音の外れた序曲[2]

 ナナがハルミの家には着いたのは、それから少し経ったころ。ちょうど日が沈んで、道の脇に軒を連ねる家々の窓が、ほんのりとした明かりで満ちるころだった。そこは木造二階建ての日本家屋で、青々とした低木の生垣に辺りを囲われて、ひっそりと暗がりに立っていた。「ヤマセ」と墨で書かれた古そうな木の表札が、玄関灯に照らされている。

「さあどうぞ」と、ハルミに促されて玄関の前に立つと、家の陰から白い大きなかたまりが飛び出してきた。白いかたまりはナナに飛びかかろうとするように大きく伸びあがって、瞬間、その首からさがる鎖に繋ぎ止められる。ナナは飛びあがってしりもちをついてしまいそうになるくらい驚いたけれど、ハルミがいる手前、そんなみっともない真似はできなかった。鎖が物々しい音で鳴って、白いかたまりが低い声で鋭く吠えたてる――

「ベベ――!」

 ハルミが驚愕したような声で叫んだ。「ベベ」と、ハルミに呼ばれたそれは、白く長い毛に覆われた大きなイヌだった。顔から足の先まで毛むくじゃらで、目なんかすっかり毛に隠されてしまって見えないのに、なおもナナに向かって吠え続けるその体躯は、たっぷりとした皮毛を除いても、小柄なナナを十分に上回っている。突然、わけもわからず飛びかかられたナナは、驚きとショックで身動きが取れなくなってしまった。慌ててイヌを庭に引きずっていったハルミは、戻ってくるなり、

「ごめんね、いつもはこんなことはないんだけど」

 ナナは、一生懸命に平静を装った。「大丈夫です――ちょっと、驚いたけど」

 ハルミさんイヌを飼っていたんだ――よく見ると、表札の傍にはイヌの門標が貼ってあった。

 ナナは小さいころ、両親にイヌを飼いたいとねだったことがあったけれど、マンション住まいだから無理だと言われたことがある。だけど、見たところこのハルミの家は一軒家で、だからこそこうしてイヌが飼えるのだ。いいなあ、羨ましいなあ、なんて、ちょっとずれたことを思った。

 それから、ハルミはナナを家にあげると、一番に居間へ連れていって、そこでドーナツをご馳走してくれた。少し変わった味がしたけれど、ハルミの手作りなのだと聞いて納得した。

 ドーナツと淹れたての熱いココアを、交互に口に運びながらナナが聞いた話では、あのベベというイヌは、オールドイングリッシュシープドッグという犬種で、元々は牧羊犬に使われていた種類なのだそうだ。だから、知らない人間には警戒することもあるけれど、基本的に子供が好きで、すごく気性の穏やかなイヌなのだという。特にベベは、これまで人に向かって吠えたことがなかったらしく、ハルミもずいぶんと戸惑っていたようだった。動物は好きなのに、肝心の動物のほうに嫌われているなんて――うな垂れると、慰めるようにハルミが言った。「大丈夫よ、ベベがナナちゃんのことを嫌うはずがないもの」


 黒ずんで急な木製の階段をあがって、板張りの廊下と部屋とを仕切る襖を開けると、薄暗闇の中から嗅ぎ慣れない香りがする。ドーナツを食べた居間も畳張りだったはずなのに、この部屋の畳はもっといい香りがした。「ナナちゃんが使うから、畳を張り替えたのよ」ナナを案内したハルミが、部屋の窓に近寄りながら、そう教えてくれた。

 新しいナナの部屋は、六畳ほどの和室だった。部屋の中の洋服箪笥も和風なのに、壁に沿って置かれた机だけが洋風で、少しだけ、ちぐはぐに見える。

 ナナの暮らすマンションに和室はなかったけれど、小さいころに遊びに行った祖父母の家には、畳張りの部屋があった。祖父母の家に泊まるときは、決まってそこに布団を敷いて、父と母の間に挟まれて眠ったのを覚えている。

 ハルミが障子を開けて窓を開けると、月明かりが部屋に差しこんでくる。畳の香りが部屋の外へと流れ出して、代わりにまた、別の匂いが鼻をくすぐった。それと一緒に、静まり返った部屋の中へと流れこんでくるのは――

「潮騒?」

 呟くと、ハルミは振り返って笑った。

「この近くには海があるの。今日はもう遅いけど、明日は海に連れて行ってあげるからね」


 ところが、こともあろうにその翌日になって、ナナは熱を出してしまった。

「きっと、これまでの疲れが今になって出てきたのねえ」

 床に着いたナナの枕元で、ハルミが言った。

「無理もないわ。本当に大変だったんでしょうから。でも、熱がさがるまでは海を見に行くのはお預けね」

「あの、ハルミさん――」

「大丈夫よ、海は逃げたりしないわ」

 ハルミににっこりされて、ナナは口をつぐんだ。落胆を細い息にのせて吐きだして、分厚い羽毛のかけ布団を顔まで持ちあげる。今しがた、ハルミが額にのせてくれた濡れタオル――それが冷たくて気持ちよかったのは、ほんの短い間のことで、十と数えない内に生温かくなった。

 朝になって起きてみたら、頭が痛くて寒気がした。それでも無理をして起きて居間に降りると、朝食の支度をしていたハルミに、顔が赤いと言われた。ナナは大丈夫だと言ったけれど、ハルミはそれを聞かずにナナの額の温度を自分のそれと比べて、タンスの引き出しから体温計を引っぱり出してきた。熱を計ってみると、三十七度六分の熱――瞬く間に、ナナはハルミの手によって、布団の中へと押し戻されていた。


 今日はゆっくり休んでね――そう言い残してハルミが部屋を出ていってから、長いことナナは見慣れない木目の天井を見あげていた。障子に張られた紙の向こうから差す日の光は弱く、それに照らされた天井は薄暗い。歪な輪を重ね合わせたような不思議な模様が、じっとナナを見おろしている。ふとした瞬間、その模様が生きものみたく動いたように見えたけれど、どれもただの目の錯覚だった。そうでなければ熱が見せたつかの間の幻か、夢現に見た光景かに違いなかった。

 この熱のせいで、ナナは楽しみにしていた海を見にいけなくなった。ハルミはハルミで、もう半分はできあがっていた朝食をおかゆに作り直さなければならなかったし、寝こんでいるナナを一人にしてはおけないからと飼い犬のベベの散歩も後回しにした。これでは、ますます彼女の飼い犬に嫌われてしまいそうだと思った。

 その内、同じ姿勢でいるのがつらくなってきて、寝返りを打った。額の濡れタオルがずり落ちた。


 昼すぎになって、ハルミがまた部屋を訪れた。ナナが上半身を起こしてその顔を確認すると、ハルミは口元に手をやった。

「あら、ごめんなさいね、起こしちゃったかしら」

「いいえ。ただ、眠れなくて」ずっと寝ているというのも返って疲れるのだと、この日、ナナは改めて学んだ。

「そういえば、朝からずっと寝ているんだものね」

 氷水の入ったたらいを置いて、ハルミはちょっとだけ笑った。

「おばさんが、少しお話をしてあげましょうか」

「え?」

「おばさん、昔から本を読むのが好きだったから色んなお話を知っているのよ。童話とか」

「童話って」

 小さな子供に聞かせるような話じゃないか。

 ナナは慌てて首を横に振った。

「い、いいですよ、そんな」

 まるで子供扱いだ――もうじき、中学生にもなるのに。

「そう?」

 首をかしげたハルミは濡れタオルを取って、ナナの額に手をのせる。

「熱はもう大分さがったみたいだけど、何か食べたいものはある?」

「いいえ、特に食べたいものはないです」

 熱がさがったおかげなのか、食欲はあったけれど、とっさに思い浮かぶものがなかった。

「あらそう。それならお腹にいいものがいいかしらね」

 温くなったタオルを、持ってきたばかりの氷水に浸す。耳元で涼しげな音がした。水に浮かぶ氷が、たらいの淵にぶつかって、からからと鳴る。


 ぷっつりと会話が途切れたのは、ハルミがタオルを水に浸して絞るだけの、ほんのわずかな時間だった。なのに、ナナにはそれがものすごく長い時間に感じられた。それはナナが何もしないでいるからなのかもしれないし、ずっと薄暗い部屋の中にいたせいで時間の間隔が麻痺してしまっていたのかもしれない。それでなければ、この田舎町では都会よりもずっとずっとゆっくりとした時間が流れているのかもしれなかった。

 だからこそ、ナナはその短い沈黙にも耐えられなかったのかもしれない。

「ごめんなさい、ハルミさん――その、迷惑をかけてしまって」

 気がついたら、ぽつりと、かすれた声で呟いていた。ナナの額に冷やし直したタオルを置こうとしていたハルミの手が、ちょっと止まる。けれど、ハルミは何事もなかったようにタオルをナナの額にのせた。それからまた、しんとしてしまう。

 あんまり小さな声だったから、ハルミには聞こえなかったのだろうか。それとも、急に謝ったりなんかしたから、困らせてしまったのだろうか。そう思ったナナが目のやりどころに困って天井に目をやったとき、ハルミがぽつりと呟いた。

「ナナちゃん、この家、静かでしょう?」

「え……はい」

 意図のつかめない急な質問に、迷って、とりあえずナナは正直にそう答えた。昨日から、この家でハルミ以外の人に会ったことがない。今朝だって、一度だけ居間におりたとき、台所とを行き来するハルミの他に、人の姿がなかったのを覚えている。

「前は、おばさんのお母さんも一緒に暮らしていたの。もう四年くらい前かしら、病気で亡くなったんだけど」

 そこでハルミの言葉が途切れたので、ナナはまたちょっと迷って、さっきと同じように「はい」とうなずくことで相づちを打った。つまり、ハルミは一人暮らしなのだ。

「おばさん、子供もいないから、ナナちゃんが来てくれて嬉しいの」

「はい」

「ナナちゃんはまだ小さかったから覚えてないかもしれないけど、おばさんもベベも、一度だけナナちゃんに会ったことがあるのよ」

「はい――え?」

 繰り返し相づちを打って――思わず聞き返してしまった。そんな話、聞いていない。突然の告白だった。驚いてナナがハルミを見返すと、ハルミは丸い顔に穏やかな笑みを浮かべている。

「十年くらい前のことよ。おばさんの両親もまだこの家に住んでいて、今よりずっと若かったベベは小さなあなたに興味津々だった」

「でも、昨日はあんなに吠えてた」

「あんなに小さかったナナちゃんが急に大きくなって現れたから、きっと驚いたのね」

 十年も前だから忘れてしまった、なんて、そんなこと、これっぽっちも思ってもみないような顔で笑う。

「ナナちゃん、あまり遠慮はしないでね。おばさん、本当に迷惑だなんて思っていないから」

 ハルミは、とても気の優しい人なのだと思った。ナナのことを、本当に想ってくれている。それこそ、きっと――本当の自分の子供のように。

 それと同時に、失礼にならないようにとナナが気を遣えば遣うほど、返ってハルミは心配になるのだと気がついた。

 頑なだった心が、少しずつほどけていく。

「うん、ありがとうハルミさん」

 はにかんだナナの顔に、ハルミはちょっとだけ嬉しそうに笑った。


 夕焼け色に染まった庭のすみ。そこに生えた一本の木の下で、ベベは眠っていた。縁側で下駄を履き、ハルミの背中に隠れるようにして庭に出ていく。ハルミが名前を呼ぶと、白い体がのっそりと起きあがった。「ほら、ナナちゃん」そっとハルミに背を押されて前に出たナナは、ちょっとたたらを踏んだ。

 ベベは、昨日よりもずっと短い鎖で木に繋がれていた。ナナを見ても静かだ。吠えない。

 少し近づいてみたら、変な声で鳴いた。びっくりして後ずさると、「大丈夫よ、くしゃみだから」と、ハルミが言った。今度はぎりぎり手が届くところまで行って、おそるおそる手を伸ばす。土に汚れて少しごわついた毛が指先に触れた。海が近くにあるというから、潮風のせいもあるのかもしれない。そのまま、ナナはゆっくりと頭を撫でてみる。ベベはされるがままだった。やがて、一つあくびをすると、地面にうずくまって寝てしまったのだけれど、ナナはただ吠えられなかったことが嬉しかった。あんまり嬉しくて、ハルミに家に入るように言われるまで、いつまでもいつまでもベベの頭を撫で続けた。

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