呆然ハレーション

「………………は?」


 は?


 …………いつもみたいな、おちゃらけたギャグだよな?


 いま、妹子はこう言った。

 俺に向かって、「君は誰なのかな?」などと言った。

 おとといまでは、俺の名前を……アラマアラマとふざけたテンションで連呼しながら、俺の周りをグルグル回って、崇め奉っていた妹子が。実験を始める前には、普通に挨拶も交わした妹子が。


 思えば君野先生がお説教モードに入っていたとき、空気の読めていない発言をした妹子にいつもの調子でツッコんだ俺に、何か余所余所しい態度で返事をしていた。

 あの、後ろ姿に声をかけたら人違いだった時のような困惑したリアクションは。


 ……いや、違う。


「……妹子、ウソだよな?いつもの冗談とか妄言の類だよな?」

「………………」

「そんな……顔、引きつらせなくたって。そんな顔しなくたっていいだろ……」


 ――顔も知らないような奴が馴れ馴れしく話しかけてきたら、誰だって怖いに決まってるだろうが。

 自分の中に生まれた記憶喪失肯定派の意見を意図的に無視して、続けた。


「……『アラマ』と『イモリ』で出席番号が近いから、1年と2年の時はよく班を組んだだろうが…………お前が書いたレポートを前日になって無くして泣いてたことだって俺は覚えてる」

「…………なんでそれを知ってるんですか……?」

「……丁寧語なんか使うなよ…………サブの後ろに隠れんなよ……!」

「……本当に何も覚えてないんです。お名前は……?」

「………………………………」


 名乗ろうとした声が掠れて、出なかった。


 嘘だ。


 ここ最近、脳内発言含めて何度もこのセリフを言っている気がするけど……こんなの、絶対に嘘だ。

 嘘だ、やめてくれ。今日はエイプリルフールでも俺の誕生日でもないぞ。

 目の前が、像の線と輪郭だけを残して真っ白に塗りつぶされる。

 呆然として何も言えなくなった俺に代わって、サブが妹子の肩を揺すりながら、必死に説得するように俺のことを話す。


「い、妹子、何言ってんだ? 邦信だよ、お前はアイツのこと、いつも上の名前で、変なイントネーションで『アラマ』って呼んでる!」

「……し、知らない。知らないんだって……アラマ、クニノブ……?」

「嘘だろ!? 1年のときの宿泊オリエンテーションで俺たちの班は、邦信がカレールー持ってくるの忘れたせいで、担任の用意した激辛ルー使うハメになった!

 それと、さっき邦信が言ってたように、お前がレポート無くしたとき! お前が泣いてたから、邦信も一緒になって探して……俺とかも巻き込んで一緒に探した!! なぁ覚えてるだろ!?」

「……『誰か』がカレールーを忘れたのは覚えてる。『誰か』が泣いてる私を慰めて、一緒にレポートを探してくれて……その『誰か』が、移動教室先の美術室からそれを見つけてくれたことも、覚えてる……でも」


 涙腺への刺激は一切ないが、今までに感じたことのない、新しい種類の感情。悲しみの上位互換のような、やるせなく、今にも自分の存在が許されなくなって消されてしまうのではないかと感じるほどの無力感、喪失感。

 ……「でも」の続きを言う妹子の顔を、体を、視界に入れたくなくて。

 俺は、上を向いた。


「……でも…………その『誰か』が誰なのか、思い出せないの」


 蛍光灯の白が眩しかった。



「なぁ、元気出せって……」

「………………」

「一時的なモンだって、じきにお前のこと思い出すよ。……高専生で唯一、居眠りしたことも、全部な」

「……あれは、ネ友から貸してもらったエロ……じゃなくて、泣きゲーが存外面白くて、3日徹夜して消耗してたからだよ」

「いくらボール回ってこないとはいえ、バスケ中に寝れるかフツー?」


 我が四津辺高専の食堂兼購買の前には、普通の缶やペットボトルの飲み物を販売する自販機と並んで、紙コップのタイプの自販機が置いてある。

 そして自販機約5つぶんを開けて、ちょっとした休憩場所……テーブルとヘミングウェイチェア4つが置かれている。

 それに腰掛けたサブと、それに全体重を預けて二度と起き上がれないのではないかというぐらいにだらけた格好の俺は、それぞれマジデゴールド、モンエネをちびちびと飲む。


 俺はいま、完全に全ての物事に対してのやる気や気力を失っている。気がついたら息するの忘れてた、そんなレベルの精神的ショック。

 ……このショックからは、しばらく立ち直れそうになかった。

 どこかの漫画かゲームかアニメか、はたまたラノベか。『人から忘れられるのがこんなに辛いとは思わなかった』みたいなセリフ、無かったっけ。


 サブが気を効かせて、みんなに片付けと妹子を任せて、俺をここに連れ出してくれた。だけど、そんなサブには申し訳ないんだけど、一向にテンションが回復する気がしない。

 高専で4年ほどの付き合い、しかも友達程度の関係の女子。

 その妹子から忘れられただけでこんなにショックを受けているのだから、恋人から忘れられるとか親から忘れられるとか、そんなことになったら俺は2秒で自殺してしまうんじゃないか。


「…………こういうことも、覚悟の上で実験に望まなきゃいけなかったのかな」

「……正直、いま俺、『忘れられたのが俺じゃなくてよかった』って思ってる。ごめん」

「いいよ。俺も妹子に放電が当たった時、『俺じゃなくてよかった』って思ったし。……罰当たりとか信じてなかったけどこれから気を付けるわ」

「…………ごめん」

「謝るなよ……。…………謝るなよ、っつーの」


 いまさら、悲しみと寂しさが涙腺を刺激し始めてるんだから。

 目尻にうっすらと浮かんだ涙を誤魔化すために、もう数滴しか残ってないモンエネの缶を垂直角度で傾け、上を向いた。

 空っぽになった缶を片手で握りつぶし、自販機の前に置かれている口の広いゴミ箱にシュートする。リングに当たって惜しくもゴールならず、舌打ちしながら拾い上げて捨てなおす。


 ……忘れられるのは辛いことだ。

 アカサの死を、いつの間にか俺は忘れてしまっていた。

 あの日、俺の目の前に現れたアカサがそのことを知ったら、どれだけ悲しむことだろう。一番仲のよかった幼い日の友達が、自分が死んだことを、そんな重大なことを忘れていると知ったら。

 そもそも俺がアカサの死を忘れたりしなければ、ちゃんと認識していれば、アイツがもう一度俺の前に姿を現すこともなくて、2回殺してしまうようなことも……。


 ……やめよう。

 プラシーボ世界論はあくまで仮説なんだ。本当かどうかも分からないことで思い悩むべきじゃない。


「邦信……あいつが、妹子がお前のことを忘れた理由って、なんだと思う?」

「…………?」


 サブは急にそんなことを聞いてきた。右手はかたく握られ、マジデゴールドが入っていた紙コップが潰れている。


「理由って……放電以外考えられない」

「問題は、あの放電の何が原因となったのか、だろ。もしかしたら、あのブルーライトの特殊な効果のうちのひとつかもしれない」


「…………雷を受けて記憶喪失になるって話は聞いたことあるけど。雷を受けるまでの直近の記憶とかを忘れるらしいけど……それと同じ原理にしては、あんまりにも忘れ方が

「器用すぎる?」


 そう、器用すぎる。

 俺は小さく手を広げて、控えめなジェスチャーを交えて説明する。


「『雷を受けるまでの最近4年間の記憶』を失うのよりも、『最近4年間の記憶から、洗馬邦信の記憶だけ』を失う方がずっと難しいだろ、ってことだ。

 前者は、4年分をゴッソリ抜けばいいだけだけど、後者……妹子の場合では、高専生活4年分の記憶の中から、俺のことだけを抜かないといけない。それにさっきの妹子の話だと、『俺が関係していること全て』を忘れたわけじゃなく、あくまで『俺』だけを……シルエットがかかったみたいに、『俺』が『誰か』に置き換わってる感じで忘れてるみたいだし……仕組みが分からん」

「なるほどな……そんなの、人の手で記憶操作して実現できるかできないかってレベルだな。放電一発のマグレで、んな器用な記憶喪失になれるとは思えねー」


 ……そういえば、先生たちがこの実験の前に、自分で放電を受けたと言っていたな。それも、妹子と同様、頭に直撃で。


「先生も、何らかの記憶を失ってる可能性があるよな?」

「……先生だけじゃない。一緒に実験したって言ってた7人全員が、何かしら記憶を無くしてるかもしれねぇ」

「ふ、普通にヤバくないか……?」


 同様にレールガンを受けた妹子は、数十億、それ以上ある無数の記憶の中から、俺というちっぽけな存在を忘れるだけで済んでいる。

 だがもし、君野先生たちが忘れてしまった記憶が、ただごとでは済まされない大切なものだったとしたら……? もし、家族の存在を忘れてしまっていたら……?


 身の毛がよだつ。


 俺たちが作りたかったのは、ただの文化祭の出し物だったのに。

 悪い方向にばかり考えが行ってしまうのは、俺のネガティブな性格からして珍しいことではなかったが、こればかりはただの杞憂で済んでくれそうにない。


 あの電子レンジは、簡易式レールガンなんかじゃなくて、もっと別の、恐ろしいなにか……人の倫理からはみ出したモノ。


「お……俺のせいなのか? 俺がこの実験を君野先生に提案したせいで、色んな人の記憶が消えて……?」

「…………っ!」


 違う。


 俺たちが作ったアレは、そんなモノじゃ……俺がいま思い描いていたようなモノじゃない。だってそれを認めたら……記憶消去によって7人の人生が狂ってしまったとしたら、サブのせいになってしまう。

 そんなワケない。

 ……そんなの、俺はまだ認めない。確認も何もしてないのに、認めてやるものか。


「そんなわけないだろ! 君野先生は、美濃先生も実験に参加してくれたって言ってたよな? 今から確認しに行けばいい話だ!」

「……そ、そうだよな……。いつまでも知らないフリしてるのなんて、卑怯だよな。謝らないと……」

「だから、まだ記憶喪失がレールガンの放電のせいだって決まったワケじゃないっつってんのに! ほら、行くぞ……!」


 自分の責任に絶望し始めているサブの沈痛な面持ちを見ていると、オフ会の時、自分のせいでアカサが2回も死なされたと思ってしまった俺は、あのときこんな表情だったのかな、と思った。

 ……あのとき、蓮や栄さんは、『ただの仮説だ、自分を責めるな』と、俺のことをフォローしてくれた。


 ……そうだ、こんなのは仮説にすぎない。

 ちょっと改造した電子レンジで10円玉を温めただけで人の記憶を消せるだなんて馬鹿げてる。脳科学者への冒涜だ。


「ただの学生風情が記憶消去装置なんか作れると思ってるのか、思い上がんな! 高専生だから技術力があるって自惚れてるんだろ、厨二病も大概にしろ!! 4年生のくせに、未だにレポートを提出期限ギリギリでコピペで完成させてる奴なんかに、そんなぶっ飛んだ新発明できるわけないんだ!!」

「………………」


 もはや励ましなのか罵倒なのか分からない言葉をかけながら、サブを引きずるようにして、美濃先生の研究室に移動することにした。



 しばらく外に出ていたからか、専門棟はいつもより、薬品の匂いや機械の鉄錆の匂いなどが入り混じったカオスな空気が、ちょっとだけ濃い気がした。


 君野先生と美濃先生が普段在室している電子工学科研究室は、さっき実験を行っていた第4実験室と同じ、専門棟3階にある。

 通りざまに第4実験室をドアの窓から覗いてみると、どうやら先生から言われた程度の片付けは終わったようだがまだ帰っておらず、大多数はまだ妹子を取り囲んで、いろいろ心配しているようだった。


 ……妹子と視線が重なるも、瞬間的に目を背けられてしまった。


 忘れかけていた悲しみがぶり返しそうになるが、今は、こっちに集中だ。

 サブが責任に押しつぶされて沈み込んでしまうようなことがあれば、きっと妹子も悲しむだろう。実際に記憶を失っている妹子にその悲しみは連鎖して……。

 そんなことは、絶対に避けたい。認めない。


 電子工学科研究室の前に着くと、俺は部屋の横のミニ黒板を確認する。

 うちの高専では、大抵どこの研究室にもホワイトボードやパネルが置かれていて、先生たちはそこに今の自分の状況を示す。

 たとえば、普通に研究室にいるなら『在室』。今日は欠勤だったり既に帰った後だった場合は、『帰宅』、という具合に、生徒たちは研究室の入り口でそれを確認してから扉をノックするわけだ。

 電子工学科研究室の場合は、少しリッチな仕様になっており、所属する3人の先生それぞれに対応するミニ黒板が壁に掛けられてある。3枚の黒板の表記はこうだった。


 『君野 出張後帰宅』

 『成木山 休憩中』

 『美濃 在室』


「美濃先生、いてるみたいだな。よかった」

「…………」


 ……ここまで喋らないサブを見るのは初めてかもしれない。俺が思っているより相当深刻に追い詰められてるのだとしたら。早く、それが杞憂だと言ってやらないといけない。

 ドアをノックすると、中から「はいな」と、大阪の高齢女性特有の古臭い返事が帰ってきた。美濃先生だ。


「4年都市環境コースの洗馬と大菜です。美濃先生、お願いします」

「ええよー」


 ドアを開けると、久しぶりに入る電子工学科研究室は、怪しい紋章っぽいものが描かれたお面や、よく分からない置物などで、美濃先生の机を中心にけっこう散らかっていた。

 散らかり方から分かるように、これらは主に美濃先生の私物だ。

 都市環境コースの先生の中でも、非常勤である美濃先生は、昔いろいろな国を回って建物の設計や地質管理などをして、アフリカ等発展途上国のインフラ整備等に貢献した。

 これらお面や置物などは、先生が回った国の中でも、古い習慣を持った部族の郷土品的なものらしく、気まぐれに昔のものを懐かしんではこの研究室に持ち込むのだと言っていた。


 瓶に入った土のサンプルを弄る手を止めて、メガネをずらしてこちらを向く。

 50代半ばの女教師と言えば、みんななんとなく嫌な先生を思い浮かべることだろうが、美濃先生はそういうのとは違い、シワのある顔の中にも、冒険家のような、男性的なパワフルさが伺える。

 性格も快活で、面白いと思った研究テーマにはひどく没頭し、まれに普段の教師業務をすっぽかして海外の山へ行って溶岩を取ってきたりする、何と言うかとんでもなく頭の柔らかい人だ。

 授業も面白く、生徒からの人気は厚い。……学校の上の人とかからの評価は知らないけど。


「どないしたん? なんやサブちゃん、ハズレホステスのババアとの間に子供ができてもうた昔のアイドルみたいなシケた顔してからに」

「……いつか怒られますよ」

「アホか。今でこそこんなクソババアやけどな、昔は世界を股にかけて仕事するキャリアウーマンやったんや。若い頃の給料の4分の1も貰われへんこんな学校、いつ辞めさせられても後悔なんかないわ」

「はいはい……で、今日は聞きたいことがあって来たんです。といっても、授業とかには関係ないことなんですけど……」

「……あぁ、もしかしてあの電子レンジの実験のことかいな? 君野先生に聞いたで、あの実験の中心はアンタらなんやってな?」


 話さずとも分かってもらえたのなら話は早い。実験のことをまるまる忘れたとかだと、話がややこしすぎるからな。

 いや、まだ記憶喪失がレールガンのせいだと認めたわけではないけど。


「実は、君野先生監督のもと、ついさっきその実験を行ったんですが……」


 俺は実験の内容、妹子の頭に放電が当たったこと、妹子が俺についての記憶の一切を無くしてしまったことについて、できるだけ詳しく話した。

 美濃先生の顔は、話を進めるにつれて、驚きの表情に変わっていった。


 俺が話し終えると、美濃先生は弾かれたように、焦ったような顔で、机の引き出しの中を慌ただしく漁り始めた。

 やがて取り出したのは、先生がよく授業中に自慢していた、10歳くらいの可愛らしい姪っ子が映った写真。続いて、写真が差し込まれていない、猫柄のフォトフレーム。

 前回この部屋に入ったのはだいぶ前のことだが……たしか先生は、自分の机の上に、この写真をこのフォトフレームに入れて飾ってあったハズだ。


 ……悪寒がした。


 話を聞いてもらうにつれて悪化していった、先生の深刻そうな顔。

 半狂乱になりながら取り出した姪の写真と、それが飾られていたフォトフレーム。

 そして、俺たちを見上げる、異常に黒目が小さくなった双眼。


「……昨日家に帰ったらな、家に知らん子がおってん」


 記憶消去装置。

 やっとそれを認めた自分の脳が、先生の表情を強烈に印象づけて、ガンガンと像を揺らす。


「なぁ……この写真の子、誰…………?」


 隣に立っていたサブが、声にならない息を喉から漏らして、その場に崩折れた。


 『コパカバーナ』。

 その曲名をどこで知ったかは忘れたけれど。

 窓の外で練習に励む吹奏楽部の演奏曲が、俺たちの絶望にも似た驚愕を馬鹿にするように、陽気に響いていた。

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