ヒトガタ狂詩曲[4]
それからの三日間、学校で会うナナとユキは、どこかぎこちなかった。ナナが勇気を出して「おはよう」と声をかければ挨拶は返ってきたけれど、それっきり会話が続かない。挨拶を除けば、一日ほとんど何も話さなかった。お互い、先日のことを気にかけているから、なおさら顔も合わせづらい。
それでも、家に帰ればスズやベベに飛びつかれてじゃれあい、お腹が空けばハルミがおやつを作って待っていてくれる。そんなささやかな時間が、ナナにとってはかけがえのない時間だった。
三日後。ナナは学校から帰ると、肩かけのカバンにスズを入れて家を出た。スズをつれていくのには、ちょっとした理由がある。というのも、学校から帰ったナナが出かける準備をしていると、何かを感じ取ったかのようにスズが唐突に折り紙をやめて、「いっしょにいく」と言い出した。今日という日が少しいつもとは違うことをナナの表情の違いから見つけたのか、それとも別のことから感じ取ったのかはわからないけれど、さすがとしか言いようがない。
ナナが人形屋にたどりついたとき。戸口の傍には、すでにヤガミとツジが立って待っていた。少し奥には、チエに連れられたユキが、うつむきがちに立っている。
「いらっしゃい、ナナちゃん」
「ヤガミさん……」
「僕に聞きたいことは、たくさんあるでしょう。でも、ナナちゃんなら実際に話を聞いてみるほうがいいはずです」
誰にと言われなくても、ナナにはすぐわかった。だから、ナナは「はい」とうなずいて、素直にヤガミとツジの後ろに続いて店の奥に入った。
店の奥の部屋では、いつか見たときと同じように、ユキの市松人形がちゃぶ台の上の小さな座布団の上にきちんと正座している。ナナは部屋にあがると何も言われないままに、人形の前に敷かれた座布団に座った。それからカバンの中からスズを取り出して、膝にのせる。誰に言われたわけでもないけれど、人形同士を向き合わせたほうが心が通じ合うような気がした。
そうして、ユキの人形と面と向かい合って、じっと耳を澄ます。部屋の外で立ち止まっていたツジが何か言おうとする素振りを見せたけれど、ヤガミが黙ってそれを止めた。
数分としないうちに、澄ませたナナの耳へと、小さなすすり泣きが届く。今度はその声に注意して耳を澄ませると、徐々に声が大きくなっていくのがわかった。
「帰りたい、帰りたい」
すすり泣く声は、そう何度も繰り返していた。
――どこへ帰りたいの?
ナナが問いかけようとしたとき、
「どこへかえりたいの?」
まるで、ナナの気持ちを汲みとったみたいに、膝にのせたスズがそう言った。
「わからない」
そう言って、ユキの市松人形が首を振ったように見えた。けれど、ユキやチエは気づいた風もなく、じっとこちらをうかがっている。人形は、ユキやチエには聞こえない声で続けた。
「元のところへ帰らなくちゃいけないのに、足が痛くて動かないの」
足が痛くて動けない――その言葉を聞いて、ナナはそっと人形に手を伸ばした。
「ちょっとごめんね」
断りを入れて人形を抱えあげ、足を動かそうとする。けれど、三日前にヤガミが直したはずの足は、まるで凍りついたように動かない。ヤガミが言っていた「またすぐに壊れる」というのは、このことだったのだ。ナナは、ゆっくりと人形をもとどおり座布団の上に座らせる。では、人形をユキの実家へ送り返すように言った理由は、
――あなたの帰らなくてはいけない場所は、どんなところなの。
「あなたのかえらなくてはいけないばしょは、どんなところなの」
スズが問いかけると、人形は泣きながら答えた。
「緑の匂いで、いっぱいのところ。五月の初めには小さな若葉の香りでいっぱいになるところ」
ユキは母親の実家を懐かしんでは、茶摘の歌を歌っていた。なつもちかづくはちじゅうはちや――八十八夜とは太陽暦で言うところの五月の初めをいうのだと、ナナはハルミに教わった。つまり、この人形の帰らなくてはいけないところというのは、
「ユキちゃんの実家……」
ナナが呟いたとき、ふいに市松人形の気配が変わった。
「知ってるの。私の帰るところを知ってるの」
まくし立てるように言った人形は、藁にもすがるといったようすでナナに懇願する。「帰して。私を帰して。私をそこへ帰して」
けれどそのとき、ただ「帰して」とだけ繰り返す人形の中に、ナナは狂気に似たようなものを感じ取った。なんだろう、この嫌な感じは――
思わず、怯みそうになったナナに、膝の上のスズが言った。
「ねえナナ、このこのおねがい、きいてあげよう。スズたちで、いっしょに、かえしてあげよう」
そのとたん、目の前の人形から感じていた嫌な気配が、すうっと薄くなっていく。人形の声から、狂気染みた色が消えていく。残ったのは、邪気のない幼い子どもの声だった。それはまるで、スズが人形の嫌な感じを吸いとったかのような。
「うん、そうだね。帰してあげよう」
ナナがうなずくと、人形の瞳から、きらきらした光が一つだけ、こぼれ落ちた。光は、地面にぽつりと落ちてはじけたかと思うと、市松人形は、もとのように静かな本来の姿に戻っていた。
外でずっと見守っていたヤガミは、そこで初めて部屋にあがってきた。それに続いて、ツジも靴を脱いで部屋にあがってくる。そして、ちゃぶ台と人形を囲むように二人が座ると、ユキもチエに背を押されて、のろのろと部屋にあがってきた。ユキがナナの横に座ると、ヤガミはいつもの穏やかな口調で言った。
「ユキちゃん、あなたは人形がどういう由来で作られたかを知っていますか?」
「それは」突然の問いかけに、ユキはうつむきながら、ちらりとナナのほうを見て言った。「人の厄を代わりに負うためだって、本に……」
ヤガミは変わらない笑顔でうなずく。
「そうです。古くはヒトガタ、形代とも呼ばれていました」
「それが何か――」
「この市松人形は、あなたの伯母さんの形代なんです」
「え?」
驚いたように、ユキが顔をあげた。
「でも、この人形は母さんからもらったもので」
「おそらく、人形遊びをやめた伯母さんから、あなたのお母さんに渡ったのだと思います」
そういうケースはとても多いですから。と、ヤガミは続ける。
けれど、ユキの首はかしがれたままだった。
「たしかに、伯母さんは足を痛めているけど、その人形が形代なら、どうして伯母さんは寝こんだままなんですか?」
人形が厄を代わりに負ってくれるのなら伯母の足は治っているはず。ユキの言い分に、ヤガミは少しだけ困った顔をした。
「それは人形がここにあるからなんですよ、ユキちゃん」
そう。それがきっと、ヤガミが人形を実家に送り返すように言っていた理由。
「形代は、本来は持ち主の近くにあればあるほど強い効果を示すものなんです」
お守りなんかも持ち歩くものでしょう? と、ヤガミは言った。ナナはチエに紙雛を常に持ち歩くように言われたことを思い出して、チエを見る。チエは正座をしたまま、目をつぶって話を聞いていた。唾を飲みこんで、ユキが唇を震わせた。
「じゃあ伯母さんの足が悪いのは、あたしが人形を持っているせいなんですか?」
「別にヤガミはそう言ってるわけじゃ……」
「でも、そうじゃないですか!」
ツジのなだめる言葉にも耳を傾けず、ユキが大きな声を出した。怒鳴られるとは思っていなかったのだろう。ツジは驚いたようにびくりとして、チエがユキをなだめようと腰を持ちあげかける。そこで、ナナはユキに顔を向けた。
「ねえユキちゃん、聞いて。この人形、泣いてるの。自分のやらなくてはいけないことができないって、泣いてるの」
身体ごと向き直って言うと、ユキもナナを見た。
「でも、きっと誰も悪くないの。だって、このお人形はユキちゃんの伯母さんからユキちゃんのお母さんに渡されて、それからユキちゃんのところに来たんだもの。色んな人の手を渡って、ユキちゃんのところにたどりついたんだよ。それって素敵なことでしょ?」
時を越えて、世代を超えて、受け継がれていくものの不思議な香り。親から子供に伝えられる遊びのような、ほんの少し優しい香りのすること。
「だから、ねえユキちゃん、ユキちゃんと人形の出会いがよくないものにならないように、伯母さんのところに帰してあげよう?」
ナナの膝の上で、スズも聞こえない声ながらに訴えた。
「おねがい、かえしてあげて」
と、そのとき、
――お願い、ユキちゃん。
ちゃぶ台の上の市松人形が喋ったような気がした。
ナナがふっと市松人形に目をやると、ユキも市松人形のほうを見ていた。
「不思議だね。ナナちゃんが言うと、本当に人形がそう言っているように聞こえるの――」
ぽつりと呟いて、ユキはその場でぽろぽろと涙をこぼしだす。ナナはその手を握って、笑った。
「ありがとう」
とたん、ユキは声をあげて、わんわんと泣きだした。ユキの伯母やヤガミたち、そして人形への罪悪感と、母からもらった大切な人形を手放さなくてはいけない悲しみが、ユキの目からぽろぽろと落ちては弾けて飛んだ。
それから数日後。カイセイ中学校は、終業式を迎えた。たくさんの思い出と一緒に閉じた、一学期の終わり。ユキの伯母が体調を立て直したと報せてきたユキの顔は、梅雨明けの太陽みたいにまぶしかった。
「あの人たちもそうだけど、ナナちゃんって、やっぱり不思議」
それから、校長先生の話の途中で、こっそりとユキが耳打ちをしてナナに教えてくれたこと。
「伯母さんがよくなったからね、母さんが一度うちに帰ってくることになったの。夏休み中は一緒にいられるんだって」
夏は、もうすぐそこまで迫っていた。
人形たちの物語詩 由良辺みこと @Yurabe_Mikoto
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