音の外れた序曲[4]

 ナノハナのトンネルを潜り抜けると、うっそうと茂る雑木林の中だった。木漏れ日が差しこむだけの薄暗い林の中を、まるで木立や藪がそれを避けているみたいに――真っ直ぐに、一本の細い道が通っている。

 ナナは何かに引っ張られるように、その道を辿って歩きだした。もしも、きっと、その気になったのなら、ナナは自分で足を止めることもできたのだろうけれど、どうしてか、そのときはそうする気にはならなかった。

 招き入れられるように林の奥へ奥へと進んでいくと、ちょろちょろと水の流れる音が聞こえてきた。さっきの大きな川から分かれた小川が、近くを流れているのかもしれない。さらに進むと、道は幅が三十センチほどの小さな川を跨いで、その奥へと続いていた。ナナは、川を軽く飛び跨いで先へ進んだ。

 林を抜けた先は、海だった。不思議なことに風はなく、潮が寄せる以外は、やっぱりしんと静まり返っている。アーチを潜る前に聞いたあの笑い声は、誰のものだったのだろう。真っ白な砂浜には、足跡ひとつ残っていなかった。

 浜に消えた道の代わりに、林から海へと流れていく小川を辿るように歩いていく。人気のない浜のどこを探しても、笑い声の主はいなかった。浜に突き出した岩の陰、切り立った崖に開いた洞穴、波が打ち寄せる少し足場の悪い岩場、浜と隣り合った林の木立の中――ぼろぼろになった子供用のバケツやシャベルは見つかれど、どこを探してみてもあの笑い声が再び聞こえることはなかった。


 風のない浜辺には、ナナのつけた足跡だけが至るところに残り、波の音だけが時を刻む。ナナはとうとう探すのを諦めて、浜辺に転がっていた流木の上に腰かけた。

 と、そのとき、足もとから鈴の鳴る音がした。

 なんだろう、何かキーホルダーでも流れ着いていたのだろうか。ナナが首をかしげて足元を見ると、中身がすっかり腐って空っぽになった流木の洞の中に、布でできた人形が置き去りにされていた。そういえばと、さっき岩場で見かけたプラスチック製のバケツとシャベルを思い出す。ここへ遊びにきた子供が置き忘れたのかもしれなかった。

 その人形は、少しみょうちくりんな格好をしていた。髪は水色、目は赤いビーズ。ピエロみたいに先が二つに割れた帽子をかぶっていて、袖はたっぷりと余っている。手に取って見ると、帽子の先についていた鈴がちりりと鳴った。雨風にさらされて、少しごわごわしている。顔には鼻も口もついていないし、服はしっかり縫いつけられていて着せ替えもできそうにない。

 手作りの人形なのだと、一目でわかった。けれど、薄汚れてあちこちの糸が解れてしまっている人形は、ひどくくたびれた印象で、あまりにみじめで寂しげだった。

 なんとか繕ってあげられないかと裁縫道具を探して、ナナの手は宙ぶらりんで止まる。そうだ、裁縫道具はハルミのおさがりの鞄に入れたまま、家に置いてきてしまったのだった。

 青い空と海の向こうに見える水平線は、近いようで、ものすごく遠く見える。それと同じくらい、ハルミの家もここから遠く離れているような気がした。

 ナナは流木に座ったまま少しだけ考えて、スカートのポケットに人形を押しこんだ。それから立ちあがって、もと来た道を引き返す。

 林の中の道は、行きとは全く違って見えた。木立を縫う道は途切れがちで、草木はナナの目から道を覆い隠すようだった。触れる下草は、足に絡みついて歩の進みも遅くなる。気を抜くと迷ってしまうような気がして、ナナは無心に歩いた。

 けれど、ナナは、自分がどう道を辿ったのかがわからない。一体いつ、ナノハナの下を潜り抜けたのか。行きと同じように、ちゃんと小川を渡ったのかどうか。そんなことすらも、わからない。

 ポケットで鈴が鳴って気がつくと、すぐ近くにせせらぎの音があって、ナナの後ろでは夕日に染まるナノハナが揺れていた。

 足元に倒れた紙袋からは国語と家庭科の教科書が飛び出している。戻ってきた、ナナはそう思った。

 時計は持っていなかったけれど、茜色の空が、もう大分いい時間だと教えてくれる。耳の中で、鐘の音が聞こえたような気がした。ハルミも、きっとそろそろ帰ってくる。ナナは紙袋を提げて、記憶を頼りに帰り道を歩きだした。


 分かれ道で何度も立ち止まりながら、ナナがなんとか中学校の前まで来たとき。風に乗って、犬の鳴き声を聞いた。ベベの鳴き声に、よく似ている。顔をあげると、校門の影から白い犬が飛びだしてきた。ナナには一目で、その犬がベベだとわかった。歳の割に軽い足取りで駆け寄ってくるその姿に、驚いて声をあげる。

「ベベ、どうしてこんなところに」

 ナナが尋ねるように呟いても、ベベは舌を出して息をしながら、じっと見あげてくるだけだ。ベベは勝手に脱走したりはしないけれど、放し飼いにしてもしものことがあってはいけないからと、普段から庭の木に繋がれている。家から出るのは散歩に行くときだけで、必ずハルミかナナがついているはずだ。たしかに、いつもなら大体このくらいの時間には散歩をするのだけれど――不思議に思って首輪に繋がっている鎖の先を辿ると、華奢な鉄の輪は不自然に歪んで千切れていた。

 ナナはぎょっとしてベベの顔を見る。まさか、ベベは鎖を引き千切って出てきてしまったのだろうか。

「そんなに散歩に行きたかったの」そんなとんちんかんな言葉しか頭に浮かんでこなかった。

 ああ、今ごろ、家に帰ったハルミさんはきっとびっくりしているだろう。ナナはまだ帰っていなくて、庭に繋いでいたベベは千切れた鎖だけを残して、すっかり姿を消しているんだから。

「ベベ、早く帰ろう。きっとハルミさんが心配してる」

 ナナはそう言って促したけれど、ベベはぺたりと地面に座ってじっとしている。しかたがないから千切れた鎖を握って歩きだそうとしたら、今度はナナの足にぴったりとくっついて離れない。「ベベ、それじゃ歩けないよ」困った顔で見おろすと、ベベは細く鼻を鳴らした。

 洗いたての白い毛は前に触ったときよりもずっと柔らかくて、ハルミと一緒になって洗ったことを思い出す。温かい陽だまりの中で、大きなタライに水を張って、泡だらけになりながら、この日のために二人で洗った。濡れたベベの身震いで、ハルミもナナもびしょ濡れになった。

 洗い終わったばかりのベベは、毛が体にぺったりと張りついていて、かわいそうに思えるくらい小さく見えたけれど、やっぱりベベは大きかった。身動きが取れなくて校門の前で立ち止まったまま、ナナは黙ってサクラの木を見あげる。本当なら、この木の下でハルミやベベと一緒に写真を撮るはずだった。だけど、

「……しかたないよ、仕事だもの」

 ナナの両親から、ナナの養育費が出されているのかはよく知らない。聞いても、ハルミは「そんなこと気にしなくていいのよ」と笑って誤魔化してしまうからだ。ナナとしては本当のことを知っておきたいだけで、養育費が出されているというのならそれを教えてくれれば、ナナだって安心できる。それなのに、わざわざそんな風に言って教えてくれないということは、もしかすると、そういうものは一切合切出ていないのかもしれない。だから、ナナが変に遠慮をしたりしないように、ハルミはそうやってはぐらかしてしまうのかもしれない。

 でも、それもこれもみんな、きっと――

 だから、しかたないの。と、もう一度ナナは呟いた。すると、ベベがナナを見あげて一つ吠える。ナナは少し笑って、ベベの鎖を引いた。

「さあ帰ろう。ハルミさんが待ってるから」

 ベベはもう、ナナの足にまとわりつこうとはしなかった。いつもの散歩でするように、ナナの左隣についてゆっくりと歩きだす。数時間前まで新入生たちであふれ返っていた道に、もうほとんど人の姿はなかった。


 ゆうやけこやけのあかとんぼ――小学校の音楽の時間で習った歌を口ずさみながら、ベベと二人で歩いていく。土手から見える海は赤く煌めいて、沈む夕日が眩しかった。ちりちり、ちりちりと、ポケットの中の人形が鈴を鳴らして自己主張をする。帰ったら繕ってあげようと、口の中で呟いた。

「ナナちゃん!」

 唐突に声がした。ハルミの声が。

 道の向こうから、誰かが、黒い影が走ってくる。ベベが吠えた。首にかけた大きなカメラを、大事そうに抱えて走ってくる、その姿は、

「ハルミさん、なんで」

 無意識の内に、言葉が口をついて出た。なんで、どうして、そんな疑問ばかりが浮かんでくる。

「早めに仕事を切りあげてきたの。でも、ナナちゃんがまだ帰ってきていなかったから、もしかしたら学校にいるのかもしれないと思って」

 白い顔を赤く上気させて駆けてきたハルミは、カメラの三脚が飛び出ているカバンを、肩にかけ直して言った。

「ベベがいなくなっているのに気づいたときは驚いたけど……」

 ハルミが見ると、ベベは邪気のないようすで一声吠えた。時々だけれど、ベベはこうやって人の言葉がわかっているみたいにする。とても賢い犬なのだと、ハルミは言っていた。

「少し遅くなってしまったけど、今から写真を撮りにいきましょう。学校の前で、ナナちゃんとおばさんと、ベベも一緒に」

 嬉しくて涙が出そうだった。涙声を聞かれたくなくて、ナナは口で答える代わりに深くうなずいた。


 その日の晩、ナナは初めて両親に手紙を書いた。部屋にこもってしたためた手紙は、後日やきあがった写真と、サクラやナノハナの押し花を添えて、封筒に入れた。お父さんお母さんへ、お元気ですか、私は元気です、カミシキ町は少し田舎で不便だけれどとても素敵なところです――

 同封した写真の中で、サクラの木は白く燃えるように照り映えて、その木の下で笑うナナとハルミは、これ以上にないくらいの笑顔だった。後になってその写真を見たとき、顔中の毛で隠れてはいたけれど、ベベの顔も笑っているように見えた。

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