人形屋の奏でた狂想曲[4]

 それからは、ぱったりと人形の夢をみなくなった。夢の中でナナがスズと名づけた人形はといえば特に変わった風もなく、人形らしく、ぴくりともしないで机の上に座っている。

 一方で、ナナは拾った人形を海辺へ戻そうとするのはやめようかと考えていた。夢の中で人形と交わした約束が気になったということもあったけれど、何よりも、あの小道にはもう二度と巡りあうことはないのではないかと、ナナ自身がそう思い始めたからだった。川沿いのナノハナもゴールデンウィークがすぎると次々に枯れ、再びあの花のアーチを開いてくれることはないように思えた。


 そんなゴールデンウィーク明けのある日のこと。大概の学生は渋る登校にも特別なんとも思わないナナは、やっぱり特別変わった風もなく、学校の制服を着て通学路を歩いていた。海沿いの土手の上を走る通学路の下には、みずみずしい青葉がいっぱいに茂り、時々バッタの親子がぴょんと跳ねる。風は穏やかで日差しは暖かい、いい日和だった。連休の終わりを惜しむ生徒や、いよいよ始まる部活動に緊張と期待が入り混じった生徒たちの声がする。

 けれど、そんな賑やかな通学路の中で、ナナは消え入りそうなか細い声を聞いた気がした。

 思わず、ナナは足を止めた。通りすぎていく生徒たちの会話が、近くなり、遠くなる。そしてまた別の会話が近づいてきては、また、遠くなる。その中で、ナナはただ耳を澄ませていた。けれど、人の波が徐々に少なくなっていっても、その声が再び聞こえることはない。

 ナナは首をかしげた。気のせいだったのだろうか。けれど、たしかに聞いたような気がしたのだ――ちぃちゃんと呼ぶ、高い少女の声を。

 だけれども、考えてみると心当たりのある人形は、いつもどおり家に置いてきたのだし、きっと気のせいだったのだろうと、ナナはそう考えた。そうして再び学校へと向かって歩きだした。


 ところが、これは一体どうしたことだろう。学校に着いたナナが筆箱を取り出そうと鞄を開けたとたん、あるはずのないものがナナの視界に飛びこんできた。それは赤いガラスの瞳で虚空を見つめ、帽子の鈴をちりりと鳴らす――

「うそ……」

「どうかしましたか?」

 驚きのあまりに声を漏らしてしまったナナは、すぐ後ろからかけられた声に、さらに驚かされた。とっさに鞄の口を両手で抑えこみ、後ろを振り返る。

 明らかに、おかしいナナの態度を見てか。話しかけてきた金髪の女子生徒は口もとへと手をやり、不思議そうに首をかしげた。まるで、映画で見るお嬢様みたいな仕草だった。

「な、なんでもないから――え、えっと……あなたは」

「まあ、すみません。わたくし、ウタシマアリサです」

 アリサは人形のような青い瞳をふわりと細めて微笑んだ。ハーフのアリサは帰国子女でもある。それが珍しいらしくて、いつも色んな生徒たちに囲まれていたのだけれど、今は彼女一人だった。

「あなたはたしか、ナナさん、でしたよね?」

「は、はい。ナナです」アリサが丁寧な口調で話すものだから、ついナナもそれに倣ってしまう。

「こちら、先ほど落とされましたので、お返ししますね」

 白い陶器のような手が差し出したのは、白い紙切れだった。見ると、それは人形屋の青年が、ナナに渡してくれた海岸までの手書きの地図だった。そういえば今朝方、学校帰りにお礼を言いに行こうと思ってポケットに入れたのを思い出す。

「あ、ありがとう」

「それでは」

 差し出されたそれを受け取って礼を述べると、アリサは微笑んで談話に夢中になっている生徒たちの輪に紛れていった。

 紙をポケットに戻しながらそれを見送り、ナナは誰も自分を見ていないことを確認する。そして再び鞄を開け、その中をのぞきこんだ。つい今さっき見たものが、幻覚か何かの見間違いではないかと、密かに期待した。けれども、やっぱり、“それ”はいた。いや、“それ”は生きものではなかったから、正確には“あった”のほうが正しいのかもしれない。

 どうして。と、ナナは愕然として教科書に寄りかかっている“それ”を見る。“それ”は、たしかに今朝ナナが家に残してきた人形だった。

 この人形は、普通ではない。そう感じたとたん、この人形が得体の知れない何かであるように思えてきた。

 これは、一体なんなのだろう。ナナはこのときになって初めて、人形に対して恐れを抱いた。不用意に拾ってきてしまったことが間違いだったのかもしれないとさえ思った。

 けれど、そう思うナナの心の中で小さな誰かの声がする。そんな風に思わないで、と。この人形はとても哀れなのだと、ナナと同じように寂しくてたまらないのだと――だから、そんな風に否定してなかったことにしないでと。


 そのとき、ナナはふと悟るように一つの考えに至った。それはとても唐突で、そうなると決まりきっていたことのように、ごく自然とナナの胸の内に浮かびあがった答えだった。それはナナが本来持っているもので、後々――成長したナナが過去を振り返ったときに――ナナはそういう性質の子どもであったということを、最初に認識させられた瞬間にもなるほど、特別なできごとだった。

 ただ、あるがままに受け入れればいい。例えどれだけ信じられないできごとだったとしても、それを拒絶して否定する必要はない。ただ、あるがままに――あるように。そうやって受け入れればいいのだと、ナナは誰に教わるともなく悟った。そしてそれは、ナナにとっては、とても簡単なことなのだと。

 ナナは閉じかけた鞄から人形をそっと取り出すと、制服が汚れるのも気にせずに胸に抱きしめた。まるで自分で自分を抱きしめているような気になる。大丈夫、大丈夫だよ、スズ。ささやくように呟くと、吐息に揺れた鈴がころころと笑った。

 ほら、恐くなんてない。胸の内で呟いて、ナナもまた笑う。夢でしか話したことのないスズと、また少し、心が通い合ったような気がした。


 土手の上、傾きかけた日の下、学校からの帰り道。ナナは上機嫌だった。何か言いようのない温かな気持ちが、背負った鞄の中から伝わってくるような気がする。その温かな気持ちはナナの胸からもあふれ出して、体中を駆け巡って鞄の中へと注ぎこまれていく。

 ――ちぃちゃん。

 また、どこからか高い少女の声がした。ナナはスズの声かと聞き間違えたけれど、少し違う。それに、声はもっと遠くから聞こえた。では、どこから?

 今朝のように、ナナは耳を澄ませた。風が渡り、潮騒が鳴る。今度こそ、ナナの耳は声をとらえることができた。

 声は、土手の下から聞こえてくる。見おろせば、そこに今朝も見た草むらがあった。近づいてみると、たしかに声はその中から聞こえてくる。ナナはそっと草むらを掻き分けて、その目を大きく見開かせた。草むらの中、草の根元に転がっていたのは一体の人形だった。本物のような黒い髪を持つ、ちりめんの赤い着物を着た――

 夢でもみているかのような気分になって、ナナが人形を拾いあげると、ぱっちりとした人形の目がきらきらと光った。そして、先ほどの少女の声で喋りだした。

「あなた、あたしの声が聞こえるの?」

「うん、聞こえるよ」

 ナナが返事をしたら、人形はわあと嬉しそうな声をあげる。

「良かった! ねえ、あなたはちぃちゃんを知らない?」

「ちぃちゃん? それ、コウダチトセちゃんのこと?」

「そう。あたしのちぃちゃん。あたしの可愛いちぃちゃん」

 手を胸の前で合わせる人形。その答えを聞いて、ナナはやっぱりと口の中で呟いた。このきれいな――まるきり本物のような髪の毛を一目見たときから、もしかしたらと思っていた。

「ねえ、あなたは……チトセちゃんのお姉さんなの?」

 おそるおそる、ナナは尋ねた。この人形を動かしている“何か”は、本当にチトセの“姉”なのだろうか。そうだとして、なぜこんな人形に宿っているのだろうか。ナナの疑問の視線を身に受け、チトセの人形は可愛らしくうなずいた。

「そうよ。あたしはちぃちゃんのお姉ちゃん」

「じゃあ、人形を作るために髪を提供したのも、あなた?」

「うん、そう。あたしが父さんにも母さんにも内緒で作ってもらったの」

 人形がぴょんとナナの手から飛び出して、草むらに降り立った。ナナは人形に目線を合わせようと、地面に膝を着く。

「どうして、そんなことしたの?」

 追求すると、人形は何か言いよどむ素振りをみせた。後ろで手を組んで、砂利のような石ころを蹴る。石ころはころころと転がって草むらの奥へ消えてしまった。

「……だって、忘れて欲しくなかったんだもん」

 波音に消え入りそうな細い声で、人形は呟いた。

「え?」

「あたし、ちっちゃいころから病気持ちだったの」

 意味がわからなくて聞き返すナナの声を断つように、人形は語りだした。

「すっごく重い病気で長くは生きられないんだって、お医者さまがいつも言ってた。あたしもちっちゃいころからずっと言われ続けてたから、ちっとも怖くなんてなかった。死んじゃうって知ってても今父さんや母さんが傍にいてくれればいいって思ってた。けどね、」

 言葉を切って、人形はくるりとナナに背を向けた。一瞬の、沈黙がおりる。その沈黙が、チトセと話をしたときに似ていると、ナナはふと思った。

「あたしの隣の病室の子がね、死んじゃったの。仲良かったんだ。いつも笑っていてね、優しくて、看護士さんや患者さんともすごく仲が良かったの。だけど、その子が死んだ次の日から、その子の病室に新しい患者さんが来たんだ。男の子だったよ。あたし、何度かその子の病室に行ったの。でも、行く度行く度、時間が経てば経つほど、その部屋からあの子のいた空気がなくなっていくの。看護士さんも患者さんも――あたしも、みんな、その子のことを忘れていくんだ。その子が初めから、いなかったみたいに、それが当たり前になって」

 もう一度、くるりと回ってナナを振り返った人形は、泣きそうな顔で微笑んでいた――ように見えた。錯覚だった。綺麗な顔立ちの人形は、表情を変えずに立ち尽くしている。

「あたし、怖くなったの。あたしも死んじゃったら、そうなっちゃうんじゃないかって。父さんも母さんも、あたしを忘れちゃうんじゃないかって」

「そんなこと……」

 そんなことはないはずだ。いなくなったチトセを必死にさがしていたあの優しいヒロコが、自分の大切な娘を忘れてしまうなんてこと、あるはずがない。ナナが口を開きかけたら、言わないでとでも言うように人形は首を横に振った。

「そのころ母さんのお腹の中にはちぃちゃんがいたの。あたしが死んだらみんなちぃちゃんに取られちゃうって思った。だから、あたし看護士さんにお願いして、ずっと伸ばしてた髪を切ってもらったのよ。それから、手紙を書いたの。自分の髪の毛で、“記念”の人形を作りたいって」

 人形は、“誰に”とは言わなかった。ナナは気になったけれど、人形の話はまだ続いていたから口をつぐんだ。

「だけど、父さんも母さんも、悲しい顔をして“あたし”を見るのよ。あたしはここにいるのに、目を背けて隠してしまおうとするの。父さんや母さんといつも一緒にいられるちぃちゃんが羨ましかった。羨ましくてしかたがなかった。だけどね、あの子だけが気づいてくれたの。あたしを真っ直ぐに見て、おねえちゃんって呼んで、そっと頬擦りをしてくれた――あたしの可愛い妹」

 やがて、人形は訴えるような眼差しをナナに向ける。

「だから、お願い。あたしをちぃちゃんのところに連れて行って」

 必死な声は、とても悪さをするようなものの声だとは思えない。


 他界した人間の髪で作られた人形。さらに、それには髪の提供者が宿っている。ナナは、人形に宿るそれが、何か生への未練や執着があるのではないかと不安だった。ひょっとしたら、チトセに害を与えたりするのではないかと、心配した。

 けれどもそれは、杞憂だった。彼女はチトセを大切に思い、いつも傍で見守っていた。


「うん、わかった。私がチトセちゃんのところに帰してあげる」

 微笑み、ナナは人形を抱きあげた。都合のいいことに、今、ナナのポケットにはチトセの家までの道筋が記された地図がある。鞄の中の人形――スズとは違って、ちゃんともとの持ち主のもとへ帰してあげることができる。

 ありがとう。と、人形が言いかけたそのときのことだった。ぽんと足元に青いビニールのボールが跳ねてきたかと思うと、後ろのほうから誰かの駆け寄ってくる足音がした。

 ナナは反射的に人形を隠さなくてはと思った。けれど、隠す場所がない。ナナがうろたえている内に、すぐ後ろで足音が止まった。

「すみません、そのボール僕のなんです」

 まだ声変わりのしていない子供の声だった。取ってもらえますか? と続けられて、ナナはぎこちなく人形を脇に抱え、ボールを拾うために屈みこんだ。立ちあがって振り返ると、ナナよりも幾分背丈の低い男の子が立っている。普通よりも、少し色素の薄い髪が印象に残った。

「ありがとうございます」

 ボールを手渡すと、男の子はやっぱり少し色の薄い瞳を細めて笑った。と、ふいにその視線がナナの抱えた人形に移る。

「わあ、きれいな髪、本物みたい。お姉さんの人形ですか?」

 ナナは少しぎくりとした。この人形の髪は本物の人間の――チトセの姉の頭髪であって、「まるで」ではなく、「まさに」本物だ。言ってもいいものかどうなのか、正直ナナは迷ってしまったのだけれど、誰かに口止めされたわけでもない。かいつまんだ話ならばと、ナナは男の子に人形のことを話すことにした。

「この人形、私のじゃないの」

「あれ、そうなの?」

「知り合いの子の人形なんだよ」

 ふうんと相づちを打ちながら、男の子はナナの持つ人形の髪に手を伸ばした。男の子がその細い指で梳くと、黒い髪はさらさらと絹糸のように流れる。人形はさっきまでの生き生きとした気配を消して、ただされるがままになっている。それが本来の姿のはずなのに、ナナは人形が急にもとの“人形”に戻ってしまったような気がして、どこか変な感じがした。

「この人形の髪は、その子の……亡くなったお姉さんの髪なの」

 ナナのその言葉は、二人の間に静寂をもたらした。人形の髪を興味深げにいじっていた男の子の手が止まり、薄い色の瞳がナナを見る。今なんて言ったのと、冗談でしょうと、そう問いかけてくる男の子の心の声が、ナナの耳に聞こえてくるようだった。

「嘘じゃ、ないんだよ」

 本物みたいと自分で言っておきながら、まさか本当に本物だなんて思ってもいなかったに違いない。驚きを隠しきれないようすの男の子に、ナナは困ったように笑ってみせた。

「お父さんやお母さんに、忘れてほしくなかったんだって。だから亡くなる前に髪を切って、その髪で人形を作ってもらったみたい」

 忘れるなんて、そんなことないのにね。ナナがそう繋げようとした言葉は、どうしてか喉につかえて出てこなかった。それは人形が――髪を提供した少女自身が、その先の言葉を聞きたがらなかったせいだろうか。ひょっとしたら別の理由なのかどうかなんて、ナナにわかるはずもなかったけれど。


 男の子は、じっと人形を見つめていた。気味悪がるだろうか、それとも好奇の目で見るのだろうか。ナナが見守っていると、男の子は今度はそっと、優しく人形の髪を梳き始めた。

「きっと寂しかったんだね、その人」やがて、人形から手を離してそう言った。

「どうしてそう思うの?」

「だって、死んだら自分がどうなるのかなんて誰にもわからないじゃない。そんなところへ一人で行かなきゃいけないんだよ、生きている人と離れ離れになって」

 死んだ人間がどうなるのか。それは、ナナには到底わからないこと。死んでしまったら、その人の意思は消えてなくなるかもしれない。あるいは、幽霊みたいに彷徨うのかもしれない。現世で起きたこと全てを忘れて、また知らない内に日常を繰り返すのかもしれない。ナナは色々と考えたけれど、それの最後には必ず「かもしれない」がつく。

 ナナは、自分の死というものに直面したことがない。死ぬような体験をした記憶はあるといえばあるけれど、それは一瞬のことだったから考える暇すらなかった。けれど、チトセの姉は違う。長い病院生活の中で、死というものについて、一体、何度考えたことだろう。チトセの姉は怖くなかったと言っていたけれど、ナナは思う。得体の知れない「死」を恐れない日は、果たして本当になかったのだろうかと。あえて、その不安に固く封をして、考えないようにしていたのではないのかと。

「僕だったら、すごく寂しいよ。だったら、せめて忘れないでいてもらいたいって思うから」

 だからきっと、やっぱり寂しかったんだよ。男の子はそう言って、もう一度だけ人形の髪をそっと梳いた。子犬の頭を撫でるように、あるいはそれは膝を抱えてうずくまる小さな妹を慰めるように、その手つきは限りなく優しい。

「……そうだね」

 うなずいて、ナナも習うように優しくその髪を梳いた。かあかあと、一羽のカラスが鳴きながら二人の遥か上空を飛んでいく。その声に混じって聞こえだしたのは、五時を知らせる鐘の音だった。それは、外で遊びまわっている子どもたちへと向けた、遊びの終わりを告げる音。「僕、もう帰らなくちゃ」男の子が顔をあげて言った。

「僕の名前、トキっていうんだ。お姉さんの名前は?」

「私? 私はナナだよ」

「そう。じゃあ、ナナお姉さんだね」

 にっこり笑ってトキが言った。「ねえナナお姉さん、また会える?」

 ナナは少し驚いたけれど、すぐに笑ってうなずいた。

「きっと会えるよ。だって、こんなに小さな町の中なんだから」

 世界は広いけれど、この小さな田舎町の中でなら、きっとまた巡り会える。ナナも、トキも――スズの、本当の持ち主にも。

「ばいばい、ナナお姉さん!」

「じゃあね、トキくん。気をつけて帰ってね」

 ぱっとナナに背中を向けて、慌ただしく土手を駆けあがるトキの背中に向け、ナナは大きく手を振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る