逆転、流転、明転。

 いつかと同じ、オレンジ色の建物ばっかりな眼下。

 ヘリコプターから見下げた大阪のどこかの町並みは、思っているよりも都会的じゃなくて、どこか有機物も無機物も人間もみんながみんな不機嫌そうだ。

 もちろんそんなわけはなく、それらは全て、不安に押しつぶされそうな気持ちになっている俺が見た、歪んだ主観。ほこりを被り過ぎたフィルタが、光の通行を邪魔してできた屈折像。

 膝の上の手帳を握り締める。


 阿賀チミコの死は、当然自殺で、俺なんかには全く関係のないことだとばかり思っていた。住む世界が違うし、年齢が違うし、環境が違うし。幽霊の目撃談としてのつぶやきを数件見つけて一方的に興味を持っただけの、赤の他人だし。

 だが…………。

 ……手帳は、文庫本1冊くらいの厚みがあったが、実際に文字が書かれていたのは最初の数ページだけだった。あとのページが乱暴にちぎられていたのがすごく意味深で、いたずらに俺たちの恐怖を煽る。


 正面に視線を戻すと、蓮が不安げにこちらを見上げていて、目が合ってしまう。大丈夫だと安心させてあげたいが、俺自身、この手帳を手にしてから足が震えて止まらなくなってるんだ。

 改めて手帳を開く。

 書いてあることが、俺の見間違いであってほしかった。よくよく読めばただの次回作のメモ書きで、なんだ俺たちはファンタジー小説のプロットにビビってたのかよ、なんてアホらしく笑いたかった。



 私が死んだあとにこれを拾った者へ。

 この手帳の存在を、科学者に知られるようなことがないように。



〇『プラシーボ世界論と世界改変計画』


 プラシーボ世界論とは、一般に心理学分野などで言われる『プラシーボ効果』を拡大解釈し、その効果こそが世界の全てを形作っている、などという仮説である。

 たとえば、Aという人物が箱の中にボールを入れたとして。この動作の最中は誰にも目撃されておらず、箱の中にボールが入ったことは、A以外まったく知らないものとする。

 このあとAという人物が何らかの原因の元、『箱の中にボールが入っている』という記憶を完全に脳から消し去ってしまったとしよう。

 この場合、『Aがボールを運んで箱に入れた』という事象は『なかったこと』となり、ボールはAが箱に入れる前にあった場所に戻る。

 Aが、なかったことになったのだ。


 これを応用すれば……たとえば、Aをなかったことにした場合、Aはこの世界に『元からいなかった存在』として、消えてしまうことになるのだろう。

 思いのままに、事象や物的存在を『なかったこと』にできる。

 また、使いようによっては『ないはずのものを創り出す』ことも可能だ。


 応用次第で、誰もが神になれると言えるだろう。


 そして私を利用した一部の科学者たちは……特にプラシーボ世界論を議論し、研究している連中は、本当に神になろうとしている。


 自分たちに都合の悪い人間を『生まれなかったことにして』消し、

 自分たちのために手足となってくれる人間を『もともとそういう人間がいたことにして』創りだす。


 彼らはそれを、『記憶操作装置』という機械を使って実現しようとしている。

 詳しい仕組みなどはさすがに機密事項らしく、他のことはペラペラ喋るくせにそのことだけは聞かされなかったので分からない。

 まだ装置の動作安定が難しいらしく、思うように運用できてはいないようだが、彼らがこれを携帯電話のように使えるようになってしまったら世界は終わりだ。

 実際に、彼らの計画の最終段階は世界を意のままに操ることのようだ。計画名『世界改変計画』は、ずいぶん前から始まっているらしい。



〇『実験』


 彼らによれば、私は記念すべき10人目の実験台らしい。


 私という人間は、小説家として、有名すぎない程度に名が知られているため、今回の実験の被検体として選ばれたと聞く。まぁ『自殺がニュース報道されるような人間』であることが最低条件なのだがね、と、私に接触する末端の科学者たちはペラペラ漏らしてくれた。


 この手帳を拾った君たちは、私が自分の意思で森の中にこの屋敷を建てたと思っているのだろう。


 断じて違う。私はこんな悪趣味な家に住まない。


 いきなり目が覚めたらこの屋敷にいて、『自分で森の中に屋敷を建てた』という身に覚えのない過去に書き変わっていた。そして科学者連中が来て、私がここにいることを確認して、ニヤニヤと「実験成功」などと言っていたのだ。

 彼らは、世間の人々にという認識を与えて、世界を書き換えたのだ。


 だが、私が『書き換えられる前の世界』の記憶を持っているということは、彼らにとっては想定外だったようで、今もまだそのことに気付いていない。

 このあと私はまた運命を書き換えられて、らしいが、その前に、死ぬ前に必ず彼らに一矢報いてみせる。世界を改変して神になるという爛れた思想を実現させないために。


 書き換えられる前の世界の記憶を持っているからこそ、私はこの異変に気付けた。

 そして、これを見ているあなたたちに託す。


 どうか、世界を彼ら科学者の手から守ってください。

 彼らは、自身の所属する研究チーム名を『偽薬聖会ぎやくせいかい』と名乗っていた。


 偽薬プラシーボに気を付けて。



「……プラシーボ世界論、記憶操作装置……。偶然なのか……?」


 すがるような独り言。

 俺が最近知って、いろいろと関わりを持ってしまっている2つの事象。それら両方についてのことを書いていた。……のちに幽霊として騒がれた自殺者が。

 ……いや、この手帳の内容によれば、自殺ではないらしいが……。

 偶然だと、俺には関係ないとそう信じたかった。こんな出会いが必然だなんて思いたくない。完璧すぎるタイミングでこの情報を知ったとしても、俺がこんな陰謀論じみた話に巻き込まれるわけがない。


 ……これは逃げなんかじゃない。こんなのを信じて、せいぜい学生の身分で果敢に巨大な陰謀に立ち向かうだなんて……そんなのを抵抗なくできる方が異常だ。そうだろう?

 今後世界がどうなるかを決める天秤の上には、俺なんかが乗るスペースはない。

 阿賀チミコのように、科学者たちに俺も消されるのか? 記憶を操作する装置とやらで、存在をなかったことにされてしまうのか?

 浮かんだ考えを、爪を立てて膝を抓り、必死に消す。

 あるわけない。俺とは無縁だ。


「ねぇ、大丈夫……? すごい汗が……」


 傷ができるほどに力を入れてしつこく抓る俺の手を、蓮は握ってくれた。

 言われた通り、さっきまでは全然だったのに、いま気付いたらひどく汗まみれになってしまっている。蓮が握ってくれた手も、汗のしずくが浮いていて、俺の手の甲と蓮の手のひらとの間に汗の薄い膜ができていた。


「……ああ、全然なんともない。大丈夫さ、蓮、お前も、危ない目になんか遭うことないからな……」

「邦信……」

「大丈夫、大丈夫だって……」


 関係ないと思うなら何故俺はこんなにも恐怖を覚えているのか。

 ……ダメだ。何も考えてはいけないんだ。


 そろそろ着陸するだろう。もう、外の景色でも眺めていよう。無駄なことは考えない。蓮に気を遣わせもしない。

 頬杖をついて、窓の外を見やる。


「なっ……!?」


 青。


「が、ぐぁぁぁぁぁぁああぁああああぁぁあああぁぁぁあぁッ!!」


 刹那、眼球が潰されるような衝撃が走った。


 網膜……目から全ての感覚が失われる、その直前に見たのは、嘘みたいな青さ。目の前どころか自分さえ無限大の青の一部にされてしまったかのような、浮遊感と激痛と、狂気。

 眼球と脳と背骨が、鋭く尖ったものに抉られて、殺された。盗まれた……何かが勝手に、勝手にすり替えられて、自分が自分ものではなくなって…………青くて。

 痛い、青い、青い青い、痛い痛い痛い痛い痛い、青い、痛い青い青い痛い痛い、青い、痛い、青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い青い――――



「……………………うっ…………!?」


 気が付くと、俺の痛みはなくなって、青い光も消え去っていた。

 さっきまでやたらと大きい声を出してもがき苦しんでいたはずなのに、目の前に座っている蓮は、数分前を再放送しているよう。ただずっと物憂げに窓の外を見ているだけ。

 ……何も感じていないのか?嘘だろ?


「……蓮、いま、なんか光って……青く光らなかったか?」

「へ? ……う、ううん……」

「…………………………」

「ねぇ、ホントに大丈夫…?」

「え……あ、あぁ。べつに。………………」


 ………………俺だけなのか?


 何が起こったのか、ただ現状把握がしたくて、すがるように見た窓の外。……ちょうど、というか。見慣れたアメリカ村の上空に差し掛かっていた。高度はけっこう低くなっており、ハッキリと建物の看板が見える。

 たしかあれは……うん、看板がハッキリ見えた。ビレッジパンカードだ。

 アメリカ村といっても、もうほとんど道頓堀に近い地区に来ているらしい。地区と地区を跨いでの土地勘はあまりないがそれくらいは分かる。


 そう。そこは見慣れた道頓堀だった。

 今も底にはカーネル人形が沈んでいるのかもしれない道頓堀川と、それに並行するように戎橋の上を流れていく人の列。戎橋の上でよその人たちは立ち止まり、もの珍しそうに、何かを見上げて撮影している。

 ……そう。

 大阪名物5本の指に入るクリコのドデカい看板。


 クリコポーズの青年がでかでかと貫禄を見せているはずのあの場所では、ワシミグループの青い鳥の姿をしたキャラクターが、クリコとは似ても似つかないポーズで不気味に踊っていた。


「…………え……なんで……………………」


 1日で、こんな大規模な張替え工事がされるわけがない。

 さっきの手帳に書かれていたことが頭をよぎって、青ざめた。


「……蓮。あそこ、クリコの看板があるはずだよな?」

「え…………? クリコ、って……ここらへんでそんなのあったっけ?」

「…………冗談だろ」


 可動範囲が錆び付いたロボットのように、首を不安定に回して、もう一度窓の外を覗き込む。


 そこには、たしかにいたんだ。


 ワシミグループの広告看板を遠目に見る、道頓堀には似つかわしくない、白衣姿の男が二人。

 まるで、これからお前たちの預かり知らぬところで、世界がどんどん書き換えられていくのだと、俺たちを嘲笑うかのように。


「何が……始まるんだよ…………」


 阿賀チミコに託された想いを継ぐには、俺はあまりにも非力で、臆病すぎるようだった。

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