第2話 安城翔馬の物語は、こうして始まる①

たまに聞こえるのだ。

 どくり。どくりと響く音。外から聞こえるのではない。自らの内側から生まれてきている音が、耳の中で響くことがあるのだ。それは鼓動のように、血が巡る音のようでもある。

 轟轟と響く音。

 その音が聞こえるのはどんな時なのか。その音は何故生まれるのか。

 今はまだ知らない。



 安城翔馬は、自分の状況を理解できていなかった。

 正確に言えば彼は、直前までの事態を思い出せていない。ほんの少し前に何が起き、そして今の自分がどうなってしまったのか。それを思い出せずにいる。

 彼は今、身体の半分以上を崩れたコンクリート壁の残骸に埋もれされていた。

 そして壁の破壊に伴って生じた粉塵が、部屋の中いっぱいに広がっている。白いもやのかかったような視界が、一層彼の思考を曖昧なものにする。夢の中にでもいるよう気分にさせる、不可思議な光景だ。

 ここは数分前までは県立清和高校の、何の変哲もない教室であった。開校から40年をもうすぐ数えようというこの学校で、こんな事態が起きたのは恐らく初めてだろう。

 ぱっくりと割れた額から血を流し、意識を朦朧とさせながら安城翔馬はしかしゆっくりと身体を起こした。身体から音を立てて落ちるコンクリート片を意にも介せず、上体を起こす。身体中がひどく痛んだ。だから翔馬は視線だけを、左右に運ぶ。

 ここは県立清和高校だ。その、生徒会室だったはずの場所だ。

 見通しの悪い状況ではあったが、少しずつ周りが見えてきた。壁だけではなかった。天井に吊られていたはずの蛍光灯は外れ、床で砕け散っている。三脚あったはずの会議用テーブルも、無事なものは残っていない。一つは真ん中から折られるようにして壊れているのが見えた。

 何かが。ここで起きたのだ。

 その傷痕をゆっくりと見渡してからようやく、翔馬は腕を動かした。ゆっくりと、額に手を当てる。

 そっと触れると、痛みが奔った。もしかしなくてもやはり怪我をしているようだ。そしてその手を目の前に下ろす。

 真っ赤に染まった、自分の掌が見える。一瞬自分の掌なのかも疑わしくなった。こんな色に染まった自分の手など見たことがなかったからだ。

 自分の手であろうとなかろうと、こんなにも血を流す場面というのもまた、翔馬にとっては初めてのものだった。

 だが不思議なもので、それを目にしても恐怖や驚きは特に感じなかった。痛みを伴っているのに何か、映画などで見たことのある演出のようだなとか、他人事のような感想しか湧いてこない。

 痛みは問題ではなかった。

 自分が怪我をしていることも、教室が見る影もない程に破壊されていることも、問題ではなかった。

 安城翔馬の思考が巡る。

 思い出していた。こんな場所で、こんな事態に巻き込まれるに至った、これまでのことを思い出していた。





「通り魔ぁ?」

 思わず翔馬は大きな声でそう返してしまった。あまりにも相手の口から出た言葉が、意外だったからだ。

「バカ、声が大きいんだよ」

「ごめん、つい。だけどそれ、本当?」

 聞き返された相手こと、森角聖也もりずみせいやは無言のままで頷いて答えた。

「昨日の夜に2件目の事件が起きたんだ。それでほら、あの通り」

 言いながら聖也が顎で示す先。

 通い慣れた清和高校までの通学路は、確かにいつもと少し様子が違う。それは、明らかに多い警官の数だ。数だけではなく、その表情も非常に強張っている。交通安全週間だとか、そういう類は今なにもないはず。あそこまで緊張の面持ちで居るのも見た覚えがない。

 確かにいつもより警官の姿を多く目にするなとは思っていたのだが、理由を聞いてようやく色々と合点がいった。

「それで今日から、指定区域の学校はそれぞれ対応する羽目になっているんだってさ。うちも今日は朝一に全校集会。で、午後は休みだと」

「え、そうなの。知らなかった」

「今朝決まったことだからな。さっき連絡来たんだ」

 そんな連絡は、翔馬の元には来ていない。だが不思議はない。

「そっか。生徒会て、そういう連絡も先に来るのか」

「あ、ああ……そうなんだよ」

 聖也は何故か言葉を詰まらせた。しかし、そのことを気にするより先に、

「一応、生徒会は集会終わった後も少し残らないとなんだ。だから今日は先に帰っててくれ」

「そっか。分かった」

返事をしながらも翔馬の視線は、自然と周囲へと向けられていた。

朝の少し気怠い、それでいて穏やかな見慣れた登校の風景。しかしそこに、強烈な違和感を与える警官たちの姿。それを見ていると、嫌な気分になってきた。彼らには罪はないのだがしかし、彼らがいなければならない事態ということは、つまり人に喜ばれるような事態ではないということでもある。

通り魔。

その名の意味するものが、分からない翔馬ではない。

だがとにかく、実感がなかった。そんなものはニュースで見る「外」の話であり、自分の身近にあるものではない。根拠もなく、自分の身の回りはありきたりな平和であると思い込んでいたのかもしれない。

翔馬は、幼馴染の聖也と共にこの何の変哲もない町——清和町で育った。この町で生まれてからの17年間で、こんなことは初めてのことだ。

あちこちに姿の見える警官たちの姿が、安城翔馬に漠然とした不安を与えていた、

どくり。

ひと際大きな、鼓動の音が自らの内から聞こえた気がした。




その後は言葉少なさに、幼馴染の聖也と歩いて清和高校の門をくぐった。

翔馬と聖也の通う清和高校は、来年で開校40周年となる県立高校だ。偏差値は県でちょうど真ん中ほど。特筆するべき事柄のあるような学校ではない。だが幼少の頃から清和高校生を身近に見ながら育ってきた翔馬らは、自然とこの学校への進学を選んだ。事実、中学校から繰り上がりで清和高校に来ている者は多い。

「おお聖也、おはよう」

「おはようございます! 森角先輩」

だからというわけでもないが、校門から昇降口に向かう途中だけで何人もの生徒が挨拶をしてきた。同級生に限らず、3年の先輩から1年の後輩まで学年を問わずだ。

もっとも、声をかけられているのは翔馬ではない。

慣れた状況ではあるが、ため息まじりに、

「相変わらず顔が広いね」

「帰宅部のお前と違って、色々やってるからな」

聖也は生徒会に属し、様々な行事に積極的に参加している。またそれだけではなくテニス部にも籍を置き、こちらでも主力選手に数えられている。生徒会活動を優先するためテニス部では役職にはついていないが、実力は現部長らと遜色ないものであるのは過去の大会成績からも明らかだ。

「もう2年だし。今更でしょ」

「暇があるなら生徒会の仕事手伝ってくれ」

「優秀な副生徒会長様が、そんなこと言ってていいのかよ」

そんな他愛ないお約束のやり取りを繰り返しながら、聖也と並んだ自分達の教室へと入っていく。

 2年B組の見慣れた教室だ。

 教室に入るや、やはりクラスメイト達が元気よく挨拶してくる。ここでも、先に皆の注目を集めているのが流石聖也である。生徒会メンバーは兼任できないので学級委員でこそないが、このクラスの中心が誰であるのか一目で分かる。森角聖也とはつまり、そういう男なのである。

 彼らは聖也に顔を向け挨拶をした後、もちろん隣に居る翔馬にも挨拶をしてくる。

 翔馬はそれにいつも通り、そして慣れた様子で返していく。

 自分の席に鞄を置くと翔馬は、聖也の席に向かう。何をするというわけでは無いが、いつも通りの動きである。そして、翔馬に限らず何人かのクラスメイトが同じように聖也を囲むように集まって来る。

 自然と皆、この席に集まってしまうのだ。

「そういえば聖也君、数学の宿題やった?」

 集まった女子の一人がそう聞いてきた。

「勿論。あの先生、宿題忘れるとネチネチ文句言ってくるからな」

「やべ! 俺、完全に忘れてた」

「はいはいご愁傷さま」

「そんな冷たいこと言うなよー。お願いします、見せてください!」

 確かに今日は午後に数学の授業がある。翔馬だって昨日、勿論宿題をやって来ている。

 だが今日は、授業は午前中だけになるはずだ。

「あ、でもさっき聖也が言って――」

「翔馬」

 言いかけた言葉を聖也が遮った。

 そして、目配せしてくる。一見穏やかだが力強い瞳で、こちらを見つめる。

 言わなくていい。

 そういうことなのだろう。

「えっ、何? どうかしたの?」

「いや実はさ。一応やりはしたんだけど、合ってるか自信ないって話をさっき翔馬としてたんだ」

「聖也が自信ないとか、意外だな」

「確かに」

「宿題やって来ないような奴に、そんなこと言われてもなぁ」

 わいわいと皆で騒ぎあっていた。

 成る程、と思う。

 さっき翔馬が午後のことを、そして事件を話してしまっていたら、この雰囲気を壊してしまっていただろう。良かれと思って教えてあげようとしたが、言わなくて正解だったようだ。

 そして同時に、即座にそういう対応が出来た聖也はやはり凄いなと、素直に思う。

 昔から聖也はこうだった。

 皆の中心にいた。勉強もできた。スポーツも得意だ。そして、人をまとめるのが得意な天性のリーダー。そんな男なのだ。

 彼と幼馴染でいることは、翔馬にとって胸を張れるステータスである。彼の側にいることはとても名誉なことであり、そして自分ももっと彼から多くのことを学びたいと常に思う。

 だが、いやだからこそこうして時々――思い知る。

 聖也ほどに頭も良くなく、運動もできず、人の気持ちも汲んであげることができない。そういう自分を思い知る。

 そうして聖也を取り巻く輪の中で、翔馬は曖昧な笑顔と適当な相槌を打つことしかできなかった。 





急きょ開かれた全校集会。おそらく、今までで一番の緊張感を持つものだったのではないだろうか。壇上に立ち、今回の通り魔事件に関する報告をする校長の一言一句を聞き漏らすまいと、全校生徒の誰もが黙していた。

おかげで流石に緊張したのか、言葉も切れ切れにだが校長の口からようやく事態が全校生徒へと告げられた。

先週に1年の女子生徒が、帰宅途中で何者かに襲われ怪我をしたこと。

そして昨晩、今度は2年生の男子生徒が、帰り道で倒れてるところを発見されたのだという。幸い命には別状はなかったが、酷い怪我だったらしい。あと少しでも発見が遅れていれば、最悪の事態もあり得た程だったという。

これほど短期間の間に、同じ学校の生徒が立て続けに襲われる。そこに関連性、事件性を感じないというのは難しい話だ。だから、警察が動き出すほどの事態となってしまったのだそうだ。

「つまりですね、無抵抗な青少年に対して、凶器を向けてきたというわけです。その時の彼らの気持ちを考えますと——」

 誰もひそひそと騒ぐこともなく、そんなショッキングな事件の報告を聞いている。

 だが翔馬は、

(聖也から聞いていたからなぁ……)

 同じ内容で、おまけにたどたどしく話す校長の話はあまり耳に入っていなかった。

 どうにも集中できない。

 やがては話に聞き入ることもできず退屈を感じ始めた翔馬の視線は、ぼんやりと体育館の大きな窓へ。外の景色へと向けられていく。

 今日は少し風が強い。窓に届くほどに大きく伸びた広葉樹の葉がゆらゆらと揺れているのが見えた。空も晴れやかで、およそこんな通り魔事件なんてものとは無縁に見える、良い天気の日である。

 なんだかますます、こんな事件と自分はやはり無縁なのではないか。そんな風に呑気に思えてしまう。

 ぼんやりとそんなことを考えていたからか、あくびが出そうになってきた。

 だが、




 どくり。




 翔馬の耳元で、一際多くその音が聞こえた。

 思わず出かかっていたあくびも止まる。不意に身を正されたがしかし、それだけではなかった。

 あの音が聞こえた。それだけではなかった。

(なんだ――?)

 不意に翔馬は振り返ってしまった。

 厳粛な空気に包まれ、他の誰一人として動こうとしない中で、翔馬のその動きは随分と目立った。翔馬の後ろに並んでいた生徒達が、彼に怪訝そうな目を向けるがまったく気にもならなかった。

 いや、正確にはそんなものは気にならなかっただけだ。

 もっと他のものを、感じる。

 生徒達の視線などとは違う。もっと、鋭い、痛みすら感じるほどの気配を向けられたような……そう思って翔馬は思わず振り返ってしまったのだ。

 だが、何も特別なものなど無かった。

気のせいなのだろうか。

(だけど、なんだか妙に……)

 生々しい感触だった。だが何も見当たらないので、納得はいかないが翔馬は正面に視線を戻し、全校集会を聞く生徒の姿勢に戻った。

 あの音は、今は聞こえない。



全校集会が終わると、多少時間は変則にはなったが午前中の授業が消化された。いつもあら午前中だけに授業が短縮されるなど、生徒側からすればありがたい話である。だが今回は、事情が事情だ。

行われた授業もいつもと少し様子が違った。

なんというか、よそよそしい。

教師たちは少し気もそぞろに授業をしていたように見えた。きっとこれからの対応等々、彼らはこれから忙しくなるのだろう。仕方のないことかもしれない。

ショートホームルームも終わり、いつもよりも少し静かにクラスメイト達が帰路につき始める中、翔馬は誰より早く教室を出ようとしている聖也の姿に気付いた。

(生徒会も何か残らないといけないって、言ってたな)

朝の彼の言葉を思い出す。

だから彼の動きは特に不思議はない。だが、それでも、

「ねぇ聖也」

声をかけずにはいられなかった。

呼び止められると思っていなかったのだろう。随分と驚いた様子で、

「お、おお翔馬。どうした」

「いや……これからすぐ、生徒会?」

「ああ。悪いけど急ぐから。また明日な」

それだけ言うと足早に、他のクラスメイトにも軽く声をかけながら足早に教室を出て行った。

その背中を、黙って見送る。

何故だろうか。ひどく聖也の表情が暗かった、そう感じしてしまったから、つい声をかけてしまった。

いつもよりクラスの空気も重い。それは分かる。だが聖也の表情はなんというか、ほかの生徒よりも更に暗くなっている感じがしたのだ。聖也らしくない顔だった。あまり見た覚えのない幼馴染の顔であったのが、妙に気になってしまう。

(まぁ、明日それとなく聞いてみるか)

今すぐにできることなどない。

翔馬も帰り支度をすると、教室を出た。

「良かった、安城ちょっといいか」

ちょうど廊下に出たところで、後ろから声をかけられた。

少し前に教室を出たはずのクラス担任だった。走ってきたのだろうか、息を切らしている。

「先生? どうかしたんですか」

「いや、少しな……」

妙に小さな声でそう言いながら、担任は翔馬を手招きする。

とりあえずそれに従い、廊下の端に移動する。 

「今、何人かの生徒が事情聴取を受けているんだが。警察の方から、お前を呼ぶよう言われて来たんだ」

「えっ、俺がですか」

思わず声が上ずってしまった。

「安城は、もしかして被害者の子達と面識でもあるのか? それとももっとこう、なにか……関係あるとか」

「無いですよ。顔も知らないくらいです」

そんな自分が何故呼ばれるのか。まったく思い当たらない。

「そうか……まぁ他にも何人か呼ばれているようだったしな。とりあえず安城も、警察への協力頼むな」



釈然とはしないが、しかし相手が警察とあっては無下にもできない。

翔馬は指定された場所へと向かって歩いていた。

そこは生徒の勝手口である正門とは、校舎を挟んでちょうど反対に位置している。今日は部活も中止とあって、当然のように人の気配はいつもとは違って驚くほどにない。静かだ。自分の足音くらいしかし聞こえてこない。

こういうシチュエーションだからこそ、この場所を指定したのかもしれないが。

(でもどうして、格技室なんかでやるんだ)

清和高校にはは授業や先の全校集会などで使われる体育館とは別の。第2体育館がある。一回り小さなそれは、2階が運動部の部室と合宿時に使う宿泊施設。そして1階が剣道部や柔道部の使う格技室となっているのだ。

翔馬が呼ばれたのは、その一室。

向かう途中で、改めて何故自分が呼ばれるのかを考える。担任教師にも言ったことだが、被害者とは面識はない。部活動も委員会にも所属していないので、他学年との交流など皆無だ。家が近いとか、そういう接点も特には無い……はずだ。

(まぁ、気分はよくないけど正直に答えるだけだな)

多少の緊張を感じながらも、翔馬はたどり着いた格技室の扉に手をかけた。横に開いて、中へと入る。

 広い格技室の中には、昼過ぎの強い日差しが強く入り込んでいる。隣り合った校舎との位置関係で、ちょうど翔馬の立つ入り口から半分向こうに濃い影が出来ていた。明暗が分かたれたようなコントラストが描かれた室内には、人が居た。翔馬とは反対側。格技室の陰の中に潜むようにして立っている。

 背は、高くない。一瞬子供かと思う程だ。

「2年B組、安城翔馬だな」

 発せられた声もまた幼さを感じさせる。だがその口調は強く、ひどく冷たい。

「え、えっと……そうですけど。あなたは?」

 問いかけながら、同時に自分でも考えを巡らせる。

おかしい。真っ先にそう思った。警察に呼ばれてきた場所にいたのが、自分とそう歳の違わない相手で、しかも見た目に警察の人間には見えなかった。

低い背は中学生くらいにも見えるほどだ。そして来ている服も随分とラフなもので、およそ「取り調べるをする警察関係者」には見えない。

 それにこれは所謂、不良からの「呼び出し」とか淡い恋の告白とか、そういうシチュエーションでもないはずだ。ムードが違うというのは勿論だが、そもそも翔馬は担任教師に言われてここに来ている。そんな生徒のプライベートな呼び出しに、教師が、警察の名まで使って介入するとは思えない。だが、呼び出された先にいるのがこんな子供というのもまた、答えに結び付けることができない。

 あれこれと考えるが答えが出るより先に、

「僕の名前は鍵山真琴だ。だが、僕が誰であるかは問題じゃない」

 相手はそう名乗った。。

 聞いたことのない名前である。会った覚えもない。

「顔を合わせるのは初めてだ。だが、こうして対峙するのは初めてではない」

「……覚えてないんですけど」

「だろうな。だが、すぐに思い出すことになる」

 鍵山真琴は小さく笑う。

 そして、言いながら右手の裾を捲りあげて見せた。

 直後。翔馬の目の前で信じがたい変化が起きる。華奢な鍵山真琴の右腕が――形を変えていくのだ。

 最初に起きた変化は、ヒレだ。前腕部の外側に開くようにして鋭いヒレのような部位が、ぐりぐりと肌色の皮を引き延ばして生えてきた。そして色が変わっていく。濃紺色に肌の色が変化していくのだ。

翔馬には色が変わっていくように見えていたが、正確に言えば表皮そのものが人間のものではなくなっていく。

腕自体の太さも変わる。膨れ上がり、一周りほど大きくなった右腕。

鍵山真琴は、屈んでみせた。暗がりにあったので気付かなかったが、足元には何かが置かれていた。長い棒のように見える。

だが異形と化した右腕が持ち上げてみせたものは、単なる棒などではなかった。

巨大な刃だ。

自身の身の丈を越す程の長さを持つ棒は、柄の部分。それだけでも大きなその先に、柄と大差ない丈のある大きな刃が取り付けられているのだ。

謎の人物。

変化する腕。

そして、巨大な刃物。

目の前に次々と現れるものがなんなのか、翔馬にはまるで理解できずにいた。

(なんだ、なんだ、なんなんだ……!!)

考えようとするがするほど、まったく頭は働かない。

「さて」

巨大な得物を肩にかけ、鍵山真琴はこちらを細めた目で見つめてくる。

「分かってもらえたと思うが、僕は君を追ってきた。単刀直入に言おう。今後一切、昨晩のような事件を起こさないと約束しろ。君の持っている力は、危険なんだ」

どう考えても危険なのはアンタの方だ。

思いはするが、しかし翔馬の口はいう通りには動いてくれない。

構わず真琴は話し続ける。

「もし僕の忠告を聞き入れてもらえないと言うのなら……力ずくでも、約束させる」

わずかにだが一歩、鍵山真琴が前に踏み込んだ。

手には変わらず、冗談みたいに巨大な刃物を手にしている。それが一歩分だけでも間合いを詰めてくるだけで、翔馬は恐怖と驚きのあまり一歩引きさがってしまった。

このまま逃げなければ。

翔馬はそう思ったがしかし、満足に動けなかった。たった一歩分下がっただけで、そのままその場に座り込んでしまった。腰が抜けてしまったのだ。

鍵山真琴は、それ以上は何も言わない。無言のままでゆっくりと、こちらに迫ってくる。

その時、不意に思い出した。

大してちゃんと聞いていなかったつもりの、全校集会での校長の言葉が頭の中に響く。



「つまりですね、無抵抗な青少年に対して、凶器を向けてきたというわけです。その時の彼らの気持ちを考えますと——」



被害にあった生徒のことは知らない。だが、分かった。彼らの気持ちが、今なら分かる気がする。きっとこんな気持ちだったのだろう。

突然に。訳も分からず目の前に現れた圧倒的な脅威。突然すぎる、非日常的な状況。きっと彼らは何が起きたかも分からない内にこんな恐怖に晒され、もしかしたら自身も気付かぬ内に傷を負ってしたのかもしれない。

だが、翔馬は違った。翔馬は知っているからだ。この状況で、何もせずにいればどうなってしまうのか。

このままでは、自分がどうなってしまうのか。

その答えが脳裏を過った。

嘘のように今度は、身体が動いていた。自分でも驚くほど正確に、そして素早く——、



「残念だ。その行動、抵抗の意志があると判断させてもらうぞ」

ため息交じりに鍵山真琴が言う。

そしてゆっくりと振り向き、こちらに向き直す。その動きを、翔馬は見ていた。

だがすぐに、おかしいと思った。

鍵山真琴ととの距離が、遠い。自分が咄嗟に動いたのは分かったが、それにしてもいつの間に自分はというのか。

わずかに戸惑う翔馬は、ふと気付く。

おかしなものが視界に入ったのだ。

それは、足跡だ。

さっきまではなかった足跡が、鍵山真琴の周囲にあり、それが自分がいる場所まで続いているのだ。

自分の足跡?

いや、そんなことがあり得るのだろうか。

格技室の床板を割る程の足跡を、自分に付けられるとは思えない。それに足跡の形がおかしい。どう見ても、それは自分の靴の形などではない。小判型よりは丸みがあり、先端の尖った足跡。

似たようなものなら知っている。

それは、蹄の足跡のように見えた。

だが当然のことだが、人間には蹄などない。安城翔馬には、蹄などない、



——、そうであった。




あの音が聞こえる。

どくり。どくりと響く音。外から聞こえるのではない。自らの内側から生まれてきている音が、耳の中で響くことがあるのだ。それは鼓動のように、血が巡る音のようでもある。

翔馬は気付いた。

自分の脚が、変化しているのだということを。

制服のズボンを裂くほどに発達した脚の筋力。その表面には、白く細い体毛がびっしりと備わっていた。

そして脚先には見慣れた5本の指は無く、固く、厚く発達した爪。蹄が備わっていた。

目の前にいる鍵山真琴と同じ。

安城翔馬の身体が、人ではないものに変化を遂げていたのだ。












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