6月

晴れ童子の雨唄[1]

 突然、動きだしたスズに、ナナは驚いたけれど、ヤガミは目を伏せて、ぽつりと呟いただけだった。

「この人形には、とても強い想いが宿っていますね」

 それがどういう意味だったのか、ナナは知らない。けれど、それから――その日から、ナナの日常は少し変わった。

 古めかしい目覚まし時計のベルの音が朝の訪れを報せる。布団の中で身じろぎをしたナナは、目覚ましの音に混じって、かすかな鈴が鳴る音を聞いた。

「おはよう、おはよう。あさだよ、ナナ」

 かけ布団に落ちてきた小さな衝撃にナナが布団から顔を覗かせると、布団にまたがった人形が――スズが、長い袖を振り回してナナを起こそうとしていた。

「うん、おはようスズ」

 ナナが寝ぼけ眼をこすりながら身体を起こすと、スズは誇らしげに胸を張って、布団の上から飛び降りる。そのようすを見て、ナナは微笑ましく思った。

 朝は目覚ましと同時にスズがナナを起こしにかかって、夕方に学校から帰って部屋に入るとスズが出迎えてくれる。新しい小さな同居人に、ナナは妹か弟か――とにかく家族が増えたような気がして、少しだけ嬉しくなった。


 スズはハルミの目が届く範囲では決して動こうとはしなかった。けれど、ハルミがいてもいなくてもスズはいつでもナナに語りかけてくる。どうやらハルミにはスズの声は聞こえていないらしいのだけれども、返事をするとひとりごとを言っているように見えてしまうから、そういうときだけはナナも返事をしなかった。スズが目に見えて動いたりするのはナナや、あの人形専門店で働いている二人の前だけだった。

 だから、ナナは時々あの人形専門店に顔を出すようになった。スズはナナの人形ではなく、拾ったものであると知ったヤガミとツジが、いつでもスズのことを相談しにきてくれて構わないと言ってくれたおかげでもある。それだけでなく、ナナがもとの持ち主をさがしていることを伝えると、ヤガミは心当たりをさがしてみるとも言ってくれた。

 とはいえ、スズのさがし人である「ちぃちゃん」という人はとてもやっかいで、本当の名前がわからない。当のスズに聞いてみても、

「ちぃちゃんはちぃちゃん」

 という返事しか返ってこない。

 スズが持ち主と再会できる日はまだ程遠そうだった。

「ちぃちゃん、ということは名前か苗字に“ち”の文字がつくんでしょうね」

「……だよなあ」

 首をかしげながら、ヤガミとツジが言った。ナナも「たぶん」と、うなずく。

「ともかく、僕の知り合いに当たってみましょう。人形好きの方が多いですから、もしかしたら協力してくれるかもしれません」

「ありがとうございます」

 ナナがヤガミにお礼を言うと、ヤガミは「いえ」と首を振った。

「スズも、早く家へ帰りたいでしょうから」

 ヤガミはカウンターの上で、くるくると踊っているスズを見つめて、薄っすらと微笑んだ。


 庭のガクアジサイが咲き始めるころ、少しずつ町に馴染み始めて落ち着いてきたナナは、ハルミに毎月おこづかいをもらう代わりにおつかいをするようになった。これはこづかいをあげたがるハルミと、遠慮するナナの最大限の譲歩の結果でもある。

 けれど、そうするようになってから気づいたことが一つある。ハルミのおつかいで商店街へ行くと、必ずと言っていいほどの確率で買い物リストに記されている「豆腐」の文字――買い物へはほとんど毎日のように来ていて、買う品はその時々でまちまちのはずなのに、その豆腐の文字がメモの切れ端から消えるのを見たためしがなかった。気がつけば豆腐屋の店員とは顔見知りになっていて、学校帰りにふらりと商店街へ立ち寄ると「今から帰り?」などと声をかけられたりもする。

 そのことをきっかけにナナが献立を気にするようになると、朝昼晩、ナナが学校へ持って行くハルミのお手製のお弁当にまで、豆腐を使った料理が入っていたことに気がついた。ただの偶然とは思えない。ひょっとすると、これまでの献立のどこかにも必ず豆腐の影があったのかもしれない――

 よっぽどハルミは豆腐が好きなのだろうか。疑問に思ったナナがハルミに尋ねてみると、ハルミはどこか遠い目をして笑った。

「お豆腐はね、とっても身体にいいのよ」

 だからおばさんお豆腐が大好き。そう言ったハルミの瞳にどこか翳りが見えた気がしたけれど、ナナは何も言えなかった。

 けれど、驚くべきことはそれだけではなかった。

「ナナちゃんがいつも食べてるドーナツやぜんざいもお豆腐で作ってるのよ」

「ええ!」

 ハルミの言葉にナナはぎょっとして声をあげた。道理で少し変わった味がするわけだった。あのおやつたちは全て豆腐を使って作られていたなんて。

「お豆腐って色んな使い道があるんだ……」

 ぽかんとした顔で呟いたナナに、ハルミは嬉しそうに目を細めた。


 六月の半ばにさしかかってくると、少しずつ空模様が怪しくなってきた。青かった空は少しずつ雲に覆われて、やがては空をべったりと塗りつぶした薄灰色の空が重くのしかかってくる。時折しとしとと小雨が降ることも多くなってきたような気がする。

 なんとなく憂鬱な空模様に、ナナもどことなく気分が落ちこんだ。庭先のガクアジサイにはカタツムリをよく見かけるようになったけれど、それを眺める気にもならない。

 そんなとき、まるで追い討ちをかけるかのようにナナの耳に嫌な話が飛びこんできた。

「六月の後半に博物館へ社会科見学へ行きます」

 担任のサエキが総合の時間でそう口走ったとき、にわかにクラスメイトたちは華やいだ。社会科見学と言っても、実際は小学校の遠足のようなものだ。嬉しそうに近くにいる友人たちへと目配せをするクラスメイトたちの中で、ナナは少しずつ振り溜まった雨で満ちたバケツを、頭の上でひっくりかえされたような気分だった。すぐ傍でこそこそと話し合うクラスメイトの意図を、ナナはわかっている。だけど、ナナにはそれを伝える相手がいない。

「移動はバスで、バスの席はそれぞれの班ごとで話し合って決めるように。班は社会科見学の一週間前の総合の時間に決めます。班員は男女三人ずつで一班。自由に決めていいけど、仲間はずれは作らないように」

 サエキの言葉にクラスが声をそろえて元気よく、はあいと返事をする。たちまち、あちこちから「一緒の班になろうね」と、女の子たちの声があがった。けれども、誰も気づいていない。この時点で、もう仲間はずれが一人できあがってしまっていることに。

 ナナはクラス中を見回して、誰も自分を視界に入れていないのを見て、気が重くなるのを感じた。手芸部の仮入部で知り合ったユキも、今は隣の席の女の子と話をしている。


 こういうとき、班を作っていく途中で誰かしらクラスの中にあまりが出る。それは仲良しの友達が多すぎるせいだったり、普段からクラスに溶けこめないせいだったりする。前者も後者もどちらにせよ、どうしようもなく惨めになるものだ。例え前者だったら、あまり仲が良くない友達はあっさりと切り捨てられて残りもの扱い。後者でよっぽどの嫌われ者なら、先生が間に入って班員の足りないところに入れようとしても嫌な顔をされるし、もし何の不満もなく班に入れてもらえたとしても、現地での会話に入りこめなくて肩身の狭い思いをする。

 ナナは以前から仲間はずれになることが多かったから、グループを作って行動するということが苦手だった。高学年に入ってからは「ミっちゃん」や「ユウコちゃん」という友達ができて変わったけれど、今はその頼みの綱だった二人がいない。

 ナナは担任のサエキを盗み見たけれど、サエキはそれに気づいているようすもなくただ話を進めていく。

「それではこれから社会科見学のしおりを配ります。列の一番前の人、取りに来てください」

 数人の生徒が椅子を引いてまばらに立ちあがるのを見ながら、ナナはがっかりした。ナナの状況を知っているはずのサエキは、今度の班行動を気に留めていないのだろうか。

 前の席から回ってきた社会科見学のしおりは、分厚いわら半紙の束を黄色い色紙で挟んでホッチキスで留めた簡単なものだった。表紙には黒ぶちの可愛らしい丸文字で“社会科見学のしおり”と印刷されている。しおりの色と文字の明るさが、逆にナナの気分をどん底に突き落とした。

 ――まるでナナ一人が不幸を背負っているような気分だ。

 それからの総合の時間は、ナナにとって苦痛でしかたがなかった。行き先はトウキョウにある江戸の博物館、お弁当と水筒は持参、おやつは千円程度のもの――

 ハルミはきっと張りきってお弁当にナナの好きなものをたくさん詰めてくれるだろう、おやつだっていつものようにきっと自分で作るはずだ、だからナナのおやつにだけは金額なんて関係ない、だってみんなただなんだもの――ナナはそう思うことでしか気分を紛らわせられなかった。

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