放出され、青い光と共にビームが放たれる。
オタクなら誰でも一度は見たことがあるだろう、某カエル好き中学生の放つコインレールガン。それを電子レンジで作ろうとして、俺たちは失敗した。
高専で合体事故的に生み出された特殊ブルーライトを通常のマイクロウェーブの代わりに使った結果、発生する誘導電流の性質も変わり、電気を受けた者は何らかの記憶を失う、という、とんでもない装置ができてしまったのだ。
……まぁ、あのあと色々と調べたところ、青い稲妻などの見た目こそレールガンではあるものの、あの電子レンジは仕組みの面で言えば、ゼンゼン全くレールガンとは言えないということが分かったのだが。
本来のレールガンの定義としては、文字通りレールのように連結された2本の平行な電気伝導体の間に弾丸を挟んで電流を流すことで、フレミングの左手の法則により、狙った方向に弾丸が弾き出される……みたいなモノだったはずだ、たぶん。あとローレンツ力とか耐熱限界とか色々な要素があるようだったが、なにぶんこの頃寝不足だったもので、せっかく調べたのにどうもよく覚えていない。
ようするに、本来の意味でのレールガンはそんな多くの要素から成り立っているものであり、俺たちがレールガンと呼んでいた『10円玉をレンジでチンして放電を起こさせる』というバカらしいほどに単純明快な代物は、とてもレールガンとは呼べないということだ。
「とりあえず仮名として、あの装置は『ABLR』……オール・ブルー・ライト・リメンバー……と呼ぶことにしようではないか」
「なんだその隠しコマンドみたいな名称……却下で」
「じゃあ『ブルーライト記憶装置』、略して『BL装置』ってのでどうだ?」
「略称がもう嫌だよ! 制作メンバーに腐女子いないからな! 誰も得しないからなその名前!」
「ぶぇー、すぐ却下しやがる」
こっちが『ぶぇー』だよ……。
2階の扉を開けると、果たしてそこには栄さんの姿があった。テーブルのいつもの位置で、コーヒー片手に何やら資料らしきものを読んでいる。さっき来たばかりではないということを、部屋全体に効いたエアコンの涼やかさが教えてくれた。
こちらに気付くと、おはよう、とにこやかに手を振ってくれた。
サブは俺の前に進み出て、栄さんに向かってバカ丁寧すぎるほどに深々とお辞儀をした。
「邦信の相棒の、大菜六三郎です! 邦信とかからはサブって呼ばれてます、この度はよろしくお願いします!」
「サブくん、ね。こちらこそよろしく」
「邦信から聞いたんですが、あまり乗り気じゃなかったみたいで……無理矢理協力をお願いする形になってしまって、申し訳ありません」
「いいのよ、もう決めたことだし」
栄さんは資料をカバンにしまうと、エアコンの空調設定を0.5度上げた。節電とかするタイプの人ではなかったと思うし、単に冷え症だからだろう。
サブは背負っていたリュックサックを椅子の上に下ろし、いくつかの導線がむき出しになっていた前作よりも成長した、パッと見普通な電子レンジを中から出した。栄さんはおもむろに椅子から立ち上がると、横から上から、それをまじまじと観察し始めた。
俺も俺で、前回の実験までの要項を押さえたレポートをまとめてきているので、それを3人分取り出し、机の上に置く。熱心に電子レンジのまわりをグルグル回る栄さんを遠慮がちにどかしたサブは、電子レンジをコンセントに繋いで、ちゃんと使えるかどうか確認した。
ターンテーブルの上に何も置かれていない電子レンジの内部が青い光に包まれる。正常な動作が確認できたところで、ツマミを0に戻され、チンと鳴って止まる。
「ホントにブルーライトに付け替えたのね、なんかテンション上がるわ!」
「栄さん、とりあえずこれ読んでください。チャットで大体のことは説明しましたが、図式確認とか細かい部分も書いておきましたから」
「ありがとう。けっこう分厚いのね、3日足らずで作ったとは思えないわ」
「はは、ありがとうございます」
サブも俺のレポートを受け取り、しばらくその冊子を使って、3人で基本情報の確認をした。
といっても、俺たちは脳科学や記憶メカニズムのことなんてサッパリだから、栄さんに対して説明できるのは『どうして10円玉をレンジでチンすると放電が起きるのか?』ということくらいなのだが。
大体の話は理解したわ。そう言って栄さんはレポートをクリップで止めた。
「まず、記憶喪失の原因からいくけど……これの原因は、『雷に打たれた人が記憶を失う現象』とは少し違うと思うわ」
「え。放電が原因じゃないんですか?」
「放電が、ただの放電じゃないことが原因しているの。サブくん、分かるかしら?」
「…………ブルーライト、ですか?」
栄さんは目を閉じて、神妙に頷いた。
やはりあのブルーライト放電は、通常の放電と比べて大きな電流を失っている代わりに、記憶消去の性質が備わっているのか。
「『メン・イン・ブラック』という映画を知ってるかしら? その劇中に登場する、ニューラライザーという道具を」
「ああ、動画サイトの告知CMで見ました。たしかアレも、記憶を消す装置でしたよね? 懐中電灯ぐらいの、見た目はただのライトで……」
「俺は映画見ました。一般人がエイリアンを見たら、そいつを目の前でピカッ、ってやったあと、ニセモノの記憶に書き換えるっていう……。あとMIBのエージェントが役目を終えたら、口外されないよう記憶を消すんだったっけ」
「そうよ。科学者は近年、よく創作上の技術を現実のものにする研究をしていてね。その中でもニューラライザーは、お偉いさんの間ではもう完成間近だと囁かれているわ」
……『偽薬聖会』が頭をよぎる。
阿賀チミコの手帳に書かれてあったことが本当なら、そのニューラライザーを研究開発している奴らは偽薬聖会の人間なのか?
だが、俺自身あの手帳には懐疑的であることもあり、結局それを質問することはできなかった。
栄さんはカバンから、俺たちが来る前に読んでいた書類とは別のものを取り出して渡してくれた。何かのニュースサイトの記事をプリントアウトしたもののようだ。
「『記憶消去は実現間近か!?』……おととい調べて初めて知ったんだけど、東京大学でも実験が成功しているらしいわ。よく閃きが起きる時の暗喩で、『脳のシナプスが繋がった』とか言われるように、記憶にはシナプスが関係している。そして、脳のほとんどの興奮性シナプスの入力を受けているのが、この記事に書いてある『樹状突起スパイン』よ」
「樹状突起スペ……んん、何て言いました?」
「じゅぞ、じゅじゅ……んん、言いにくいのよもう! 樹状突起スパイン、ね!」
「俺たちのブルーライト放電も、そこに当たった場合だけ記憶喪失が起きるってことなのかな?」
「おそらくね。それで、何故ブルーライトが記憶喪失に関係しているのか、って話だったわよね」
0.5度下げられたとは言え、エアコンが少し肌寒いのか。栄さんはリモコンを拾い上げて温度上昇ボタンに指をかけて、それを俺の方に向けた。
ボタンが押下されて、ピッ、と機械音が鳴る。
栄さんは俺にリモコンを突きつけた体勢のまま、妖しい笑顔でこう言った。
「青はね、『死の色』なの」
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