人形屋の奏でた狂想曲[5]

 トキと別れた後、再びチトセの人形が何かを語りだすことはなかった。ゆすっても、そっと声をかけてみても、瞬きひとつせずに無機質な瞳が茜を映している。ナナは、とたんに夢から覚めてしまったような気持ちになった。あの、消えたナノハナの小道と同じような気配を感じた。

 安っぽい紙切れに記された簡易の地図を頼りにナナが辿り着いたのは、たしかにコウダという表札がかけられた一軒の家だった。ナナは地図と表札を何度も確認して、ここで間違いないと確信する。庭に植えられた花々が、甘い香りを漂わせていた。ナナはそっとインターホンに指を伸ばす。そのとき。

「おねえちゃん!」

 チトセの声と共に、急にドアが開いた。驚いて、思わず後ずさる。開かれたドアが、ナナの鼻先数ミリのところを通り過ぎていく。

 ナナはびっくりして、すっかり腰が引けてしまった。まだインターホンだって鳴らしていないのに、家から飛び出してきたチトセは、満面の笑みを浮かべてナナの手をつかんだ。

「おねえちゃん、ありがとう!」

「え……ええ?」

 ナナは怪訝な声を出して目を白黒とさせる。「ありがとう」というのはきっと、ナナが人形を見つけてきたことだろうことは、かろうじて察することができた。けれど、ナナはまだ何も言っていないし、何もしていない。インターホンを鳴らして家人を呼び出すことはおろか、人形を持ってきたことなんて一言も言っていないはずなのに――

 けれど、その答えはナナが尋ねるよりも先に、当人から語られた。

「あのね、あのね、おねえちゃんがね――チトセのおねえちゃんがね、ゆめにでてきてね、すぐにあいにいくよって――おねえちゃんに、チトセのところまでつれてってもらうよって!」

 チトセの夢に、他界した姉が現れた。しかも、ナナにつれられて戻ってくると、事実と全く違わない報せを持って。

 ナナが驚きに言葉を失くして動けなくなったところへ、また新たに人が現れた。

「ちぃちゃん、いきなり走りだしてどうしたの?」

 ヒロコだった。彼女は、玄関前に立ち尽くすナナに気づくと、「あら、あなたは」と驚いた声を出す。さらに、チトセの手に移った人形を見て、その表情は硬直した。

「その、人形は」

「あ、えっと……土手の草むらに、落ちていたんです。それで、」

 声を震わせながら問われて、ナナは人形を拾った経緯を説明し始める。ところが、そこで言葉は途切れてしまった。


 なんと言って、説明すればいいのだろうか。ナナは、土手の草むらで人形を拾った。そこまではいいのだが、問題は「それで」の先。どうして、その拾った人形をチトセのもとまで持ってきたのかという理由だ。ナナはチトセの人形を見たことがない。そのことは、チトセの母親だってよく知っているはずだ。土手で拾ってきただけの、ナナにとっては見知らぬ人形を持ってやってくるなんて、彼女からしてみれば、明らかにおかしすぎる。

 ナナは人形と話をして、チトセのさがしていた人形だと知ったものの、それを真面目に話して信じてもらえるだろうか。常識としては胡散臭い目で見られて、それ以降はチトセと話をすることすら叶わなくなるのではないかとナナは推測する。

 嘘はいけないけれど、信じてもらえるとは思えない。どう説明したものかと悩み口を閉ざしたナナを、チトセの母親は不思議そうに見る。

 誰かに助けを求めようにも、ここにはナナとチトセとヒロコと――それから、人形しかいない。説明を受ける立場のヒロコと説明をするナナを除いては、チトセと人形しか残らないのだ。幼さゆえに正直なチトセがいい誤魔化しをしてくれるとは思えないし、人形が喋ったら喋ったでヒロコが眩暈を起こして倒れてしまいそうだ。冷や汗が流れた。


「あのね、チトセがね、おねえちゃんにね、おにんぎょうさがしてって、おねがいしたの」

「……え?」

 助け舟を出してはくれないだろうと思っていたチトセの口から、思いもよらない言葉が出た。当然、ナナはチトセにそんなことを頼まれた覚えはない。けれど、ナナの疑問の声と視線を受けても、チトセはナナを見ずに母親を見あげていた。

「まあ、そうだったんですか? 重ね重ね本当にすみません」

「え、あ、い、いえ――お気になさらないでください」

 深々とお辞儀をされて、ナナは慌ててしまった。平気な顔をして嘘を言いだすチトセのことがあまりにも信じられなくて、正直それどころではない。困惑を隠しきれないでチトセに目をやると、今度は互いの目が合った。「ありがとうございます」と頭を下げたヒロコの死角に立つチトセは、にっこりと悪戯っぽく笑って、人差し指を口に押し当てる。

「あたしと、ちぃちゃんと、あなただけの秘密だよ。ナナちゃん」

 チトセが、たしかに、そう言った。

 ナナの耳にもはっきりと聞こえたというのに、ヒロコはまだ「ありがとうございます」とお辞儀を繰り返しながら、気づいたようすはない。壊れたビデオテープのように、ひたすらその言葉と行動だけを繰り返し、繰り返し行う。まるで時間が狂って、チトセの母親だけその瞬間を繰り返しているみたいに。

 けれど、その一方で、ナナとチトセを囲む世界では、時間が止まったように風が止み、ヒロコの声を残して音が消え去っていた。あれだけ香っていた甘い花の香りもまた、例外ではなかった。

 そんな狂った時間の中で、ただ二人の時間だけは、変わらずに流れている。

「もちろん、」

 おかしそうに笑ったまま、チトセが続けた。

「あたしのお願いを聞いてくれたお人形屋さんにも、内緒だよ」

 それは一体、どういうことだろうか。何が内緒で、何が秘密で、チトセは一体何を「人形屋にお願い」したのだろうか。「人形屋にお願い」をしたのはチトセではなく、チトセの姉ではなかっただろうか。

 そして、どうしてチトセは自分のことを今までどおり、「チトセ」と呼ばずに「あたし」と称するのだろうか。これでは、まるで――

 疑問はナナの胸の内に降り積もり、小さなその胸を埋め尽くしてしまう。

「それ、どういうこと? もしかして、あなたは……」

 ナナが、その先の言葉を言うことはなかった。それはナナ自身、信じられない思いで言葉にならなかったというのもあるし、チトセがくすりと笑って、また指を唇に当てたせいでもある。

「ナナおねえちゃんと、チトセと、チトセのおねえちゃんだけの、ひみつ」

 舌ったらずに告げられたそれが合図だったのだろうか。風が吹いて、チトセの家の庭に植えられた花が揺れて、甘い香りを漂わせた。時間が戻ったのだと、ナナは思った。狂ったように何度もお辞儀をしていた母親は顔をあげて、まっすぐにナナを見ている。


「でも、おにんぎょうさんのかみ、みじかくなっちゃった」

 ふいに、チトセが言った。それに反応したのは、チトセの母親。

「あら、そういえばそうね。前は背中くらいまではあったのにね」

 チトセの抱く人形の顔を除きこんで言った。

「誰かが悪戯したのかもしれないわね」

「おねえちゃんのかみなのに」

「……ちぃちゃん」

 悲しそうな顔をするチトセの頭を、母親は苦笑して撫でた。それから、ナナに向き直って改めて頭を下げる。

「本当にありがとうございました。ご存知かもしれませんけど、この人形の髪は、昔亡くした娘の髪を使って作られたもので……」

「はい。昨日、チトセちゃんから聞きました。チトセちゃんの、お姉さんのものなんだそうですね」

 ナナが人形を抱くチトセを見て答えた。それどころか、人形に宿った髪の提供者当人からも聞いているのだが、さすがに言うことはできなかった。

 チトセの母親は「ええ」と笑うと、チトセの持つ人形を優しい眼差しで見つめる。それはまるで、愛しい我が子を見つめる眼差しのようで。ナナは、「忘れてほしくなかった」と言った人形とトキの言葉を思い出した。

「忘れないであげてくださいね」

 ぽつりと呟かれた言葉は、風の音に掻き消された。チトセの母親に聞き取れたかは、わからない。ただ彼女は口元を手で覆って、人形を見つめるその瞳に涙を湛えていた。

「それじゃあ、私はこれで」

 風が冷たくなってきたころ、ナナが言った。チトセの母親は、目じりの涙を慌てたように拭う。

「お構いもできなくって、ごめんなさいね」

「いいえ、そんな――ええっと、それじゃあね、チトセちゃん」

 ナナは先ほどの奇妙なできごとと、チトセの言動を思い出して少し戸惑ったものの、なんとか別れを告げた。「ばいばい」と言って笑顔で手を振り返すチトセは、ナナの目から見れば、数日前に見たチトセとなんら変わりがなく。そのことに、どこかほっとした思いになった。

 チトセの腕にしっかりと抱かれたのは、黒い髪の赤い着物を着た人形。チトセと人形が一緒にいるところなんて、ナナは一度も見たことなんてなかったはずなのに、不思議とその光景が当たり前のように感じられる。人形と一緒に遊びたいと願ったチトセと同じくらいに、この人形自身もまた、こうなることを望んでいたのかもしれない。

 チトセちゃんに会えてよかったね。こっそりと心の中で囁きかけて、ナナはくるりと踵を返した。そして、幾らか歩いたとき。

 ――ありがとう。

 そう囁くような声を、ナナの耳はまた捉えた気がした。振り返った先。幾分遠くなったチトセの家の玄関前では、今まさに家の中に入ろうとするチトセの腕の中、人形が瞬きをした。

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