人形屋の奏でた狂想曲[7]
ツジの後についていきながら、こっそりとナナがその道順を確認してみたら、それはユウヅキの歌ったとおりだった。最後の分かれ道を左に曲がると、そこにはたしかにコンクリートで固められた幅五十センチほどの水路が――小川が流れている。柵もない小さな橋を渡ってさらに先へ進み、そこでようやく例の人形専門店がナナの前に姿を現す。
明るい日差しの中に立つその店は、一昨日ナナが暗がりの中で見たときとは、まるで雰囲気が違って見えた。古ぼけた外装と読みづらい擦れた文字は相変わらずだったが、これはこれで味があるのかもしれない。
「店長、ちょっと話が」
がらがらと引き戸を開けたツジが、店内に向かって大きな声で呼びかける。店内は初めて来たときと全然変わっていなかった。棚いっぱいに人形とぬいぐるみが並んでいるのに、全く人がいない。入り口脇のカウンターにも、やっぱり人はいなくて、くしゃくしゃに丸められた紙くずが一つ、ぽつんと置いてあるだけだった。あえて違いをあげるなら、以前飾られていた五月人形がしまわれていることくらいだろうか。
「店長、今日もまた奥か。いくら人がこないからって、カウンター空けるなよなあ」
ツジがぼやいて、店内に足を踏み入れる。その後に続いてナナも店に入った。
「おじゃまします」と小声で言う。と、それを聞いたツジが突然小さくふき出した。
笑われた。そう認識したとたん、ナナはわけもなく恥ずかしくなって耳まで真っ赤になる。そんなナナに気づいてか、ツジはすぐにフォローを入れてくれた。
「悪い悪い。いやさ、うちの店ってこんな辺鄙な所にあるだろ? だから客も変なのばっかでさ、君みたいな真面目な子は珍しくって」
一体、ここの店に来る「変な客」というのは、どんな客なのだろうか。火照る頬を持て余しながらナナは少し疑問に思ったのだけれど、店の奥から聞こえてきた声によって、その話はそこで打ち止めになってしまった。
「はいはい、ツジさんどうしました? また箒でも折っちゃったんですか?」
のんびりとした声で答えながら、ひょっこりと顔を見せたのは、いつかの眼鏡の青年。以前はついていなかった白いプレートによるとヤガミと言うらしいその青年は、ツジの隣にいるナナを見て驚いた顔をした。
「あれ、あなたはたしか」
「先日は、お世話になりました」
ナナがぺこりと頭を下げると、今度はツジが驚いた顔になった。
「店長、この子と知り合い?」
「ええまあ。この間、ツジさんが休んでいたときに来られた方なんですよ」
袖まくりしていた白いシャツの袖をおろしながら言ったヤガミの言葉に、ツジは「なんだ、そうだったのか」とナナを見る。
「それならそうと言ってくれりゃあいいのに」
「あ、ご、ごめんなさい」
ナナが思わず謝ると、ツジは苦笑して頭を掻いた。
「別に謝んなくても……いや、なんでもない。そんなことより店長、この子の手提げがちょっと難儀な所に飛んでっちまったみたいでさ」
「難儀な所? ああ、カラスですか」
「そうそう。俺じゃあ、ちょっと無理そうなんだよ。なんとかしてやって」
「もちろんですよ。じゃあツジさん、ちょっと倉庫から梯子と、あれ取って来てください」
あれというのがなんなのか、ナナにはいまいちわからなかった。高いところに引っかかってしまったのだから、梯子が必要なのはわかるのだけれど。
ただ、ツジにはそれだけで十分伝わったらしかった。「おう」と一言の返事を残して、再び彼は表へとでていく。それをナナが見送っていると、ヤガミはカウンターの上に転がっていた紙くずを摘みあげて、エプロンのポケットに入れた。そして、ふと思い出したように口を開く。
「あの後、チトセちゃんは見つかりましたか?」
「あ、はい。ヤガミさんのおかげです」
ナナが笑顔で答えると、一瞬ヤガミは目を丸くした。何かおかしなことを言ってしまったのかとナナは内心でうろたえる。けれど、彼はすぐに自力で答えを見つけ出して納得した。「ああ、名札を見たんですね」
名乗った覚えがなかったものですからと、人当たりのいい笑顔でヤガミが言う。
「それにしても、こんな辺鄙な所までよく来られましたねえ。道が入り組んでいますからここまで来るのは難しいんですよ」
「この間、ヤガミさんにもらった地図を見て来たんです」
ナナはとっさに嘘を吐いた。物腰の柔らかい、人のよさそうな人形屋の店主に嘘を吐いた。それはナナが、この一見――どころか、ここの店主であることを除けば、どこからどう見ても――普通の青年に、あの奇妙奇天烈な夢を話してよいものかと悩んだせいでもあるし、夢の中でユウヅキの言った言葉を思い出したせいでもあった。
人形屋さんには絶対に秘密――
ユウヅキの言う「人形屋さん」が、この人形専門店店主のことであるかはまだはっきりとしない。けど、ナナの知る人形屋なんて、ここしかなかった。恩人でもあるこの青年を騙すことに罪悪感を覚えないわけではなかったけれど、ナナはこのヤガミという青年にそれを言ってはいけないような気がした。
その一方で、嘘を吐かれたヤガミはそれに気づいたような素振りも見せずに、目を瞬かせる。「それじゃあ、あなたは迷ったとかじゃなくて、態々ここまで来たということですか?」
「はい」
「はあ、これは驚きましたねえ。僕に、何かご用でも?」
「そうなんです。えっと、チトセちゃんのことのお礼と、それから――」
ナナが拾った人形のことを話そうとしたとき、タイミング悪くツジが店に戻って来てしまった。
「ヤガミ、持ってきたぞ」アルミ製の梯子を肩に担いだツジが、店の表で大きく手を振っている。
「ああ、ツジさん。それじゃあ、早速いってくるとしましょうか」
ヤガミはナナからツジに向き直って、外れたままだった袖のボタンを留める。話す機会を失ってしまったナナは、自分の運の悪さに肩を落とした。
けれど、人形の話をするなら手提げに入っている実物を前にしたほうがいいのも、たしか。ナナはとりあえず話すのを諦め、ヤガミの後に続いた。
左、右、左、右、右。慣れたように先導を切って進むのはツジではなく、ヤガミ。たぶん、カラスが大量に群れているのはあそこのパイプ林だけで、ヤガミもそれを承知しているのだろう。後少し歩けば、目的地に着くというところまできて、ナナの耳はまた“声”を聞いた。
――いたい、いたい。はなして、あっちいって。
それはナナにとって、少し懐かしい声。あの日の夢以来、全くといっていいほど聞かなかった、鈴のような可愛らしい声。ナナが拾った、人形の声。
けれど、声は“いたい、いたい”と、ひたすらにそればかりを繰り返す。ナナは妙な胸騒ぎを覚えて、先をいくヤガミとツジの背中をすがるように見た。ところが、二人は相変わらず、ゆっくりとした歩調で、言葉一つ漏らさずに歩いている。二人には、聞こえていないのだ。
その間にも、ナナの耳にしか聞こえないその声は絶えず痛みを訴える。そしてとうとう、高く悲鳴をあげた。
――ナナ!
ナナは、もうじっとしていられなかった。強く強く地面を蹴って、ぐんと加速する。驚いたようすをみせる二人を追い越して、真っ直ぐに道を駆け抜けた。パイプにつまづかないように注意しながら走って到着したそこでは、黒い鳥が一羽、ナナの手提げに留まっていた。
よく見ると、手提げから人形が引きずり出されている。黒い鳥は――カラスは、どういうわけか執拗に人形の顔を突いていた。ナナがもっとよく目を凝らせば、カラスは人形のガラスの目玉を千切り取ろうとしているのがわかる。
「どうして――そうだ、光りもの!」
カラスは光りものが好きだという話を聞いたことがある。あの拾った人形の目は赤いガラスで、光を受けては度々光るから、カラスにとっては興味の対象だったのかもしれない。
ユウヅキの言っていたことは、このことだったのだ。ナナは自分の浅はかさを呪った。それと同時に、どうにかしなくてはと思った。
「やめて! その人形を壊さないで!」
叫んでから、ナナはとっさに地面に転がっていた鉄パイプを手にする。それをカラス目がけ、勢いをつけて振りあげた。しかし、長さが足りなくて届かない。ナナは鉄パイプを地面に放り出した。喧しいくらいの音をたてて転がるそれには目もくれず、もっと長いパイプに手をかける――が、重たすぎて持ちあげられない。
――いたい、いたい。たすけて、たすけて、ナナ。
人形が、ナナに助けを求めて声をあげた。それに答えるように、ナナは口の中で呟く。大丈夫、大丈夫だよ、きっと、きっと助けるから――
苦肉の策に、ナナは足元に転がる石ころを拾って投げた。石ころは見当外れのところに飛んでいくだけで、カラスにはかすりもしない。それでも、ナナはめげずに、また別の石を拾って投げる。かんっという硬質な音を立てて壁にぶつかっては、こつんと地面に落ちてくる。
鉄パイプもだめ、石もだめ。それでは、一体、どうすればいいのか。焦りがナナの鼓動を早くした。うるさい自分自身の心臓の音に顔をしかめたとき、それをさらに上回る音が辺りに鳴り響いた。
平手打ちをしたような乾いた音だった。人形を突いていたカラスが、その音に驚いたように逃げていく。建物の屋根に群れるカラスたちもまた、一斉に飛び去った。ナナは鼻に火薬の臭いがつくまで動くことすらできなかった。
ようやく我に返って背後を振り返ると、そこには地面にしゃがみこんでいるヤガミと、その横で耳をふさいだツジがいた。足元には封を開けられたロケット花火。今の大きな音が、このロケット花火の音だったのだと、ナナはようやく理解した。ぼんやりと突っ立って二人を見つめるナナに気がついたヤガミは、にこりと笑って言う。
「カラスは大きな音を怖がるんです。だから、こうやって花火の一発でもお見舞いすると、すぐに逃げちゃうんですね」
「とは言っても、やっぱりすぐに戻ってきちまうけどな」
つけ加えるようにツジが言った。
「そういうわけですから、戻ってくる前に早く回収してしまいましょう」
ヤガミはよいしょと梯子を担ぎあげて、手提げの引っかかった壁に立てかけた。ひょいひょいと梯子をのぼっていくそのようすを、ナナはツジと一緒に下から眺める。そこでふと、ナナは疑問に思ったことがあった。
「あの、ツジさん」
「ん?」
「どうして、ここってこんなにカラスがいるんですか?」
ツジを見あげて尋ねてみた。すると、ツジは「んー」と頬を掻く。
「それは俺も、ちょっとわかんないんだよな。俺がここにきたときから、ここはこうだったからなあ」
「そうなんですか」
「なあヤガミ、お前は知ってる?」
話が聞こえていたのだろう。ツジの呼びかけに答えて、梯子の上のヤガミが振り返らずに「そうですねえ」と呟いた。
「僕もよくはわからないんですけど、毎年ちょうどこの時期になると、この近くに古い木が生えているんですが、そこにカラスが巣を作るんですよ」
「カラスの、巣?」
「ええ、大体四月から七月にかけてが繁殖期なんです」
梯子のちょうど一番上までのぼり詰めたところで、ヤガミはナナの問いに答えた。
「きっと、巣を守ろうとしているんでしょうね。ここを通る人を襲うことがよくあるんですよ」
そう続けるヤガミへ向けて、ツジの問いが投げかけられる。
「なあヤガミ、うちの店に人がこないのはそれが原因なんじゃないか?」
「それもあるかもしれませんねえ」
相も変らぬ穏やかな口調でヤガミが返した。「かもしれない」どころか、十中八九そうなのではないかと、そのときナナは思った。
「お前なあ、それでも店主か? 追い払うとかしろよ」
「まあ、そう言わないでくださいよ」と、ヤガミはツジを宥めるように言った。「カラスたちだって人間が怖いんです。巣を守ろうとして必死なんですから」
壁の出っ張りから手提げを取って、ヤガミが梯子をおりてくる。
「人を襲うのにしたって足で蹴ろうとするくらいですから、そんなに怪我することもないんですよ。普通はくちばしで突いたりしませんし」
そういえばと、ナナはカラスに襲われたときのことを思い出す。ナナが道を走り抜けようとしたとき、カラスが再び襲ってくることはなかった。初めのあの攻撃は、カラスにとって威嚇半分のものだったのかもしれない。
カラスって、そんなに怖い鳥じゃないんだ。見あげた空に黒い鳥の影が横切って、ナナは少しだけ微笑んだ。
ヤガミは再び地面に足を着けると、ナナのところまでやって来て手提げ袋を差し出した。
「さて、これはあなたので間違いないですよね?」
「はい、ありがとうございます」
袋を受け取ってから、ナナはすぐにスズを出して目が取れてしまっていないかを確認する。ナナがつけ直した赤いガラスの瞳は、糸が緩んでしまっていたものの、ちゃんと二つ並んでついていた。スズの声はまた聞こえなくなってしまったけれど、壊れなかったのだから、きっと大丈夫だろう。ナナは安堵の息を吐いた。
そのとき、ナナはスズを見るヤガミの目が険しいものになっていることに気がついた。まさかという思いが、ちらと過ぎる。
「この人形が、どうかしましたか?」
ナナが問えば、ヤガミの目は一瞬だけ驚きの色を見せ、それから再び険しいものへと変わる。彼は「ええ」と、うなずくと、じっとスズを凝視した。
「……この人形、ずいぶんと汚れていますねえ」
とても険しい目つきからは想像がつかないほど、その言葉は平凡で――ナナにとっては、どうでもいいことだった。てっきりスズの何かがわかるのかと期待していたナナは、予想外の答えに落胆するより先にぽかんとする。それを表すように、ナナの口から零れた声は、あまりにも気の抜けたものだった。「――え?」
そんな間の抜けたナナの声に気づいているのか、いないのか。ヤガミは変わらず険しい顔で、スズを見つめている。
「まるで長いこと野晒しにされたみたいですよ。これは洗った方がいいんじゃないでしょうか? 良かったら、ぬいぐるみ用の洗剤がありますから持っていってください」
「あ、はい……どうも、ありがとうございます」
スズを前にしてこんな見当はずれなことを言われては、ナナも何も言えなくなってしまう。ナナは拍子抜けした気持ちで、気のない返事を返すしかなかった。
その後、ナナはヤガミとツジと一緒に、人形専門店に戻った。店の奥に引っこんだヤガミが持ってきたのは手のひらサイズのスプレー缶で、「ぬいぐるみ専用洗剤」と書いてあった。ぬいぐるみ専用なのに人形に使ってもいいのだろうか。でもきっとこの人形は布製だから、ぬいぐるみと似た扱いにされているのだろうな。スプレー缶を見てそんなことを考えていたナナは、ふいに「あ」と、声をあげる。
「あの、私、お金を持ってきてないんですけど……」
自分が財布を持ってこなかったことを思い出して、慌ててそう言った。すると、ヤガミは笑って、
「いいですよ、お金なんて」
「え、でも、ここってお店だし、お客さんがあまりこないんじゃ」
「大丈夫だって。そっちはヤガミがカラスの巣を除去してなんとかするから」
「ちょ、ツジさん、僕そんなこと言ってませんよ」
ヤガミが慌てて意義を唱えた。けれど、ツジは全く取り合わない。「それくらい店長としての義務だろうが」の一点張りだった。店主とアルバイト店員の立場が逆転しているようで、二人の言い合うようすは、なんだかおかしな光景に見える。
「そういうわけだから、遠慮しないで持っていけって」
とはいえ、ナナもお金を持ち合わせていないからと、客が滅多にこないらしい店の人間から品をもらうというのは気が引ける。「でも」と渋ったのだが、ツジとヤガミになんだかいいように言いくるめられ、最終的にはぬいぐるみ用洗剤を持って店を出ることになっていた。
結局、スズのことは何一つわからないままだった。ナナは商店街脇の細い路地裏を振り返りつつ、ほんの少し肩を落として、ハルミの待つ家へと帰っていった。
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