4月

不思議のソナタ[1]

 それから一週間が経った。四月の初め、枝がたわむほどに咲いたサクラは音もなく風に散り、中学生になったナナの生活は急激に変化していった。

 ナナがこの町へ着いたばかりのころ。一人では心細いだろうと気を利かせたハルミは、仕事を休んで家にいてくれたけれど、数日も経つと仕事で家を空けるようになった。その間、ずっとハルミの家で留守番をしていたナナは、今度はそのほとんどの時間を学校で過ごすようになった。学校給食のないカイセイ中学校では弁当を持参することが決められていて、昼食にはハルミのお手製の弁当を風呂敷に包んで持って行っている。ナナが家へ帰ってくる時間は誰もいないことから、家の合鍵を持つようになって、夕方のベベの散歩は、宿題をするための時間に取って代わった。

 算数の授業は数学に名前を変えて、漢字練習のドリルだって配られなくなった。新しく加わった英語の授業は初めてのことばかりで戸惑ったけれど、この田舎町には塾へ行っている子がほとんどいないらしくて、クラスの実力は大体平均しているらしかった。


 窮屈な制服と目に痛い色のジャージを交互に着替え、放課後の部活動がない生徒は家へ帰るときには必ず制服に着替え直す。一年生の入部は五月以降から受けつけることになっていて、四月半ばの部活動説明会の後から仮入部ができるようになるのだと、担任のサエキは言っていた。だから、今はまだ、どの一年生たちも帰り道では制服を着ていて、どの部活に入ろうかと話し合いながら、これからへの期待に胸を膨らませて家へ帰っていく。

 昔からよく小さなマスコットやクッションを作っていたナナは、手芸部への入部を考えていた。ナナがまだ幼稚園に通っていたとき、繕いものをしていた母に教わって以来、ナナは裁縫が好きになった。小学校の入学祝にもらった母の古い裁縫道具は、幼いナナの宝物だった。

 そんなナナが、小学四年生から始まるクラブ活動で手芸クラブに入ったのは、しごく当然のことだったのかもしれない。手先が器用なのねと、手芸クラブの先生に褒められたときは本当に嬉しくて、帰ってから父や母に自慢したこともあった。

 卒業式の日に手紙をくれた「ミっちゃん」はクラブで仲良くなった友達で、「ユウコちゃん」もそうだった。「ユウコちゃん」の家は手芸屋さんで、時々だけれど店の綺麗な布や包みボタンなんかをこっそり分けてくれていた。今でも、もらった布の切れ端やボタンが裁縫箱に入っていて、箱を開けると真っ先に目に留まる。ナナのことを「ナっちゃん」と呼んでくれていた二人、中学校でも同じ部活に入ろうねって約束をした。だけど、カイセイ中学の部活動で手芸部に入っても、二人にはもう会えない。


 浜辺で拾ったあの人形は、相変わらず薄汚れたまま、今はナナの机の上で大人しく座っている。夜、寝る前の時間を使って少しずつ繕っているうちに、ナナは人形にはたくさんの繕った跡があることに気がついた。ぱっと見ただけでは気がつかないくらいきれいに馴染ませてあるものだから、ナナがいざ針を通そうとしたときになってようやくわかったくらいだった。

 繕った痕跡を数えるには、ナナの両手の指ではとても足りない。見落としている部分を数えたら、きっともっとたくさんあるだろう。こんなに丁寧に、何度も何度も繕われている人形を、ナナは他に見たことがない。ナナの知らない誰かが、この人形をとても大事にしていた証だった。

 ナナは赤いガラス球を繋ぎ止める糸を締め直し、落ちそうになっていた金色の鈴も、きちんともとの位置に戻してやった。上手に繕ってあるところはよく調べて、ナナもそれを真似て繕った。ナナの地道な修繕活動のおかげで、机の上の人形は日に日に、もとの姿を取り戻しつつあった。

 けれど、もうじき繕い終わるというところまできて、ナナは一つの問題にぶつかってしまった。というのも、人形の背中には当て布がなくては塞げないくらいの大きな穴がぽっかりと空いていて、その当て布に使える布がナナの手もとにはなかった。

 裁縫箱に入っている柄物の可愛らしい布の切れ端は、無地の布で作られたこの人形の服には似合わない。服を一から作り直すにも、切れ端一枚ではやっぱり足りない。

 お金があったら、商店街にある手芸用品店へ行って人形の服の色に近い布を選んで買ってこられるのに――ランドセルと裁縫道具以外の何もかもを、壊れかけのマンションに置いてきてしまった今のナナには、それは到底無理な話だった。ナナがこつこつとお小遣いを溜めた郵便ポストの形をした貯金箱は、今ごろ、机の上から落っこちて、無残にもその中身を飛び散らかしているだろう。きっとあのマンションにはもう住めないだろうから、マンションを取り壊すときには小銭がそこら中に散らばって、土の奥深くに埋まったり、誰か知らない人のポケットに忍ばせられたりするかもしれない。

 毎夜かかさずにそうしてきたナナは、その日も縫い針を手に取ったけれど、手をつけられるところが残っていない。くすんだ綿がのぞく穴を前に、どうにかして塞げないだろうかと、ナナは針を手にしたまま長いこと頭を捻っていた。けれど、こんなに大きな穴ではナナにも手の出しようがない。何もしないまま、針を置くしかなかった。


 翌朝、ナナはハルミにおつかいを頼まれた。夕食の材料を学校の帰りに商店街で買ってきてほしいのだという。

「お友達と一緒なら、余ったお金でお菓子を買って食べてもいいから」

 ハルミは、そうにっこりしたけれど、ナナは学校の級友とはほとんど話をしたことがない。ナナが友達を作ろうとする前から、気がつくと周りの子供たちはお互いとっくに打ち解けたようすで話をしていて、ナナは何かしら一人だった。記憶を辿ってみると、入学当初から――入学式のときには、すでにそんなようすだったようにも思う。ここは小さな町だから、みんな、入学する以前からの知り合いなのかもしれない。一人そんな中へ放りこまれたナナに、一緒に帰る友達なんているはずもなかった。ナナのいる一年一組には一人だけ、ハーフの女の子がいるのだけれど、金髪で目立つその子のほうが、ナナよりよっぽどクラスに溶けこめているくらいだった。

 クラスメイトだって、話しかけたらちゃんと返事をしてくれるけど、ナナは意気地なしだから、なかなか声がかけられない。一緒に帰ろうと誘ってみようとしても、相手が自分と同じ方向に帰るのかなんてわからないし、仲良し同士の間に入るのも気が引けてしまって、結局はいつも一人で帰る。

 そのことを、ナナはハルミに言えなかった。心配をかけたくなかったのか、ただ少しだけ見栄を張りたかったのか、ナナにもわからない。ただ、ハルミの言葉になんでもない風を装って、笑って、「うん」とうなずいて、いつものように家を出た。

 だから、この日の帰り道も、ナナは一人で商店街に向かった。ゆっくりと歩くナナを、駆け足で追い越していく同じ制服姿の子供たち。遠ざかっていくその背中を眺めながら、なかなか馴染めない環境に、ただ一人、置き去りにされているような気がした。


 肉屋、八百屋、豆腐屋――ハルミに渡された赤いがま口の財布とメモを手に、一つ一つの店を訪ねて回る。ひき肉、青ねぎ、木綿豆腐――買うものを確認しながら買っていくと、少しずつ夕飯の献立が見えてくる。今夜はきっと麻婆豆腐だ。

 ハルミの作る料理は、ナナが食べ慣れた母の手料理とは味つけが違うけれど、なんだか素朴な味がして少し好きだ。まるでハルミの飾らない性格が滲んでいるみたいだと、そう思うことがある。だけど、それだったら母の料理からはどんなものが滲んでいただろう――

 夕食の材料を買いそろえた後で、ナナは少しだけ手芸洋品店に寄った。ハルミから渡されたお金を使うつもりはなかったけれど、人形の服の色に合った布があるのかどうかが気になった。店の中を見渡せる場所に設置されたカウンターにいた白髪のおばあさんが「ゆっくり見ていってちょうだいね」と、顔をくしゃくしゃにして笑う。そんなに大きくもない商店街の手芸店は、都会の手芸店に比べたら品揃えはあまりよくなくて、店のすみの棚では、売れ残ったぬいぐるみのキットが薄く埃をかぶっていた。変な形をした木のボタンが、袋に少しずつ詰められてぶら下がっている。だけど、目当ての布は見つからない。ナナは肩を落とした。これではなんとかしてお金を都合しても、繕うなんてことできっこない。

 よかったらまたおいで。何も買わないまま店を出るナナの背に向かって、おばあさんの声がかけられた。


 商店街からの帰り道は、なんだかいつもよりずっと静かだった。さっきまでいた商店街があんなに人で賑わっていたから、そう感じるだけかもしれない。

 家に着くと、垣根越しにベベが出迎える。このとき、いつもベベは大きな体をぐんと伸ばして前足を生け垣にのせるから、近ごろ垣根が少し不恰好になった。

「ただいま、ベベ」そう声をかけて、また少し汚れてきたベベの頭をそっと撫でた。あれから、まだそんなに経っていないのに。

 商店街に寄って遅くなったけれど、ハルミはまだ帰ってきていないみたいだった。他所の家の窓や街灯にも明かりがつき始める中で、ハルミの家の窓だけに暗い影が映っている。鍵を開けて家にあがったナナは部屋の明かりをつけてから、雨戸を閉めて回った。

「仕事から帰ってきたとき、家の明かりがついているのが嬉しいの」

 いつだったか、ハルミがそうもらしていた。ナナちゃんが来てからは家に帰るのが楽しみになったのよ――

 ナナはこれまで、誰もいない家のドアを開けることなんて、ほとんどなかった。学校から帰ってくると必ず母が家にいて、ナナを出迎えてくれた。ちょっとお金のある友達の家とは違って、おやつを用意して待っていてくれるなんてことはなかったけれど、友達と遊んで今日よりもっと遅い時間に帰ってきても、「おかえり」と言って明るい部屋の中へと招き入れてくれた。

 だけど、今は違う。帰ってくるときに出迎えてくれる人はいなくて、家の明かりをつけるのはナナだ。


 夕飯の材料を冷蔵庫にしまって自室にこもる。和室に置かれた机に向かい、宿題を広げた。ナナはハルミが帰ってくるまで、こうやって学校で出された宿題をする。それから、その日に習ったことの復習をして、それでも時間が余ったら予習をする。人形の赤いガラス球に、鉛筆を止めたり走らせたりするナナの姿が映るのも、ここ一週間ですっかり馴染みになった。

 しんとした家の中で、鉛筆の芯と紙がこすれる音が響く。時々、どこかで家の軋む音がする。部屋の時計の音が、とても大きく聞こえる。ふと、ナナはあの砂浜へと続く小道のことを思い出した。あのときも、そうだった。ナノハナのアーチを潜ると外の音がぴたりとやんで、自分の足音と鼓動の音しか聞こえない。まるで世界から切り離されたみたいに、現実味が薄れるような、不思議な感覚に襲われる。まるで、夢でもみているみたいに――

 玄関のほうでベベの鳴く声がした。ナナが顔をあげると同時に、ハルミの声が聞こえてくる。広げた宿題をそのままにして一階へおりると、引き戸を開けたハルミが、ナナに気づいてにっこりした。「ただいまナナちゃん。今、お夕飯の支度をするからね」

 その日の夕食は、ナナが予想したとおりで麻婆豆腐だった。ちょっと辛くて、やっぱりハルミの味がする。ナナのお母さんが作る麻婆豆腐はもっと甘口で、豆腐の量も少なかった。

 ナナの両親は、今ごろ一体どうしているだろう。あの日、夜中にハルミとナナの両親が話し合っていたのを目にしてから、両親からの連絡がきたことは一度もない。余震は今もまだ続いているのだろうか、建つと言っていた仮設住宅は? ナナの書いた手紙は届いたかな、ハルミとは話をしていたのに、どうしてナナには電話の一本も寄こしてはくれないのだろう、お母さんは電話するってたしかに言っていたのに――

「ナナちゃん、ご飯が終わったらお風呂が沸いているから」

 いつもならほっとするはずのハルミの笑顔が、とても遠くに感じる。うんとうなずいて、ナナは箸を置いた。


 お風呂をすませた後、ナナはハルミにおやすみなさいを言って部屋に戻った。明日の持ち物を用意して、押入れの中の布団を床に敷いて、それから蛍光灯の電気を消して――そして、部屋の真ん中にうずくまる。自分を抱きしめるみたいに、力いっぱい膝を抱えた。

 ハルミもいる。ベベもいる。なのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。

「――お父さん、お母さん」

 駅で別れた日から、もうどのくらい経っただろう。ひと月経つか経たないかというところなのに、一年以上経ったような気がする。

 引き出しの中の小さなアルバム。それには、入学式の日にハルミやベベと一緒に撮った写真が大切にしまってある。だけど、そこに両親の写真はない。昔、父が見せてくれた立派な装丁のアルバムには、あんなにたくさん家族旅行の写真があったのに、今は一枚も残っていない。

 手紙をくれると言っていた母――筆不精な父とは正反対で筆まめな母は、学生時代からの文通友達と頻繁に手紙のやりとりをしていた。ナナは、机に向かって手紙をしたためる母の後姿を、週に一度くらいの頻度で見ていたのを覚えている。震災にあった町の郵便局は潰れてしまったと聞いていたので、一体どうやって手紙を寄こしてくるつもりなのだろうと、ナナは首をかしげた。だけれど、それでも、ただ母の言葉に期待をして、毎日のように郵便受けを覗きこんでは郵便物の宛名や差出人を調べる。そして、決まってそこにナナの名前はない。母の名前も、もちろん、父の名前だってないのだ。

 ナナが知らないところで、ハルミは両親からの電話を受けているのかもしれないけれど、それを聞く勇気が、ナナにはなかった。あの晩、ハルミや両親があんな時間にこそこそと話をしていたのはどうしてだろう――それはきっと、ナナに知られないようにするためだ。どうして知られてはいけなかったのかなんて、ナナは知らない。けれど、いつだってナナの知らないところで物事は決まって、次の手順へと進んでいく。ナナが知らされるころには全てがきれいにそろっていて、心の準備もできないままに、大きな渦の中へと放りこまれていく。

 渦巻く濁流はナナを飲みこんで、一体どこへゆくのだろう。ナナが辿り着きたい岸辺を通り過ぎ、両親の影を押し流して、次はどこの岸辺へ向かうのだろう。ナナは、ハルミに気づかれないようにひっそりと泣いた。明かりの届かない部屋の中、机の影に隠れてこっそりと。


 その晩、泣き疲れて眠ったナナは、不思議な夢を見た。真っ暗な闇の中で誰かの声がする――困っているの? 願いがあるの? わたしの助けが必要なの――?

 前触れもなく暗闇にぽつりと浮かびあがった白い影は、軽やかに体を反転させる。こちらを振り向いたのだと、ナナはそう思った。スカートのようなひらひらが動きに合わせてふわりと動く。

 ――困っているのなら手を貸してあげる、願いがあるのなら叶えてあげる、わたしの助けが必要だというのなら助けてあげる。

 声がそう言ったところで目が覚めた。スズメの声が聞こえる。ナナは机の影にうずくまったまま、抱えた膝に顔を埋めるようにして眠っていた。

 壁の時計を見ると、四時五十分だった。ベベの散歩の時間だ――ナナは慌てて立ちあがる。だけど、その前に顔を洗わなくちゃ。昨晩はあんなに泣いたから、きっとひどい顔になってる。

 ところが、洗面所に駆けこんだナナは、鏡を覗きこんで驚いた。あれだけ泣いた後なのに、ナナの顔には涙の痕が残っていなかった。目は赤くないし、瞼だって腫れぼったくない。いつもと同じで、少し眠そうなナナの顔だ。そういえば、たくさん泣いた後になる変な頭痛もしていない。

 これならナナが泣いたことなんて誰にもわからないし、ハルミにも心配がかからない。ナナにとっては返って好都合だ。だけど、こんなことってあるだろうか。

「おはよう」

 ナナが自分の顔をぺたぺたとさわりながら鏡と睨めっこをしていると、ハルミの声がした。鏡にハルミの姿が映って、ナナは慌てて顔から手を離した。

「なあに、顔がどうかしたの? 吹き出物ができちゃったの? おばさん、お薬を持っているけれど」

「ううん、なんでもないよ」

 ナナが首を振ると、ハルミはちょっと首をかしげて、それから話を変えた。

「もうすぐ五時だけど、ベベの散歩はどうする? 具合がよくないのなら、おばさんが行こうか?」

 ハルミは、ナナが泣いていたことには気づいていない。ナナはほっとして、また首を振った。

「大丈夫。今、行くから」

「そう、じゃあおばさんは朝ご飯の支度をしているからね」

「うん」

 洗面所から出ていくハルミを見送って、ナナは顔を洗った。冷たい水道の水をかけても、鏡に映るナナの顔はやっぱり少し眠そうないつもの顔だった。

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