②日常茶飯事

「……ふぅ」


 春の穏やかすぎる陽射しが暖かくこの身を照らし、真っ白な教室を時おり吹き抜けていく爽やかな春風が気持ちいい四月の下旬。

 まだ新学年が始まって二週間ほどしか経ってはいないのだが、彼には授業――いや、学校という存在が、そんな風情とは裏腹に、堪らなく鬱に思えていた。

 今行われているのは『魔法使役学』の授業。現在やっている単元は『魔力循環系の理解』、言ってしまえば魔力を体内が循環するシステムに関する授業である。フェインは昨日の内にやっていた予習の分のノートをぼんやり見つめていた。

魔力の流れを司る循環系は、生まれた時から其の力が変化する事は無い。この世に生を受けた時点で、魔法士としての才は大部分が決まっているのだ。兄ノルンはこの循環系の強さもさる事ながら、魔法に対する貪欲で誠実な姿勢から来る深い知識と鍛え上げた体術から、『当代最高の魔法士』の評価を受けていた。

 ブラックボードに自ら書いた絵や定義などをさしながら説明する担当教師を横目に、フェインは彼に見つからないように手で口を押さえつつ小さな欠伸を一つかます。


「……フェインくん」


 どきり、としたフェインに、教師は続ける。黒縁の眼鏡から覗く鋭い視線に、思わず姿勢が伸びる。


「君、今欠伸をしましたね? 私の授業でそういう態度をとるとはなかなかいい度胸をしてるじゃないですか」


「いや、その……!」


「全く君は……まぁいいでしょう、次はありませんよ。其れと今から出す問題に答えてみなさい」


 クラス中から一斉に向けられる嘲りが含まれた視線と、かすかな憫笑が心を侵していく。ちゃんと手で口を隠し、尚且つ下を向いていた。態度に非があったのは認めるが、クラスには頭を揺らし今にも寝入りそうな人物や机に突っ伏して寝息を立てている人物もいる。

この状況で自分だけ非難されるというのは納得できないから反論しようにも、自分にはそんなことをする勇気など無い。こんな自分をいつも嫌に思うのだが、過去の記憶が彼を縛り付ける。フェインは渋々ながら、教師の質問に答えることにした。彼に指定された問題に、目を凝らす。

 昨日の内に理解をしていた部分の問題だったので、彼は内心ほっとしていた。それに何より、彼には頼れる“教師”がいる。彼が丁寧に教えてくれた内容だ。答えられないわけがなかった

 教師は一瞬悔しそうな顔をしたが、すぐにブラックボードへと向き直った。彼が板書を再開すると、辺りからひそひそと小話が耳に入ってくる。勿論、それらは自分についてのものだった。


 ――睡眠学習してるの沢山いるじゃん。かわいそう。

 ――目をつけられてるんだろ。

 ――実はフェインの兄貴に対して嫉妬してたりしてな、だから難癖付けてんじゃね?


 皆の蔑みを孕んだ視線と、微かな笑い声が痛い。そして、いつものように心がズキズキと疼く。この疼きは、虐めを受け始めた頃から始まったもので、何か嫌なことがある度に起こっていた。

 まるで何か得体の知れないものが、静かに蠢いているかのように。


「何で、僕ばっかり……」


 それは言ってみれば晒し者、公開処刑、生殺し。顔から火が出るほどの恥ずかしさを上回るのは、どんどん滲み出る悔しさと悲しさ。

 疼きの収まらない胸をぐっと押さえながら、そのまま授業を受けた。常にこなしている予習のお陰で分からない部分は無く、結局滞りなくこの授業は終わったのだが、『彼が学校を嫌いな由縁』たる出来事は、まだ終わっていなかったのである。

 寧ろこれからが、その本番とも言えた。




 授業が終わって数分後。脚がローラー式の椅子に座ったままで、窓の外に広がる、桜の木が風に揺れる様を何ということも無く見つめていると。


「なあフェイン、お前やる気あんのか?」


「授業中に欠伸かよ、随分良い御身分だな」


 現れたのは、いつも事あるごとに自分をからかってくる二人、ベルとダグ。無論彼等は、それがれっきとした『虐め』になっていることをこれっぽっちも理解してはいない。当たり前のように絡んで来ては、フェインの心を踏み躙っていく。

 ――だから、尚更質が悪いのだが。


「ち、違うよ……僕は下を向いて、しかも手で隠して失礼にならないようにやったし……」


「知るかよ、それでも見られたお前が悪いんだ。この弱虫野郎!」


 その言葉通り、『弱虫』な自分が反論できないのをいいことに、二人は止むことのない罵声を浴びせ続ける。そしてまたもや、心がひどく疼く。自分に何かを訴えかけるかのごとく、激しく。

 フェインの眼前に傲慢極まり無い態度で踏ん反り返る長身瘦せ型のベルと、背が低く太った体型のダグの成績は下の下、テストの度にクラス平均を大きく下げる要因である。

 聞いた話では二人とも家が上流貴族の生まれでどうやらコネで入学したらしいのだが、其の様な家に生まれどうして此処までねじ曲がった性格に育つのか、フェインは真剣に疑問に思っていた。

 さっきの質問にしても、彼等には答えられはしなかったろう。フェインとて出来ることなら成績の悪さを材料に言い返してやりたいのだが、悲しいかな、やはりそれは叶わないのだ。

 この『公開処刑』のギャラリー、つまりクラスメートは、行方が気になるのか一心にこちらを見つめている。傍観者という存在も、結局は虐めに加担しているとも気付かずに。


「お前みたいなウジウジした奴がいるとな、皆が迷惑するんだよ。気が滅入るっての?」


「そうそう。つーかさ、ぶっちゃけお前が有名なのって優秀な『兄貴』がいるからじゃん。勘違いすんなよ」


「……! 別に、勘違いなんか、してないよ……。それに、二人みたいな人がいるならその逆、気弱な人もいて当たり前でしょ?」


「あぁん? 何だフェイン。お前、まさか口応えする気かよ」


「ちッ、違……!」


「どうもこいつ反抗的みたいだから、今度の学内トーナメントに出れないようにしてやるか」


 ダグから羽交い締めにされ、その太い腕により拘束されてしまえば力に自信がある訳でも無いファインに抵抗はできない。そしてベルがさも嬉しそうに汚い笑みを浮かべながら、その長いリーチを生かしたパンチをしようと腕を弓のように後ろへしならせる。もうすぐ全身に全速力で走るであろう激痛を想像すると、もう泣きたくなる。あまりの理不尽さによる悔しさがこみ上げてきて、体を震わせる。


(何で、僕ばかり……)


 振り出される腕を見まいと目を瞑った、そのときだった。


「おら、その辺にしとけよ。豚馬コンビ」


 相手を小馬鹿にする、おちゃらけたような口調に、二人の体は即座にびくりと反応した。寸前でベルの腕は止まり、フェインは一旦事無きを得る。救いの神とも言えるその男に、彼は涙ぐんだ目を向けた。そして、ギャラリーの視線すらも、男は集めていた。


「れ、レット……」


「じゃっ、邪魔すんなよ、レクトール。別にお前には関係ねぇだろ」


「はぁ? 何言ってんだか。関係ありありだねぇ。そいつは俺の友達だ。お前らの鬱憤晴らしの相手じゃねぇぞ」


 凄みの効いた、掠れた声に脅えることもなく、レットと呼ばれた男は言い返す。目に掛かった髪を払う様に首を振ると、長めの襟足も其れに応じて揺れた。


「ちッ……、何ならてめぇもこの弱虫と一緒に出られないようにしてやろうか」


 つい発してしまった言葉に、男のふざけていた目つきが一気に鋭く、殺気を帯びたものへと化した。其れを受け、ベルは慌てて口を噤む。しかしもう遅い。静かな歩調で距離を詰めながら、レットは怒気を孕んだ口調で紡ぐ。


「……それ、誰に向かって言ってんだ? どうやら、今度ばかりは本気で入院したいらしいな、お前ら。今まで何回やられたのか、頭が悪過ぎて覚えてねぇのか?」


 ――教室の空気が、途端に凍り付く。

原因は間違いなく、レットが二人に向ける眼差しに込められた殺気。事の行方を、室内の全員が固唾を飲んで見守っている。そして当のベルとダグはというと、蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなってしまっていた。


「どうしたよ。やるのか、やんねぇのかはっきりしろ」


「……行くぞ、ベル」


「あ、あぁ……」


 顔を見合わせ意見を合致させると、ダグは何の悪気も感じていないような傲慢な歩調で歩いて去って行き、ベルは彼の後ろをすごすごとついていった。嵐は去ってくれたと確信したフェインは胸を撫で下ろした。ようやく安堵することができたことの表れであろう。

 そして、彼のもとへ毅然として向かってくるレットに、再び周囲が活気を取り戻してざわめき出す。


「ったく、懲りねぇなあいつら。……大丈夫か、フェイン」


「うん。ありがとう、レット。助かったよ」


「じゃあ、行こうぜ」


「え? どこに……」


 いいからいいから、と無邪気な笑顔で腕を引っ張るレットに、抵抗も虚しくフェインは連行されていくのであった。

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