第4話 結
文化祭が終わって訪れる日常は、平穏というよりも静けさを感じた。
定期テストが理不尽にも近く、無理にでも勉強する環境に戻ったこともあるだろう。
だが、亜紀はそれだけではないような気がした。
あの活気の溢れた文化祭と比較しなくても、今の毎日は簡素すぎだ。
朝来て、凱たちと話して、勉強して、杏梨優と昼ごはんを食べて、また勉強して、帰る。その繰り返しだ。
柊先輩のいない毎日は、ずっと単調で気味が悪かった。
もうあの人には会わないと決めていた。少なくとも今は、顔を合わせる勇気はなかった。それに――。
ふと流れた記憶から目を逸らすようにして、亜紀は目の前のものに集中しようとした。といっても、そんな定期テストが終わった今じゃ、特にホームルームに身も入らない。
返却されたテストの数字を下敷きに、いつものように突っ伏して重い頭を休める。
だが、そのまどろみはすぐに吹き飛ばされた。
「藍谷さん」
トントンと、机の隅を叩く者があった。
顔を上げると、関原が引きつった笑顔を浮かべていた。
「テスト、どうだった?」
答えるのも面倒なので、そのまま紙を渡した。
いつも主席を狙う関原のように、亜紀は成績に大して執着心がなかった。興味がないのだ。
ただ見栄えが良ければそれでいいので、エースの座はいつも関原に譲っている。むしろ、平均点を予測して二位をキープするほうが難しいし、退屈しのぎには丁度良かった。
今回も数字は問題なかった。だが、それでは関原の表情と矛盾する。亜紀は首を傾げた。
「…藍谷さん、一位ではないんだね」
「うん。いつものことじゃん」
「いや…僕はいつものことじゃないんだ」
「ん…?」
チラリとだが、総合順位だけ見せてもらった。大きく「3」と書かれたその数字は、「1」の並ぶ中では異様に目立っていた。
「これは…」
「僕は今回の主席はてっきり藍谷さんだと思ったんだけど、違うみたいだし…。ねえ、誰だか予想つく?」
亜紀は静かに首を横に振った。
「分かんない…」
「そっか。ありがと」
疑いは晴れたが、実際亜紀には心当たりがあった。
関原の視線が無くなるのを確認すると、亜紀はつかつかと後ろの席へ向かった。
「亜紀ー、どうだった?」
杏梨優は、満面の笑みで亜紀を迎えた。
「…まさか、杏梨優がここまで馬鹿だとは思わなかったわ」
「んー?どういうこと?言ってることと数字が一致しないけど」
ヒラヒラと泳がす紙に、沢山の「1」が散らばっていた。亜紀も杏梨優も本気を出せば、それくらいどうってことない。どうってことないからこそ取ってはいけない点数だ。でないと、それは「天才」から「異端」へと変わってしまう。
「とりあえず、見つかる前に隠したほうがいい」
「なんで?私何も悪いことしてないよ」
「そういう世界なの。覚えておきなさい。もっとそういうのにこだわってる人がいるんだから、譲ってあげた方が身のためだよ」
「よく分かんない」
「そうでしょうね」
経験してみないと、あの視線の痛さは分からない。だが、自分が知っていれば十分だ。杏梨優に経験させる必要はない。
「次も下手に他人に期待されたりするの、いい迷惑でしょ?やめときな」
「ねえ、亜紀は全部二位?」
「大体ね」
「どうして?点数勝負しようって言ったじゃん」
「興味ない」
「えー」
杏梨優は全く聞く耳を持ってくれない。亜紀は苛立ちを覚えた。そしてその仕返しは、思わず変な方向へ曲がってしまった。
「ねえ、杏梨優」
「何ー?」
「私ね、こないだ凱に言われたんだ。『今までの亜紀が好きだ』って」
「……」
「だからね、自分を変える気はないの。杏梨優は私に変わってほしいのかもだけど」
効果は思った以上のものだった。一定して変わらない杏梨優の表情に、ヒビが入ったような気がした。
「ふーん」
何も変化のないようで、だが確かに杏梨優は亜紀と目を合わそうとしなくなった。
二人の歯車が、狂い始める瞬間だった。
確かに、「返事はいらない」とは言った。だが、それは別に「気にしなくていい」という意味で言ったのではない。遠まわしに「頼ってほしい」と言いたかったのだが、亜紀にはそういう細かいニュアンスは通じなかったらしい。
「変わらない亜紀」を望んでいながら、凱は少し不満であった。
亜紀は何も抱えていないわけではない。それは凱の目から見てもよく分かった。最近は杏梨優の風当たりも激しい。亜紀が他の人と話そうものなら、割り込んででも入っていく。二人で共有するものが増えるほど、彼女らは孤立していっていた。
このままでは、自分も二人の中に入れなくなってしまう。そうなれば手遅れだ。かといって、いい方法も思いつかなかった。一体何が自分をこんなに危機感に晒し、焦りを覚えさせるのかは分からない。だが、とてつもなく嫌な予感がすることは確かだった。
「ったく、どうすればいいんだよ…」
「凱、爪噛む癖良くないよ」
蓮の叱る口調には、何処となく不安そうな響きがあった。
「悪い…」
凱は素直に謝った。
また険しい目つきでもしてたのかもしれない。最近蓮には心配をかけっぱなしだ。
「また亜紀のこと?」
「…別に」
「諦めろとは言わないよ。実際放置しておいちゃいけないと思うし」
蓮も不穏な雰囲気は察知しているようだった。
「そろそろヤバイんじゃないかな、あの二人。最近は喧嘩も多いし」
「喧嘩が何かの引き金になるのか?むしろ二人が割れてくれれば、孤立問題は解決しそうだけど」
「ううん。僕さ、杏梨優がどうしてここまで亜紀を自分の元に置いときたがるのか、いまいちよく分からないんだよね。でもさ、もしそれが何か意図のある行為だとしたら、喧嘩がきっかけで痺れを切らして次の行動に出るんじゃないかって…」
そこで蓮は口をつぐんだ。心なしか顔色が悪い。
凱の背中にも、嫌な汗が伝った。
「ちなみに次の行動って?」
「分からないよ。でも、いい事ではないと思う」
「できればその予感は外れると――っ!」
突然、ガラスの割れる大きな音がした。二人の肩がビクンと跳ねる。
見やると、例の亜紀と杏梨優の間で、沢山の破片が飛び散っていた。
「おい、どうした?!」
すぐさま駆け寄ると、それは空の花瓶だと分かった。
呆然と立ちすくむ亜紀と、指を押さえる杏梨優。二人の間に立ち入れるものは誰もおらず、クラスの皆は彼女達を取り囲むようにして遠巻きに見ていた。
凱も、皆が作ったラインから一歩踏み出すことができない。
「っ……」
動かない足にもどかしさを覚える。
我に返った亜紀が、杏梨優に手を伸ばした。
「大丈夫…?」
だが、その手はすぐに振り払われてしまった。
杏梨優は戸惑う亜紀をキッと睨むと、クルリと背を向けて教室を出て行ってしまった。
一人取り残された亜紀は、ただただその先を見つめていた。
「ごめん、付き合わせちゃって」
「いや、別に」
帰り道、久しぶりに隣には亜紀がいた。荷物は重いが、どうってことなかった。
あれから杏梨優は帰ってこなかった。仕方なく荷物を家に届けることになったのだが、そのバッグが重い。亜紀一人で持つには無理があった。そこで、すかさず凱が助っ人を申し出たのだ。
「さっきの、なんであんなことになったの?」
「ああ…あれ?ちょっと色々ね」
「……」
言葉を濁されてしまい。そこから先が続かなかった。
本当は、無理にでも問い詰めて聞き出したい。だが、今の亜紀はこちらを見すらしない。
おかしな距離が出来てしまっていた。
普段だったら気にもしないはずなのに、今は落ち着かなかった。
「…ここ」
そのまま、目的地に着いてしまう。
亜紀が呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いた。
「これ、杏梨優の荷物」
亜紀はぶっきらぼうに言い放ち、杏梨優のバッグを父に押し付けた。
そしてそのまま何も無しに去ろうとする。
凱は驚いたが、仕方なく軽く会釈をすると、亜紀に続こうとした。
「ああ、ちょっと待って君」
しかし呼び止められ、凱は金縛りに遭ったように動けなくなってしまった。効果の無かった亜紀の方は、どんどん遠くに行ってしまう。
「あ、ちょっと。亜紀」
「いや、いいんだ。君だけに話がしたかったから。…といっても、私ではなくてこの子がね」
「…杏梨優」
恐る恐る顔を出す杏梨優は、少し目が腫れていた。
「亜紀、いない?」
「いないよ」
「そっか…ごめんね。ちょっとまだ気まずくて…」
亜紀が行ってしまったことが分かると、杏梨優は表に出てきた。
二人になり、しかし言葉が見つからずに沈黙が続く。
「ねえ」
とうとう、先に口を開いたのは杏梨優の方だった。
「うん?」
「亜紀のこと、好き?」
「えっ」
唐突な質問にたじろき、すぐにはぐらかそうとした。しかし、杏梨優の不安げな上目づかいから、凱は目を逸らすことができなかった。
「いや…別にそういうことは……」
「私ね、亜紀と凱のこと、応援しようって思ってたの」
「え?」
不意打ちをくらい、凱は一歩引いた。だが、その間をまた杏梨優が一歩詰めてしまう。
「だから…私さっき怒っちゃったの。まだ亜紀は柊先輩を捨てきれてない」
「っ……」
またその名前を耳にするとは、思いもしなかった。
「折角凱が亜紀のこと見てくれているのに、亜紀ったら凱なんて全然眼中にないの」
「……」
喧嘩の内容を亜紀が話してくれなかったのはそういうことだったのか。
別に亜紀に対する自負はないつもりだったが、率直にそんなことを言われてしまうと打ちのめされてしまう。
「こんなんじゃ…凱、可愛そうだよ……」
「いや、そんな心配しなくても…そっか、亜紀は意志が強い奴だもんな」
そうだ、亜紀は変わらないのだ。何に対しても無関心なところも、いつも上の空なことも、先輩が好きなことも――。自分が気にかけることなんて、何一つないのだ。
そう思うと、今まで抱えていた責任感がふっと軽くなって無くなってしまった。
「凱、悪いことは言わないから諦めた方が…」
「気にすんなよ。というか、まずなんで俺があいつを好きだって前提で話が進んでいるわけ?」
俯きかけていた杏梨優の顔が、少し明るさを取り戻して上がった。
「え?でも、後夜祭で亜紀が…」
「あれはそういう好きじゃないって。ったく、話が膨らみすぎなんだよ」
そうだ、これでいい。自分が関わってやれることなんて、最初からなかったのだ。
「そっか!よかったー」
いつものように無邪気に笑う杏梨優は、心底ホッとしたようだった。それを見て凱も安心する。
「じゃあ、俺もう帰るわ」
「うん。道分かる?」
「あいつと一緒にすんなよ」
そう無理矢理笑い飛ばしてやる。
「じゃあな、また明日」
「うん、ばいばい」
挨拶もそこそこに、凱は駆け出した。
杏梨優に背を向けた瞬間、奥歯がギリギリと鳴った。夕日に溶かされて視界が滲む。
耳元を掠めていく秋風は、火照った顔を冷ますにはまだぬるかった。
「随分強引にやったね」
「ああでもしなきゃ、あの子は引き下がらない。それに、もう時間がないんでしょ?」
「ああ、そうだね」
薄暗い部屋の中、杏梨優は微動だにせず言葉だけを吐く。
「…これで、全部ね」
「そうだね」
名簿は斜線ですべて埋まった。
「ご苦労様。これで準備が整ったよ」
清志の拍手に、杏梨優は何も応えなかった。
「さあ、最後の仕上げに取り掛かろうか。――亜紀」
杏梨優は大人しく後ろを向く。
その艶やかな長い髪を清志は指でなぞる。
金属の擦れる音と、バサバサという不気味な気配が、静かな部屋に不吉に響いた。
翌朝、学校で亜紀は悶々としていた。今日は何故か凱や蓮も遅い。
久々に一人で過ごす朝は、のびのびとできるだけで退屈だった。
自分がいけなかったのは分かっている。だが、どうしても亜紀は杏梨優の告白を受け入れきれなかった。
友達と二人だけで事務的な話をしていただけで、杏梨優は話に入ってくる。
「ねえ、ちょっとどいてて」
何気なく投げ捨てた言葉が、杏梨優の逆鱗に触れた。
「私だって、やりたくてやってるわけじゃないの」
「だったらやらなきゃいい」
「お姉ちゃんの言うことが聞けないの?」
「どっちが姉になったって同じなんだから、そんなに強い権力を持った肩書きじゃないでしょ」
「違う。私がお姉ちゃんなの」
「別に譲るってば」
「譲るとかじゃないの」
「そもそも、なんでそんなに姉にこだわるの?」
「私ね、亜紀が二歳の時に生まれたの」
「えっ」
滞りなく続いていた会話が、一瞬止まった。だが、杏梨優はそれをきっかけに堰を切ったように話し出す。
「私は亜紀に近づかなきゃいけない。亜紀にならなきゃいけないの」
「…同化の話?」
砂を噛んだように、亜紀は嫌そうな顔をして言葉を吐き捨てる。
「私は亜紀のスペアなの」
まただ。父の世界に、杏梨優は取り込まれていた。最近は大丈夫だと思っていたが、とんでもないところで地雷を踏んでしまった。
「突っ走る亜紀を守るためには、亜紀と同じかその先に立って自分を犠牲にしなきゃいけない。だから――」
「やめてよ。そんな生き方頼んでないってば」
それでも杏梨優は止まらなかった。
「だから、私がお姉さんじゃないといけないの。二年先の勉強もして、亜紀が今までに興味本位でかじってきたものも全部詰め込んで…成長剤も、たくさん打ったの」
「っ……やめてってば!」
とうとう出た手は、運よく花瓶に止められた。
だが、結果的に杏梨優を傷つけた。
飛び散った破片が、杏梨優の指先に触れてしまった。
チラリと見えた赤はすぐに隠されてしまったが、亜紀の血の気はさっと引いた。
わらわらと出来る人だかり。その中ですら、亜紀と杏梨優は二人ぼっちだった。
差し伸べた手は空を切り、しかし亜紀は去っていく杏梨優を追いかけることはできなかった。
自分にすら触れられない傷を、杏梨優は持っていた。
どう接していいのか。あれこれ考えれば考えるほど奥へ思考は沈んでいってしまう。 今日何度目かの溜め息をつき、そこでふと、クラスに異様な空気が流れていることに気がついた。
ざわめきは、徐々にこちらにまで伝染してきている。だが、亜紀にはその正体がまだ分からなかった。
重い腰を上げ、動揺の気配が濃いドアまで赴く。人ごみを抜け、視界が晴れたところで亜紀は息を呑んだ。
「…おはよう、杏梨優」
「おはよう、亜紀」
「っ…」
髪が短くなっていた。無造作なストレートボブ。亜紀と同じ髪型だ。
杏梨優はもう、そこには無かった。
自分が、もう一人。落ち着きを持って微笑む目の前の彼女は、もはや杏梨優ではなかった。
「杏梨優…やめて、こんなの」
クラスの動揺を代表して、亜紀は震える声で諭す。
「何を言ってるの?本職に戻っただけよ」
「!」
声音、口調、緩急のつけ方。自身を押し殺した杏梨優は、確かに完全に亜紀の分身だった。
「杏梨優は杏梨優らしくしてよ。こんなの…嫌だよ」
「私がただ暢気に亜紀の隣にいたとでも思ってるの?別に真似ること自体は簡単だけど、なり切ることって難しいんだから」
「……」
杏梨優の目に、冗談は微塵も感じられなかった。
おろおろする蓮の隣で、凱は歯痒く思いながら二人を眺めていた。
それから授業中も昼休みも、いつものように過ごす二人。だがそれは亜紀と杏梨優ではなく、亜紀と亜紀という見方で完全に成り立っていた。
昨日の杏梨優にこんなことをさせる気配は微塵もなかった。むしろ、思いつめていた顔が和らいだように見えたはずだった。
なのに、どうして――
だが完成してしまった二人の世界に、凱が踏み入れる術はもうなかった。
「蓮の言ってた次の行動って、こういうことだったんだな」
「信じたくないよ…誰がこんな末路を予測できるっていうの?」
蓮は哀しそうに目を伏せる。確かに、目の前の光景は見ていられないものがあった。
「…でもさ、ここまで凄いもの見せられても、俺はまだその動機が分からない」
「たまに杏梨優が口走ってたよね。自分は亜紀のスペアだって。それと何か、関係あるんじゃないの?」
壊れたら直せばいいというように、自分をモノとして見る杏梨優。こんなにも自己とは、客観的に他者が作り上げられるものなのだろうか。考えたくもなかった。
「なあ、俺らはどうすればいい?」
「どうしようもできないよ…だって、何を何から守りたくてこんなに焦ってるのか、よく分からないんだもの」
何も明らかになるものはなく、つかみどころの無い不安だけが、蓮や凱の中を駆け巡る。
時間はそのまま刻々と過ぎていった。
「ただいま」
ドアを開ければすぐに
「おかえり」
と母の声が返ってくる。
伸也の部屋の前を通れば、律儀に同じ言葉が返ってきた。
重たいカバンをベッドの上に投げ出し、その脇に亜紀はちょこんと座った。
無理矢理閉めていたチャックをギチギチと開け、中から本を掻き出す。
それを片っ端からめくっていく。
夕飯までの時間、亜紀はそうして過ごしている。極めて閉鎖的だが、人と触れ合うことに限界がある亜紀には、口や頭を休める大切な時間だ。
「姉ちゃん」
ノックもせずに伸也が部屋に入ってくる。
「本貸して」
「別にいいけど、どれよ」
「…姉ちゃん、どうしたの」
「何が?」
「いつもは返事もしないから、俺が適当に取っていくのに」
まだ気が動転しているのかもしれない。だが、そのことを弟に打ち明けるには重過ぎる。
「気のせいでしょ」
亜紀は平然を装って本を手渡す。
「ちゃんと返してよ」
「言われずとも」
すぐに伸也は出て行った。ホッと胸を撫で下ろす。その陰で、首筋にはうっすらと汗が滲んでいた。
「ただいまー」
と言っても静かな家だ。
何も返ってこない廊下をひたひたと歩く。
「おかえり」
ようやくその言葉を耳にしたのは、父の部屋の前まで来たときだった。
「学校どうだった?」
部屋から出てくるなり第一声。毎日こうだと
「うん、楽しかったよ」
こちらも機械的な返ししか、しなくなるものだろう。
「亜紀とは仲直り出来たか?」
「ええ」
敢えてそっけなく応える。それ以上言う必要もない。
「全く、亜紀は嘘が下手だね」
「……え?」
「父さんが、娘の見分けもつかないとでも思ったかい?」
「…ばれてたんだ」
観念すると、亜紀はすぐに素顔に戻った。正直見抜いてくれたのは有難かった。勘の鋭い父を騙して一夜過ごすのは、無理がある上に相当疲れる。
「杏梨優は私の家に行ってるよ。だから今日はこっちで寝泊りさせてもらうね」
「どうぞ。ちょっと住み心地は悪いかもだけどね」
「入れ替えっこしよう」と杏梨優が唐突に言い出したのは、帰り道のことだった。
「証明するの、私が亜紀だってこと」
「杏梨優…」
「普段から一緒にいる家族に見分けられなかったら、私はもう亜紀の分身よ」
「別にそこまでしなくても…」
しかし、杏梨優の意志は固かった。一体何が杏梨優をここまで駆り立てているのか、亜紀には分からなかった。だから、従うしかなかった。
「ねえ、お父さん。杏梨優はどうしてそこまで私と同じになることにこだわるの?」
「同化が完成したのかどうか、確かめたかったんだよ」
「そんなことしてどうするの?」
父は、ゆるゆると首を横に振る。そこから先は、言う気はないらしい。
「…そっか」
不思議と苛立ちは湧いてこなかった。
「夕飯、何にする?」
そうだ、今日は自分で作るんだと、亜紀は気を取り直して張り切る。
「ああ、適当な野菜しかないからなー」
父は冷蔵庫を漁り、あるだけの野菜を並べて見る。
にんじん、ジャガイモ、玉ねぎ。それだけ。
「カレーかシチューしか思い浮かばない」
「じゃあ、それでいいよ」
食に関心の薄い父は、腹が膨れれば何でもいいらしい。
「チルド室に鶏肉がある。ルーは引き出しの中だ」
と言いながら、結局自分で取り出して並べる。挙句の果てには、野菜を掴んで剥き始めようとする。
「ちょっと、いいって。私がやるから。いつも杏梨優は一人で作ってるんでしょ?」
「でも亜紀に包丁を持たすのは心配だ」
そう言う本人は、握っているピーラーですら危なっかしい。
「もう、いつまでも子ども扱いしないでよね」
亜紀は父からにんじんを奪うとシッシと追い払う。
歪なジャガイモの皮むきに悪戦苦闘し、水気の多いまま鍋に投入しては油を跳ねさせ、そもそも二人前の塩梅も分からず、完成した時は作り始めてから一時間経っていた。
部屋から再び出てきた父が、食器やら水やら甲斐甲斐しく並べてくれた。
偶然見つけたきゅうりは、父がスティック状に切ってコップに入れた。父の言うサラダとは昔からこれだった。たかが縦に切るだけなのに真っ直ぐになっていないきゅうりを、亜紀は懐かしい目で眺めていた。
「中辛で大丈夫だったか?」
「高校生にもなって、私が甘口だとでも思ってるの?」
「…そうか。そうだよな」
感慨深げに頷く父に、亜紀は少しムッとした。この人の記憶は八年前で止まっているままだ。
カレーは、二人が隣り合う形で置かれた。杏梨優はいつも父と時間をずらして食べているようだが、父がまた部屋に引っ込む気配が無かったので自然とそうなった。それでも対面する形で食べるのは気が引けたのだ。
「いただきます」と子供と一緒に手を合わせ、「おいしいよ」と笑ってくれる。その姿は、何処にでもいる温かい家庭の父親と何ら変わりは無かった。
「…もし、未来を予測できる者がいたとする。知ってしまった運命は変えることができない。だとしたら、その能力は果たして意味のあるものだろうか、それとも無意味なものだと思うか?」
だが、話の内容はやはり異常だった。
「少し先が見えるだけで、何もできないんじゃ意味がないと思うけど…?」
他に応えてやる人もいないため、会話を繋ぐのは必然的に亜紀になる。
「そうだね。でもね、その更に先の未来を変えることだったらできるんじゃないかな」
「……」
「父さんのやっていることはね、つまりそういうことなんだよ」
「…?」
亜紀が首を傾げると、父は少し笑った。
「例えばね、今日は雨が降るっていう変えられない運命があっても、傘を持っていけば問題ないだろ?」
「ああ…」
例えがありきたりすぎて、逆にピンと来ない。
「でも亜紀だったら、邪魔だからってその傘すら拒みそうだよね。でもね、もしそこまでも運命だとしたら、父さんは土砂降りの雨の中、不貞腐れている亜紀を車で迎えに行ってあげるんだ」
「そう、ありがとう」
意味はやっと理解できたが、ここでどうしてそんな話をするのだろうか。いまいち分からず、結局表面的な相槌を打ってごまかすしかできない。
「…お父さんは、超能力者なの?」
「おいおい、父さんは研究者だよ?そんなオカルト、信じると思うか?」
そう大げさに笑い飛ばす父は、何処か白々しかった。そんな様子が少し引っかかった。
学校で寝すぎたのかもしれない。その日の夜は、なかなか眠りにつけなかった。
翌朝。昨日の別れた道で、杏梨優にばったり会った。
「おはよう、亜紀」
「ん、おはよう」
そのまま並んで歩く。
何故か杏梨優は、手を繋いできた。
「…何よ」
拒むつもりはないが、黙認するには照れくさかった。
「別に?」
しかし杏梨優は手を離そうとしない。仕方なく、亜紀はそのままにしておいた。
「…私、お父さんにばれちゃった。かなりすぐだった」
「まあ、あの人相手じゃ仕方ないわ。私は平気だったよ」
「…そう」
しかし杏梨優は、いつもみたいに勝ち誇った笑みを浮かべたりしない。何故なら彼女は亜紀の分身なのだから。
家族が見破ってくれれば、杏梨優も考えを改めてくれると思っていた。だが、杏梨優の演技は完璧だったようだ。気づかれさえしなかった。微かな期待は打ち砕かれ、亜紀は唇を噛んだ。
「でもね、これで私も安心した」
「……?」
杏梨優は大きく伸びをし、そのまま空を見上げる。今日も快晴だ。
「私は完全に亜紀になれた。それが分かったんだから。だから、」
杏梨優が立ち止まる。
「もう今日でおしまい」
「えっ?」
垣間見せたその笑顔は、いつもの杏梨優そのものだった。
しかし、その表情はすぐに消えてしまうと、
「さよなら」
手が、離れた。
遠ざかっていく杏梨優の姿。その横を視界一杯に、
トラックが横切った。
鈍い衝撃音と、遅れて聞こえる凄まじいブレーキ音。
突然の出来事に呆然とするしかなかった。
再び目に入った杏梨優は、微笑んでいた。だが、その頬には大粒の雫が伝っていた。
つられて思わず、亜紀も一粒涙をこぼした。
初めて見る、お互いの表情だった。
駆け寄ってくる人の足音と声も遠くに、二人は静かに見つめ合う。
それが、二人の最期の思い出となった。
病院についても、目の前で起きていることが信じられなかった。
事故は、トラックに直撃する形で起きていた。手の施し様もなく、ほぼ即死。
もう一人の自分は、今は安らかに眠っていた。もう起きないと分かっていても、思わず手を伸ばしそうになる。「早くしないと遅刻しちゃうよ」と、叩き起こしたくなってしまう。
随分と広い個室で、一人ぼっち。もう一人いるのだが、この状況を二人ぼっちと呼ぶことは、もう出来ない。
空っぽになってしまった心は、少しの恐怖しか持てなかった。
誰でもいい。早く来て――。
ぎゅっと目をつむり、何かに耐えるようにしてじっと待っていた。
どれくらいそうしていただろうか。
無音であることに慣れてきた時、急にドアが勢いよく開いた。
突然の音に跳び上がり、恐る恐る後ろを向くと、
「…凱」
凱も目の前の状況に打ちのめされているようだった。血の気をなくした顔で、立ちすくんでいる。そして、ゆっくりと此方に視線を戻した。
「……」
言葉を探している凱を、固唾を呑んで見守った。ようやく出た答えは、
「――亜紀?」
見えているものに、やっと色がついたような気がした。ふっと力が抜け、同時に無に近かった心に現実がなだれ込んできた。
それはあまりにも多すぎて、涙となって溢れ出る。
とうとう膝をつき、声を上げて泣きだした。
そうだ、私は――
亜紀なんだ。
杏梨優は、死んだんだ。
慌てて駆け寄った凱の胸に抱かれながら、亜紀は一つ一つ咀嚼していく。
何処も怪我していないはずの身体がズキズキと痛む気がした。
あっけなく奪われてしまった一人の少女の命は、こうして一人の少女によって消化されるのだった。
運命の時間を過ぎたことを確認すると、清志はホッと胸を撫で下ろした。
長かった――。
じわじわと体に広がっていく疲労感は、充実したものだった。
苦しめられてきた悪夢とも、これでおさらばだ。
亜紀は運命から守られたのだ。
悪夢が再現されるのは、変えることの出来ない事実だった。だが、清志は娘を失うという事実をどうしても鵜呑みにしたくなかった。
そこでふと、思いついたのだ。もしかするとあの少女は自分の娘ではなく、娘にそっくりな子なだけかもしれない。
藁にも縋る思いで、盲目に作り上げた少女こそが杏梨優だった。
悪夢の生贄として育てられた杏梨優は、しかし清志の意に反して育つ部分も多かった。
違う、これでは亜紀ではない。
僅かな娘との差が、悪夢の再現に大きく関わる。そこで清志は杏梨優と亜紀を接触させ、二人のシンクロの最終調整を行った。
そして今日、杏梨優はその役目を全うしたのだ。
身に沁みる達成感こそが、その終焉を物語っていた。
これで自分の役目も終わった。あとは、亜紀が今までと同じように幸せに暮らすのを願うだけだ。
――三人で。
その幸せな毎日に、自分はいないことを清志は分かっていた。
亜紀の姿をもう見れないのは残念だが、生きてくれていればそれでいい。
無理にでも結論付け、辺りを見回す。酷く汚い部屋だ。
「まあ、いいか。必要なものだけ持って動けば」
ここから遠くに頼れる友人はいたかと、大学時代の清志は記憶を辿っていく。
後ろを振り返ることは、もうしないようにしよう。
心残りと言えば娘に会えないことくらいだ。
しかし、その割にはしこりがやけに大きいことに、清志は気づかなかった。
いつものように一人で登校し、いつものように本を開く。やがていつものように蓮や凱が来て、いつものように他愛ない会話で時間を潰す。
少し前の、一人だった時の日常に戻るのは、思っていた以上に早かった。
柊先輩のところにはまだ行けないが、亜紀は徐々に元に戻せたらいいなと考えていた。隣にいれなくても、避ける必要はないのだから。
杏梨優のことは、皆打ち合わせたように口にしなくなった。亜紀に気を遣っているのかもしれないが、彼ら自身もその話題には触れたくないようだった。
二人の間にあった異様な世界は、クラスにとっては恐怖に写ったのかもしれない。そもそも何も無かったかのように、作られた平穏な日々が続いていた。
「おい、亜紀。次、移動授業だぞ」
凱がいそいそと次の授業の準備をする。
「うん。先行ってて」
「そうか。遅れんなよ」
「うん」
去っていく凱の背中に、亜紀は小さく手を振った。
その指先には、
――小さな切り傷の跡があった。
ODD ‘i’~カガミの定理~ 香罹伽 梢 @karatogi
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