音の外れた序曲[3]

 ナナの熱がすっかり下がると、ハルミは海に向かう道すがら町を案内してくれた。ナナの挨拶がてら、一番に向かったのは、よくおすそわけをしてくれるという、お隣の「サイトウさん」宅だった。「サイトウさん」は一人暮らしの老人で、猟師なのだという。以前は、近所でよく知られた花好きの奥さんがいて、家の裏庭を花で彩っては通りを行く人の目を楽しませていたそうだ。五年前に先立たれてからというもの、奥さんが丹精こめて手入れをした花壇が荒れるのを見かねて畑にし、今はそこで野菜を作っている。おすそわけと言って持ってくるのは、その畑で採れたものが多いそうだが、偶にふらりと山や川へ出かけて採ってきたものもあるのだとか。

「今年はトマトとスイカを植えるつもりなんだ」畑仕事のせいか、こんな季節でも、よく日に焼かれた顔をくしゃくしゃにしながら「サイトウさん」は笑った。また夏になるころにおいで、両手に抱えるくらいの大きなスイカをおみやげにしてあげよう――


 町に一つだけの商店街は、威勢のいい客引きの声が飛び交っていた。「この辺りにデパートはないけど、大抵のものはここで買えるのよ」商店街の雑音に紛れないよう、少し声を大きくしながらハルミが言った。安売りをしている電気屋では店からあふれるくらいの客を相手に店員や店主が忙しく立ち働いて、その真向かいの古着屋では店員と客が世間話に花を咲かせている。豆腐屋の前を通りかかると店番の男が声をかけてきたけれど、ハルミは「今日は買い物の用じゃないので」と、やんわり断った。

 商店街を回り、川の傍の土手を歩いて海まで下った。ナナは砂浜を歩き回り、太陽が海に沈み始めると、土手に登って腰をおろした。ハルミも、何も言わずに隣に座った。そうして、とっぷりと夕日が暮れるまで、ナナにつき合って傍にいてくれた。


 ハルミの家では、朝食にパンは出ない。ご飯と、お味噌汁と、おかずが少しだけ。以前は、朝食にパンを半分とココアの一杯しか取っていなかったナナにとって、この献立は残さずに食べるのが大変だった。

 けれど、「早く町に馴染めるように」とハルミに勧められて、ベベの散歩をするようになってからは、それも変わった。散歩は朝と夕方の二度、朝は早朝の五時と決まっているのだけれど、散歩から帰った後はお腹がぺこぺこで、ナナは自分でもびっくりするくらいに、ぺろりと朝食を平らげるようになった。

「育ち盛りだもの。それくらい食べないと大きくなれないわ」

 そう言ったハルミは、さらに「お代わりする?」なんて聞いてきたので、ナナは慌てて断った。

「これ以上はちょっと――」食べたらきっと風船みたいになっちゃう。

 そうかしら、とハルミはちょっとだけ残念そうな顔で、手に取ったしゃもじをちゃぶ台に置いた。


 カミシキ町というこの田舎町は、海と山とに囲まれた自然豊かなところだった。山から流れてくる川は海へと注ぎ、その近くでは子供たちが魚を釣ろうと釣り糸を垂らす。朝は潮騒とスズメの声が響き渡り、夕には山のお寺で鐘が打ち鳴らされる。どこの家の垣根もブロック塀ではなく、ツバキやイチイの木を刈りこんだものばかりで、町のところどころで見かけるこじんまりとした畑の脇には、無人販売所が設置されている。まるで時間が止まったみたいに、一昔前の情景を留めているこの町で、ナナの新しい日常は静かに、けれど確実に過ぎていった。


「制服なんて着たら急に大人びて見えるわねえ」入学式の朝、真新しく糊の効いた制服に袖を通したナナを見て、ハルミは笑みを深くした。

 お風呂場の姿見で見てみたら? と勧められたけれど、ナナは「いいよ」と首を横に振った。「仕立て屋で試着したときに見たから」

 三日前、町の小さな仕立て屋の鏡に映ったナナは相変わらずのくせっ毛で、できたての制服を着た姿は妙に不恰好だった。これから成長することを見こんで大きめに作られた制服は、ナナが着ているというよりは制服がナナを着て立っているようで、返って子供っぽく見えたくらいだ。

 ナナが少し複雑な気持ちになって困った笑いをすると、ハルミはやっぱり丸い顔で笑む。

「じきに馴染んでくるわ。おばさんも中学校にあがってすぐはそうだったのよ」

 伊草が香る部屋のすみに置かれた赤いランドセルは、もう使わない。代わりに使う新しい鞄は、ハルミが学生時代に使っていたおさがりで、革製の少し古風な背負い鞄だった。ハルミは物持ちがいいらしく、もう十年以上使われていないはずの鞄は、まだまだ現役だった。背負った感触は、つい先日まで背負っていたランドセルに似ている。

 ハルミは新しい鞄を買ってくれると言ったけれど、ナナはこれでいいと断った。というのも、実を言うと、ナナはこの鞄が気に入っている。一人っ子のナナは誰かのおさがりというものをもらったことがなかったし、さわり慣れた革独特の温もりが手に心地よかった。


 階段をおりて居間を横切り、縁側に出ると、日がよく当たる庭の真ん中でベベがうつ伏せている。朝夕の散歩を除いて、日がな一日中、こうやって縁側の傍に寝そべって昼寝をしているので、おじいさんみたいだとナナが言ったら、ハルミは「そうねえ、人間で言うともう八十歳だから」と笑った。見た目おじいさんのようなベベは、実際もおじいさんだった。

 近づいてくる足音で目を覚ましたベベは、ナナを見あげて、すんと鼻を鳴らした。見慣れない制服姿に驚いたのか、鼻を寄せてきて匂いを嗅いでいる――ナナは思わず笑った。「今日から中学生になるんだよ」

 今日の入学式に、ナナの両親は出席しない。一人でハルミの家に来た日から、ナナにはこうなることがなんとなくわかっていたような気がしていた。ここに預けられたときと同じように、こればっかりはまだ子供のナナにはどうしようもなくて、しかたがないことなのだと思った。成るべくして成った、そういうことなんだ、と。

 だけど、人の好いハルミは黙っていなかった。せっかくの晴れ舞台をその目で見てやってほしいと、ハルミは両親の欠席をナナに伝えるよりずっと前から、両親の説得に当たっていた。夜中に、電話口で両親を説得しようとしていてくれたのも、知っている。偶然、水を飲みたくなっておりてきただけだったナナは、暗い廊下の向こうで聞いたこともないくらい真剣な声色で話すハルミに驚くと同時に、少し胸が熱くなった。だから、

「ナナちゃんの入学式ね、ご両親は来られないんですって。でも、おばさんはちゃんと出席するからね、校門の前で、ベベも一緒に、三人で記念写真を撮りましょうね」

 ハルミがそう言ってくれたとき、ナナはすごく嬉しかった。

 ハルミは、入学式に合わせてクリーニング屋の仕事も休みを取ったし、商店街で一番高い立派なカメラまで買った。野ざらしになっていたベベの毛だって、二人で洗った。

 ところが、入学式の前日になって、クリーニング屋から電話がかかってきた。なんでも、次の日の当番だった店員の三人がインフルエンザにかかってしまったのだという。ハルミの働き先であるそこは、従業員の数が片手で足りてしまうほどに小さなクリーニング屋で、働き手の不足は深刻だった。他に店に立てる人がおらず、前もって休みを取っていたハルミに急遽仕事が回ってきてしまった。ハルミはナナとの約束があるからと仕事を断ろうとしたのだけれど、電話の相手が情に訴えてくると、どうしても断り切れなくなってしまった。夕食とお風呂の時間を跨いで長引いた電話の末、葛藤するハルミの姿にたえかねたナナのほうから、入学式の出席を断った。


「ナナちゃん、入学式は一時からだからね」玄関口で、コートを着たハルミが言った。

「わかってる」

「お昼は居間に用意してあるから」

「うん、ありがとう」ナナが返事をすると、ハルミは少し泣きそうな顔をした。

「ねえナナちゃん、今からでも電話して休ませてもらってもいいのよ」

 ナナはハルミの言葉に、ちょっとだけ笑った。

「いいよ、ハルミさん。私、一人で平気だよ。もう中学生なんだから」

 ハルミがいなくなると、家の中はとたんに静かになった。約束を破ってしまうことが、いたたまれなかったのかもしれない、思い返してみると、ハルミは今朝から――というよりも昨日の晩から、ずっと喋り続けていたように思った。今日に限って小鳥のさえずりも聞こえない。ナナが自分でたてる音しか聞こえてこなくて、じっとしていたら耳がおかしくなってしまいそうだった。ナナがこの家に預けられる前まで、ハルミはずっとこんな静かな家の中で暮らしていたのだろうか。

 昼になってから、居間のちゃぶ台の上に用意されていた昼食を食べた。温め直したお味噌汁は、うっかり沸騰させてしまったせいで、具の豆腐が固くなっていた。テレビを見ながら時間を潰し、時間になるのを待って、手ぶらで家を出る。外は冷たい北風が吹いていた。天気予報では、今朝は冷えこんだけれど午後は暖かくなると言っていたはずなのに、少し歩いただけでナナの指先は、すっかりかじかんでしまった。

「こんなことならマフラーでも巻いてくればよかった」小さな声で呟いて、亀みたいに首を縮める。

 海沿いにある土手の上を歩いていくと、ナナと同じ学生服を着た女の子を見かけた。肩幅の余った制服を着るどこか頼りない後姿に寄り添って、母親の姿が並んでいる。よく見たら、そこら中に学生服姿の子供がいて、誰の隣にも寄り添うような人影があった。ふいに早歩きになる足を、ナナは自分で止めることができなかった。


 カイセイ中学校の入学式は、年季の入った体育館で厳粛に執り行われた。式の間中、ずっと緊張に強張っていた新入生たちの顔は、閉会後の保護者を交えた記念撮影で綻んだ。一年間お世話になるサエキという担任の男性教師を中心に、新しいクラスメイトや保護者と並んで写真を撮る。ナナはすみの方に一人で立って、じっとカメラの向こうにあるサクラの木を見ていた。まるで薄紅色に染まった雲か綿菓子かが、校庭のぐるりを取り囲んでいる。

 小学校の卒業式の日、校庭のサクラの木はつぼみを固く結んで、花びらの一枚も散らしてはくれなかった。よっぽど暖かいところでなければ、どこも卒業式はそんなものだとは知らなかったから、ナナは少し寂しい思いでサクラの木を見あげたのを覚えている。その分、入学式は満開のサクラの下で迎えたいと、密かに思っていた。

 ナナが、ハルミに案内されて初めて中学校まで来た日。校庭のサクラの木は、柔らかなつぼみを膨らませながら、花咲くそのときを待っていた。サクラは開花してから大体一週間くらいで満開になるのよ――ハルミの言葉を思い出して、ナナは少しだけ空を仰いだ。青い空の下、満開のサクラは静かに風に揺れていた。


 卒業式は、三時前に終わった。けれど、ハルミのクリーニング屋の仕事が終わるのは、大体いつも五時すぎだ。この時間だと、家に帰ってもきっと誰もいない。

 ナナは新しい教科書が詰まった紙袋を引きずるようにして校門を出ると、左へ折れた。ハルミの家から遠ざかるように、逃げるように、家とは逆の方向に歩きだす。

 アスファルトの道路は少し古くて、電信柱の下にできた亀裂からスミレの花が顔を覗かせていた。明るい日差しの中で咲きほころぶ薄紫色の花びらが、目に染みる。ベベの散歩やハルミの案内で町の道筋は大分わかるようになっていたけれど、この道の先へ行ってみたことは一度もなかった。

 知らない道の知らない角を折れて、知らない場所に向かってナナは歩いた。目的地はないし、何か考えがあったわけでもない。それなのに、こんなに重い紙袋を提げて歩くなんて骨折り損でしかないし、もしかすると道に迷ってしまうかもしれない――そう思ったけれど、ナナの足は止まらなかった。

 やがて、ナナは住宅地を抜けて川に出た。土手には川の流れに沿うようにサクラの木が並んで咲きこぼれ、その根元では敷き詰められた黄色いナノハナが風に揺れている。誰の敷地なのだろう、川の向かい側にはこんもりと茂った林が見えた。

 うららかな午後の陽射しを浴びて川面は煌めき、涼しい川のせせらぎに混じって、どこからかウグイスの鳴く声が聞こえてくる。向こうの土手で、親子連れの人や白髪交じりの男性がゆったりとした足取りで散歩をしている。ナナは川沿いに歩きながら、ナノハナやサクラを少し摘んでは真新しい紙の匂いがする教科書に挟んだ。花に留まっているモンシロチョウやミツバチを遠くからぼんやりと眺めたり、途中、赤い太鼓橋を見つけて川向いに渡ってみたりもした。


 そうして時間を潰している内に、ナナはずいぶんと遠くまで来ていたらしかった。ふと、生温かい風が吹いて我に返ると、さっきまで川の向こうに見えていたはずの住宅地がなくなっている。見えるのは田んぼと、その縁に沿って生えている竹薮だけだった。辺りを見渡しても人影はない。静かだった。まるで、ナナを一人だけ取り残して、ありとあらゆる生きものが消えてしまったみたいに、静まり返っている。たった一つだけ変わらないのは、機械的なせせらぎの音。ナナが渡ったあの立派な橋も、もうどこにあるのかわからない。

 そのとき、また風が吹いた。まだ肌寒い春の風に似つかわしくないような、生ぬるい風。

 ナナには、その風が目で見えたような気がした。風を追うように首を回すと、咲きそろったナノハナ畑の中に、花を掻き分けてできたような細い道が目に留まる。

 花畑を潜り抜けて森へと伸びているその道は、ただの獣の通り道か、はたまた子供が遊びで通った後の道か――黄色い花のアーチの向こうから、鈴を転がしたような笑い声が聞こえた。

 誰かがいるのだろうか。紙袋を地面に下ろして、アーチを覗きこむ。だけど、何も見えなかった。

 ナナは重い紙袋だけをその場に残して、アーチを潜った。小さく身を屈めてその小径に踏みこむと、ナノハナの匂いがぷんとする。そこでやっと、賑やかに飛んでいたミツバチの羽音も聞こえないことに気がついた。

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