§X 番外編

番外 / 約19年前・波の音




 波の音が聞こえる。

 若い男女の体液の臭いがする。

「奈那って誰かに似てるよな」

「誰だよ」

「誰だっけ。ハリウッド女優の。あー名前が出てこない、顔は思い浮かぶのに」

「あーあたしも名前わかんないけど太郎ちゃんがイメージしてる顔でわかった。っていうか、ぜんぜん似てねえしあたしあんな美人じゃないし身長だけじゃん」

「また俺様の頭の中身を覗いたな」

「太郎ちゃんのそういう顔があたし好き」

「そういうときは素直に謝れよ。こっちが怒れなくなっちゃうだろ」

「怒ってないくせに」

「まあ、そうなんだけどね」

 そう言って田端は欠伸をする。

 広いベッドがゆらゆらと揺れている。気のせいではなく物理的に揺れている。なぜならここは海だから。なぜならここは波に揺られる豪華客船の一室だから。

 田端は素足を伸ばして奈那の太股に絡めた。

「んもう太郎ちゃん、重い。足。鬱陶しい」

「知ってるだろ俺は冷え性なんだよ。夜明け前が一番寒い」

「なに、その夜明け前が一番昏いみたいな言い方」

「明けぬ夜は長い、すなわち明けぬ夜はないのだ」

「そうだねマルコム、マクベスを討たねば。――太郎ちゃんが高校のとき演ってたマルコムかっこよかったな。あのとき脇役の太郎ちゃんが舞台を荒らしたせいで主人公のマクベスが霞んじゃってさ、シェークスピアも苦笑いしたに違いないよ」

「俺は最初からマクベス役のクソ野郎を潰すつもりで演ったんだ。あいつ俺よりヘボかったのに演劇部顧問相手に枕で主役とりやがって」

「そういうところプライド高いよね」

 奈那が声をひそめて笑う。その肌は熱い。肌の熱い女は好きだと田端は思う。熱は生きている証拠、血の巡りの確証だ。

 奈那が生きてさえいれば俺はそれでいいんだよと田端は何度も言った。何度も懇願した。奈那はそのたびにありがとうと言った。そしてごめんねと言った。

「もうすぐ夜が明けるね。さーて今日もハネムーンをたのしむぞー」

 田端の足をはね除けて奈那が起き上がろうとする。肩まで伸ばした髪がはらりとこぼれる。その腕を田端は掴んだ。

「奈那。もう一回」

「もう朝だってば」

「朝だからこそ、したい」

「お腹すいちゃうよなあ」

 ぼやきながらも急にやる気を取り戻して、猫のように躰をしならせて好きよと奈那は言う。愛しているよと田端は返す。友情と愛情の関係だ。感情が噛み合っていないなと田端は思う。はじめからすべて了解済みだ、何をいまさら。

 この先、こんなに溌剌として美しく愛おしく相性抜群な妻よりも魅力的な女なんて果たして見つかるだろうか。見つかるわけないよな。引き返せない地獄に足を突っ込んだ。いっそカマキリみたいにここで喰われて死んでしまいたい。

 それでも田端は高校生の頃から恋い焦がれていた女と幸せな結婚をしたのだ。

 幸せだ。辛いのが幸せだ。

 愛されなくても愛していればいいなんて。

 愛されなくても生きてさえいればいいなんて。

 


 空は晴れ渡り、波は穏やかだ。

 地中海クルーズの豪華客船は半数近くが初老の夫婦だった。

 価格と日程がちょうどいい手軽なコースなのだ。船は気楽だ。船は上品だ。船は移動の手段ではなく旅の目的だ。だから船は楽しい。

 ヨーロッパは幼い頃から両親と一緒に何度も旅行したからどうでもいいと田端は言った。あたしも【仕事】でしょっちゅう来てるから興味はないよと奈那も言った。

 奈那の口から【仕事】という言葉をきくたびに田端は軽く死にたくなる。その【仕事】とやらのせいで摩耗して死ぬのは奈那のほうなのに、なぜだか田端が息を止めて死にたくなる。

 だがふいに奈那が「連続殺人事件が起こりそうな豪華客船で旅してみたいよね」と呟いたから、田端はその希望を叶えてやった。あっという間に手続きを済ませてふたりでヨーロッパに飛び、リスボンから客船に乗り込んで海の欧州をめぐることにした。悪くないハネムーンだねと奈那が褒めてくれた。だから田端は嬉しかった。

「あなたがた新婚さん? ずいぶんお若くていらっしゃるのね」

 朝食のあとデッキで日光浴をしていると、シャネルのサングラスをかけた細身の老婦人が田端の傍に座って英語で話しかけてきた。

 量の多いブルネットの髪に白銀が混ざって陽光にきらめていてる。頭にスパンコールをふりまいているようだ。

「はい。籍を入れたばかりです」

 幼い頃にイギリスの田舎町に住んでいたせいで田端の英語には訛りがある。少々のコンプレックスだが矯正する気はなかった。言葉なんてそれなりに通じれば何とかなる。

「奥さんお美しいわ。ミステリアスで東洋人にしては背が高くて皆が見惚れてる……ファッションモデルかしら」

 ふたりの視線の先では奈那がサマードレスの裾を海風になびかせ歩いている。小脇にはスケッチブックと鉛筆、彼女が何処に行くにも持ち歩く必需品だ。

「彼女は自称画家なんです。世間的には無職ですが」

「あなたも同業?」

「いいえ。俺は親の遺産を継いで遊び回っている道楽息子です」

「それなら奥さんは幸運ね、ご主人という最高のパトロンに恵まれて」

「むしろ俺が親の遺産を継いだばかりのお坊ちゃんだから彼女のほうが選んでくれたんだと思っています。俺のほうが幸運に恵まれてる」

 洋上の太陽は眩しい。洋上の雲は遠い。

 パトロンという古めかしい言葉に田端は感銘を受けた。なるほどパトロン。まさにそれだ。まだランチの前だが、この会話にはワインが欲しい。

 そう思った瞬間、老婦人が何処から取り出したのかワインボトルとグラスをテーブルに置いて微笑んだ。

「よろしければ新婚さんのなれそめを伺いたいわ」

「肴にならないかもしれませんが」

 田端は無遠慮にワインを注いで喉に流した。

「彼女は高校の後輩でした。俺が演劇部で彼女が美術部、俺は一目で恋におちてしまって絶対に彼女を自分の恋人にしなきゃいけないと思いました。何度も口説いて誘って三週間かけて深い仲になれました。俺の青春の全てといってもいいほどです。ですが二年前に突然まったく連絡がとれなくなりまして」

 田舎訛りの木訥とした英語でここまで話して、田端はいったん老婦人の横顔を眺める。

 サングラスの奥の表情は窺えない。

「よろしくてよ、続けてちょうだい――高校時代からつきあっていた彼女が二年前に突然あなたとの縁を絶ったのね。それからあなたはどんなふうに過ごしてらしたの」

「そりゃあもうめちゃくちゃ荒れましたよ。無添加食物愛好の健康志向のおかげで悪い薬剤に手を出さなかったけれど、それ以外はひととおり、恋人に棄てられた若い男がとるべき行動をすべて経験しました。けれど運命というのは不思議なものですね、ようやく彼女を忘れられるかもしれないと覚悟がついたとき彼女と再会したんです」

「まあロマンティックですこと」

「ええ本当に笑っちゃいますよ。いったい何があったんだよって詰問したら、不治の病を発症してもう俺とつきあえないから姿を消してたなんていうんですよ。長く持たずに死ぬっていうんです。それでさらに『子を産みたいから精子をくれ』って。とにかく子どもを産まなきゃいけないんだって言うわけです」

「それで?」

「俺の精子でよければ何リットルでもくれてやるからそのかわりに今すぐ結婚しろっていいました。五秒で取引成立ですよ」

 波の上では冗談のように現実と向かい合える。

 旅の海ではすべてファンタジーが現実で現実がファンタジーだ。


「――っかみたい!」

 

 突然、老婦人の声が若返って幼い日本語になった。

 田端は動揺しない。

 ゆっくりと視線を動かせば、サングラスをかけた老婦人が漆黒の髪を腰まで伸ばした小柄な少女に変身していた。姿を変えていたのだ。それとも田端にだけ違う姿が見えるように魔法をかけていたのか。

 それはともかく、田端には老婦人の正体がこの少女だと判っていた。

「ばかみたい! ばかみたい! ばかみたい! あんたのような男と寝た! 奈那ちゃんはバカだ!」

「君は若月菊花ちゃんだよね。はじめまして。奈那から話は聞いてる、ほんとに聞いてたとおり癇癪玉みたいな子だな」

「奈那ちゃんはバカだしあなたもバカ! 大嫌い! わたしの奈那ちゃんをそんなふうに呼び捨てにしないで!」

 この少女が奈那の相棒だった。

 事情を説明すれば長くなるが、同じように覚醒して同じ仕事をしていつかは同じようにさっさと死ぬ。そういう運命共同体だ。奈那が姿を隠していた二年間を語ったとき、その中心にいたのが若月菊花という年下の少女の名だった。あたしは宿命を見つけてしまったんだと奈那は言った。奈那の赤い糸は、一本は田端太郎に、そしてもう一本は若月菊花に繋がっていた。ふざけたことを言うんじゃないよと田端は思った。きっと若月菊花も田端の存在を奈那から聞いて同じ事を思っただろう。

 この両刀遣いの優柔不断女め、と。

「若月さん、ちょっと確認したいんだけど」

「なに。わたしを怒らせたら殺す」

「俺を殺したら奈那は君を許さないよ。――奈那が言ってたことほんと? あいつは出産したら【治る】の?」

「そうよ。確率はゼロじゃない。何年先になるかわからないけれど、わたしもそのうち納得できる相手が見つかったら精子をもらうつもり。うまくいけば【治る】から。そして上手くいかなければバケモノが増えるだけ」

「それってさ、生まれてくる子どもたちに申し訳ないという罪悪感はないの?」

 田端は若月菊花を見据えた。

 若月菊花は下唇を噛んで田端を見上げた。

「わたし、あなたなんて嫌い」

「それはどうも」

「わたしのお兄ちゃんに似てる。どうして何でも受け止めようとするの? どうして寄り添って何でも話を聞いてくれようとするの? もっと嫌ってよ。わたしのことも奈那ちゃんのことも、気持ちの悪い病人だって蔑んでよ。頭イカれてるって嘲笑って逃げてよ、わたしたちに死ねって言って。言われたって今は死んであげられないけど」

「君のお兄ちゃんとはいい酒が飲めそうだな」

「いつかわたしと奈那ちゃんが死んだらふたりでそうすればいい」

 若月菊花は長い髪をかき上げ立ち上がった。

 そして姿を消す瞬間に「あなたでよかった」と小さく言った。田端も「俺も君でよかった」と言い返した。未来なんて何もない闇の底のような三角関係だとしても、恋仇がこのひとで本当によかったのだと。



 海風の当たるデッキチェアに膝を抱えて座り、奈那がスケッチブックに絵を描いている。

 それは洋上の風景ではなく人物画だった。

 田端はゆっくりと近づいて、まずは朗らかに笑ってみせる。

「よう俺のかわいい奥さん、その美少年は誰? どう見ても俺っぽいけどちょっとショタコン風味かなー」

 スケッチブックのなかでは不機嫌そうな少年がそっぽを向いて唇を尖らせている。薄い色の眸と頬のほくろが田端そのものだ。

「これはあたしたちの息子。来年の春に生まれてくるんだ」

 田端は目を丸くする。

 三呼吸の沈黙のあと、奈那がぼそりと続けた。

「太郎ちゃん、あたしどうやら妊娠するっぽい。ありがとう。感謝してる」

「ってまさか昨晩の? もう? たった半日でそういうのがわかっちゃうわけ? そういうのって数週間くらいたたないと医学的には」

「面倒臭い能力持ちだからこういうのも早バレしちゃうんだよね、自分でも呆れちゃう。ねえ菊花は何か言ってた?」

「えーと」

「来てたでしょ、今。ふたりでワーワーと日本語で叫びあってた。あたし聞こえないフリするの大変だったんだからさー。ごめんね。あの子に酷いことたくさん言われたでしょ、あたしも手を焼いてるんだよねあの性格ねじくれ暴言マシーンには……あんな調子で罵られながら普通にに暮らしてるんだから北斗くんは大天使だよ」

「北斗って誰だよ」

「若月北斗。菊花のお兄ちゃんだよ。この名前は覚えておくといい、今から二十年くらい先に、きっとあなたと彼は美味しい酒を飲む仲になるだろうから」

「おまえの可愛い若月菊花ちゃんも似たようなこと言ってたよ」

 田端は奈那の隣に座った。

 奈那は田端の手を握る。田端も握り返す。ふたりで指先を絡め合う。父親になる未来を予言されたせいもあって田端は緊張した。奈那の熱に変わりはない。

「菊花はね、【発症】したときに暴発しちゃってその事故で両親を亡くしたの。だからあの子は自分で自分を許さない。でも北斗くんはあの子を許してた。北斗くんに許されてる自分を菊花は憎んでた。だからあたしは菊花に、あんたと北斗くんの辛い記憶を全部なくしてあげるよって提案した。あたしにはそれが出来るから。それで北斗くんのいちばん辛い記憶は消してあげた。でも菊花は拒んだ。『これはわたしに必要な試練だから』って。菊花はそういう子なんだ、自分を痛めつけていつも苛々してて、そうやって自分にずっと罰を与え続けて……ごめん、あたし太郎ちゃんに何を話してるんだろう。でもね、あたしには太郎ちゃんがいる。あたしがおかしくなっちゃう前からずっとあたしを好きでいてくれてた太郎ちゃんがここにいる。でも菊花には菊花の太郎ちゃんがいない。菊花は可哀相な女の子だ。あたし何ができるだろう。あたしは可哀相なあの子に何をしてあげられるだろう、一緒に死んであげるくらいしか思いつかないや。でもそれはただの同情だな、きっと、あたし菊花を哀れんでるだけだ。あたしは卑怯だから」

 奈那の声が細くなり嗚咽になっていく。

 田端は奈那の指先を何度も撫でた。

「どうしておまえは自分を卑怯だと思うわけ?」

「選べないから。あたし本当はずっと太郎ちゃんといたい。だってあたしたち夫婦だもん。でも菊花と一緒にいなくちゃ。それなのに、今、来年の今頃にはあなたにそっくりなちっちゃくてかわいい男の子を胸に抱いてる自分を想像したら、すごく、すごく幸せでどきどきする。だからあたしは卑怯だ」

 生臭い潮の匂いだ。

 むかし昔、この海には巨大なガレー船が何隻も浮かんで殺し合いをしていた。奴隷たちが船を漕ぎ、奴隷たちが叫び、奴隷たちが力を合わせ、そして奴隷たちは海の藻屑になった。海の底には情念が溜まっている。憎悪も無念もやがて白い砂になった。砂になって海底を覆ってやがて自分が何者であったかも忘れて今では海洋世界を慈しんでいる。

 世界はこんなにきれいだ。

 変わらないものなんて、何もないよ。

 あってたまるか。

 田端は海風を吸う。

「候補はふたつあるんだ」

「え?」

「男の子の名前」

「太郎ちゃんあのさ、あたしの話をちゃんと聞いてた? あたしけっこう重い話を……」

「候補のひとつめを発表しますダダダダーダン! 燎平、田端燎平! 火偏のリョウにタイラの平。どう?」

「何か意味があるの?」

「世界を照らす火になるように。もしも世界が真っ暗になって何も見えなくてどうしようもなくなったときには、自分の身を燃やして皆のかがり火になる。燎平が勇敢な男になるように」

 暗闇のなかで皆のかがり火になる。

 燎平が勇敢な男になるように。

 奈那は「素敵だね」と呟き、腹を撫でた。

「もうひとつの候補は?」

「翔馬。どこまでも飛んでく馬だ。どんなしがらみも宿命もふりほどいて行きたい場所をみつけたら何処へでも飛んでいく。愛情のために強くなれる。翔馬が自由な男になるように」

 愛情のために強くなれる。

 翔馬が自由な男になるように。

 奈那は「燎平と翔馬は正反対だ」と呟き、再び腹を撫でた。

「産んだら【治る】かな。それともあたしのせいでこの子にも辛い宿命を負わせちゃうのかな」

「大博打だよな。でも俺は何度でも付き合うよ、名前の候補はまだまだたくさんある」

「太郎ちゃんさ、あたしのこと愛しすぎだよね」

「だよな。──だからおまえがいつかぜんぶを放り出して若月菊花ちゃんのところに行くときだって俺は笑顔で見送るよ。できる限り支援もする。だからそのときがきたら俺の記憶は消さないと約束してくれ。そしたら俺は息子に、俺がバカだから性格の不一致で離婚したんだよって説明するから。逃げた女房に未練なんかねえよバーカって涼しい顔して、週末のたびに若い女を漁るろくでもないエロジジイになってみせるから」

「太郎ちゃんが漁色家の真似なんて無理だよ、出来るの?」

「できる。俺の演技力なめんな、元演劇部の実力発揮だ」

 ここが異国の海の上で本当によかった。

 空の青と海の青に密閉された異世界で本当によかった。

 奈那は両手で顔を覆った。

「あーあ! もう! ちくしょう! ちくしょうゲロ吐きそうだよ! 生きていたいよう、死にたくないよう、死にたくないよう。つよいおかあさんにならなくちゃ。つよくてかっこいい女にならなくちゃ。あたしがんばらなくちゃ。でも自信ない。こわい。こわいよ太郎ちゃん。あたしがんばれるかな! クソッ、ほんとクソだよクソッ、あーあーあーあー、うわああああんイヤだよおおおおおお!!」

 幼児のように泣きわめく奈那を田端は抱き寄せた。

 船は東に向かっている。とつぜん雲が流れてきた。風が湿気を帯びてきた。嵐が近い。


 波の音が聞こえる。






波の音/了


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デメテルの娘メドゥーサの息子 アズマ60/東堂杏子 @under60

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