不思議のソナタ[3]
ナナが人形の修繕に行き詰ってちょうど一週間になるころ、また“不思議なこと”は起こった。
「ナナちゃん、ちょっと手を出して」
学校へ行く支度を整えて、ナナが家を出ようとしていたときだった。見送りのために玄関まで来ていたハルミにそう言われて手を出すと、小さな巾着袋が手の平にのせられた。
薄紅と黄緑色のちりめんで作った可愛らしい巾着袋。なんだろう。首をかしげるナナを見て、ハルミは悪戯っぽく笑った。
「おこづかい。この間のお駄賃、渡していなかったから」
この間――それって、夕飯のおつかいのことだろうか。
「でも、私、そんなつもりじゃ……」お駄賃とか、そういうのが欲しくておつかいに行ったわけじゃない。ただ、いつもよくしてくれるハルミの頼みだから――
そんなことはわかっているのよと、ハルミはいつもの優しい笑顔で言った。
「本当のところを言うとね、お駄賃っていうのはただの口実なの」
ナナちゃんは、ちょっと遠慮深いところがあるから、と。
「だけど、ナナちゃんももう中学生なんだもの。おこづかいくらい必要でしょう?」
ナナは一瞬口ごもった。それは、たしかに、お金がなくて困ってはいたけれど。
「でも、そこまでしてもらうわけにはいかないよ」
子供の養育費って結構馬鹿にならないものなのだという話を、どこかで聞いたことがある。クリーニング屋で働いているハルミの月給はそんなに多くはないし、ナナの面倒をみるのだってそう楽なものではないはずだ。近ごろは、手作りとはいえナナのおやつにお菓子を作ったり、ジュースを買ったりで出費もかさんでいるはず。そのうえ、おこづかいなんて――
首を振ってお金を返そうとするナナに、けれど、ハルミはやんわりと巾着袋を握らせた。
「いいのよ。おばさんがそうしたいだけだから」
まただ。どこか遠く、頭の奥底でナナは思った。こんなの、ナナにとって、都合がよすぎる。
「おばさんね、ナナちゃんのお母さんに聞いたの。ナナちゃん、お裁縫が得意なんですってね。そのお金できれいな布でも糸でも買って、何か作ったらいいじゃない。マスコットでも、ぬいぐるみでも、お人形さんでも、好きなものを」
ハルミはやっぱり笑っていた。子供が、ナナが、大好きでたまらないというような、しあわせそうな顔で。
「それでもし、何かができたら、一番におばさんに見せてね。おばさん、楽しみにしているから」
ナナはもう、うんとしかうなずけなかった。ここで断るのは、返って失礼になるような気がした。
「ハルミさん、私、忘れ物しちゃったから取ってくる」
そう言ってナナは自分の部屋に駆け戻った。あの人形が直ったら、きっと、きっと――
だけど、ナナはすっかり忘れていた。商店街の手芸店には、人形の服の色に合う布がないことを。
ああ、どうしよう。ナナはあの薄汚れた人形の入った袋を手に提げて、ぽつりと口の中で呟いた。目の前には、数日前にも訪れた古ぼけた印象の手芸店。
道行く人の視線を感じる。もうどれくらいそうしていたのだろう。ナナは店の入り口に突っ立ったまま、そのガラスの戸を開けないでいた。
数日前に見た店内のようすを考えれば、商品の出し入れが頻繁にされていないことはとっくにわかっている。おまけに店の主は白髪のおばあさんだ。ただの一週間やそこらで品揃えが増えているなんてこと、とてもではないけれど、あるとは思えない。
どうして忘れてたんだろう。ナナは自分にため息を吐いた。
しかし、こうしてやってきてしまったものはしかたがない。せっかくここまできたのだから、軽く中をのぞいて行こう。今度はちゃんとお金も持っているのだもの、何か気に入ったものがあれば買ったっていいんだから。自分自身に言い聞かせ、ナナはガラスの戸を押し開けた。
出迎えてくれたのは、やっぱり数日前と変わらない白髪のおばあさんだった。
「おや、また来てくれたのねえ」なんて、しわしわの顔をますますくしゃくしゃにして笑う。ナナは覚えられていたことがなんだか照れくさくて、少しだけはにかんだ。
そこでふと、ナナはこの間まではなかったはずの棚がカウンターの横にあることに気がついた。
「あの、これはなんですか?」
ナナが尋ねると、おばあさんは「ああ、それね」と笑みを深くする。
「つい四日前だったかしらねえ、お山の問屋さんから新しく布を仕入れたのよ」
もしかして――ナナの頭に一つの可能性が浮かびあがった。同じように、まさか、という思いが胸を占める。
ナナが近づいて軸に巻かれた布をひとつひとつ見てみると、その中に、鮮やかなみかん色の布があった。ナナの心臓がどきりと鳴る。おそるおそる手提げ袋から人形を取り出した。人形を片手に、空いた手で手にした布とを交互に見比べる。
同じだった。人形の服は汚れて多少色がくすんでいたけれど、それでもたしかに――同じ色だった。人形の汚れを落とせば、きっとこんな色になるのだと、どういうわけか、ナナには確信できてしまった。
「おや、そのお人形の服の色とそっくりだねえ。もしかして同じ布なんじゃないかい?」おばあさんの、声がする。
――また。
その後、ナナは橙の布を一切れと、少しの手芸用品を買って帰路に着いた。以前と同じように、またおいでと呟いたおばあさんの声は、思考の海に沈んだナナの耳には届かなかった。
まっすぐ家に帰ったナナは、ハルミの作った――やっぱり少し変わった味のするプリンを食べた後、部屋にこもって人形を繕いにかかった。
どうして同じ色の布が、偶然にも四日前に仕入れられたのか――どうしてこんなにも都合のいいことが、立て続けに起きるのか――そんな考えを振り払うように、ナナは人形の修繕に没頭した。黒く汚れて砂や木屑の混ざっていた綿を人形の背から取り除き、昼間、手芸店で買った真っ白な綿を詰め直した。それから、みかん色の布で蓋をして、ほころびが目立たないように丁寧に針を通す。数日ぶりに手にした針はナナの手に吸いつくようで、いつもよりも作業がはかどるような気がした。
ナナの手によって完全に元どおりの姿を得た人形は、その日、一番にハルミに見せられた。「随分早いのねえ」と驚いたハルミだったけれど、偶然拾った人形を直したのだと説明すると、納得したようだった。
「まるで、ナナちゃんはお人形のお医者さんね」
そんな大層なものではないのだけれど、ハルミがまるで自分のことのように誇らしげに言うものだから、ナナは恥ずかしくて何も言えなくなってしまった。
そして、その日の晩から、ナナは毎晩のように同じ夢をみるようになった。それはまるで現実に起きていることのように鮮明で、目が覚めた後でもはっきりと思い出せるくらいに実感がある、不思議な夢だった。
ほの暗いヤマセ家のナナの部屋の中。かすかに開いた障子の向こうから差しこむ月明かりに照らされて、机の上の影が身じろぎする。ちぃちゃん、ちぃちゃん――声がする。ナナの直したあの人形が、長い袖を顔にやり、頭を左右に振りながら、すすり泣くような声をあげる。ちぃちゃん、ちぃちゃん、ここはどこ――ちぃちゃん、ちぃちゃん、どこにいるの――?
ちりちりと震えるように鳴る鈴の音が、人形の心細さを表しているようだった。
夢から覚めるとナナは必ず、窓の障子が閉まっていることを確認して、それから机の上の人形を見る。けれども、いつも人形はただ静かで、誰かの名前を呼ぶようなこともなければ、動くことだってしなかった。
このころ、カイセイ中学校ではすでに仮入部が始まっていた。教室の連絡版には、束にして紐でぶらさげられた仮入部届けがあって、仮入部希望者はそこから紙をもらってくる。複数の部活に仮入部したい生徒は紙を何枚も持って行ったりもして、そこに仮入部希望の部活と自分の名前を記入する。記入した後は仮入部したい日に担任へ渡せば、部活の顧問に連絡が行くようになっているのだそうだ。
ナナもすでに一枚の仮入部届けをもらって、手芸部の入部希望の旨を書いてカバンの中に忍ばせてあるのだけれど、どうも最近のナナはそういう気分ではなかった。というのも、ナナは毎晩みるあの人形の夢のことが気になってしかたがなかった。
静かな、寂しい浜辺に取り残された人形。きっと本当の持ち主が恋しくてたまらないだろう。持ち主だってそうだ。あんなに――あんなにぼろぼろになっても丁寧に繕って大切にしていたのだから、失くしてしまって、本当に悲しくてたまらないだろう。
あれはもしかしたら、普通の人形ではないのかもしれない。夢をみるようになって数日が経つと、ナナはそんな風に思うようになっていた。あの夢も、人形が呼ぶ「ちぃちゃん」という人のことも、ただの夢想ではないかもしれない。
けれど、ナナは何も知らなかった。人形のことも、この町のことも、何もかも。
その日の放課後。ナナは仮入部に向かう生徒たちの中からひとり離れて、学校の図書室に向かった。先々週、クラスの総合の時間で行ったのを思い出したのだ。今年で六十周年を迎える学校の図書室はそんなに大きくはなかったけれど、背表紙が傷んで題が読めないような古い本から、製本したての紙の匂いがする新しい本まで、たくさんの本があった。もしかしたら、何か――人形に関係するような本も置いてあるかもしれない。
図書室はがら空きで、ほとんど人がいなかった。扉を後ろ手に閉め、ナナは本棚へ向かう。
本の貸し出しをしている窓口では、図書委員なのか、つんつん頭の男子生徒が珍しそうにナナを見ていたが、やがて眠そうな顔になって、あくびを一つした。なんだかベベみたいだな、なんて、失礼なことを思ったりもした。
ナナが一番初めに向かったのは、怪談のコーナーだった。人形には魂が宿る――そんな怪談話はナナだってよく聞く。人形の成り立ちとかそんな難しい本が、中学校の図書館にあるとは思えないけれど、怪談の本の中になら一つや二つくらい人形絡みの話があってもおかしくはないはずだ。
本の背表紙を人差し指でなぞりながら、口の中でタイトルを呟く。学校の七不思議――心霊スポット三十選――不可思議な現象の世界――水底の怨霊――読んでいく内に、背筋がぞっとしてきた。ナナは怪談話は特別好きなほうではない。本当なら、あまりここには近づきたくなかったし、現に総合の授業のときもはしゃいでいる級友たちを他所に、ナナは遠くの文庫本のコーナーにいた。
それなのに、どうしてわざわざこんな時期に肌寒い思いをしてまでここにいるのかと言えば、それはひとえにあの人形のことが気になってしょうがないからだった。あの人形の泣く姿と声を思い出すと、どうしてか胸が苦しくなる。まるであの日、机の影にうずくまって泣いていた自分を見ているようで――
そのとき、ふとナナの指先が重厚な装丁の本の背表紙にふれた。暗赤色の立派な背表紙には、金の箔押しで「人形の歴史、ニワミユキ著」と書かれている。明らかに場違いな本だった。妙に思って図書の分類番号を見てみると、案の定、回りの本とは全く別の番号と文字が振られている。
元の場所に戻すのが面倒で、誰かがここに押しこんだのだろうか。首をかしげながらその本を引っ張り出してみると、大分年季の入ったものだとわかった。白かったはずのページが黄ばんでしまっている。
軽くページをめくって内容を流し読みしてみると、人形のルーツのようなものがつらつらと記されていた。まさに、ナナの探していた本だった。
けれど、こんな変わった本、誰か借りたりしていたのだろうか。そう思って、裏表紙を開く。挟まっていた貸し出しカードには、意外にも数人の生徒の名前が書かれていた。
「ヤマダハナコ、ヤガミハジメ、ヤマシタショウ、ヤザワユキ、ヤダソウタ……」
驚くべきことに、とことん、苗字の頭に「ヤ」のつく人ばかりだった。ここまで偶然に、頭文字が揃うというのもまた珍しい。ナナの苗字には「ヤ」がつかないものだから、一瞬、自分が借りてもいいのだろうかと不安に思ってしまった。
貸し出しカードに、持ってきた鉛筆で自分の名前を書いてから、改めてカードを見直す。大分かすれて読みにくい鉛筆の文字で綴られた名前の横には、貸し出された日付があって、この本がずいぶんと昔からこの学校にあるのだということがわかる。
新しい日付は三日前の日付で、最も古い日付は六十年前のものだった。つまり、この本は学校創立当初からあったということになる。ナナはずっしりとした本の重みに、歴史の重さを感じた気がした。
「これ、借りたいんですけど」
そう言って、ナナが本を窓口の机にゆっくりとおろすと、うとうとと船を漕ぎだしていた図書委員が慌てて顔をあげた。そして、机にのせられた分厚い本を見て、ちょっと驚いた顔をする。
「……えっと、貸し出しカードを見せてもらえますか?」
「はい」
ナナと同じで、今年入学してきた一年生なのだろうか。差し出されたカードを受け取る男子生徒の手つきは、あまり慣れているようには見えなかった。ただ単に、図書室を利用する生徒がいなくて慣れようがないのかもしれないのだけれど。
「この本の貸し出し期間は一週間だから、必ず守ってください」
義務的な言葉と共に渡された本を受け取った後も、ナナは図書室からでなかった。適当に空いた席に座り、本のページをめくる。ぺらりと乾いた音がする度に、古い紙の匂いがナナの鼻をくすぐった。
ナナが独特な古本の香りに慣れるころには、色んなことが分かり始めてきていた。
そもそも人形というのは、昔は「ヒトガタ」と呼ばれ、主に人の厄を受ける身代わりとして作られていたらしい。ひな人形や五月人形も、厄除けのために作られたようだ。そのためなのか、やはり人形に持ち主の思いや魂が宿るという話は古くからあり、厄を払って役目を果たした人形や、長い年月を共に過ごした人形を処分する際に、供養してくれるという寺についても書いてあった。
ぬいぐるみも供養したりするのだろうかとナナは疑問を抱いて調べてみたけれど、「人形の歴史」というだけあって、クマだのウサギだののぬいぐるみについては何も記されていなかった。
ナナは本を読んで考えてみた。この人形はどうしたいのか。この人形はどうしたら、もとの持ち主の下へ戻れるのか。
小さいころ、ナナは迷子になったことがある。そのときは日が暮れるまで歩き回って、両親にはめいっぱい怒られて、一つだけ約束させられたことがある。
――はぐれてしまったと思ったら、その場所から動かないこと。
その言いつけを守るようになったら、ナナは迷子になってもすぐに両親と再会できるようになった。どんなときでも、必ず再会できた。それならこの人形は? この人形にとって、持ち主とはぐれた場所は、あの海辺――
ナナは、直した人形をもとの場所に戻すことに決めた。週末の休みを待って、ナナはいつか行ったあの海辺に出かけた。前よりももっと薄れてしまった記憶を辿って、必死になって四月の初めに見た景色をさがした。サクラの花は散って、ナノハナも鮮やかな黄色を失くしてしまったけれど、ナナはたしかにあのときの川に辿り着いた。
それなのに、どうしても、あの真っ赤な太鼓橋が見つからない。木製で、丈夫そうだった、あの橋が見つからない。途中、コンクリートの橋を見つけて、向こう岸へと渡っては見たけれど、どれだけ歩いて、どれだけさがしてみても、ナノハナのアーチは見つからない。ナノハナを踏み分けて無理矢理に雑木林の中へ足を踏み入れても、あの海辺へと続く秘密の小道は見つけられなかった。
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