第3話 転
目つきが悪い、とよく生徒には言われるが、今日はすれ違いざまに子供に泣かれそうだ。
鏡の前で自分のクマを睨みつけ、猪瀬はふと思った。
文化祭の前日は係の配置や各先生のタイムスケジュールの把握で、当日よりも忙しい。毎年経験しているが、この徹夜だけはどうしても慣れなかった。
一度仮眠を取ろうか考えたが、生憎横になれそうなところは今日はない。仕方なく、そのままの足で教室を見に行った。
どのクラスも、まだ人はいないのに活気に溢れていた。だが、贔屓目を除いても自分のクラスが一番だと思った。贔屓目を除いても、だ。
この看板は美術部の飯田か。メニューは達筆な藍谷だな。扉のデザインは、色遣いの悪ふざけ様からして益田と吉村だろう。
ワイワイと楽しくやっている、生徒たちの顔が浮かぶ。身体はズシリと重く頭も冴えないが、悪くはなかった。
その中に、少し馴染めていない色を見つけた。
看板の下の、宣伝文句。たった七文字の「WELCOME」を、猪瀬はじっと見つめた。具体的な生徒の名前がなかなか思い浮かばない。
これは、紅崎のか…?
筆跡は藍谷とそっくりだ。だが、あの子は必要以上の仕事はしない。
自分で描いたものを突き進めていく紅崎。その性格は、たった一週間だけでも十分思い知らされるほど強烈だ。
何せ、あの藍谷がたじろくんだからな。
全くそっくりな姉妹だが、持っているものは明らかに違った。いや、蓄えてきたものが違うのだ。だが、
集中している時の顔、遠くのものを見つめる目つき、示し合わせたように顔を見合わせる時の笑み――。時折垣間見せるふとした仕草は、洗練されたかのようにそっくりだった。最近はそれが頻繁に見られる。
一緒にいるうちにどんどん二人は歩み寄っている。これは、姉妹愛として喜ばしいことなのだろうか。それとも――。
「先生」
声がして、何も考えずに
「おお、藍谷――」
後ろを向くと、猪瀬は凍りついた。
「っ…。おはよう、紅崎」
「おはようございます」
ぺこりとお辞儀をすると、何事もなかったかのように教室に姿を消した。
ドアが閉まるのを合図に、どっと汗が噴き出した。
確かに、姿を見ずに声だけで判断するのは無理だったかのしれない。だが、あの時自分は紅崎を、髪型だけで認識した。
しかも、今ドアを閉める時――。
痛みを感じる頭の中で、恐る恐る再生してみる。
数センチ手前、ドアは急にスピードを落としてそっと閉まった。
朝一番に来るから他に人は誰もいない。音を立てることに気を遣わなくてもいいはずだ。なのにいつも藍谷は、律儀にそうしてドアを静かに閉める。それとそっくりだった。
たったそれだけのことでも、猪瀬は胸騒ぎがしてならなかった。寝不足による耳鳴りではない。確かに身体の奥底で、不吉な音が渦巻いているような気がした。
続けざまに幾人もの生徒とすれ違う。いつもとは違う顔つきをした皆と、軽く言葉を交わす。だが気味の悪い感覚は収まらないまま、時間だけが刻々と過ぎて行った。
ふと腕時計を見やると、もういい時間だった。金属板の下で、手首は嫌な汗をかいていた。
――文化祭が、幕を開ける。
いつも以上に多く人の行き交う廊下、飛び交う歓喜、無遠慮にがなり立てる放送――。団体戦がものを言う体育祭も苦手だが、やけに騒がしい文化祭も亜紀は嫌いだった。何より、盛り上がっている中で一人白けている自分が嫌だった。かと言って、気持ちを入れ替えて心から楽しめるほど器用ではない。だから、
「ほら、亜紀。接客してるんだからもう少し笑顔ちょーだい」
「無理」
乗らない気分がすぐに顔に出てしまう。
「ねえ、私がこういうの向いてないって分かってるでしょ?杏梨優はともかく、なんで私まで道連れにするわけ?」
『お嬢ちゃん、コーヒー一つ』
「……」
「ほら、亜紀」
「…はい、只今」
確かに、クラスで喫茶店をやるというのは知っていた。だが、ウェイトレスをやらされるという話は聞いていない。しかも、杏梨優と二人だけで回せだなんて。
「ありがとう」
「いえ」
紙コップ一杯分のスマイルで返すと、そそくさと席から離れようとする。
「あ、ちょっと君」
「はい」
「君、あの子とそっくりだね。姉妹なの?」
つまり、これが我がクラスの戦略らしい。
看板娘があったら、衣装とかに凝るより面白いんじゃないか?
一体そんな案を提案した馬鹿は、何処のどいつなのだろう。
故にここは「ウェイトレスの中に双子の姉妹がいる喫茶店」ではなく、「双子の姉妹がウェイトレスをする喫茶店」と宣伝できるよう、二人のみで店を回しているのだ。
「ええ、まあ…」
「はいはーい。そうなんですよー。私たち双子でして」
「ああ、やっぱり!こうして並んでみると本当にそっくりだね」
「ありがとうございます」
この手の話は杏梨優が飛んできて取り繕ってくれる。だが、やはり疲れるものは疲れる。しかもこれを売りにしているとなれば、二人は無休で働く羽目になる。
「大した部活に入ってなかったのが仇となるなんて…」
「そんなこと言ってると、柊先輩に怒られちゃうよ」
「……」
先日自分を見た時の、先輩の顔が浮かぶ。驚いたような、戸惑っているような、怯えているような――。ごちゃ混ぜになった色々な感情を押し込めようとして溢れてしまっているような、そんな表情だった。
結局あの日以来、柊先輩には会っていなかった。会えなかった。クラスの行事に理由をつけて、気が付けば図書室から足を遠ざけていた。
また、父の時と同じだ。
分かっていても、結局動くことはできなかった。
「オレンジジュースとコーラ」
「クッキーとアイスティーね」
「亜紀ちゃん、こっちにもー」
「はいはい…」
遊びに来た知人や友達も、容赦なく注文を浴びせてくる。
いちいちメモに取るのが面倒くさいので、その場で暗記してすぐに品物を渡す。バイトをしたことはないが、案外どうにかなるものだ。
「なあ、亜紀。大丈夫か?」
あまりにもそのスピードが速いので、凱も流石に心配そうだ。
「そう見える?」
客には向けない冷気を全開にすると、凱はすぐに手元のペットボトルに視線を落とした。
「心配するくらいなら手伝ってよ」
「無理だね。俺も忙しいんだよ」
「言われた飲み物取り出すだけの仕事が?」
「うるせー」
「まあまあ。もうクラスの方針なんだから、今更亜紀が忙しいのはどうしようもないよ」
蓮が間に割って入った。でないと、また言い合いが始まりそうだ。
「それよりも凱、もう行かなきゃだよ」
「おう、もうそんな時間か。じゃあな、俺抜けるから」
「は?まだ1時間しか働いてないのに?」
「行っただろ?忙しいんだよ」
凱は勝ち誇った笑みと名札を置いて、さっさと教室から出て行く。
「何なのよ、あれ」
「まあまあ、そうピリピリしない」
杏梨優はその隣に、自分の名札を置いた。
「んじゃ、そういうわけで私も抜けるね」
「どういうわけよ。二人で一セットが成り立たないんなら、私だって特に頑張る意味はない」
亜紀もその上に名札を叩きつけた。
「でも、亜紀は特に用事ないでしょ?」
「ある」
「どんな?」
「杏梨優の方こそ、なんで外に出るの?」
「それは…」
口をつぐむと、人差し指を当ててナイショのポーズ。教えるつもりはないらしい。
「じゃあ私も言わない」
「えー」
しかし、杏梨優はそれ以上のことを追及してこなかった。
「まあ、いっか。じゃあね、二時間後にはまた戻ってくるから」
「了解…」
それに関してはもう断る理由が作れない。
早くも人ごみに呑まれて、杏梨優の姿は見えなくなった。
大きく伸びをするスペースもなく、亜紀は溜め息をつくことで疲れを外に出そうとした。
二時間後に備えて充分に休息をとるためには、
――あの場所しかない。
通りすがる人たちの興味津々といった視線を余所に、凱はアンプからコードを伸ばす。
「…ったく、昔にこういうのやってたって言うんなら、下準備は早くしなきゃいけないことぐらい分かるだろーが」
悪態をつきながら、動かす手は決して止めない。
ライブ客からの激励は有難いが、今は邪魔でしかない。凱だとそれが表にすぐ出てしまう。だから今は蓮が、そんな客の話し相手に忙しい。
戦力が一人分減っているせいで作業は遅れている。
ましてや応援に駆けつけてくれるはずだった先輩も少ないことが、凱の苛立ちを更に大きくさせた。もちろんその中に柊先輩もいない。
「ごめん!遅くなった!」
「本当だよ。遅い」
聞き慣れたはずだが、まだトーンに違和感を感じる明るい声に、凱は顔を上げた。
「ごめんって」
そこには、溌剌とした表情の杏梨優がいた。
亜紀は絶対こういう風には笑わないんだろうな。
分かっていても、その眩しい杏梨優の姿に亜紀を重ねずにはいられなかった。
幸せそうに笑う亜紀の横には、
やはり柊先輩も一緒に見えた。
「…くそっ」
小さな舌打ちは、周りの雑音に掻き消されてしまった。
そうだ、二人の間に自分の声は届かない。
「ねえ、凱ってば」
ハッとして横を見ると、ギターを抱えた杏梨優がこちらを覗き込んでいた。
「これ、どのアンプに繋げればいいの?あと、エフェクターが昨日の練習のと違うように見えるのは、気のせい?」
「あ、ああ…。それは右のに挿して。エフェクターは昨日のとは違うけど、前のやつを持ってきただけだから新しく覚えることはないよ」
「分かった」
てきぱきと動く杏梨優の背中を見ながら、凱は動揺を抑えきれない。
無自覚な至近距離で人の顔を覗く癖、その時の何処を見ているのか分からない目。
一瞬だが、確かにあの時自分は亜紀を見ていた。
「凱!何してるの?」
蓮の呼ぶ声がする。
「え?…あ」
気がつけば、手にしていたピックが折れていた。
「大丈夫?」
本来なら、解放された蓮の方にかけるはずの言葉を先に言われてしまった。
「悪い。もう平気」
そうだ、今はそんなことで悶々としている場合じゃない。頬を一発叩いて、気合を入れる。微かに残った痛みが、凱の気を引き締めた。
ふと後ろを振り返ると、もう大分席が埋まっていた。
隅から隅まで見渡しても、勿論亜紀の姿はない。
違う痛みが、凱の胸の奥をチリリと焦がす。マイクテストをする杏梨優の声が、それを虚しくも掻き立てた。
目の前に広がる光景に、亜紀は言葉を失った。
照明を消した部屋の中、プラネタリウムバルーンが宙に浮いて、静かに冷たく光っている。
それを取り囲むようにして、映し出された星たちがゆっくりと廻っていた。時折、それは周りの物に反射して生命を吹き込まれたかのようにキラリと瞬く。
大事そうに抱えているオルゴールが、寂しく旋律を奏でていた。温かく慰めるように、他人事のように。
「やあ、やっぱり来たね」
その中で、柊先輩は優しく微笑んだ。
「何してるんですか…先輩」
文化祭で学校がはっちゃけているのに対して、柊先輩も当社比二割り増しでぶっ飛んでいた。
図書室は本の盗難防止のために閉鎖されている。一般公開されない場所を、ここまで飾り立てる意味が分からない。
素直に「綺麗ですね」とは返せないこの状況で、亜紀は頭を抱えた。
「暇だったからね。家にあったものを持ってきてみたんだ」
「家にこんなものあるんですか…」
宙にぶら下がっているロケットを見やり、亜紀は正直に呟いた。
もし柊先輩の部屋がこんな感じだったら、落ち着かない。
「いいだろ?人ばかりで息苦しい文化祭から、切り離された場所を作りたかったんだ」
確かに、こんなに薄暗いと普通の人は入りづらいだろう。
「休憩場所には丁度いいだろ?」
「休憩は仕事の合間にあるから休憩って言うんです。先輩、一日中ここにいる気でしょう?」
「勿論。管理者だからね」
司書の存在を無視してここまで堂々と言えるあたりが、やはり柊先輩らしい。
「本と共に廻る小宇宙。我ながら結構な出来栄えだと思うんだが…」
チラリと亜紀を見やる。
「その労力を他の事に使ってください」
褒め言葉が欲しかったのだろうが、そこまで亜紀は優しくない。
「第一、こんな暗さじゃ本が読めませんよ」
「……」
反論が来ないあたり、計算外だったらしい。
「…それはさて置きだ」
それを置かれてしまうと、もはや図書室として成立しない。
「俺に何か言いたそうな顔だね」
先輩はいじわるだと亜紀は思った。そこまで分かっていて、こんなことして遊んでいるのだから。
「先輩、クラスの出し物には顔を出さないんですか?」
「俺のクラスは演劇だよ。脚本を書いたから、それで仕事は終わりさ」
「じゃあ……ライブの方には出ないんですか?」
「……」
柊先輩は、穏やかな表情で上を向いた。嘘くさい星が、わざとらしく輝いている。
「どうして出ないんですか?皆、楽しみにしてるんですよ」
「それは、君もかい?」
「っ……」
軽い冗談なはずなのに、その言葉は亜紀を大きく揺さぶった。
「やりたくないからやらない。それだけじゃ、皆の期待には釣り合わないかな?」
「…ええ。そんなことでは全く理由にならないくらいに」
柊先輩は弱弱しく苦笑した。
「でも、君だってバンドの助っ人を断ったらしいね」
「私は、先輩に教わった分しか弾けませんから」
一度、ギターをかき鳴らしていた先輩の見よう見まねで弾いてみたことがある。案外単純な操作だったので苦ではなかった。だが、それを凱に見られたことが今回のことに災いした。勿論、大勢の人の前でパフォーマンスをするなんて御免である。
「それだけしかやってないのに、普通に音が鳴ったのかい?」
「軽音の良し悪しなんてよく分かりません。ただ、友達に褒められただけです」
「そうか」
なにが「そうか」なのかはよく分からないが、柊先輩は納得したらしい。
「…私、もう一回叫ぶつもりでした。「柊先輩」って」
「……」
「昼のライブはもう無理ですけど……後夜祭、出て欲しいです」
「…そうか」
俯く亜紀の頭に、柊先輩は手を置いた。
「でも、それはできない」
わしゃわしゃと頭を撫でてやると、亜紀は更に下を向いた。
「代理で入ってくれたバンドに悪いからね」
「そんな…っ。あいつらだって、先輩の復帰を望んでます」
「そうか。嬉しいね」
全く相手にしてくれない。気まぐれなようで意志はもう固いらしい。これ以上何を言っても無駄なことは、亜紀は経験上分かっていた。
「じゃあせめて、理由くらい教えてください。本当の理由」
「…それは、できれば君には言いたくないな」
「もしかして、私のせいなんですか?」
とは言え、心当たりがなかった。それが余計に亜紀を不安にさせた。
「いや、君が気にすることじゃないよ」
「私の知らないところで、私の話が進んでいくのはもうやめてください」
「もう?」
「っ……」
思わず口走った言葉に、くじけそうになる。
「…そうですよ。もう嫌なんです」
何も話してくれない父の顔が浮かんだ。その横で同じ表情をする杏梨優も。
「先輩は優しすぎます。でもそれって、ただ相手を傷つけたくないっていう綺麗ごとなだけなんじゃないんですか?本人としては、凄く不愉快です」
「そうだね。ただ守りたいっていう自己満足だよ。でも俺は、正面からぶつかる術を知らない」
「…私だって怖いです。それでも、知りたいです」
そう強く願うのは、相手が柊先輩だからだ。こうして表面的に隣で過ごすのではなく、二人の在り方の核心に触れたかった。
柊先輩は大きく息を吐いた。
「初めて君に会った時思ったんだけど、君は文を書くとき、物凄い漢字を律儀に原稿に書いてたね。ワープロ化する前の状態から」
「醤油」「襲撃」「轟き」くらいならまだ分かる。だが、あの時目に留まったのは「葡萄牙」「薺」「鸚鵡」だ。読めたとしても、その場ですぐ書ける漢字ではない。
「あんまり意識してません。面倒なので、分からない漢字はひらがなで書いてますよ?」
「原稿を提出する時に留めてあるクリップ、いつも可愛いけど、俺は店で見たことがないんだ」
ゾウ、りんご、花。ここまでは良かった。だが、こないだの紙束の右端には時計の模様のクリップが留められていた。ご丁寧に、ローマ数字まで付いていた。
「暇なときに、自分で作っているものなので。ペンチ一本で出来るので、簡単ですよ」
「…いつか英語を教えたとき、君はイギリス英語の方に近い発音をしていたね」
少なくとも学校では教わらない。
「ヨーロッパ側の言語のほうが詳しいので…。しゃべる程度なら五カ国くらい平気です」
「こないだ、どうして去年の文芸部の予算と決算を宙で言えたんだい?おかげで生徒会に睨まれずに助かったけど」
「あまり賢くはないですけど、暗記力くらいなら誇れます」
「…要するに、そういうことだよ」
「どういうことです?」
亜紀はまだ意味が分からず、素直に首を傾げた。
「いつも思っていたことだけど、こないだあの子を見て確信したんだよ。彼女は普通の人の数倍も察しがいい。他にも何か異常な才能を持っているようだった。でもそれは同時に、君にも言えることなんじゃないかってね」
「!」
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「自覚、無いみたいだね」
「無いです。私は今まで普通に生きてきました」
「私たち、じゃないんだね」
「……」
「聞いたよ、君たちの事。彼女の方から。君は普通に生きてても、彼女はそうじゃないんだってね」
柊先輩は決してクローンという言葉を使わなかった。いや、避けているようだった。それは気遣いからだろうか、まだ信じられないからだろうか。それすらも亜紀には分からない。自分のことで精一杯だった。柊先輩の言葉を頭で噛み砕くのがやっとだった。
「勿論、それを知ったとしても君は君だ。君は、これからも「普通に」生きていく。でもね、その「普通」が君の中で揺らがないからこそ、僕の足元が揺れたんだよ」
「……?」
「ちょっと難しかった?つまり君らの無自覚な才能を見ていたら、ちょっと自信がなくなっちゃたんだ」
「そんな…」
「さっきも言ったけど、君は気にしなくていいよ。俺が勝手に思っていることだから。「君らがステージに立つ方がずっと上手い音楽が聞けるんじゃないか」だなんて」
「っ……」
思わず身体が強張った。今自分は、何かを壊しにかかっている。
「だから気にしないで」
「気にしますよ……」
「そうだよね。ごめんね。やっぱり言わない方が良かった?」
すぐに亜紀は首を横に振った。
「ショックでしたけど、受けなきゃいけない傷だと思います」
「でも君は、何も変わる必要はないんだよ?」
「先輩を踏み留まらせてまで、このままでいて良いんでしょうか」
「……」
「私、分からないです。どうしていいのか。…でも、教えてくれた先輩には感謝してます。本当に」
「…気持ちの整理が付くまで、ここにいていい。騒がしいところじゃ考えられるものも考えられないだろ」
「いえ、大丈夫です」
おぼつかない足取りで、ドアの方へ向かう、柊先輩もオルゴールを抱えたままついてきた。
その様子が可笑しくって、亜紀は力なく笑った。
そして、お互い哀しそうな目がかち合った瞬間、
「っ!」
亜紀の視界は暗くなった。胸が痛いのは、オルゴールの箱ごと柊先輩に抱かれたからだけだろうか。
しかしその温もりは、すぐに消えた。
「…ごめん」
先輩を突き飛ばした手も、彼の言葉が沁みてジンジンと痛い。
亜紀は柊先輩の顔を見ることなく、逃げるようにして外に出た。
心拍数は、泣きたくなるほど速いままだった。
サービスセンターで主に尋ねてくるのは、老若男女問わず迷子がほとんどだ。それほど校舎は人でごった返していた。
だから猪瀬は、その人を見つけた時はもはや奇跡を感じた。
「やあ、猪瀬君。元気そうだね」
しかもあっちも自分に気づいてくれた。
「久しぶりだな」
休憩のきっかけに丁度いいと、猪瀬は席を外して彼に近づいた。
「君は何も変わってないね」
帽子をとると、そこには優しく笑う清志の姿があった。
「どうしたんだ?こういう所にお前が来てくれるとは思わなかったよ」
清志とは大学時代からの知り合いだ。奇跡とも称される頭脳を持つ清志は、当時大学ではもはや有名人だった。何故か外国語が一切できないことも。
そんな彼とはサークルで知り合った仲だが、猪瀬が英語科選択と聞いた清志がすがり付いてきたことが本当に親しくなったきっかけだ。
清志から缶コーヒーを受け取る。学校の自動販売機のは既に売り切れていたので、有難かった。
「ちょっと気になってね。亜紀たちは仲良くやってるかい?」
「ああ、今も喫茶店で二人で頑張ってるよ」
「そうか」
「俺はまた、てっきりお前が論文の英訳を頼みに来たかと思ったけどな」
「まさか。もうそんなものを書く予定はないよ」
「……研究者、辞めたのか?」
「いや、今の職をこの年で手放す気はないよ。ただ、その必要があるようなものを書くことは、もうないってだけだ」
「そうか」
清志の言うことが理解出来ないのはいつものことだった。考えても分からないものは分からないので、そこで探りを入れるのは止めにする。
「君の子も、元気そうだよ」
「やめてくれ。あの子は俺の子じゃない」
「どうしてだい?」
「普通に考えてそうだろ…。あの子の父親はお前で、あの子の姉は藍谷だ」
自分はただ、清志に懇願されて種を提供しただけだ。情けない話だが、あの頃はいつだって金に困っていた。
それに、そうやって割り切らなければ生まれてきた本人が可愛そうだ。
「見てみるか?確かに目元は妻とそっくりだが、あの真っ直ぐな鼻筋はまさに君のものだよ」
「……」
清志に何を言っても無駄なことは知っている。彼は遺伝子的事実とモラルを分離させることが出来ない。職業上ある程度は仕方ないだろうが、清志はその面で天才すぎた。自分の子も同じ遺伝子の半分を持つものとして見てしまい、頭の中では色々な数式が回ってしまうのだろう。彼は曲がった形でしか子供を愛せない。
「お前も何も変わってないな」
「そうか?」
「ああ」
「まあ、成長したとは思ってないがな。…さて、君の元気な様子を見れたし、もう帰るかな」
「二人には会ったのか?」
「いや」
清志は寂しそうに笑った。
「あの子たちは、そういうことは嫌うだろうから」
確かに、この年頃の子は親を他人に見られるのを嫌う。いくら一時的なものだと思っても、哀しいものは哀しいだろう。
「二人をよろしく頼む。今日は喧嘩の一つでもありそうだから、見かけたら止めてやってくれ」
「ん?ああ」
また予言か。
久々に聞いたと猪瀬は懐かしく思った。サークルでは清志の言うことはよく当たると、一時期お悩み相談所の如く人が集まってきたものだ。
「気をつけとくよ」
「…ところで、出口は何処だ?」
猪瀬は苦笑した。
入学して間もなく体育館に行けずに一人廊下をうろついていた亜紀と、こないだ職員室が分からずに提出物が遅れた杏梨優を、清志と重ねた。やはりどれだけ撥ね退けようと、親子は親子だ。
二人は彼の背中から何を見て、どう生きていくのだろうか。その一端に関われるのは、教師として喜ばしいことだった。
夕日に照らされた清志の顔は、とても安らかだった。
どういう事情であれ一つの家族の形が、そこにはあった。何だかんだで幸せそうだった。
終わりの近い文化祭は、少し勢いを劣らせながら時間を流していく。
清志を見送りながら、猪瀬はもう一仕事と気を引き締めた。
――残るは後夜祭のみとなった。
本当は終わったらすぐにでも帰るつもりだった。だが、荷物をまとめている時に杏梨優に見つかってしまった。
「後夜祭、行かないの?」
「行かない」
「駄目だよ、見に行こう?」
「なんで?」
「だって亜紀、楽しみにしてたんでしょ?」
「っ…うるさい」
何も知らない杏梨優の言葉は、無遠慮にグサグサと亜紀の心に刺さった。
「ほら、行くよ」
「行かない」
「柊先輩だって見に来てるはずだよ?」
今その話はしないで。
だが口にしたら一から説明を求められる。それも嫌だったので寸手のところで呑みこんだ。
その代わり、亜紀は杏梨優をキッと睨みつけた。
「こないだ調べものとか言ってたの、先輩と話すことだったの?」
「やだな、ばったり会ったからお話ししただけだよ」
「嘘ばっかり!」
先輩が杏梨優の正体を知らなかったら、こんなことにはならないで済んだかもしれない。
ふと出た思いが、杏梨優に対する怒りにすり変えられた。
正直何でも良かった、今の気持ちをぶつけられれば。
「先輩、杏梨優のせいで混乱してたよ。おかげでライブも潰れた」
「私のせいだっていうの?」
「そうでしょ?」
「別に私は、柊先輩が聞いてきたことに答えただけだよ」
「それがいけなかったって言ってるの」
「何よ、八つ当たりじゃない。理不尽」
そんなこと分かりきっていた。だから亜紀は、言葉が続かなくなった。
「まあまあ二人とも。とりあえず、教室の鍵閉めるから一旦外に出てくれないか?」
もしここで猪瀬が割って入ってくれなかったら、手を出していたかもしれない。
大人しく廊下に出る。昼の騒がしさが嘘のように、校舎はしんとしていた。他の生徒たちはもう後夜祭を観に行っているのだろう。
「ほら、行くよ」
杏梨優に手を引かれ、結局亜紀はとぼとぼと引きずられていった。
そんな二人の背中を、猪瀬は心配そうに見守っていた。
体育館の中に入ると、熱気と共に沢山の音が雪崩れ込んできた。
チューニングの甘いギターが目立ちたがってがなりたて、ドラムが我武者羅に音を飛ばす。
後輩のバンドだろう。たった一年しか違わないというのに、あどけない若さを感じた。
ステージの下で人が飛び跳ねる。その中に杏梨優も紛れ込んでいってしまった。連れて来られた身だというのに早速亜紀は一人になった。
ここまでくると、引き返す気も失せてしまった。せめて凱たちのバンドだけでも見て帰るかと、皆の少し後ろでステージを見上げる。
その端で、同じようにじっとバンドを見つめる柊先輩を見つけた。
視界からすぐに外すつもりが、思わず亜紀は柊先輩に見入ってしまった。
亜紀は今までステージの上で叫ぶ先輩しか見たことがない。だから違和感しか覚えなかった。下から輝かしい舞台を見上げる柊先輩に。
今にでも駆け出して、先輩の元へ行きたい衝動に駆られる。だが、脳裏に過る昼のオルゴールの音が邪魔をして、足が動かない。
演奏が鳴り止んでも、ダラダラとMCが入っても、亜紀はずっとそのままだった。だから、ステージ脇から凱がギターを抱えて入っていくのも、蓮が続いて駆け込んでくるのも気づかなかった。杏梨優が、マイクを片手にステージに上がったことも――
突然、先ほどとはタッチの違うギターが唸りを上げた。そして、
「はい、どうもー」
自分と同じ声がして、ようやく亜紀はステージに目を向けた。
「こんばんは!音盟団プラス助っ人の紅崎杏梨優です」
「っ!」
道理であれから凱がしつこく誘っては来なかったわけだ。
そういえば、自己紹介でそんなことも言ってたっけと、遠くで杏梨優たちを見やりながら他人事のように思う。
だが、
「さて、そんなわけで我らのスター、ゴストラーが急遽棄権ということで私達がいるのですが、この通り人数少ないんですよ」
バンドのメンバーが欠け、そこに杏梨優で埋めても凱と蓮の三人。確かに必要最低限すぎる人数だ。
「ちょっと淋しいな!まだ音、足りないよね?」
わけが分からず、勢いに任せて盛り上がる観客。柊先輩も控えめに拍手を送っていた。
その笑顔は何処か哀しそうだった。
その矢先、
「じゃあもう一人呼んじゃわない?ね!それではご紹介しましょう。我らが救戦士、藍谷亜紀!」
「えっ?」
ステージから飛び降りてきた杏梨優は、真っ直ぐこちらへやって来た。
「ちょっと、どういうこと?」
「亜紀、ここまで来たらやるしかないよ」
「嫌だよ、だって…」
もしかして今杏梨優のやっていることは、先輩の妄想に拍車をかけることになるのではないか。
亜紀の不安はグルグルと廻った。
――俺が勝手に思っていることだから。「君らがステージに立つ方がずっと上手い音楽が聞けるんじゃないか」だなんて。
あの時の先輩の表情が、今の先輩と重なった。
共犯者にだけは、なりたくなかった。これ以上、あんな顔を見たくない。
「グズグズしてる場合じゃないよ」
「どうして?杏梨優は何がしたいの?」
「亜紀が迷ってることくらい知ってる」
「……」
「でも、ここにいたって何も変わらないよ。違う景色見せてあげるから。おいで」
また手を引かれ、亜紀は足を前に出した。やはり、杏梨優には敵わない。隠すつもりはなかったが、言うつもりもなく黙っていた。だが、杏梨優にはとっくにバレていた。
「はい、これ」
渡されたギターを黙って受け取る。下から湧き上がるようにして、観客にはざわめきが広がった。それは初めて杏梨優がやってきた日の、クラスの反応と同じだった。
「おい、亜紀」
凱の声は動揺していた。どうやら杏梨優以外の人たちにはバンドにとっても規格外のことらしい。
「大丈夫なのか?」
楽譜に目を走らす。これくらいだったら初見で平気だ。
「うん」
笑い返してやると、凱はすぐに視線を逸らした。
今の自分の顔は、後ろで微笑む杏梨優にそっくりなのだろう。
そうなのだ、だって自分らは――
同じ人間なのだから。
杏梨優のMCが止むと、すぐさま亜紀は音を切り出した。
出番が終わると、亜紀はステージの脇でうずくまったまま動かなくなってしまった。
人前に出るというのは、亜紀にとって相当の負荷がかかるのだろう。
「どうした。大丈夫か?」
一仕事終わると、亜紀の隣に腰掛ける。
「うん…」
全然大丈夫じゃなさそうな声が返ってきた。
「急に巻き込んでごめん…止めた方が良かったか?」
「凱は謝らなくていいよ。それに、色々分かったからいいの」
『あなたの見ている景色の中に、私はきっといないのでしょう』
不器用に絡み合い、弾け合い、ぶつかっていく音たち。
自分の声は、真っ直ぐにメッセージを持って飛んでいった。
『それでも、あなたの隣で笑っていてもいいですか?』
叶わないと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。
『いつだって同じものを眺めて過ごしていたいだけ』
観客は、黙って耳を傾けてくれる。
『それすらも許されないのですか?』
届けたい人は、目の前で微笑んでいた。
『でしたら、この気持ちだけでも大切にしていていいですか?』
答えなんて、とっくに出ていた。
『あなたが大好きです。ただそれだけの思いを――』
ベタな歌詞。それでも、亜紀には十分重かった。
「凛!」
柊先輩が叫んだ。
「っ!」
思わず指がもつれそうになる。それは亜紀のペンネームだった。
ああ、そうか。
亜紀は納得した。
照れくさそうにはにかむ柊先輩は、いつもの先輩だった。
柊先輩も、自分も、何も変わる必要はないのだ。ただ、立ち位置が違いすぎることに戸惑っただけだ。今までそれを見ないふりをして、ただ何となく一緒にいた。だが、杏梨優を通して自分の正体を知ることで、見えてしまったものがあった。
自分と先輩は、そもそも相容れる間柄ではなかった。二人の世界が交わることはないのだ。
なだれ込んできた現実を隠すように、亜紀は尚も声の限り歌った。
届かないと知っていても。
確かに、ステージからでなければ見れない景色があった。もちろん苦しい景色だったが、亜紀は見て良かったと思いたかった。
「…亜紀、最近お前どうしたんだ?」
「え…?」
「お前は、いつもみたいに過ごしてればいいんだよ。なんでこんなに周りに影響されてるんだよ」
「でも…」
「普通」でいたら、傷つく人がいる。このままでいては、また何か失ってしまうかもしれない。亜紀は更に臆病になっていた。
「でももだってもない。俺は…今までの亜紀が好きだ」
「……」
やっと、亜紀は目を合わせてくれた。
「別に、返事とかそういうのいいから。…でも、覚えておいてほしい」
「…うん」
さっきよりは、少し返事が明るくなった。
気を紛らわすように、凱はステージに目をやる。
青春を謳歌する彼らは確かに眩しかったが、羨ましいとは思わなかった。
「ただいま」
自分は部屋に篭って出てこないというのに、杏梨優はいつも律儀に言う。
足音が自分の部屋の前まで来たタイミングで、清志は「おかえり」と言った。
ふと、足音が止む。だが、ドアの開く音まではしなかった。
「随分遅かったね」
「後夜祭も行ったから」
「そうか、亜紀は――」
「一人、潰したよ」
「……」
「それだけ」
駆けていく足音は、すぐに遠くなっていった。
「よくやったな」くらい、言ってやった方がよかっただろうか。いや、あの子はそんな言葉は望まないだろう。
だとしたら、何故わざわざそんなことを報告した――?
色んな可能性を巡らしたが、すぐに止めた。清志にとって答えの出ないものは、考えるだけ「無駄」なことだった。
出来たてのレポートに目を落とす。眩暈がするほどうるさい所だったが、見合うだけの収穫はあった。おかげで杏梨優が手にした情報をこの目で裏付けることができた。
清志は、名簿欄の「佐久間銀二:文芸部にて接触あり。その他随時二人のみの共有多し。要注意」に斜線を引く。
杏梨優と亜紀を同じものにするためには、周りの人間関係も酷似させなくてはならない。しかし、亜紀にとっての「特別」を彼女に同じように持たすのは不可能である。だったら亜紀の方のそれを潰して、杏梨優に似せるしかない。気の毒ではあったが、全ては亜紀自身のためである。
クラスの人らは、杏梨優がずっと亜紀に付き添っていれば自然と離れていった。
残るは――
指でトンと叩く下には、「萩下凱」と記されていた。
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