不思議のソナタ[2]
その日は、学校で球技大会があった。カイセイ中学では一学年に学級が二つずつしかないので、出席番号の偶数と奇数に分かれ、全校生徒が入り乱れての試合になる。ナナは出席番号が八番だったから、偶数のチームだった。
特にハンデや特別ルールというものの説明はなかったのだけれど、上級生は下級生を当ててはいけないという暗黙のルールがあるのかもしれない。初めの内は上級生同士の戦いで盛りあがった。無謀にも上級生に挑んだ男子生徒たちを除けば、ほとんどの下級生がボールを避けて逃げ回っていた。
けれど、三年生が減ってくると次は二年生がボールを取るようになり、さらに二年生が減ると一年生にボールが回ってくる。すると、おかしなことにナナみたいな運動のできない子にまでボールが回ってくるもので、
「投げてみる?」
そう言ってナナにボールを寄こしたのは、二年の男子生徒だった。ナナは思いっきり困惑した。
ナナは手先が器用だけれど、腕っ節はてんで弱い。小学校のときだっていつもボールを投げてはコートの向こう側まで届かないで、相手の陣地にボールを落とすという結果になる。コントロールもできないから、人に当てたことだって一度もなかった。
投げるのが下手な子がよくするように、誰かにパスしようと思ったけれど、生憎と近くに人がいない。しかたがないので、ナナはとりあえず外野に向かってボールを投げた。そうしたらなんと、偶然にもよそ見をしていた男子生徒にぶつかってしまった。
当てられた男子生徒は、状況が理解できないみたいで、ぽかんとしたようすだった。地面に落ちたボールを見て、それからナナを見る。ナナもあんまり自分のやったことが信じられなくて、投げた格好そのままで固まっていた。自分が当てられたことに気づいた男子生徒が、慌ててコートの外に出ていく――遠くてよく聞こえないけれど、別の男子生徒がドンマイタヌキとかなんとか言っている。
「やるぅ」ナナにボールを渡した二年生が茶化した。
それからは、ナナにボールが回ってくることはなかった。試合が終わって内野にいる人数を数えた結果、勝ったのは偶数のチームだったけれど、勝敗は僅差だった。ナナは珍しくボールから逃げきって最後までコートに残っていたから、一応はチームの勝利に貢献したことにはなるのかもしれない。
球技大会が終わった後、ナナはくたくたになって家へ帰った。喉がとても渇いていたし、なんだか無性に甘いものが食べたかった。
相変わらず垣根に足をのせて出迎えてくれるベベに声をかけてから、鍵穴に鍵を差しこんで回す。だけど、家の戸はびくともしなかった。
もしかして、鍵がかかっていなかったのだろうか。ナナがもう一度、鍵を差して回すと、今度は開いた。おかしい。ナナは首を傾げた。ハルミが帰ってくる時間にはまだ早いはずなのに。
家の中へと入りこむ。何か、嗅ぎなれない匂いがした。油っぽくて、ちょっと甘い匂いもする。ナナは音をたてないように引き戸を閉めた。真新しくて固い革靴を苦戦しながら脱いで、あがり口に足をかける。と、台所のほうで鈴の音がした。軽やかなリズムを刻んでいる。まるで、鈴が飛んだり跳ねたりして、踊っているみたいな音だった。
台所へ向かうと、別の物音が聞こえてくる。揚げものをしているみたいな音だ。誰か、いるのだろうか。ナナはそっと台所を覗きこんだ。火のついたガスコンロに、小さな鍋がかけられている。テーブルの上には小麦粉の入った袋と、粉を被って白っぽくなったボウルが置いてあった。何か、料理の作り途中なのだということはナナにも想像できたけれど、不思議なことに人の姿がない。やりかけの、道具だけがそのまま置き去りにされている。
「あら、もう帰っていたの」
すぐ近くで声がした。ナナは驚いて振り返った。いつの間にか、ハルミが廊下に立っている。振り返ったナナを見て笑顔になって、そのままゆっくりと近づいてくる。
「おかえりなさい、ナナちゃん」
「ハルミさん――」
ナナは目を白黒させて、ハルミを見た。台所の壁にかけられた時計は四時半。ハルミが帰ってくる時間にはまだ一時間以上も早い。仕事は一体どうしたのだろう。入学式のときみたいに早く切りあげてきたにしては、早すぎる。ただいまも言わないでそのことを聞くと、ハルミはにっこりした。
「急に新しい人が入ってね、以前よりも忙しくなくなったのよ」
だから、これからはナナよりも先に家へ帰ってこられるのだという。
ナナにとっては嬉しい報せだった。誰もいない家へ帰るより、ハルミのいる家へ帰ることのほうが、よっぽどよかった。
「あらやだ、火をつけっぱなしだったのね」
台所を覗いたハルミが慌てた声をあげる。
「今、おやつを作っているの。もう少しでできあがるところだから、居間で待っていてね。ジュースも買ってあるから」
知らない内に、鈴の音は聞こえなくなっていた。
翌日、ナナの両親から手紙が届いた。学校から帰ってきて郵便受けを覗きこむと、他の郵便物が重なる一番上にカツキナナ宛ての封筒があった。一枚だけの手紙には母のきれいな文字で、町の復興作業はあまり進んでいないこと、ナナが帰るにはまだまだかかりそうだということが書いてあった。ナナが出した手紙のことには何もふれていなかったから、行き違いになったのかもしれない。最後のほうには、父からの「体に気をつけてがんばりなさい」という短い言葉――それでも、父にとっては精一杯の言葉だったに違いなかった。
ナナは嬉しくなって、そばにいたベベに飛びついた。驚いたベベがナナの顔中を舐め回したものだから、ナナの顔はよだれでべたべたになったけれど、そんなことは気にならなかった。
初めて届いた両親からの手紙。家へ入ればハルミさんが出迎えてくれて、おやつまで用意されている。ハルミが子供好きなのは、ナナにもなんとなくわかってきていたけれど、居候のナナにしてみたら、贅沢すぎるくらいだった。
ぶどうジュースの入ったコップが暖房の効いた部屋の中で薄っすらと透明な汗をかいている。ナナはハルミのお手製ドーナツにハチミツをたっぷりかけて頬張った。
こんな嬉しいことはきっとない。そのとき、ナナはそう思ったし、その次の日も、そのまた次の日も、そう思っていた。
けれど、ナナにとっての“嬉しいこと”はそれだけでは終わらなかった。
それは週末の日曜日、ナナが余った時間を使って部屋の片づけをしていたときのことだった。と言っても、ほとんど自分の身一つでハルミの家にきたナナの部屋は極端にものが少ないから、片づけというよりも掃除というほうが正しい。最初は普段に着る服もなくて、商店街でまとめて買ってきたくらいだ。だから、この日は一階から持ってきた掃除機をかけてみたり、窓の桟なんかを雑巾で拭いてみたりしていた。
けれど、そのついでにランドセルの中身を整理していたら、入れた覚えのない家族写真が出てきた。それは去年の夏に北海道へ家族で行ったときの写真で、ふたのビニールポケットに入っていた時間割表の裏に張りついていた。放牧されている牛たちを背景に、ナナと両親が並んで笑っている。空は青くて、牧草地も青くて、そこに散らばる白と黒の牛たちが何かの模様みたいで、ナナはこの写真を気に入っていた。牧場にある売店のお姉さんが撮ってくれて、撮影の後に三人でソフトクリームを買って食べたのだった。
でも、どうして入れたはずのない写真が出てくるのだろう。ただナナが忘れているだけ? それとも両親がこっそり忍ばせていた? それにしたって都合がよすぎるような――
このことを聞いたハルミは「あらあら、よかったじゃないの」と微笑むだけ。たまたま、おすそわけに来ていたお隣の「サイトウさん」にもそれとなく――入れた覚えのない私物がでてきたのだと話しても、よかったじゃないかとかそんなような言葉しか返ってこない。
誰も疑問に思わない。誰も疑問になんて思っていなかった。だけど、ナナには――ナナにとっては、それはどう考えてみても説明のつかないような、“不思議なこと”でしかなかった。
だって、つい二週間前までは何もなかった。中学生になったあの日、ちょっと時間割表を引っ張り出して、小学校を懐かしんだそのときは、家族の写真なんて、本当に、どこにもなかったのに――
ナナが心のどこかでそうだったらいいのにと願っていたことが、次から次へと叶っていく。
まるで、ナナの心の中を覗きこんだ誰かが、先回りをして願いを叶えているみたいに。
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