ODD ‘i’~カガミの定理~

香罹伽 梢

第1話 起

 限られた絵の具しか無いのなら、新しい色を作ってキャンパスにぶちまければいい。

 決められた五線譜の羅列しか持っていないなら、自分なりに命を吹き込んで魅せればいい。

 変えられない運命がそこにあるのなら、

 その先に広がる未来を自在に変えていけばいい。

 だからワタシは、今を生きる。




「でさ、美波ったら話も聞かないで……」

「…全く……相変わらずアイツは――」

 目の前で話している蓮や凱の声も、風景に溶け込んでしまって遠くに聞こえる。

 特に睡魔の気配はない。疲れを引きずっているわけでもない。ただなんとなく、何をしようにも身が入らないのだ。

 故に亜紀は朝から「上の空」であった。

 周りから見ればいつものことだ。いつもとは違う「上の空」に気付いているのは、それを抱える本人だけだった。

 理由はよく分からない。だからこそ、流れに身を任せるしか術がなかった。それで結局、「いつものように上の空」に見えてしまう。

 そんなサイクルが昨晩から延々と続いていた。

「……って、もう。ちょっと亜紀?ちゃんと聞いてるの?」

「……え?」

 と、同時にチャイムが鳴る。

 蓮は開きかけた口を閉じ、溜め息混じりに離れて行った。

 入れ替わるようにして、視界に担任の猪瀬が入ってくる。

「起立」

 散り散りに人が整えられる中、気怠そうな号令がかかり、

「……はぁ」

 重たい頭を仕方なく持ち上げ、

「礼」

 形式だけの、何とも中途半端なお辞儀をする。

 しかしそれは彼女に限った光景ではないので、何ら問題視されることはない。

 いつものように外に目をやっても居心地が悪く、亜紀は仕方なしに猪瀬を眺めていた。手首に光る大きな腕時計は、センスのない割に高そうだった。

「出欠とるぞー。藍谷 亜紀」

「はい」

 亜紀と目が合うと、猪瀬は意外そうに眉をひそめた。しかし、

「飯田 早百合」

 すぐに教師の顔に戻った。その一瞬ですら、亜紀には気になってならなかった。

 ダラダラと続けられる応答が、何かをカウントさせるように教室に響く。ふと、亜紀は小さな不安を覚えた。

「村上 哲哉」

 しかし無常にも、名前は刻々と読み上げられていく。

「はい、全員出席だなー。丁度良かった」

「?」

 妙に意味を持たせた言葉に、亜紀だけでなく皆が首を傾げた。

「先生」

「なんだ、藍谷」

 気がつけば、手を挙げていた。

「……気分が悪いです。保健室に行ってもいいですか?」

「おいおい、まだ一時限目も始まってないぞ」

 猪瀬の声には、動揺がありありと滲み出ていた。

 別に気分が優れないというのは嘘ではない。

 しかし、めまいや腹痛といったはっきりとした症状はなく、保健室に行ったところで何も解決しないことは分かっていた。

 ただ、この違和感から逃げ出したい。咄嗟の思いが咄嗟の行動となって表に出てきた。

 亜紀自身も半ば驚いていた。

 ――この感覚は、いつぶりだろう。

「とりあえず、ホームルームが終わるまで待て」

 嫌です。

 喉元まで出かけた言葉をぐっと呑み込んだ。

 私は一体何をしてるの?何が怖いの?

 答えの出ない自問自答で頭を埋め、今にも椅子から離れようとする身体を縛り付けた。

 一刻一刻を噛みしめるように、耳につく鼓動はどんどん早くなっていく。

 やがて、忙しなく動いていた視線はある一点に止まった。

 ドアの向こう――。

 閉まっていて、その先の外の様子は完全に見えなくなっている。何が自分を動かしているのかは分からない。しかし亜紀は、その向こうにただならぬ気配を感じていた。

「急な話だが、転校生が来た」

 猪瀬の一声は、途端に教室を活気で包んだ。

 その中に戸惑いの色が見えるのも、猪瀬はきちんと感じ取っていた。

「確かに時期が悪いが…突然なのはあちらもらしくな。何かと不便なことも多いだろうから、皆も協力してやってくれ」

 そう、今日は二学期が始まって丁度一週間。このタイミングで「転校生」というワードが飛び出てくるのは、あまりにも不自然だった。

「……といっても、まだ来てないんだがな」

 転校初日に遅刻とは、実際にやらかすとなると大した度胸の持ち主である。

 ――もう来ているが。

 気配に気が付いているのは、亜紀だけのようだった。

 出来ればこのままでいてほしい。

 そんな勝手な思いが亜紀を黙らせていた。

 しかし、微かな願いは悉く打ち砕かれ、

 ドアが開くと、教室は水を打ったように静かになった。正確に言うなれば、言葉が出なくなった。

 ビクンと、亜紀の身体は電流が走ったように跳ねた。そして遅れてぞわぞわと、嫌な感覚がむせ上がってくる。耐えきれなくなって亜紀は目を逸らした。それでも動悸は治まらない。外に目を向けても、木々のざわめきが余計にそれを加速させるばかりだった。一瞬だけでも視界に入ってしまった転校生の姿は、もう脳裏に焼き付いてしまって離れない。

 造り物のように白い肌。それを際立たせる黒髪が、柔らかく肩から零れ落ちる。目尻が綺麗に上がったアーモンド型の大きな瞳は、どんなものも見逃さないような不思議な生命力が溢れていた。

 転校生の美しい出立ちに、皆は静かに息を呑んでいた。同じ制服で身を包もうとも、その異端なオーラは拭いきれない。

 いや、それだけではない

「××××××?」

 彼女は一般の日本人には理解し得ない言葉を発した。

 澄んだよく通る声は、戸惑う教室内を更に異質な空間に染め上げる。

 その傍ら、亜紀は大きく溜息をつくと、意を決して

「××××××」

 言葉を返した。

 そしてまた、皆の視線から逃げるように顔を外へ向けた。

「Oh,sorry」

 すぐさま彼女は、皆が理解できる言語に変換してくれた。

 しかし、亜紀は目を背けたままだった。

 一人の生徒が囁く。

 ――なぁ、アイツ、藍谷と……

 しかし、あまりの空気の重さに耐えきれず、言葉は続かないままに黙殺された。

「Hello.Let me introduce myself,then.I'm Hayakage Kozaki.I'm from Duitschland.So I'm not good at speaking English.」

 なるほど。確かに日本人には聞き慣れない発音ではあるが、内容は極簡単なものだった。

 しかし、一般日本人に比べれば英語力は確実に上だ。分かる奴は得意げに耳を傾け、次節わざとらしく頷いた。

 だが、

「…My hobby is rock music:I used to be a singer in……と、まぁ日本語話せるんだけどねー」

 一瞬にして教室はどよめき、また活気が戻った。

「改めて自己紹介!紅崎 杏梨優です。それと、」

 ――なぁ、やっぱりアイツ

 生徒がまた囁く。

 ――藍谷と似てない?

 それが聞こえたのかは分からない。

 杏梨優はニヤリと口角を吊り上げた。そして、どこぞ吹く風と目を合わせようともしない亜紀を指さすと、

「この子の双子の姉にあたります」

 皆の視線が、亜紀に集まった。

 とうとう亜紀は、観念したように顔を向けた。

「ドイツ出身だなんて、随分と突拍子な話ね」

「あら、諦めがつくのが早いのね」

 あくまで平然を装う亜紀と悪戯っぽく笑う杏梨優。浮かべる表情は全く違えど二人は、

 ――まるで鏡を隔てたかのようにそっくりだった。




 その後大騒ぎとなったのは、杏梨優の周りだけではなかった。亜紀はこの転校生の発言のせいで、とんだとばっちりを受けた。異質な転校生より顔見知りのクラスメイトから事情を聞き出した方が早いと踏んだのか、野次馬が亜紀に流れ込んできたのだ。

 おかげでいざ本人らが接触する頃には、亜紀はもう既にげんなりしていた。

「亜紀」

 昼休み、呼ばれてまず反応したのは、何故かサイドにいた凱と蓮だった。そしてその後に、本人がのろのろと顔を上げた。

 黒々としたストレートボブが、ほとんどの表情を隠してしまう。しかしその奥で光る瞳は、明らかに相手を警戒していた。

「はじめまして」

 そう胡散臭く、杏梨優は笑顔をはじけさせる。

 亜紀は適当に会釈した。杏梨優がたかってくる人らを掻き分けて此方へ来るものだから、目立って仕方がない。

「え?初対面なの?」

 蓮が本当に驚いた顔をした。それでも箸を動かす手は止めない。

「そうだよ」

「え、だって…。さっき亜紀、双子だって紅崎さんが言ってたのに驚かなかった――」

「杏梨優でいいよ」

「双子なら、この状況も納得いくって思っただけ」

「……」

 二人はほぼ同時に口を挟んだ。その声質も、トーンが違うだけで全く同じ。

 言わずとも分かるこれだけの共通点がありながら、二人が今までに接点がないとは思えなかった。

「じゃあなんで杏梨優は、亜紀と双子だってことを知ってたんだ?」

 焼きそばパンを頬張りながら、凱は訝しげに聞いた。

「親から聞いたの」

「それだけか?」

「そうねー。何だか今までに会ったことあるような気もするけどね。不思議だねー」

 亜紀は思わず目を伏せてしまう。髪型は違うが、逆に言えばそれ以外に違いはなかった。そっくりなんてレベルじゃない。まるで同じだった。

 しかし杏梨優は、自分とは似ても似つかない表情を浮かべる。何だか自分の顔がいいように弄ばされているようで、気味悪くすら思った。

「なぁ、本当に今まで関わりないのか?」

 まだ疑いが晴れないのか、凱の表情は固い。

「んー?」

 杏梨優が白々しく生返事をし、会話はそこでピタリと止まってしまった。

 しかしその間は、気まずくなる長さになる前に、

「ヤバいよ、凱!もう行かなきゃ!」

「うぉっ」

 蓮が慌ただしく打ち切った。

「ゴメンな、亜紀。ちょっと行ってくる」

「いってらっしゃい」

 何故謝るのか亜紀には分からなかったが、その手には既に凱が残したパンが握られていた。

「あ、おい!てめ…」

「こら、凱。急がないとまた柊先輩に怒られるよ」

 時間には逆らえないようだ。凱は蓮に引きずられるようにして教室を出て行った。

「軽音の昼練なんだって。だったら昼休みまで待って一緒に食べるなんてことしないで、早弁すればいいのにね」

「ふーん」

 まだ残っている自分の弁当をしまい、パンをかじる。

 喋るか食べるかして口を動かしていないと、溜め息ばかり零して酸欠になってしまいそうだった。かと言ってこうしているのも、息が詰まってどうしようもない。

 二人分の体温が消えて、周りの空気は幾らか冷えたように思えた。

「……ドイツ出身だなんて、随分突拍子な話ね」

「それ、さっきも言ってた」

「……」

 苦し紛れとはいえ話題のチョイスが悪かった。だが、沈黙が防げるなら何でも良かった。

「私と同じなら、杏梨優だって歴とした日本人でしょ。なんであんな自己紹介したの?しかもコードトーカーでもないくせに、暗号言語だなんて古い」

「ちょっと驚かしてみたかっただけよ」

 少し感情的な亜紀に対して、杏梨優は涼しい顔をして流した。それでも口端には、隠しきれていない笑みが憎たらしくも浮かんでいた。

「…そんなことばっかりしてると、浮くよ?」

「××××××」

「は?えっと…××××××?」

 つられて、ハッとして、途端に顔が熱くなった。

「ほら、亜紀も同じじゃない」

 杏梨優はケタケタと笑う。

 それが何だか悔しくて、

「私は興味本位でちょっと独学で知っただけ。…それに、お父さんは海外なんて行ったことないはずよ」

 杏梨優の表情が、ここで初めて崩れた。と言っても、他の人は見逃してしまうような些細な変化。しかし亜紀にはそれで十分だった。

「そこが分かればはっきりする。あなた、お父さんの子なのね?」

 ぎこちなくなった笑顔で、それでも杏梨優は確かに頷いた。

 最後の一口を飲み込むと、亜紀は大きく息を吐いた。やれやれ、といった表情には、何処か余裕が出てきていた。

「まぁ、顔見た時になんとなく予想ついたけど。でも、それじゃ私の方がお姉さんじゃない」

「嫌だ。私がお姉さんがいいの」

「…まぁ別に、どっちでもいいけど。でも、本当に双子の『姉』がいたっていうのは初耳」

「私は知ってたよ。だってあの人、亜紀の事しか言わないもん」

「あの人って……」

 お父さんって言ってあげればいいのに。

 そう開きかけた口を咄嗟につぐんだ。自分が踏み込んでいい領域じゃない。

「――本人に直接聞いてみた方が早いんじゃない?」

「え?」

「だって亜紀、私が何答えても納得してくれてない」

 そう言って、鼻の頭を指差す。眉間に皺が寄ってるとでも言いたいのだろうか。すかさずこめかみを揉みほぐすのは、些細な抵抗でもあった。

「……会うのは八年ぶりね」

 すると、杏梨優の顔がぱっと輝いた。今までとは違った、本当の笑顔だった。

「よし!じゃあ決まりね!あとさ……」

 パンッと無邪気に手を合わせる。

「弁当、残ってるんなら私にちょーだい」

「え?」

 そして、おずおずと自分のバスケットを押し出してくる。食べ残しの弁当とじゃ、明らかに交換条件が釣り合っていない。

「……いいけど?」

「ほんと?やった!」

 よく分からないまま、バスケットを受け取る。中身はサンドイッチだった。

 具の並べ方といい葉物の具合といい、計算して作られているようだった。しかし、随分手が混んでいるのに逆に無機質に感じられて、食べていても気楽だった。

 傍ら、杏梨優は他人の食べかけの弁当をさも美味しそうに頬張る。

 自分とは違う価値観に、戸惑いを通り越してもはや諦めがついてきた。

 自分の分身は、タコさんウィンナーを不思議そうに箸でつついている。

 亜紀はようやく口元を緩ませた。




「ただいまー」

「…おじゃまします」

 元は自分の住処なのだから、改まっておじゃましますと言うのも変な感じがした。

 放課後、凱や蓮が声をかけるよりも先に、杏梨優は亜紀の手をひたっくて教室を出て行った。拉致されるがままに走らされていた亜紀は道中、心の中で決意を固くした。これからは杏梨優には、世間の常識ってものを叩き込んでやらねばならない。

 公園の角を左、赤い屋根の家の手前で左、児童館を通り抜け、青い自動販売機の横を右――。案外、道順は八年経っても覚えているものだった。

 着いた瞬間、変わらない昔の自分の家を見上げ、しかし戸惑う間もなく杏梨優に中に押し入れられた。

 玄関に入った瞬間、ごちゃ混ぜになった薬品の匂いがつんと鼻についた。それすらも懐かしい。

 しかし呑気にしていられるのも束の間、奥から『あの人』が顔を出した瞬間、亜紀は固まってしまった。

 両親が離婚してから彼此八年。その間、この家に立ち寄ったことは一度もなかった。別に父が嫌いな訳ではない。むしろ大好きだった。夜にベランダで、父の膝の上で色々な話を聞くのは、何より楽しかった。

 なのに何故だろう。この家を母と出ていくという話になった時、泣いて駄々を捏ねた記憶があまりない。それどころか、何処かホッとするような感覚に覚えがあった。母が危ない表情をすることが減ったからかもしれない。子供らしくはしゃいで毎日過ごすことに、疲れ始めていたからかもしれない。

 だから、手に入れた新しい日常を壊すのも直すのも億劫で、そうするうちにこの家から遠ざかっていた。

 久々に見る父は、遠い記憶と照らし合わせても何ら変わりはなかった。少し白髪が増えたくらい。

「おかえり、亜紀」と、細い目を更に細めて迎えるのも、「学校、どうだった?」とお決まりの台詞を唱えるのも、自分がいなかった今まで時が止まっていたかのように、昔の日常がそこにあった。しかし、

「うん、楽しかったよ」

 そう日常のカケラを繋いたのは、杏梨優の方だった。

「っ……」

 視界に彼女が入ると、不意を突かれたように背筋に悪寒が走った。もう一つの自分の、あるべき姿を見せつけられているようで。

「何してるの?早く上がりなよ」

 父が部屋に戻り、ガチャガチャとたてる音に我に返った。

「あ、うん…。ゴメン」

 ご丁寧に靴を揃え、客用のスリッパに足を通す。案外自然に「よそ者」の堤体を受け入れられた。

 薄暗い部屋に入るなり、早速スリッパの底がジャリジャリと音をたてる。亜紀は床に散乱する書類を押し分けながら、大きく溜め息をついた。

「お父さん、相変わらずね。せめて掃除機くらいかければいいのに」

「かけれるような所がないのよ」

 足の裏の感触の正体がガラス片であることを亜紀はよく知っていた。父が実験中によく割るのだ。故にこの家の中は『裸足厳禁』であり、スリッパが必要不可欠なのである。

「まぁ、どうぞ。こんな場所だけど」

 父は辛うじて座れるスペースを作ってくれた。昔自分が上で跳ねては怒られた、小さなソファだった。

「しかし、驚いたね。まさか亜紀が一緒に帰ってくるなんて」

「連れてきた方が、早いと思って」

「そうか。あ、飲み物は亜紀は紅茶でいいかい?」

「うん」

 まだ苦いものが駄目だとでも思っているのだろうか。亜紀は少しムッとしたが、悔しいことにコーヒーは苦手だった。

「亜紀は?」

「……え?」

「私はコーヒー」

 何事もないように、杏梨優が応えた。

「分かった。ちょっと待って」

 そして、奥の給油室に消えていく。

「――言ったでしょ?」

 亜紀が戸惑い任せに口を開く前に、杏梨優は言葉を繋いだ。

「あの人、亜紀の事しか言わないもん」

「……」

 その横顔に、淋しさは微塵も感じられなかった。

「戸籍上、私も亜紀って名前で登録されてる。杏梨優っていうのは、母親が付けた呼び名よ」

「もしかして、その人が…」

「そう、ドイツ人。あの人と出会ってそういう話になったのは日本だけど、生まれたのは母親の希望で実家の近くの病院だった」

「道理で聞き慣れない名前だと思った」

「まあね。でも、センスの無さだったら…」

「はい、紅茶とコーヒーねー。……ん?」

二人してジトッとした目で配色の悪い服を着た父を睨んだ。

「…えっと、ゴメンよ。父さん、余興の塩梅とか分からないから、早速本題なんだけど…」

日本茶を片手に、よいしょと向かい側のソファに腰掛ける。

三人分違う飲み物を持って来るあたり、随分器用である。

「――ところで亜紀は、クローンについてどれだけ知ってるかい?」




 人間は受精卵という一つの細胞が分裂して作られるものである。その生命の原点は、遺伝子のつまった核を持っている。この核はのちに出来るどの細胞にも同じものが入っており、それは万物変わらない。

 つまり、どの細胞の核にも受精卵の核になれる才能はあるのだ。

 では、もしその受精卵の核を他人の核とすり替えたらどうなるのか?

 遺伝子情報も他人の核のものにすり替えられるため、そうしてその核の持ち主と全く同じ遺伝子を持つ生物が誕生する。

 ざっくり言うとこれがクローンだ。

「……つまり、杏梨優はお父さんが『作った』子ってこと?」

「随分察しが早いね。いつ気付いた?」

 人の命の重さに関わる話だというのに、父は淡々としていた。

「というか、一応聞くけどそんなもの作っていいの?」

 蛙、イモリ、ラット、ドリー――。クローン研究は様々な生物に手を伸ばしていった。その極みにあるもの、それが人間である。

 現在様々な倫理的問題が問われ、世界はこの好奇心を強制的にシャットアウトさせた。だがそれは出来る出来ないの可能性の問題で打ち切ったわけではない。つまり、

「作ろうと思えば作れるよ」

 そうさらっと言ってのけて実際に作ってしまうのが父だ。

「……見た瞬間、予想はついた」

 そんな父に頭を抱える亜紀に、とある記憶がフラッシュバックする。

 何せこの事は、今に始まった話ではないのだ。

『お父さんは何のお仕事をしてるの?』

 幼稚園児くらいの頃の記憶だろうか。夜空がいつも以上に澄んでいたから、よく覚えている。

『研究者だよ』

『けんきゅーしゃ?』

『毎日、色んな実験をするんだ』

『何の?』

『そうだな…亜紀をもう一人、作る実験だよ。……そうすれば、淋しくないからね』

『どうして?私、さみしくないよ?』

 父が哀しそうに首を横に振る。亜紀はそれを、父の膝の上から見上げていた――。

 あの頃は何とも思わなかったが、今思い出してみると頭が痛い。

 父が娘の分身を作るなどと言い出したのは、亜紀が物心ついた頃からだった。亜紀自信、そんな話は端から信じていなかった。だから、杏梨優を見た時には本当に驚いた。でも、

「これだけ似てたら、否応でも認めざるを得ないよ。でも自己紹介は暗号言語だし、ドイツなんてワードが出てくるし、それで一時期話がぼやけたけど」

 父は英語すら真面に話せない。論文を書くような身では致命的なステータスだが、知人に手伝ってもらって何とかやってるという。そんな父だから、日本から出るなんてことはまず無い。そうなると、その娘が母語以外を操る上に海外出身だというのはいささか不自然だったのだ。

 しかし双子として亜紀と同じ能力を持ち、母親の方がブロンドに青い瞳を携えたような人となれば納得がいく。ましてや、そんな母親の面影を微塵も感じられない姿かたちをしていれば。

「本来こういう形は望んでいなかったんだが…。八年前、亜紀の母親が事故で亡くなってな。父さんが引き取らなきゃいけなくなったんだ」

 亜紀はまた頭を抱えた。さっきから杏梨優も亜紀もまとめて「亜紀」と呼ぶものだから、ややこしくって仕方がない。

「それで、私のお母さんは…」

「そうだ、亜紀と一緒にこの家を出ていった。引き止めるべきか迷ったんだが…まだ二人を会わすには早すぎると思ってな」

 確かに、こんなDNAの産物を小学生時代に見せつけられたら困惑もする。今ですらショックはまだ大きいのだ。

「でも、そしたらなんでこの時期に私たちを会わせたの?転校生としてねじ込ませるにはタイミングが悪すぎる」

「タイムリミットだからだよ」

「…?」

「亜紀が亜紀を必要とする、タイムリミットだからだよ」

 父は娘にゆっくり言い聞かせる。その目は何処か遠くを見ていた。

「私が…杏梨優を?」

 父は自分ではない何かを見ていた。

 ――まただ。

 昔から父は、時折こうした焦点の合わない表情をする。

 そして、こういう時の父の言うことは恐ろしいほどよく当たるから、馬鹿にできない。

「でも亜紀を必要とするためには、亜紀が亜紀と同化する必要がある」

「……?」

 そろそろついて行けなくなってきた。隣を見やると、杏梨優が無表情に微笑んでいる。その冷めた瞳が自分と同じものだと思うと、悍ましい感覚がさあっと身体を駆けた。

「同化させるにはお互いのダメージを最小限に止めたかった。だからいずれ来るその日から、お互いが同化に耐えうるギリギリの日数を逆算して出たのが今日だったって訳だ」

「誰か訳して」

「××××××」

「ゴメン、そうじゃない」

 暗号化しろと誰が言った。

「まぁつまり、亜紀は難しく考えなくていいってことだ」

「なんで?私が一番この話の中心にいるようなものなのに…」

 勢いよく食ってかかっていった言葉は、結局途中から尻すぼみになってしまった。虚ろな状態の父に今何を言っても、返ってくる答えは同じだろう。

「そのうち分かるよ」

 本当に、父は何も変わっていない。




「結局、何のために行ったんだろうね」

 腑に落ちないどころか、謎が謎を呼ぶばかりだった。

「本当だねー」

 見送りについてきた杏梨優は、手に提げた紙袋をぶんぶん振り回す。中でクッキーの缶がカラカラと愉快に鳴った。父が持たせたものだ。

「でも、杏梨優は全部知ってるんでしょ?」

「さあねー」

「とぼけないで。ねぇ、私が杏梨優を必要とするって何?」

「私が生まれてきた理由よ」

「同化って?」

「私と亜紀がシンクロするの」

「いずれ来る日って?」

「亜紀が私を必要とする日」

「……訳分かんない」

 これじゃ堂々巡りだ。

「大丈夫よ。全部私がやるから。お姉ちゃんに任せなさい」

「いきなりできた姉に言われても、不安しかないんだけど」

「じゃあ、頼もしい自分がもう一人増えたとでも思いなさい」

「それ、もっと不安」

 頼もしいのなら一人で十分だ。二人もいたら逆に自己が揺らぐ。こうやって。

「でも、あの人が元気なのが見れて何よりでしょ?」

「そうね。昔と変わらず、元気に狂ってた」

「後悔してる?」

「ん?何を?」

「……私が居ること」

「……」

 父の企みは、止めようと思えば止められたことなのかもしれない。家を出て行った後も計画の進行が怖くて、信じたくなくて忘れようとしていた面はあった。その結果、今がある。だが、

「困ってない?」

「困ってるよ。これから学校でどうカバーしていけばいいのやら…。でも、それとこれとは話が別でしょ?杏梨優自身のことは、私が決めることじゃない」

「私は亜紀があって生まれてきた。だから私がいてもいいのかは、亜紀に聞きたいの。ねぇ、私、今までやってきたこと間違ってない?」

「間違ってる。大間違い」

 自分のために生きることが全てだなんて、絶対に認めない。

「私は私、杏梨優は杏梨優よ。クローンだろうと何だろうと、ここにいるのは二人なの」

 そして、紙袋を指差す。

「もう気づいてるでしょ?お父さんの企み」

 杏梨優は、俯き気味になっていた顔をバッと上げた。はしゃいだり落ち込んだり、本当に忙しい人だ。

「うん、おじゃまする気満々だった」

 二人は同じように、にぃっと笑った。




「ただいまー」

「おじゃまします」

 さっきと同じシーン、台詞。違うのは、声の主が逆であるということだけ。

「あらまぁ、いらっしゃい」

 突然の訪問者にも、母は顔色ひとつ変えずに出迎えた。

「つまらないものですが……」

「まぁ、そんな気にしなくてもいいのに」

 杏梨優が流れるような作業で紙袋を手渡すと、隠しもせずに喜んだ。クッキーが好物だということを、父はちゃんと覚えていたらしい。

 帰り道に口論になって、亜紀が自分との私生活との差を見せてやろうと杏梨優を家に引きずり込む。そうなれば、何かしら手土産が必要だろう。そこまで先が見通せるのが父だ。

「久しぶりね、杏梨優ちゃん」

「ええ、ご無沙汰しております」

「えっ?」

 部屋の奥から、弟の伸也が顔を覗かせた。その表情と同じように、亜紀は目を丸くした。

「二人とも、知り合いだったの?」

「一回会ったきりよ。それにしても、大きくなったわねー」

「そうですかー?」

 おばさんのありきたりな挨拶にも、杏梨優は嬉しそうだった。

「ささ、上がって上がって。ほら、伸也もぼーっとしてないで」

「ああ、うん……」

 しかし伸也は、入っていく杏梨優とすれ違いざまに、亜紀をリビングの外へ追いやった。

「ちょっと何よ」

「……あの人、誰?」

 後ろ手にドアを閉めると、俯いていた顔をキッと上げた。しかしいつもの反抗的な態度とは違い、不安からか声が震えていた。

 最近体つきもしっかりしてきたが、まだまだ中学生だ。弱々しく出る弟は、亜紀が思っていた以上に小さく見えた。

「まぁ、初めて見るとびっくりするよね」

 溜息混じりに伸也を宥める。

 時間が経つにつれて、亜紀も随分と余裕が出てきた。つい先程までの自分を伸也に重ねると、それが実感できる。

「お父さんの子よ。ちょっと連れて来たの。似てるでしょ?」

「似てるっていうか……」

 伸也は言葉を濁した。杏梨優のことを、伸也もちゃんと知っていた。それでも戸惑いを隠しきれないのか、目が落ち着きなく泳いでいる。

「じゃあ、生き別れの双子だとでも思っときなさい」

「…なんで俺は今まで知らされてなかったわけ?父さんの言ってたことは知ってるけど、実際にあるのととは話が別じゃん。…クローンなんて」

 躊躇いながらも、それでも言わなくてはいけないと思ったのか、伸也は恐る恐るその名を口にした。

「私も今日初めて知ったの」

「でも母さんは……」

 亜紀は静かに頷いた。

「知ってたみたいね、杏梨優の存在。だからあんなに落ち着いてる」

「どうして母さんは今まで黙ってたわけ?で、なんで今頃になって出てきたわけ?」

「お父さんは、『本来こういう形は望んでいなかったんだが』って言ってた。お父さんとお母さんの間で、杏梨優の管理の仕方にズレが出てるんだと思う」

「……会ってきたんだ」

 あからさまに嫌そうな顔をして、吐き捨てるようにして言った。

「うん、元気そうだったよ。お父さんがそうして元気な以上は、お母さんは会う気はないんだと思う。だから、杏梨優と関わることもないって思ってたのかも」

「姉ちゃん、随分そんな冷静でいられるな……」

「褒め言葉として受け取っとく」

「でも、なんで――」

「無駄な追及は、しない方がいい」

「っ……」

 伸也は唇を噛んだ。その目には、反抗の色がありありと浮かんでいた。

「別に、あの子自体は無害よ。知るべき人が一人増えたってだけで、私たちの立場は変わらない。そもそも伸也がショックを受けることは、何もないはずだけど」

「でも姉ちゃんは、関係大ありだろ?」

「そうだけど、それが何?私自身は何も変わらないでしょ?」

 開き直って、自分で驚く。一体自分の中で、何がこんなことを言わせるのだろう。

「でも……だからって普通にしてられないんだけど」

「戸惑いはするかもね。まぁ、頼もしい姉ちゃんが一人増えたとでも思いなさい」

 誰かさんが言ったようなことを真似てみる。不思議と違和感は無かった。

 伸也は大きく溜息をついた。そして、ドア越しに杏梨優の方をそっと見やり、また亜紀をまじまじと眺め、

「それ、もっと不安」

 やはり二人はきょうだいだった。




「これ、おいしいです!」

「そう?良かった。亜紀と好きなものは同じなのね」

「でも杏梨優、コーヒー飲んでたよ」

「じゃあ亜紀だって飲めるんじゃない?いいわよ、目が覚めて」

「そうだ、いっつも上の空な姉ちゃんには丁度いい」

「うるさい」

 食卓はいつも以上に賑やかになった。

 始めのうちはそれで良かった。だが、

「大体、高校生にもなってワサビすら駄目な奴が何処にいるんだっての」

「そうねえ、少し食わず嫌いなところがあるからねー」

「えー、でも私も辛いのは駄目ですよ」

「…そのキュウリ、ワサビ漬けだけど」

「あれ?じゃあ平気だ」

「ちょっと抜けてるところも、亜紀とそっくりなのね」

 亜紀ははたと手が止まった。

 はしゃぐ母と、凄まじい勢いで料理を口に運ぶ伸也と、楽しそうにお喋りする杏梨優。

 自分が抜けても、会話は何ら支障なく回っていた。

 こうして自分を少し遠くに置いて見てみると、そこには一つの家族の形があった。

 アウェイに思えた父の家、杏梨優が溶け込んでも何ら支障のない母の家。すると途端に亜紀は、天涯孤独とでもいうような感覚に襲われた。いや、自分が無機質なカメラにでもなって、映像をまわしているようだった。そこに確かに自分はいなかった。

 今まで手にしていたものがスルリと抜け落ち、ガシャンと音をたてて割れた。こんなに脆いものなのか。

「わっ、亜紀、大丈夫?」

 杏梨優が椅子から離れてしゃがみ込み、そこで亜紀は我に返る。

 床にはグラスの破片が盛大に散らばっていた。そこからドクドクと、気味悪く麦茶が流れ出していく。表面張力で丸くなった水面の端は、それでもギシギシと無理にでも前に進もうとしていた。そして、徐々に徐々に亜紀の足元まで迫ってきているのだ。

「ほら、拭きなさい」

 母から雑巾を手渡される。返事もするのも忘れて、すぐさま拭った。

「姉ちゃん何ボーっとしてるのさ。いつものことだけど。普通に持ってるコップを落とすかよ」

「ごめん」

「……」

 伸也は拍子抜けしてしまって、それから黙ってしまった。普段の姉なら、ここで反論の一つでも投げてくるはずだった。

「もう、勿体ないよ。折角可愛いコップだったのに」

 そう座りなおし、杏梨優はまた箸を手にする。その持ち方の癖まで、自分と全く同じだった。

「でもいいね。こういうの」

 杏梨優はしみじみと言う。しかし手を動かすのを止めない。

「杏梨優の家では、毎日のご飯って誰が作ってるの?」

 ふと思って聞いてみた。返ってくる答えくらい、分かりそうなものなのに。

「基本私。勿論ちゃんと二人分ね。…でも、一緒に食べたことはないかな。あの人忙しいし。それに、私が無理なの」

「そっか…」

 聞いておいて後悔したが、杏梨優の持ち前の明るさに救われた。

 杏梨優が父と一緒に食事をするのを嫌がるのは、亜紀にも何となく分かった。父と二人で対面する形でいるのは、何か受け付けないものがあった。

「だから、大切にしなきゃ駄目だよ?」

 じっと此方を見つめる杏梨優に、亜紀は複雑な気持ちでいた。見たくもないものを掴まされたようで、しかし心は杏梨優のために痛んでいた。

「うん、そうだね」

 咄嗟に出てきた作り笑いは、目の前の杏梨優と何処も違わなかった。

「さあさあ、冷めないうちに食べちゃって。おかわりもあるわよ」

「はーい」

 母の空気のぶち壊し様にも、杏梨優は元気に返事をした。

 その横で、伸也は黙ったままだった。




「あのさ」

「んー?」

「家に泊まることになった、そこまでは許すよ。お母さんがそう言うのは夕ご飯が一緒の時点で予想してたし、お父さんだってそこまで分かってて杏梨優に見送りに行かせたんだろうから」

「そうねー」

「でもさ、だからって半日前に知り合ったばっかりの人たちで、風呂に入ると思う?」

「いいじゃない。修学旅行とか部活合宿とか、赤の他人とでも裸の付き合いはあるんだから。姉妹で入っても何にもおかしくないでしょ?」

「そういう問題じゃないの。第一狭い」

 亜紀と杏梨優は足を器用に隅に折り入れ、シャワーを取り合っていた。

「こっちが風呂に入ってる時に身体洗ってよ。なんで一緒に出てくるのよ」

「だってよく分からないんだもん。背中流そうか?」

「この状態じゃターンもできない」

 仕方なく、亜紀はまた湯船の中へ戻った。

 足の爪の切り方、足首の日焼けの痕、打ち身一つない脚、腰にあるホクロ、尖った肩――。超難解な間違い探しを前に、亜紀は頭が痛くなる。父の作り上げた娘愛の結晶は、無論父が握っているものからできている。つまり、コピーされている亜紀の特性は全て、父が既知のものということだ。改めてこうして見てみると、杏梨優に罪は無くともゾッとする。

「それにしても、皆いい人ね」

「今日だけいるからよ。毎日だと、ウンザリすることも疲れることもある」

「でも、家族ってだけで十分に絆があって、何だかんだで一緒にいれるんだもの。いいな」

「……」

「無いものねだりなのは分かってる。私は自分の役割に集中しなきゃ。でもね、そっちのほうがウンザリすることも疲れることも沢山あるんだよ」

「だったら、いつだって辞めていい」

「その瞬間、私の居場所は無くなるけど?」

「っ…」

 全ては亜紀のため。それだけが父と杏梨優を繋ぐものだとでも言うのだろうか。

「やめてよ、そんなの」

「本当だから。言ったでしょ?私はその為に生かされてる」

「……考えは変わらないんだ。私と杏梨優は違うって、見てみて分かったはずでしょ?」

「うん。私と亜紀じゃ、持っている背景が全然違う。でも触れてみてよく分かった、私はもっと頑張らなくちゃって。守るものが増えた気がするの」

「私はそんな義務感もって生活してないよ」

「だったらもう少し大切にしなよ、亜紀の周りにいる人たちのこと」

「してるよ?」

「半分はそうね、だからこそ亜紀は愛されてる。でも、それを当たり前だと思っちゃ駄目だよ。それがもう半分」

 亜紀はぶくぶくと湯の中に沈む。泡と共に、轟々と鳴る機械音が耳につく。

 重い。息が詰まる。

 勿論一人では生きていけないことは分かっている。それでも、この世界はいささか窮屈だった。

「お姉ちゃん、頑張るから」

 遠くから、くぐもった杏梨優の声がする。

「亜紀と、それから今日会った人たちのためにも」

 亜紀は聞こえないふりをして、苦しくても暫くそのままだった。




 夜、ベランダに出て空を見上げる習慣は、昔からずっと変わらなかった。

 特にその日課を守り続ける意味はないが、逆に夜風にあたらないと何だか落ち着かないのだ。しかし亜紀は、億劫がってもう一緒に外に出ることはない。星やら月やら、あれこれ姉が教えてくれた頃が懐かしかった。

「ここから見る夜空も綺麗ね」

 ハッとして振り向くと、そんな昔の姉がいた。

「…あなたの家から見たほうが、見晴らしはいいと思いますよ」

 いや、パジャマ姿の杏梨優だった。亜紀のお下がりのものを着ていた。

「敬語だなんて、やめてよ。私だって伸也君のお姉さんだよ?」

「姉ちゃんは俺のこと、伸也だなんて呼ばないです」

「じゃあ、なんて?」

「何も呼ばないですよ。そういう人です」

「ふーん」

 見上げた視線のまま、空を介して会話をしているようだった。家の中でまじまじと姉の分身を見るよりは、大分気が楽だ。

「ごめんね、いきなり押しかけて。随分戸惑ってたみたいだから」

「いえ…。姉ちゃんの父親から、よく聞かされていた話でしたから。まさか本当のことだとは思わなかったけど」

「…?」

 違和感を察する異様な早さは、普段一緒にいる姉と変わらなかった。

 観念して、伸也は口を開く。

「俺、姉ちゃんとは半分しか血が繋がってないんです。種違いの姉弟で…」

 かと言って、伸也は実の父親の顔を知らない。自分の身体に巡る血が、姉と違うという証拠としてあるだけで、小さい頃まではあの家で暮らしていた。四人で。

「じゃあ、どうやって自分の身の上を知ったの?」

「血液型占いが流行った幼稚園生の時に、唐突にあの人から言われたんです」

 あの人は深刻な顔をして、ちゃんと自分の目を見てゆっくり話してくれた。

「でもタイミングを考えなさすぎるというか、デリカシーがなくて…」

 事実を受け止めるには、まだ伸也は幼かった。そのままショックに呑み込まれてしまい、以来伸也は父のことを『父ちゃん』と呼ぶことはなくなった。

「不器用なのよね、あの人。人間の気持ちが理解できないんじゃないかってくらい」

「そうですね」

 別に母の不倫とかではない。正式な人工授精。分かっていても、皆と違う遺伝子を持つ自分だなんて、最初は信じたくもなかった。

「でも、流石にあの人の実の娘なだけあるよね、亜紀って」

「あなたが言いますか、それ」

 しかし、そんな沈み込む自分に手を差し伸べてくれたのは、他ならぬ姉だった。

「じゃあ、カンシャしなきゃいけない人が変わったね。生んでくれてありがとうって」

 ランドセルもまだ真新しい亜紀は、半分きょとんとした顔のまま言った。

「でも、お母さんにカンシャすることは変わらないね」

 習いたての言葉を乱用し、姉は得意げに笑った。

「ちょっとズレてるんですよ、現実逃避というか。でも姉ちゃんは…その、優しいというか人に甘いというか、怒ることの方に目が向かないんです」

 だからこそ、何度もその無自覚に救われた。

 伸也は寸手のところで、母親まで憎むことは避けられた。そうして自身を否定していくこともなく、家の中でも孤独を作らずに済んだ。

「うん、そうだね。私のことも、何だかんだで受け入れてくれたと思う。遺伝子がどうこうとしてではないけど」

「そういうところです。でもそれって、何も考えてないから怒りもしないだけなのかなって思う時もあって…」

「裏を返せば、冷たい人なのかもね」

「…やっぱり、短時間いるだけでも分かるものなんですか?」

「うーん…。というより、自分を見つめ返してるみたいなものだから」

「でも、あなたと姉ちゃんは違いますよね」

「違うと思う?」

「あなたは、怒りはしませんが人を許すこともしません。たった一人、あの人のことを『お父さん』と呼ぶような姉ちゃんみたいに」

「……」

「…なんて、それくらいしか見つけられませんでした」

 ようやく杏梨優の方を向き、小さく苦笑いをする。

「俺、正直悔しいんです。ずっと一緒にいた俺より、さっきまで知りもしなかったあなたとの方が、姉ちゃんにそっくりで血が繋がってて。…何て言うか、家族ってどういうものなんだっけとか、随分重いこと考えてました」

 杏梨優を姉と同等に扱わないのは、せめてもの抵抗でもあった。

「でも、俺はあなたを嫌いになったりはしませんよ」

「憎くはないの?」

「ないですよ。…だって俺、姉ちゃんみたいになりたいですから……」

 掻き消えそうな声で、それでもちゃんと伸也は言い切った。頭をガシガシと掻き、また空に目をやる。

 途端、杏梨優の手が熱くなった伸也の頬に伸びた。すっと顔を引き寄せられ、また視界に杏梨優がうつる。

「よく見てみると伸也君、目元が亜紀とそっくりね」

「…そんなこと言われても、嬉しくないですよ」

 ぱっと手を振り払い、伸也はまた上を向く。

 しかしその声は、前よりもずっと明るかった。



 皆が寝静まったのを確認すると、電話に手をかけた。

 元々自分の家だ。番号は空で打てる。

 コール音がなる間、彼女はじっと待っていた。

『もしもし』

 久々に聞くその声は、八年前と何ら変わりなかった。

「清志さん、これはどういうこと?」

『ああ、君か』

 名乗らずともすぐに分かってくれた。何せ彼のことを「清志さん」と呼ぶのは、自分だけなのだから。

「杏梨優ちゃん、ちゃんと清志さんが育てるって言ったじゃない」

『ああ、育ててるよ』

「嘘おっしゃい。聞く限り、かなり放任してるじゃない。可哀想よ」

『あの子はそれでのびのびしている。何も問題ないと思うがね。』

「あるわよ。いっつもそうやって人の心を読めないんだから。杏梨優ちゃんには杏梨優ちゃんなりの生き方をさせてるっていうの?」

『ああ、あの子はあの子の役割を全うしている』

「そういうことじゃないの…。全く、どうしてこう伝わらないの?あまりにも酷いようなら、私が引き取りますよ」

『それは困る。あの子は亜紀を救うための、大事なスペアだ』

「まだそんなこと言っているの?」

 八年前の悪夢が蘇る。やはり清志はあの時と変わらず狂っていた。

『私はちゃんと君達を愛しているよ。それは心配しないでほしい』

「それは分かっているわ。でなかったら、伸也は生まれてこなかった」

 もう一人子供が欲しいと言い張った時、清志は頑として譲らなかった。もう同じ悲劇を繰り返したくないというばかり。

 ちゃんと幸せな家庭の、どこに悲劇があるのだろうと彼女は全く理解できなかった。それでもどうしても子供が欲しかった。一人っ子で子供時代に淋しい思いをした彼女にとって、兄弟は憧れのような存在でもあったのだ。

「だったら、これで作りなさい」

 やけになったのか種を手渡された時はぎょっとした。そして、「私のものではないから、大丈夫だ」と続けられ、更にたじろいた。

 躊躇して当然だった。違う父親を持つ子を産んで、どう育てていけばいいのかなんて見当もつかない。

 だが、最終的に彼女は妊娠した。

 本来押し退けるべき清志の挑発があまりに酷くて、思わず買ってしまった。

 後悔は、ないと言えば嘘になる。自分の浅はかな決断は、一瞬でも息子の心に陰を落とした。

 でも今は、伸也が生きていてくれることが何よりだ。注ぐ愛は娘と変わらない。

『大丈夫だよ。私はちゃんとしてる。あの子のことは、任せてくれ』

 そこで一方的に電話は切れた。

 ツーツーという冷たい音が、彼女の耳にいつまでも響いていた。



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