人形たちの物語詩
由良辺みこと
3月
音の外れた序曲[1]
それは、サクラの木が枝につぼみをつけ始める三月の半ばだった。この時期、終業式を迎えた児童たちの大勢は、両手に余る大荷物を持って家に帰る。例えば体操着袋だったり、ハサミやノリを入れておく道具箱だったり、学校で育てた花の鉢だったりと、それぞれ荷物はさまざまだけれど、どれも重くてかさばって持ち帰るのが面倒くさいものだということだけは共通している。それは卒業式の日も同じことで、式に参列した保護者に泣きついて、小山のような荷物を持ってもらう子供も少なくはない。先生に何度注意されても、それらの荷物が式の当日まで置き去りにされる理由は、やっぱり家まで持って帰るのが面倒くさいからだ。
けれども、もちろん先生の言いつけどおり、卒業式までに少しずつ荷物を持って帰る殊勝な児童だって、少ないけれどいないこともない。その例にもれないナナのランドセルの中には、いつも持ち歩いている裁縫箱を除いて、同じ手芸クラブだった友達からもらった手紙だけしか入っていなかった。
手紙は卒業式が終わった後に手渡されたもので、ここ数日の間、ずっとランドセルの中にしまったままだった。広げると、手紙に染みこんだ甘い香りが鼻をくすぐる。花柄の便箋の上では、いびつな文字たちが納まりよく座っていた。ナっちゃんへ、明日からは春休みだね、ユウコちゃんと三人でいっぱい遊ぼうね、中学校に行ってもよろしくね――
「もう同じ学校には通えないのに」
座席の上で、ナナはくたびれた赤いランドセルを膝に抱えて、うずくまった。
昔、両親が出前で取ってくれた寿司みたいに、ぎゅうぎゅう詰めの車内。電車が駅に停まったり発車したりカーブをしたりするとき以外は、誰も彼も動かない。時々、よろけた人越しに見える車窓には、道にあふれ返るたくさんの車と、傾いた家々が映っていた。
ナナの生まれ育った町が大きな地震に襲われたのは、つい先日。小学六年生だったナナが小学校を卒業したその日だった。
なんでも直下型の地震で、最高震度は七。震源地はナナの暮らしていた町から、そう遠くない位置にあったらしい。幸いにも、ナナの暮らしていた町は活断層がそれていたとかなんとかで、被害は深刻ではなかった。だから、地震が起きてから二日目にはもう電車が走るようになったし、ナナの両親も健在で、他所の町と比べたら倒壊した家屋の数も死傷者も断然少なかった。
ところが、ナナが四月の初めから通う予定だった中学校はそうもいかなかった。というのも、建物を支えるためのとても重要な柱にひびが入り、あげくに隣近所から飛び移った火で燃えてしまったのだそうだ。その日が日曜日で休校だったのがせめてもの救いだったけれど、市は被災者の救援や市街地の復興などに手一杯で、学校再建のめどは立っていない。
これでは授業が受けられないどころか入学だってできない。中学校までは義務教育なのだから通わないわけにはいかないのに――そんな風にぼやいていたナナの両親にとっては、一部地域を除いて電車が走るようになったというラジオの報道は、まさに天の導きに思えたのかもしれない。あれよこれよという間に遠縁の親戚に話をつけて、気がついたときにはナナを預けることから最寄の中学校へ通う手はずまで、きちんと整っていた。この間たったの数日で、家の後片づけがあるという両親だけが町に残ることになっていた。
この日、赤いランドセルを背負って旅立つナナを駅まで見送りにきてくれた父は、
「もう中学生なんだ。一人で大丈夫だよな」
そう言って、ナナの肩に手を置いた。つやつやとした赤い革のベルトが、肩に食いこむような気がした。
「紙に書いてある通りに乗り継いでいけば、ちゃんと着けるからね。わからなくなったら駅員さんに聞くのよ」
駅の名前や乗り継ぐ電車が、こまごまと書かれたメモをナナの手に握らせて、母が言った。行きたくない、とはどうしても言えなかった。
気をつけてね、電話するからね、届かないかもしれないけどお母さん手紙も書くからナナも書いてね――別れ際、両親を振り返り振り返り電車へ向かうナナに向かって、ホームに残る母が叫んでいた。電話や手紙なんかよりも、お母さんに一緒にいて欲しい。そう言いたくても言えないまま、ナナは電車のステップに足をかけた。誰がそうしているわけでもないのに、まるで何か脅かされているような、そんな息苦しさに目の前がちかちかした。漠然とした不安と、電車に乗りこむたくさんの大人たちに押しつぶされそうになっていたそのとき、こんな話を聞いた。
「クサカベさん、ご存知ですか? なんでも地震が発生する前には異常が見られるって」
「ああ、よくあるナマズとか、動物の異常行動でしょう?」
「いえね、実はそれだけじゃないんですよ。地震の前には変わった雲が見られるんだそうです。いわゆる地震雲っていうやつなんですが、なんでも虹色をした雲だとか竜巻みたいな雲だとかなんだそうで」
そうなんですか? クサカベという人の驚いた風な声が、変に遠く聞こえた。ひょっとして今度の地震の前にもでていたんでしょうか――
薄く霞みがかった空に浮かんだ、竜巻のような雲。いつ見たのか、確かな記憶ではなかったけれど、まるで天へと昇る龍のようだと思ったのをよく覚えている。それが前触れだったのだと、そのときに気づいていたのなら、何かが変わっていたのだろうか――今となってはどうしようもないことだけれど。
電車が駅に停まる度、乗客が一人、また一人と降りていく。しわだらけの服を着た人、物が詰まった大きな鞄を提げている人、反対にほとんど何も入っていなくてつぶれた鞄を提げている人――そして、また思い出したように別の人が乗りこんでくる。入れ替わり立ち代る乗客たちは、これからどこへ行くのだろう。ナナと同じで親戚を頼って他所に行くのだろうか。それとも、食料の買いだしだろうか。
ナナはこれから行く遠縁の親戚のことは、何も知らない。顔も、人柄も、苗字も知らない。わかるのは、「ハルミ」という名前だけだった。
親戚とはいえ、何も知らないのだから、ナナにとっては赤の他人みたいなものだ。ハルミという名前からして、きっと女性なのだろうけれど、そんな人と一緒に暮らすのだと思うと心細くてしかたなかった。
いくつかの電車を乗り継いで、ナナが辿り着いたのは田舎町にある小さな駅だった。日が暮れかかる赤い空の下にぽつんと佇む駅のホームには屋根がなく、線路の周りにはビンボウグサが生い茂っている。唯一雨避けの屋根がある改札口でナナから切符を受け取ったのは、自動改札機ではなく中年のおばさんだった。
「お嬢ちゃん、見かけない子ね。一人できたの?」
辺りにナナの他、誰もいないのを確認して、不思議そうな顔をするおばさんに、ナナは「はい」とだけうなずいた。
「お家の人はどうしたの?」
おばさんはきっと、親切心で聞いたのに違いなかった。けれど、地震にあって、これから通う予定だった中学校が燃えてしまって、それで授業が受けられないから自分だけが避難してきたんです、なんて、そんなこみ入った事情、見も知らない人には言いづらい。なんと言って説明していいのかわからなくて、ナナはもごもごと答えた。「両親は、家に」
すると、不審に思った顔で、おばさんがさらに質問を重ねてくる。
「もうすぐ日も暮れるけど、ご両親はあなたがここにいることを知っているの?」
そもそも両親がナナをここへと寄こしたのだから、知らないはずがなかった。ナナがもう一度うなずくと、改札のおばさんはあらそうなのと言って、それきり何も言ってこなかった。
駅の構内には、ほとんど人の姿がなかった。切符を買う人もいなければ、駅に停まった電車から降りてくる人もいない。ナナの知っている駅というと、どんな時間でも大抵は人が行き交っていて、それでいて新聞や雑誌、お菓子なんかが置かれた売店や、ふらっと立ち寄れる喫茶店とかがあったりする。それなのに、この小さな駅には喫茶店どころか売店すらなくて、建物のすみっこのほうに申しわけなさそうに缶ジュースの自動販売機が立っているだけだった。黄ばんだ壁はいたるところに染みがあって、柱の角もところどころ欠けている。強い西日が作る真っ黒な影と、荒れた構内の静けさが、どこか不気味だった。
「もしかして、あなたがナナちゃんかしら?」
「えっ?」
背中に伸びる細長くて真っ黒い影法師を引き連れて駅を出たとたん、女の人に声をかけられた。西日がまぶしくて、人がいることに気がつかなかった。思わず反射的に足を止めて「そうですけど」と、答える。
「やっぱり!」女の人は、嬉しそうに手を合わせて微笑んだ。
――やっぱり。ということは、もしかしなくてもこの人が。
夕日を後光のように背負って立つ女性は、小さな目を細めながら、改めてナナに挨拶をした。
「初めましてナナちゃん。おばさんがヤマセハルミよ」
ヤマセハルミは、柔和な笑みを浮かべる女性だった。肩より少し上で切りそろえられた髪はふっくらとして、丸い顔はそれだけで人がよさそうに見える。
「カツキナナです、これからよろしくお願いします」
ナナが深くお辞儀すると、ハルミは「お利口さんなのねえ」と笑った。
「でも、おばさんに気なんて遣わなくていいのよ。普通にしてくれていいから」
事前に連絡はついていたとはいっても、ほとんど押しかけてきたようなものなのに、ハルミはナナを邪険に扱わなかった。
「それよりナナちゃん、長旅で疲れたでしょう。荷物はそれだけ?」
ハルミがナナの背負っているランドセルを見たので、ナナはうなずいた。「危ないからって――家には、戻れなくて」
ナナは父と母の三人で、五階建てマンションの三階に暮らしていた。築二十年になる少し古いもので、ナナの両親はナナが生まれる前からそこで暮らしていたらしい。地震が起きた次の日、家から何か取ってこられないだろうかと考えた父は、ナナの知らない間に立ち入り禁止のマンションに忍びこんだのだが、その時の話によれば、ワイヤーが切れたエレベーターは一階に叩きつけられてぺしゃんこ、コンクリートの階段は途中で千切れて宙ぶらりんになっていたという。三階にある部屋へ向かうには、傾きかけたマンションの壁をよじ登る他なくて、父はすごすごと避難所へ戻ってきたというわけだった。
父から聞いた話をかいつまんでナナが簡単に説明をすると、ハルミはちょっとだけ表情を消した。けれど、すぐに労わるような笑顔になって「大変だったのねえ」と、ナナのランドセルに手を添えた。
「家についたら甘いものを用意してあるからね、もうちょっとだけがんばってね」
「あ――」
ナナは返事をしようとして、答えに困った。ナナのために菓子を用意してくれたことに感謝して「ありがとう」と言えばいいのだろうか、それとも一言「がんばります」と言えばいいのだろうか。でも、それではなんだかお菓子のためにがんばっているみたいで、現金に思われるかもしれない――ナナが言葉を選びかねてまごついている内に、ハルミは先に歩きだしていた。
駅は田んぼに囲まれて、土を盛っただけの細い道が、あっちへこっちへと伸びている。整地されていない田んぼは草が伸び放題で、まるで荒れ地のようだった。夕方の冷たい風の音も、カラスの鳴く声も、どこか寂しそうに聞こえる。振り返ると、寒々しい景色の中に佇む夕暮れの駅は、余計に小さく寂しく見えた。
「この辺りはね、もう少しするとレンゲの花が咲き始めるのよ」
突然、ハルミがそんなことを言った。道の向こうへ遠ざかっていく駅を見ていたナナは、慌てて前に向き直る。
「レンゲ?」
「そう、辺り一面レンゲ畑になるの。ナナちゃん、レンゲは知ってる?」
「ハチミツのラベルに描いてあったから、見たことは」
なにしろ、カツキ家の朝の食卓には必ずと言っていいほど、ハチミツの入った瓶が置いてある。なぜかといえばそれはナナのためで、半分に切った食パンにマーガリンとハチミツを塗って食べるのが大好きだったからだ。ナナの日常の中に溶けこんでいたあの瓶には、たしか白とピンクのかわいらしい花と、それに留まる丸々としたミツバチが描かれていた。
「そうね」と、ハルミは微笑んだ。「レンゲは蜜源植物だから」
――ミツゲン?
聞き慣れない言葉に、ナナは自分の知っている漢字を当てはめて意味を考えてみた。蜜源。蜜の源。つまりは、ハチミツの素になる植物のことだろうか。ナナが考えていると、ハルミは水の枯れた田んぼを見つめて続けた。
「ここのレンゲが咲くと、山の上の養蜂場からミツバチがたくさん飛んでくるのよ」
閑散としてわびしいこの荒地のような田んぼに、やがては芽吹く数え切れないほどのレンゲの種が眠っている。そして、もっと暖かくなるころには、咲き乱れたレンゲの間を、養蜂場のミツバチたちが忙しく飛び回って、花の蜜を集めて回る――そう考えると、不思議と胸がどきどきした。あのかわいらしいレンゲの花畑に佇む田舎町の駅は、どんなに素敵に見えるだろう。
ふと、田んぼの間を走る道の先に、黒いかたまりが躍り出た。けれど、実際に道に飛び出してきたのは、夕日に溶けこむような黄金色の生きもので、躍り出たように見えた黒い塊は、その足元に伸びる影だった。
「キツネ――」
思わず、ナナは声をあげた。遅れて気づいたハルミが、あらと声を漏らす。道の先のキツネは、一度、立ち止まってナナたちの方を見たかと思うと、またすぐに歩きだした。田んぼを横切って、山へと駆けていく。その姿を見送って、ハルミは微笑ましげに呟いた。
「また山から降りてきたのねえ。この辺りは本当に田舎だから」
山の斜面を覆う木立が、赤く輝いている。ナナは、照り返す夕日のまぶしさに目を細めた。冷たい風にさらされた頬が、温もりを思い出す。高い高い山の上から、低い鐘の音が響き渡った。
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