第2話 承

「あー…暇だ」

 口にしたところで現状は何も変わらないのだが、それでも言わずにはいられなかった。でないと、もどかしくって仕方がない。

「それ、もう七回目だよ。僕じゃ不満?」

 隣でベースをいじっていた蓮が、その場を繋いだ。

「いや、そうじゃなくて…。一人いないだけで、こうも違うとは思わなかったんだよ」

 朝、まだ人も疎らな学校で、蓮と凱は二人ぼっちだった。

 いつもなら、早くから教室にいる亜紀とやんや言い合って過ごすのだが、今日は何故か来ていない。

 だらだらと過ごすいつもの朝は、ただの軽音楽部の朝練になっていた。本来はこっちのほうが正しいかたちだというのに、不自然としか感じなかった。

「静かだな」

「平和で何より」

「そうだけどさ、なんつーか…。調子狂う」

「僕『だけ』じゃ不満?」

「う…まぁ、な」

「素直で結構」

「……暇だ」

「八回目」

 普段だったら気に留めもしないが、何せ昨日のことがある。頭の隅ではチカチカと、警戒ランプが点滅していた。

「あいつ、どうしたんだろうな」

「さあね。でも杏梨優ちゃんのことだったら、僕らは首を突っ込むべきではないと思うよ」

「……」

 流石に蓮はお見通しだった。

 幼稚園児の頃からの付き合いだ。その腐れ縁ゆえにこの通り、二人の間で隠し事は一切通用しなくなった。特に、すぐに顔に出る凱の方は。

「でもさ…。昨日みたいな亜紀、俺初めて見たんだよ」

「うん」

「かなり余裕がなかったっていうか、あいつにも焦ることあるんだって…。本当なら当たり前のこと思ったりさ」

「心配?」

「んなことねーよ。…でもいきなり宇宙語喋り出したり、やけに呑み込みが早かったり、いつもなら何されたって気にしないくせにあんな嫌そうな顔したり、変じゃん。いつもみたいにボケーっとしてた方が、亜紀らしい」

「そうだね」

「かと言って、こっちからしてやれることは何も無いか…。止めた止めた、考えるだけあほらしい」

 凱は自分のギターを引っ手繰ると、手当たり次第にジャカジャカ鳴らした。

 チューニングのずれた弦が、気味悪く音を唸らせた。




「もういい時間なのに、運動部くらいしかいないね」

「軽音部くらいなら、教室にいると思うよ」

「朝練?随分忙しいんだね」

「もうすぐ文化祭だから、その準備なのよ」

 校門先の並木に生い茂った緑も、引いてきた暑さと共に陰りを見せ始め、秋の気配を感じる。

 普段なら、さっさかと通り抜けるはずのそんな朝、

「亜紀、起きるの早いよ。私のこと置き去りにして行く気だったでしょ」

「杏梨優が寝坊するのが悪い」

「六時起きでも寝坊とみなすの?」

「その三十分後に家を出るとしたらね」

 毎朝一人でいることに慣れた道を、亜紀はのろのろと二人で歩いていた。

「そんなに早くに出てどうするの?亜紀って何か部活って入ってたっけ」

「強いて言うなら文芸部」

「うわっ、地味」

「何とでも言いなさい」

「そうじゃないの。私が言いたいのは、朝に活動なんてなさそうな地味な部活だってこと」

「まあ、ないけど」

「じゃあ、どうして?」

「あのねえ、」

 亜紀は立ち止まる。テンポが速くて、歩きながら口を動かすことすら難しく思えてきた。

「いいじゃん別に」

「いいけど気になるじゃん」

「特に大した意味はないよ。ただ、家から早く出たいだけ」

「どうして?」

「あれが皆が起きて来ないギリギリの時間なの。一人でいる時間はなるべく多く作っとかないと、クラスの皆といる時に処理しきれなくなる」

「そんなに人付き合いってストレス?」

「いや、愛想笑いが苦手なだけ」

「そんなの慣れっこ」

「慣れちゃいけないと思ってる」

 また歩き出すと、杏梨優はぴったり横についてくる。不思議にも、足がもつれることはない。

「いつもはもっと早いんでしょ?ホームルームまでの一時間弱、何してるの?」

「本読んだり、凱や蓮と話したり」

「ああ、昨日のあの二人?」

「もう覚えたの?」

「うん、クラスの大体の人は」

 亜紀は特に驚く様子は見せなかった。今更杏梨優から何を聞かされても、溜め息しか出てこない。

「使う場面、そんなに無いよ」

「そうだけど、知っておいて損はないでしょ?」

「得もないけどね」

 まだ眩しい日差しから逃げるようにして、亜紀は校舎に急ぎ足で飛び込む。

 下駄箱から上履きをずり落とし、ぺたんこな隙間に横着して足を通した。

「ねえ、特に用事ないんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、学校案内してよ」

「え?」

 振り向くと、杏梨優は真新しい上履きを手を使って足に引っ掛けていた。

「学校の構造ってぐちゃぐちゃしてて、分かりづらいんだもん」

 そう片足立ちでぐらぐらしながら言う。

「まあ、かなり非合理的な建ち方はしてるけどね」

「何が学び舎なんだか」

「そんなこと言ったら、自主自律だって無いようなものよ。ただの自由奔放」

「じゃあそんな好き勝手に造られた学校、見せてもらいましょうか」

「…さして見所もないけどね」

 杏梨優に後ろから押される。亜紀は早くに諦めをつけると、されるがままにされていた。




 しんと静まり返っているというより、空気が威圧感を持って音を封じ込めているようで、だが息苦しさは感じない。酸素ボンベのいらない水の中、深呼吸ができる月の上。そんな感覚が持てる素敵な所。

 なぞるようにして背表紙を辿りながら、独特のペースで歩を進める。興味の湧いたものを前にすれば、自然と足が止まる。その時が来るまで、ゆったりと本棚を回るこの時間が好きだった。

「柊ツカサ」と書かれたノートを、この部屋で開いたことは一度も無い。図書室に来れば、本を読む。それが最も自然な在り方だろうと当然思うからだ。

 教科書などには「佐久間銀二」と記してあるが、今となってはそっちの方が申し訳程度のものに思えてきた。何故って、

「あ、柊先輩。いらしたんですか」

 誰もが彼を、そう呼ぶからだ。

 顔を上げれば、その主犯が不思議そうにこちらを見やっていた。

「軽音の朝練、しなくていいんですか?」

 しかしその質問には答えずに、すぐに視線を本棚に逸らした。

 数秒置いて、また彼女を見た。だが、現状は変わらない。

「…その子は?」

 後輩と瓜二つの子が、彼女の横で同じようにして首をかしげていた。

「ん?ああ、転校生の杏梨優です。ちょっと学校案内してるんですけど、何処も開いてないんで結局ここに来ました」

「朝早いから人も少なくていいと思ったのにね」

 あれから、色々なところをぐるぐるしたはいいが、特に説明するような場所も無かった。何せまだこの時間じゃ、教室以外は施錠されている。仕方なく、亜紀は図書室を訪ねたのだ。ここなら、朝から受験生の勉強場所として開いている。文芸部員として活動場所の様子はよく把握していた。

「柊先輩。軽音部長で有名なの」

「なんで軽音部の先輩を亜紀が知ってるわけ?」

「兼文芸部長だからよ」

「へえ、多彩ね。あ、よろしくお願いします」

「ああ、どうも…」

 素直にペコリと頭を下げる杏梨優に、たどたどしく会釈した。初めて亜紀と会った時とまるで同じだったのだ。

 亜紀もそれを知ってか知らずか、気まずそうに目を逸らした。それも、初めて自分の名前を呼んでくれた時の表情に重なった。

 新歓ライブで大きな声で「柊先輩!」と叫んだ亜紀。起こった笑いに罪悪感を覚えたのか、そのまま去っていってしまい、以来幻の後輩となりかけていた。しかし再会は意外にも早く、それは一週間後の文芸部会にて訪れた。部誌で柊ツカサを知っていて、思わず呼んでしまったとぺこぺこと頭を下げられた。どうやって仮名と顔を一致させたのかは未だ謎である。

 あれからもう一年、今やすっかりそっちの愛称の方が定着してしまった。何のためのペンネームなのやら。

「二人は姉妹かい?」

「ええ、一応」

「そうか」

 あくまでそれ以上のことは聞かないでおいた。これより先には入ってはならないと、直感的に悟った。

「それで、こんなところで油売っていていいんですか?朝練行かないんなら原稿書いて下さいよ」

「失敬な。これだってちゃんとした部活動だよ」

「よく言います。その本、もう何回も読んでるじゃないですか」

「最近こういうのしか読む気がしないのだよ。他のものに手を出すと、作品に影響する」

「もう締め切り過ぎてますけど」

「言うでないよ。そしてそれを黙認できるのも部長の特権だ」

「ずるい。私には散々急かしといて」

 杏梨優から目を逸らすように、二人は次々と言葉を投げる。その脇で、本人は気ままに棚のものを物色していた。

「朝から声を出す気にはなれない。それに、なるべく自由な時間は自由に使っとかないと、後で苛々するからな」

「一人が好きですね。邪魔しちゃいました?」

「いいや、気にしてないよ」

 涼しく笑い返すと、亜紀の視線はすぐに下を向いた。こういう逃げ足の速いところは、人付き合いの下手な文芸部員の中でも亜紀が断トツだ。バリアを張る段階が人一倍早いのだ。彼はそれを重々承知していた。だから、

「大正ロマンなんかが好きなら、奥の棚にもっと沢山あるよ」

 今一歩引いたと分かった時は、すぐにその場を離れるようにしていた。そうして元に戻るまで時間を与えてやる。少し遠回りではあるが、ここまでしないと話が進まないこともしばしばあるのだ。手間をかけるだけのいいものを、亜紀は溢れるほど持っている。次期部長候補として放っておくわけにはいかなかった。

「良いですよね、こういう雰囲気って。背景が洒落てて」

 対して杏梨優は、臆することなく人の目を真っ直ぐ見つめてくる。亜紀もこちらを向いてくれたら、こんな強い光を持った目をしているのだろうか。

 しかし、同じような姿かたちをしているというのに、何故だか上手く連想できなかった。

「…君は、一体誰なんだい?」

 思わず零れた素直な疑問は、

「――亜紀のスペアですよ」

 とんでもない応答によって、はぐらかされたような気がした。

「スペアなら、どうしてそんなに違うのかな」

 少し揺れた杏梨優の瞳に、自分はどう映っているのだろうか。

「…違いますか?」

「ああ、君は君だよ。こんなこと言うのはお節介かもしれないけど。でも、少なくとも俺の目はだませない」

 杏梨優のことは分からなくとも、普段亜紀の方を見つめていれば、見分けるのは簡単なことだ。

「でも、あなたは今私を見て話していませんよね?」

「っ……」

「私を通して、亜紀を見ている。そうですよね、柊先輩?」

 杏梨優は亜紀とは似ても似つかない愉快な笑い方をする。これだけ違うというのに、その光景に戸惑いを隠せないのは、事実だった。

「本人に言えないことを、私を利用して消費しようとするのはやめてくれませんか?」

「…どういう意味だ?」

「そのまんまですよ。私と亜紀が違うって豪語するんなら、ちゃんと区別つけて下さいな」

 気圧されて、思わず視界から杏梨優を外した。

 亜紀は素知らぬ顔で本をパラパラとめくっていた。そういえば、彼女がちゃんと座って本を読んでいるのを見たことがない。ここで見かけるとき、亜紀はいつもこうして紙束を指で弄ぶのだ。片っ端から次から次へと。ずっとそうしているところを見ると、毎回の休み時間につき本棚一幅分くらいの冊数になるだろうか。

「…ライオンが人に手を差し伸べるというのは、正直どう思う?」

 ふと、亜紀が顔を上げた。目が合うと、自分に聞かれているのだとようやく気付いたのか、慌てて本を閉じる。

「そうですね、正直展開が甘いと思います。もう少し葛藤があってもいいんじゃないですかね。ああ、でもここでのライオンは神としての象徴だから、そんな心情描写はできないのか――」

「っ……」

 今から三冊前にめくっていた本だ。亜紀は本を二度も読むことは滅多にしない。彼女が良しと認める本は、百冊読んでも片手の指で収まる数くらいしか見い出されないからだ。そして今のように酷評が返ってきた時点で、「以前に読んだことのある本を手にとっていた」という可能性は消える。だとしたら――

 隣を見やると、杏梨優も同じようにしてページを流していた。不意に、本を戻そうと伸びる腕を掴んだ。触れた手首は、思っていた以上に華奢で、驚くほど冷たかった。

「そんな一瞬で、活字を追えるのかい?」

 杏梨優は軽くその手を振り払うと、冷ややかな目を向けた。

「だから、言ったじゃないですか。本当はどっちに言いたいことなのかくらい、区別つけて下さいって」

「……」

 くるりとまた向きを変えると、亜紀は夢中で本に目を落としていた。

 そんな一瞬で、活字を追えるのかい?

 亜紀の前で頭の中で反芻しても、何も違和感は無かった。

 俺の目はだませない。

 君は君だよ。

 杏梨優に投げかけていた言葉は、どれだけ強く思っても亜紀には届かず、風景に溶けて消えていく。途端にもどかしさを覚え、

 ――君は、一体誰なんだい?

 やけになって投げつけた言葉に、ドキリとした。

 とうとう、亜紀は顔を上げた。

 こちらを恐る恐る見つめる瞳には、杏梨優よりもずっと優しい光が灯っていた。

 だが、

「ご心配なく。別にこれで読んでるわけじゃありませんから」

 その手に握られていたのは、今朝入荷したばかりの本の続編だった。




 チャイムが鳴るなり早々、亜紀は教科書をぱらぱらとめくると机に突っ伏した。

 確かに授業はつまらないが、あんな毎日で大丈夫なのだろうか。

 後ろでそんな亜紀を観察しながら、凱はそっとため息をついた。心配するだけ馬鹿らしい。あれで自分の二倍の素点は取ってくるのだから。思えば亜紀が真面目に勉強しているのを見たことがないが。

 きっと見えないところで努力しているのだろうと無理やり結論づけ、凱は黒板に視線を戻した。危うく、無駄な気をおこしたせいで板書に穴が開くところだった。

 が、またすぐにペンが止まった。

 ノートの上に、小さな紙片が飛び込んできたのだ。開くと、

「……?」

 漢字でもアルファベットでもない、模様のような線が羅列されていた。

 分かるのは、角ばった小奇麗なこの筆跡は、明らかに亜紀のものだということ。だが、亜紀は頭を伏せたままビクともしていない。

 もしやと思い、後ろに目をやる。生徒の頭を三つ越えたところで、杏梨優と目が合った。杏梨優はキシシと悪戯っぽく笑う。

 俺じゃなくてあっちに聞けよと、すぐさま紙片を前へ投げた。

 小さな白は綺麗な放物線を描き、亜紀の机に落ちた。

 亜紀はのろのろと起き上がると、紙を開く。そしてそのままの姿勢で何やら書き込むと、見もせずに後ろに放った。

 紙は何故か凱のところに届いた。

『文化祭は来週からだよ』

 よく分からないが、そういう用件だったらしい。

 そういえば、もうそんな時期だ。亜紀は一体どう過ごすのだろう。また杏梨優に連れ回されるのだろうか。そこには他のクラスメイトも一緒だろうか。どちらにしても、窮屈そうにしている亜紀の顔が浮かんだ。

 亜紀は集団を好まない。皆と楽しくやっているようで、実は冷めた表情をカモフラージュしているだけなのだ。限界が来れば、時折ふっと姿を消す。その時は決まって図書室にいる。柊先輩と一緒に。

 皆と一緒にいる時よりも、その笑顔はずっとのびのびしていた。亜紀を連れ戻しに行くのは基本凱の仕事だが、億劫で仕方が無かった。そんな亜紀を邪魔するべきかしないべきか、毎回葛藤するのが面倒でならないのだ。

 ふと沸いてくる苛立ちと一緒に、凱は紙を後ろへ投げた。

 紙は少し起動を外れ、杏梨優の隣の席に落ちた。すぐに杏梨優の手元に渡ったが、凱は思わず舌打ちした。

「ねえ、」

 隣で蓮が小声で耳打ちしてくる。

「柊先輩のことなんだけどさ」

「ああ?」

 また舌打ちしそうになる。今その名前は出さないで欲しかった。

「ゴストラー、後夜祭に出ないことになったんだって」

「は?」

「だから、出ないんだって。後夜祭」

「いや、意味は分かるよ」

 柊先輩率いるバンド、ゴストラー。その圧倒的歌唱力とパフォーマンスは、軽音部一光る存在だ。そして、彼らのライブは後夜祭の目玉でもある。それが潰れるというのは、俄かには信じられない話だった。

「というか、なんで?」

「分かんないよ。僕もさっき聞いたばっかりだから。それで、僕らのバンドに話が回ってきたんだけど」

「は?」

「ほら、僕らのところ、元々経験者多いし」

「でも…」

「やっぱり無理があるよね」

 肝心のギターの健吾が、こないだ体育で指を駄目にしたのだ。文化祭までにの回復は見込めない。

「どうする?断るのも勿体無いし、他のバンドの子を引っこ抜いてくれば…」

「いや、それはしたくない」

「だよね」

 正直、自分のメンバー以外の部員は信用ならなかった。

「…でも、他の奴らにも任せられないだろ。考えとく」

 見つめる先では、亜紀がまた呑気に眠っていた。




 目が覚めると、必ず汗をびっしり掻いている。

 杏梨優を学校に送り出すようになってからは、その不快さは余計に増した。

 清志は大きく伸びをすると、混乱する頭を一旦落ち着かせる。

 晴れた空の下、倒れていく人、一気に横切っていくトラック――。

「妊娠したの」

 妻が亜紀を身篭ったその日から、ずっと見続けている夢だ。

 その夢は、日に日に鮮明さを増して行く。

 それと比例するように、恐怖もどんどん積み重なっていく。

 清志は知っていた。

 これは変えられない運命なのだと。

 同時に、自分の能力を恨んだ。

 少し先を見越せることは、良いことでもあり悪いことでもあった。

 こうして未来に臆病になることは、悪いことの方に分類される。

 おかげで亜紀を真正面から愛してやれなかった。妻に迷惑をかけた。伸也が生まれた。

 自分の狂った能力がために――。

 悟ったその日から、清志はクローン研究に没頭した。

モラルなんて関係ない。それで運命の先を変えられるのであれば、何でも良かった。

杏梨優の里親だった同胞の研究者が亡くなった時も、清志は迷わず保護者を志願した。

彼女を連れて帰ってきた時の妻の顔は、今でもしっかり脳裏に焼き付いている。妻が亜紀と家を飛び出していったのは、それから半日後のことだった。

仕方ない。

 清志は自分にそう言い聞かせることしか出来なかった。

 最愛の妻と娘と離れることになってしまっても、その命には代えられない。

「パパ」

「違う。お父さんだよ、――亜紀」

 取り残された二人の世界。不安げにこちらを見やる幼い杏梨優にかけてやる言葉は、彼女を通して亜紀に注がれていた。

 自分は何も間違っていない。分かっていても、悪夢に毎度押しつぶされそうになる。

 負けるものか。

 清志は歯ぎしりをすると、机に向かう。その脇には、幸せそうに笑う亜紀と妻の写真があった。

 全ては愛ゆえに。

 それのみが清志を動かしていた。




「嫌だ」

 そう返ってくるのは分かっていたが、ここまではっきり即答されると心も折れそうになる。

 午後の英語の授業は猪瀬が担当だったので、急遽文化祭の準備が出来ることになった。クラスの出し物は定番の喫茶店。教室のメイキングは前日になるため、今日は看板や衣装などの小物作りに精を出していた。

 その隙に、凱は正面から亜紀に助っ人を頼み込んでみたが、全然相手にしてくれなかった。

「いいだろ?後夜祭なら何処ともスケジュールかち合わないだろうし、練習に付き合うのも一週間だけだし」

「嫌だ」

「そんなに忙しい身じゃないだろ。なあ、頼むよ」

「嫌だ」

「何でだよ。俺今凄く困ってるの。友達として助けてやろうとか思わないの?」

「いーやーだっ」

「あ、おい!」

 マーカーのインクが切れたと分かると、亜紀はいそいそと教室を出て行ってしまった。

「あーあ、フラれちゃったね」

 隣で杏梨優がケタケタ笑う。

「笑い事じゃねえよ。今のところまともにギター弾ける奴、あいつくらいしか知らないんだぞ」

 一度遊び半分で弾かせてみたら、何ら問題なく音が鳴ったのだ。一体何処で習得したのか、自分より上手いくらいだった。

 これだけ出来て部員にならないのは何か事情があるのだろうと、あの時は勧誘はしなかった。だが、いざ誘ってみてここまで拒まれるとは思わなかった。

「しょうがないでしょ。亜紀が大勢の人の前に立とうだなんて、思うはずがないじゃない」

「……」

 言われてみれば、そうだった。

「でも、どうするんだよ。このままじゃ後夜祭自体が危うい」

「柊先輩の方を説得したら?」

「それは俺が嫌だ…」

 あの人ほど話の通じない人はいない。それこそ亜紀に通訳させないと、会話が成り立たないくらいだ。

「なあ、お前から亜紀を説得してみてくれないか?」

「無理よ。亜紀が私の言うことを聞くとは思えない」

 凱は頭を抱えた。どいつもこいつも使えない。

「諦めてそこらへんの部員採って来ようよ」

「キノコ狩りみたいに簡単に言うなよ」

 かなりサバイバルなこの状況で、毒のあるものは引きたくなかった。

「こら、そこ!何か手伝ってよ!」

 何処からか女子の野次が飛ぶ。仕方なく凱はハサミを手にした。線通りにダンボールを切るだけだというのに、刃が進まずに苛々する。

「亜紀も柊先輩も曲者ね」

「曲者同士、気が合うのかもな」

「分かった!じゃあ、亜紀に柊先輩を説得してもらったら?」

「駄目だ!」

 思った以上に大きな声が出て、途端にクラスの活気がさっと引いた。

 突き刺さる視線に肩をすくめると、すぐにまた元の状態に戻った。

「そんなに駄目?」

 杏梨優が可笑しそうに反復する。

「…駄目だ。確かに決着はつくだろうよ。そうすればどちらかが後夜祭に出てくれることにはなる。…でも何か嫌だ」

 楽しそうに談笑する二人の姿が、脳裏に浮かんだ。鬱陶しい。

 邪念を断つように、ジャキンと最後の一片を切った。出来上がった丸は、随分と歪だった。

「不器用ね」

 杏梨優は凱からそれを奪うと、更に手を加える。瞬く間に、一回り小さい綺麗な円が出来た。

「何でもかんでも上手くいくわけがないわ。飛び越えることを第一とするなら、時にはハードルを低くすることも必要よ」

「…それでも俺は賭けに出たい。もう少し粘るよ」

「こだわりを持つのはいいことだけど、それが身の丈に合った無茶なのかは、よく考えてね」

「心配してくれてるのか?」

「まさか」

 視線を移すと、亜紀が置いていった看板が目に留まった。こちらも切り口が綺麗だった。羅列されているメニューは、飾りっ気の無さから無関心さが滲み出ていた。

 その横で、杏梨優も何やらせっせと書いている。こちらも、冷たいほど小奇麗な字だ。

「――なあ、お前さ」

 ふと、凱は思いつくままに口を開いた。

 きょとんとこちらを見やる亜紀にそっくりな顔。それは皮肉にも、自分には見せたことが無いような無邪気な表情だった。




 あれだけベッタリくっついていた杏梨優がいきなり学校に残ると言い出したものだから、亜紀は少し驚いた。よくよく考えてみれば、四六時中傍にいられる義理はないのだから別に構わない。だが、何処か腑に落ちないものがあった。

「だから、先帰ってて」

「そりゃのびのびさせて貰うけど、何の用事?」

 喉に刺さった小骨を掻きむしりたくなるほど神経質ではないが、気になるものは気になった。

「ちょっと調べ物で図書室に。時間かかるかもだけど、亜紀も行く?」

「いや、いい」

 今はあの人に会いたい気分ではなかった。

「ねえ」

「うん?」

「…さっきの凱の話って本当?」

「気になるんだ」

「別に」

 柊先輩が後夜祭に出ない。

 そのニュースは凱だけでなく、ファンの友達やゴストラーのメンバーからも聞かされた。だが、未だに信じられなかった。

 朝会った時は、特に何処か身体が悪いようには見えなかった。気分も、そう沈んでいた様子じゃない。

 原因が分からない以上、凱のバンドが代打で入るという事実も、鵜呑みにするのは危険だと考えた。だからバンドの誘いも断った。

 本当なら柊先輩本人を追及したいところだが、生憎今日はそんな余力は残っていない。杏梨優といるだけでも普段の二倍は気を遣うのだ。蟠りを家に持ち込むのも嫌だったが、ここは大人しく帰るべきだろう。

「遠慮しなくてもいいのに」

「してない」

「あ、後夜祭の話は本当よ」

「…理由は分かる?」

「さあね。柊先輩しか知らないみたい」

 手にしている情報は同じらしい。

 亜紀は新品のマーカーを職員室から掻っ攫ってきた帰りに知った。ゴストラーのメンバーにばったり会ったのだ。

「やあ、椿ちゃん」

「亜紀です」

 柊先輩の周りの人に、亜紀は「椿」と呼ばれていた。二人でセットにされること自体は別に何とも思っていないが、相手が相手となると少し気が引ける。

「ゴストラーのライブ、中止にしたんですね」

「そうみたいだね」

「随分他人事ですね」

「そりゃ、まだ柊が何も話してくれないからな」

「…え?」

 彼はわざとらしく肩をすくめた。ドラムを叩くだけでは持て余しそうな、鍛えられて締まった三角筋目立った。

「今日、急にあいつが言い出したんだよ。後夜祭は出ないって」

「…それで、はいそーですかって納得して止めちゃうんですか?」

「柊を説得できるような奴がいたら、見てみたいね」

「その点は否定はしません」

 持っているポリシーの芯が堅すぎて、柊先輩とは話が噛み合うことすら稀だ。

「でも、だからってそんな簡単に鵜呑みにできるものなんですか?」

「まあ、あいつとの付き合いは慣れだよ。最後の文化祭で力を出せないのは残念だけどね。皆にも申し訳ないけど」

 別にバンドへの熱が冷めたわけではない。楽しみにしていた人が沢山いたことも知っている。

 なのにどうして、柊先輩の気まぐれな一言を信じることができるのだろうか。

 不思議な絆が、そこにはあった。

 だから、亜紀はそれ以上何も聞けなかった。

「全く。一人の生徒の一言で、こんな大きくイベントが揺れるものなのね」

「そんなものよ。人が作ってるんだから」

 亜紀は大きく溜め息をついた。最近そうしてばかりだ。

「じゃあ私、帰るから」

「帰っちゃうの?」

「うん。帰る」

 躊躇う前にそそくさと会話を打ち切ると、亜紀はくるりと背を向けた。

「じゃーね、また明日」

 杏梨優のさよならに、亜紀は手を上げるだけで返した。

 笑みの消えた、杏梨優を見ずに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る