晴れ童子の雨唄[3]

 ナナがどんなに目をそらしていても、社会科見学の班を決める日は、刻々と近づいてくる。それでも、ナナは目をそらし続け、人形屋に通い続けた。

 そんなある日のこと。学校から帰ってきたナナは、口の中が痛くなった。おやつを食べるのにもしみて一苦労なので、ハルミに口の中を見てもらうと、「これは歯肉炎ねえ、歯ぐきがはれてるわ」と言われた。

「歯医者さんに行きましょう」

 今日のおやつだった豆腐のアイスクリームもそこそこに、ナナはハルミによって家から連れ出された。


 商店街の近くにある歯医者は、自宅と診療所が一緒になった小さなところだった。一階が歯医者で、二階が自宅になっているみたいだった。

 ガラスのドアを押し開けて中に入ると、歯医者独特の薬の臭いが鼻につく。それと同時に、聞き覚えのある声がした。

「こんにちはーって、あれ? ナナちゃん?」

「……ユキちゃん?」

 受付のカウンターに、普段着姿のユキが驚いた顔をして立っている。

「お友達?」

 ハルミがこっそりと聞いてきたので、ナナは「う、うん」と曖昧にうなずいた。一方で、ユキを見て首をかしげる。

「ここ、ユキちゃんのお家なの?」

「うん、そうだよー。お父さんが歯医者やってるの。ヤザワ歯科って入り口に書いてなかった?」

 そう言われて、ナナはまた首をかしげた。覚えがない。そういえば、口が痛くて、ずっとうつむいていたのだった。

「見てなかったみたい」

「そっかあ。それで、今日はどうかしたの?」

「なんか、歯肉炎ができちゃったみたいで……」

「あー、歯肉炎ね。わかった」

 手早くナナの受付を済ませていくユキを見ながら、ナナはおずおずと口を開く。

「ユキちゃんは、いつもお父さんのお手伝いしてるの?」

「ううん、今ちょっと受付のお姉さんがトイレ行ってて……あ、戻ってきた」

 ユキが言って振り返ったほうを見れば、薄いサクラ色のエプロンをつけた若い女の人が、こっちに向かって歩いてくる。頭にちょこんと白い帽子をのせて、女の人はユキに笑顔をみせた。

「ユキちゃんありがとう。そっちの子はお友達かな? 待っている間、一緒にお話でもしていたらどう?」

 その提案に、ユキは嬉しそうに笑って、うなずいていた。


 待合室までは、ユキが案内してくれた。アズキ色のソファには、ナナを真ん中にして右隣にハルミ、左隣にユキが座る。ハルミは気を利かせてくれたようで、待合室に置いてあった料理雑誌を読んでいた。特別、豆腐料理が載っているようすはない。

 ナナとユキはしばらく黙っていたのだけれど、先にユキが口を開いた。

「そっちの人は、ナナちゃんのお母さん?」

「あ、ううん。ハルミさんは親戚の人なんだ」

「そうなんだ。優しそうな人だね」

 ユキにハルミのことを良く言われて、ナナは少しだけ嬉しくなった。「うん」

 笑って迷わずうなずいたナナにも、ハルミは雑誌に没頭して聞こえていないふりをしている。

「ナナちゃんは親戚の人と暮らしてるの?」

「うん。ちょっと前に地震があったでしょ。お父さんもお母さんも後片づけで忙しくて、だから、私だけハルミさんに預けられたの」

 ナナが困った笑いをしてユキに教えると、ユキは「そうなんだ」と呟いて、少しだけ黙った。けど、すぐにまた口を開いて、

「あたしさ、父さんと二人暮しなんだ」

 突然、そんなことを言いだした。

「え?」

 急なことに、ナナはユキが何を言いたいのかよくわからなかった。首をかしげている内にも、ユキは続ける。

「母さんはいるんだよ。母さんの実家は静岡でさ、お茶畑をやってるんだって。でも、跡取りだった母さんの姉さん――伯母さんが病気で倒れちゃってね、母さんは実家を手伝いに帰っちゃった」

 ユキの笑顔の裏に隠されていた真実にふれて、ナナは驚いた。同じなんだと思った。決して一人じゃないけれど、家族そろって暮らせない寂しさ。ユキちゃんも同じなんだ、私と――

「あたし、静岡のお茶が大好き。だって、もしかしたら母さんの積んだお茶っ葉が入ってるかもしれないでしょ? それって、なんかいいよね」

「うん、そうだね」

 笑ってうなずいたナナを見て、ユキも満足そうに笑って続けた。

「それでさ、あたし、中学校卒業したら母さんの実家に行って、手伝いをしようと思ってるんだ。その内、父さんも母さんと一緒に説得して、家族みんなでお茶の葉を積むんだ。そうしたら、一番いいお茶をナナちゃんにあげる――この間のテディベアのお礼に」

 そんなこと気にしなくてもいいのに。ナナはそう思ったけれど、そのとき口から出た言葉は全く違う言葉だった。

「ありがとう、ユキちゃん。私、待ってるね」

「約束するよ」

「うん」

 そう言って、ナナとユキは二人で指切りをした。小指と小指を絡ませて、声をそろえて歌を歌う。ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのます、ゆびきった――

 ――こんなことを誰かとするなんて、本当にいつぶりだろう。

 ナナはそう思って、胸が暖かくなるのを感じた。そして、どちらからともなく笑ったとき、ちょうどナナの名前が呼ばれた。

「じゃあね、ユキちゃん」

「うん、歯肉炎よくなるといいね」

「ありがとう」

 軽く手を振り合って、ナナは声のしたほうへと歩いていった。


 歯肉炎の治療が終わって帰るとき、ユキは「お大事に」と、手を振ってくれた。ナナも手を振って返して、それから、ハルミと手を繋いでゆっくりと家に向かって足を進めた。

「ナナちゃんも、やっとお友達ができたのね」

 小さく呟いたハルミの言葉に、ナナははっとして、なんだか照れくさいような気持ちで、ただ黙ってうなずいた。


 その日は、とうとうやってきた。社会科見学の一週間前、五時限目の総合の時間。この時間に、やっと今度の見学の班が決まる。

 クラスは期待に満ちあふれて、囁き声がさざなみの音のようだった。ナナはただ、膝の上でこぶしを固く握って、サエキの口からその言葉が出るときを待っていた。

「では、班行動時の班を決めましょう。みんな立って、グループを作ってください。ちなみに、班ができた順番にバスの座席順を決めるのでなるべく早く決めるように」

 サエキの言葉に一瞬、教室中が不平の声をあげた。けれど、サエキの「始め」という合図と共に、一斉に席を立っていく。

 そんな中で、ナナだけはゆっくりと席を立ちあがった。そのとき、心配するかのように、サエキがナナを見ていることに気がついた。ナナは口だけで大丈夫ですと言って、少しだけ笑ってみせた。

 そして、ナナは一つの席に向かって歩きだす。すでに、その席を囲んで数人の女子生徒が集まっていたけれど、ナナは気にしなかった。女子生徒たちの背中越しに、ユキに向かって話しかける。

「ねえユキちゃん、私も班に混ぜてくれないかな」

 ナナの声で、女子生徒たちはさっと振り返り、そこで、ようやくユキの顔が見えた。ユキはナナの言葉を聞いて嬉しそうに笑ったかと思うと、席を立ちあがってナナの腕をつかんだ。

「もちろんだよ。あたしも、ナナちゃんと一緒がいい」

 嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちでつかまれた腕をされるがままにしていると、一人の女子生徒が言った。

「じゃあ、ユキとカツキさんは、ミナミと同じ班ね」

「ええと……ミナミ、ちゃん?」

 聞き覚えのない名前に、ナナが首をかしげて呟けば、髪を二つに結った女の子が声をあげた。

「私、私! トダミナミっていうの。よろしくね、ええっと……カツキさん?」

「ナナでいいよ」

「じゃあナナちゃん、これからよろしく」

「こちらこそ」

 ミナミと軽く頭を下げ合って、社会科見学の女子班は決まった。

 一緒に組む男子の班もほどなく決まって、ナナはバスで窓側の席に座れることになった。全てが順調で、望ましいことだった。ナナは一転して、社会科見学が楽しみになったし、ハルミもおやつ作りを張りきっていた。


 それなのに、どうしていつもこうなるのだろうか。社会化見学の日、どしゃぶりの雨が降った。社会科見学はバス移動なのに雨天延期で、ナナはしかたがなく次の決行日を楽しみに待つことにした。ところが、前日の日曜日の朝。テレビで流れた天気予報によれば、明日もまた雨になるのだという。社会科見学の延期は一度だけで、二度目はない。

「今日は晴れてるのに」

 朝食の最中。テレビを見て落ちこみ、箸の進みが遅くなったナナに、ハルミはやんわりと言った。「きっと大丈夫よ」

 でも、悲しいけれど、その言葉に根拠がないことを、ナナは知っている。ナナは、うんとだけうなずいて、ごはんを口に含んだ。

 その日の午後も、ナナは人形屋に足を運んだ。社会科見学の話を聞いていたヤガミとツジは、元気のないナナを見て、口々に言った。

「そう落ちこむこともないですよ」

「そうそう。今日こんなに晴れてるのに、明日になって雨が降るわけないだろ」

「ナナ、げんきだして」

 この日は一緒に連れてきたスズも加わって、ナナを慰めにかかる。ナナは苦笑して首を振った。

「いいんです、しかたないし……それに、班行動は、また別の機会にもあるだろうから」

「でも、ナナ、かなしそう」

 スズがナナの腕に抱かれたまま、ナナの顔を見あげて言った。ナナはそれに少し笑って、

「ちょっとだけね」と、スズの頭を撫でる。

 それを見ていたヤガミは、ふいにこんなことを言いだした。

「そうですねえ、それじゃあてるてる坊主でも作りましょうか」

「てるてる坊主?」

 それは天気を晴れにしてほしいときに軒先につるすもののことだけど、それは子どものおまじないみたいなものだ。そんなことをしたところで、明日の雨という天気は変えられない。

 気休めに、ということだろうか。不思議がってナナが聞き返すと、ヤガミは笑って言った。

「ちょうどいい布が蔵にあるんですよ」

「布? 別にティッシュでもいいんじゃ……」

「いえ、こういうのはきちんとしたもののほうが効き目があるんですよ」

「効き目って……気休めじゃないんですか?」

 思わず目を瞬かせたナナに、ヤガミは「もちろんですよ」と、うなずいた。けれど、それにツジが訝しげに問いかける。

「てるてる坊主ねえ……懐かしいっちゃ懐かしいけどよ、そんなもん本当に効くのか?」

「おや、ツジさん知らないんですか? てるてる坊主の歌」

「知らないことはないだろ。明日天気にしておくれってやつだろ?」

 それぐらい俺だって知ってるぞ。そう言って不満げにするツジに、ヤガミは「ああ」と声をもらして、「やっぱり知らないんですね」と続けた。

「それ、どういうことだよ」

「この歌には続きがあって、晴れれば金の鈴とお酒をてるてる坊主に与えるのですが、雨になったら首を切るというんですよ」

「そ、そうなんですか?」

 ――知らなかった。てるてる坊主の歌がそんなに怖いものだったなんて。

 そんな歌を笑って歌っていた自分にも、怖くなる。一瞬ぞっとしたナナの腕の中で、スズが鈴を鳴らして首をかしいだ。

「くび、きられちゃうの? てるてるぼうず」

「そうですよ。ですから、てるてる坊主も必死なんです」

 ヤガミは朗らかに笑って、うなずく。それに気をよくして、スズは続けた。

「あのね、ちぃちゃんも、よくてるてるぼうず、つくってたよ。いつも、さかさづりにしてこういうの。あした、あめにしておくれって」

「逆さづり……? それに、雨にしておくれって……」

 歌とは、まるで逆だ。どういうことだろう。ナナが答えを見つけられずにいると、ヤガミは合点がいったような顔で手を打った。

「ああ、そんな話もありましたね。てるてる坊主を逆さづりにすると雨が降るというものですよ」

「そういえば、ガキのころに聞いたことあるな」

「私はないです」

 心当たりがなくて首を振るナナに、ヤガミは言った。「都会の子は、あまり知らないのかもしれませんね」

 そうすると、スズの持ち主はやっぱりこの近辺の田舎町に住んでいる子どもなのかもしれない。でも、どうしてその子はいつも雨にしてほしいと願っていたのだろう――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る