第3話 γルート
1
ある夏の昼下がり、どこにでも有りそうで実際どこにでもある、あるアパートの一室で、一人の童貞が目覚めた。
玄奘寺孝太郎という名前の其の童貞は、大学六年生というおよそどうしようもない生き物の一種であり、その他にもだらし無い、お金がない、頭があまり良くないなど様々な特徴を備えていた。
そんな多種多様なフィーチャーを備えながら、彼が大学六年生という例えるなら三軍ベンチ球拾いとでもいうような、不毛なポジションに長年甘んじてきたのは、その特徴の中に世のため人のため、ひいては自分のためになるものが何一つなかったからである。
「……あれ、まだ昼か?」
そんなマヌケな一言とともに目覚めた孝太郎がさっきまで死にかけのモグラのように潜り込んでいた万年コタツの九十度隣で、アホ面を垂れ流しているのは大竜二と言う男だ。妙な方言を操る大学六年生である。ガタイはでかく、器は小さい。夢も希望も女性経験もないが、自信だけは異次元からこんこんと湧いてくる。彼もまた一人の男である前に、一人の童貞であった。
「まだ昼か、ってお前はいつまで眠る気なんや。いっその事そのまま永眠してくれたほうが郷里の親御さんも喜ぶだろうよ」
「……いや、俺はさっきまで……、あれ?確か……」
孝太郎がこめかみを指で抑えると、このアパートの一室にいたもう一人が口を挟んだ。
「いいですよ、足りない頭振り絞ってまで無理に思い出そうとしなくて。あんたのアポロチョコくらいしか無い脳みそを無理に絞ったら潰れちまいそうだし、聞いたら精神科医も病気になりそうなあんたの夢の話なんて聞きたくない」
「……おいコラチビ。夢も希望も身長もないホビットが何を生意気な口を叩いてやがる」
この口調だけは丁寧な、孝太郎と竜二の会話に割って入った男は萬田久一という、夢も希望も身長もない、後大学の単位も性経験も一切ない、どこに出しても恥ずかしい童貞であり、孝太郎たちと同じ大学六年生である。
「あ、まーたそうやってすぐ人の悪口を言うんだから。心が汚い人と付き合うと僕まで汚れちゃうよ」
「てめえこの寸足らずが!やんのかコラ!」
「鎮まり給え器の小さき者共達よ。君たちは貴重な青春の時間をドブに捨てているよ」
竜二が割って入ったが、二人が罵り疲れるまで罵倒のドッジボールは終わらなかった。
2
「そういえばお前たち今日はゼミに行くの?」
孝太郎が思い出したかのように問いかけた。このアパートに潜む童貞人間三人組は、同じゼミに所属していた。
「パス一」「パス二」
綺麗なハーモニーだった。
「じゃあ俺もパス!今日はなんか頭がぼうっとしている。こんな状態で勉学に勤しんでも効率が悪いだろう」
「あんたが生きている時点で効率が悪いでしょうに」
無言で孝太郎と久一が取っ組み合いを始めた。狭いアパートの一室で転がり合う二人の騒音で、孝太郎と竜二の携帯が着信を知らせるアラームに、誰も気が付かなかった。
参
「いやっほー。おひさー。みんな変わってないねー。って六年も大学生やってりゃそりゃそうか」
孝太郎と久一の取っ組み合いは、筋肉だけはアンパンマンのように人に分け与えてもいいくらい余っている竜二が取り押さえた。その後動きまわって腹が減ったと孝太郎が言い出し、テレビゲームで食材を買いだす斥候を決める勝負を始めた所に、そんな声がドアから響いた。三人がドアの方を見れば、そこには孝太郎たちと同い年くらいの女性が一人、靴を脱いで部屋に上がろうとしている所だった。
「あれ?咲さん思ったより早かったですね。しっかし咲さんもこんないつDDT担いだ消毒部隊が突入してきてもおかしくないアパートに来てくれますね。ひょっとして僕のことが好きなんですか?」
「あっはは無い無い。無い。無い。うん。無い」
「そんなに無いって言わなくても……」
軽口で迎えた久一をばっさり切り捨て、こたつの空いた一角に潜り込む。
「や、孝太郎、久しぶり」
「……本当に久しぶりだな、最近忙しかったのか?」
「まあねー。なんかちょっと大きめの仕事任せてもらってね。でもやっと一段落ついたから、今はお休みなんだ。竜二も久しぶり」
「いやでも休めてよかったなあ。一時期結構しんどそうやったぞ」
「ふふ、そうだね。だから今日はゆっくりしに来た」
「しかしこんな出来る人があんた達二人と幼馴染って本当ですか?産地偽装の疑いがある」
「久一よ、男は勝負で語れ」
「あ、これやってるの?僕もやる。クッパ誰も使ってないよね?」
孝太郎達とテレビゲームに興じ始めたのは、咲という、孝太郎達の幼馴染の女性である。孝太郎達と同じ大学に通い、さらに同じ年の童貞三人組とは違い、予定通り四年目に卒業証書を受け取り、世間では一流企業とされる企業に新卒で就職している。アパートに潜む社会不適合者三人とは月とスッポン、ウサギと亀、アリとキリギリスであった。しかしダークモカのセミロングヘアを揺らして、サマーカーディガンの袖から覗く白い腕でコントローラーを握る様は、年相応のものだった。
「あれ、なんや電話鳴ってない?誰のや」
「誰のって、俺達の電話がそんな簡単になる理由無いだろ。あれ、自分で言って悲しくなってきた」
皆がゲームに興じていると、携帯電話が震える低い音が部屋に響いた。咲が気付き、黒い長方形のスマートフォンを手に取る。
「あ、ボクのだ。……うわ、会社からだよ」
「休みの日に職場から電話……?うわ、ブラック企業がでたぞ!だから俺達は社会に出たくないんや!僕たちは皆永遠のピーターパンになるんや!」
「出たくないんじゃなくて出られないんでしょうに……」
「ちょっと君達静かにしてくれる?……はい、私です。いえ、大丈夫です……」
咲はスマートフォンを耳にあてながらベランダへ出ていった。そしてそのまま暫く電話越しに勤め先の関係者と思しき人物と会話を続けていたが、途中ひどく驚いた様子を見せた。
「……ん、あれ、どうしたんや咲のやつ」
「ちょっと唇の動きが読めませんね……。女性の唇が艶めかしく動くさまを注視していたらなんか僕変な気分になってきました」
「お前読唇術なんか使えねーだろうが。一生独身術なら使えそうだけどな」
誰も人が電話しているところを覗く行為を止めないのが、この三人が三人たる所以であった。そして暫くして咲は電話を切り、ベランダから室内に戻ってきた。
「……待たせてごめんね。さーて、続きやろうよ」
「よーしやりますか!僕のピーチ姫はもう準備万端ですよ!」
「……なんかあったのか?」
「ん?なにもないよ孝太郎。単なる仕事の引き継ぎの確認だよ」
「……ならいいんだが」
「よしやろやろ。いい加減パシリ決めんと腹減ってきたわ」
竜二がそう促し、四人は再びゲーム機のコントローラーを握った。
肆
「ぐわー!やられまくったー!」
ゲームの結果は竜二のドベで決まった。嫌がる久一を荷物持ちに引き連れ、竜二は食材の買い出しに出かけた。部屋には孝太郎がこたつの上にあるペットボトルに手を伸ばす音と、咲が足を組み直す布が擦れる音だけが響いた。
「んで、何があったのかいい加減話せよ」
「……やっぱり孝太郎は気づいてたんだね」
「竜二だって気づいてたろ。伊達に幼稚園の頃から付き合ってねえよ」
孝太郎は手にとったペットボトルで口を湿らせ、咲の言葉が続くのを待った。
「……転勤のね、話があったの。栄転だよ。一応。結構大きなプロジェクトを任せてもらえるんだって。それを受けようかどうか、迷っちゃってる所」
「いいじゃないか。お前の仕事が、能力が認められたってことなんじゃないのか?」
「でもね、結構遠い場所なんだよね」
「……お前、そういうの気にするタイプだっけ?地元の友達には会えなくなっちゃうとか。ホームシックにかかったら俺らを呼べばいい。時間だけは腐る程あるからな」
「いやちょっと孝太郎達には厳しいんじゃないかな」
「貴様大学六年生の暇さを馬鹿にするもんじゃないぞ。このアマゾンから届いた荷物の梱包材のように無駄に余りまくっている時間を有効に使えば、俺らは何にだってなれる。只有効な使い方を考えている内に一日が終わっているだけなんだ」
「……孝太郎、パスポートって持ってる?」
「?」
「……フランスなの。転勤先」
伍
「ふ、フランス?あの幼稚園児から野良犬までワインを飲みまくってるていう、あのアル中大国のフランスですか?」
「フランスって本当にあったんや、少女漫画に出てくる架空の国やと思ってたわ」
アパートに買い出しから戻ってきた二人は、咲の話を聞き、伸び伸びと自由な感想を述べた。
「それで、行っちゃうんですか?咲さんみたいな美人が一人で行ったら、いけ好かない金髪ワイン野朗が寄ってきて関西弁のコロ助みたいな所に拐われちゃいますよ」
「……?……ああ、ワイナリーね。久一君なんかワインに恨みでもあるの?……んーま、急な話だし、ボクも迷っちゃってるかな。大きなチャンスなんだけどね」
咲はそこで一旦言葉を区切った。
「ねえ、孝太郎と竜二はどう思う?」
咲から言葉を振られた二人は、少し黙考した。そして先に言葉を作り終えたのは竜二だった。
「俺は正直、行かんで欲しい。咲の人生において大チャンスってのは分かっとるつもりやけど、やっぱ心配やろ。まだ鼻くそを食いもんだと思ってたようなガキの頃から一緒やったやつが、1人で外国住むの」
「ふふ、ありがと。……ね、孝太郎は?」
孝太郎はまだ少し何か言い淀んでいるようだったが、やがて口を開いた。
「……最後はお前が決める事だ。それに俺がどうこう言ったって仕方ないだろ」
「そっか、……だよね、私の問題だもんね、そだ、よね」
孝太郎の返答に、咲の声が少し陰りを帯びた。
「おい、孝太郎」
「いいの、竜二」
そう言って咲は言いかけた竜二を制し、立ち上がった。
「ちょっと会社からのサプライズで動揺しちゃった。帰って一人で考えてみたいから今日は帰るね。色々お菓子とか買ってきて貰ったのにごめんね」
そしてそのまま玄関に行き靴をつっかけ、ドアを開け出て行った。
残された三人の間を、しばし沈黙が漂った。
「……おい、孝太郎」
「……いや、分かってる。つっけんどんに過ぎたな。少し動揺してしまった」
「なんであんたが動揺すんです?動揺するんなら咲さんの方でしょ」
「いや、それはそうなんだがな……。なんかモヤモヤしてきた。今日は一杯やるか」
「……そうやな、気晴らしにパーっとやろ。どこ行く?」
「神ラーメンでいいだろ。空気を悪くした侘びだ。俺が奢ろう……。そういえば昨日も食ったっけ。まあいいか」
孝太郎がそう提案すると、竜二はガタイに不釣り合いな可愛い喜びを披露し、久一は対照的に怪訝そうな顔を見せた。
「キャッホーイ!ラーメーン!」
「……孝太郎、あんたどっか具合でも悪いんですか?孝太郎が飯を奢ってくれた時って、昔好きな恋愛ゲームのキャラが夢に出てきて添い寝をしてくれた祝いとかいってたそのたった一回じゃないですか。だから道に落ちてるものは食べちゃダメだよってあれ程言ってたんです」
「久一は自分で払えよ」
かくして、一行はラーメンを食いに出かけた。
陸
神ラーメンは孝太郎達が潜むアパートから徒歩五分。寂れた神社の前に、夕方から夜にかけて姿を表すラーメンの屋台である。味はともかく、あまり人が寄り付かないのと、席が丁度三席と言う理由で、彼らは夜中に足繁く通った。夜中に貪るあまり美味くないラーメンほど美味いものはない。
ごちゃごちゃと椅子に座り込む三人に、屋台の店主が気づく。
「お、またお前らか。毎度毎度変わらん面子だな、注文は?」
「毎朝起こしてくれる妹」
「毎晩添い寝してくれる姉」
「カルボナーラ」
「なんで最後だけカルボナーラなんだよ。いつもの醤油三つね。ちょっと待ってろ」
店主に思い思いの注文を済ませ、三人はとりとめのない話に興じた。ラーメンの湯気があたりを包み、醤油の匂いがその薄靄の中を漂った。
「しかし、咲さんフランスかあ。なんか、同い年なのにこうも差がつくもんですかね。咲さんと僕で何が違うんだろ」
「一人称以外全てやろ。あいつは昔からデキが違ったからな。ナチュラルボーンキャリアウーマンやわ」
「そう言や、咲さんも自分の事ボクっていってますよね。やっぱり無意識に僕の事を求めてるのかなあ」
「ああ、確か、まだ俺らが虫を素手で掴めるクソガキだったころ、孝太郎が女と遊ぶのは恥ずかしいから、咲に一緒にいる時は男の振りしろって言ったんよ。んで、その名残で俺らと居るときはボクって出ちまうんやないかな」
「へえ、孝太郎も罪作りな奴ですね」
会話に興じる竜二と久一をよそに、孝太郎は一人カウンターに頬杖をつき、麺が泳ぐ銅鍋を見つめていた。
「そんな事もあったっけ……」
「てか孝ちゃんは何をそんなに呆けとんの?いつもの阿呆ヅラが取り返しの付かないことになっとるぞ」
「いや、俺らが時間をカップ焼きそば作った後の、それこそ湯水の如く無駄に使ってる間、奴は刻苦してたんだなと思ってな」
「おい、この時間帯にそういう方向性に話を持っていくのは止めろや。そういう自分を客観視する話は止めようって決めてるやろ」
「どこをどーして、僕達こーなっちまったんでしょうねえ」
「「「……」」」
三人を包む重苦しい沈黙に、店主が口を挟んだ。
「そんなに悩むなら、いっそ神頼みなんてどうだ? ちょっとはスッキリするかもしれんぞ」
「神頼み?もう僕は非科学的な類は何も信じない事にしてるんです。この前三十二回払いで買った、アフリカの霊木で作ったっていう体の毒素を排出するヘルメットだって、被ってたらクソ重いもんだから酷い肩こりになって大変だったんですよ」
「おい久一よ、俺が毎週通っている、この世の真実を教えてくれるセミナーに、お前も行ってみんか?なに、月謝は気持ちだけでいいんや。お前もすぐに本当の幸せを得る方法を悟れるぞ」
二人でキャッキャとふざけ始めた久一と竜二を置いて、神ラーメン店主は続ける。
「裏の神社、今は寂れちまってるが、昔は結構霊験あらたかでイイカンジだったらしいぞ。お前ら丁度三人だし、詣ってみたらどうだ?」
「丁度三人ってどういう……」
孝太郎が問いかけるも、店主は言うだけ言ってラーメンの調理に取りかかり始めてしまった。
「まあ信じるものは足元を掬われると言いまして、これは結局何を信じても裏切られるリスクが有るんだったら寝てたほうがいい…、あれ、僕何を言いたかったんだっけ」
「……、お前はあまりしゃべらない方が幸せなのかもしれへんな」
*
ラーメンの出来上がりを待つことも兼ねて、三人は戯れに神社を詣でる事にした。いざ鳥居をくぐれば、草木は伸び放題、社の木材は腐り放題であり、故に他の参拝者もいないので祈りたい放題であった。
「こういうときは三人で願い事を合わせた方が願いの力が強くなる気がしますね」
「同じ懸賞に何枚も葉書書くのと同じ理屈やな」
「あ、じゃあ時間を戻すにしてくれ。時間を戻して、次こそ有意義な人生を送ってやる」
「孝太郎、あんた程の逸材、きっと何回やり直しても素敵にみじめな人生を送れますよ」
「はいはい、それで決まりやな。賽銭の小銭はお前ら持っとる?」
あくまで余興なので、軽口を叩き合いながら、三人は神前に立つ。
「お前ら幾らいれるの? 俺一円しか小銭がない」
「お、靴の中に一円発見伝。これでいいやろ」
「きったないですねえ。まあ僕も一円以上入れる気は無いですけど」
失礼極まりない口を叩きながら、合計三円のお賽銭を投げ入れ、彼らは手を合わせた。
「時間が戻りますように!」
「……」
「……」
「……よし、無駄な時間を使った! 飯や飯!」
「……なあ、俺等って、前もこの神社でなんか願い事した時なかったっけ?」
「あんた何言ってんです?僕達そんな暇あったら家で寝てますよ」
「…だよなあ」
そのまま三人はとぼとぼと屋台に戻り、ずるずるとラーメンを食し、ダラダラと彼らの巣穴に帰っていった。
柒
「……なんか辺鄙な所に出ちゃったなあ」
三童貞が帰り、三流ラーメン屋台も引き上げた廃神社前を、一人の女性が通りかかった。
「そんなのさ、一人で考えて答えが出るんなら聞いてないよね、全くさ……」
そして、神社に良い寂れ方と悪い寂れ方が有るのなら、間違いなく後者と言えるその廃神社にその女性は気づいた。暫しその佇まいを眺める。
「……ここって……そうか。ちょっとした気晴らしになるかも。信じる者は救われるって言うしね」
そう独りごち、彼女は廃神社に続く石段を登った。そしてサンダルに絡みつく草花を踏み分けながら、賽銭箱の前に辿り着いた。
「ああそうだ、お願い事するならお賽銭だよね。……っと、……流石に夏目先生は惜しい、今はこれが私の精一杯っと」
そう言って彼女は取り出した財布から一円玉を三枚摘み、賽銭箱に放り投げ、両手を合わせた。
「……と、……いいなあ、なんて。よし、終わり終わり」
夜の闇が流れるように浸っている境内を、やがて彼女は後にした。
捌
その翌日、孝太郎がいつもの通り、朝の喧騒にも負けず、昼のお天道様の光にも負けず、確固たる睡眠を貫いていると、枕元の携帯電話が突然音楽を奏で始めた。いつも堅く沈黙を守っている携帯が着信を知らせるという不測の事態に孝太郎の目は醒め、その手は訝しみながらもそれを耳に当てた。
「お電話有難うございます。この回線は約一秒ごとに十万円の通話料と三千円のお通し代がかかります。今すぐこれから申し上げる口座に」
「あれ、起きてた。珍し」
「……咲か?」
「孝太郎、暇でしょ?デートしようよ。平日にお休みもらってもさ、付き合ってくれる人孝太郎くらいしかいないんだよ」
「飯おごってくれるんならいいぞ」
「もう、またそれ?ボク孝太郎をヒモにした覚え無いんだけど」
「ははっ、そりゃいいな。大学出たらお前に養ってもらうか」
「……バカ!急にやや、養うとか、な、何恥ずかしい事言ってんの!兎に角!商店街の入り口で待ってるからね!三十分後!」
急に早口で捲し立て、咲は電話を置いた。一方的に切られた電話を眺めながら、孝太郎は首を傾げた。
「……突発的な尿意か?」
玖
自分のつむじを的確に狙う太陽の熱の熱さを頭上に感じながら、またアスファルトに照り返す熱も下半身に受け止めながら、孝太郎は銅曲輪商店街の入り口を目指した。程なくして、商店街入り口に立つ咲の姿を発見した。
「お、孝太郎!こっちだよ!」
咲の声に導かれ、孝太郎は無遠慮に咲を頭から足まで見回した。
「お前、今日はピアノの発表会かなにかの帰りなのか?」
「な、なんだよ……。ボク、何か変?」
膝下くらいまでの白いワンピースに身を包んだ咲は、肩から下げた、電卓一つくらいしか入らないような小さい革のポシェットで、孝太郎の視線から身を守る様に顔を半分隠した。
「いや、お前案外そういう清楚系?な格好も似合うんだなって思ってな。お前昔からあんまり足出す格好好きじゃなかったじゃないか。そんなかわいい系の小物入れなんてどこに隠してたんだ?」
孝太郎の言葉に、咲は顔を隠しているポシェットをそのままに、その影からかすかに言葉を返した。
「……に、似合うって……」
「ん?どうしたんだずっと口を隠して。ニンニクでも食ったのか?まあいい。性の付くもの食ったばかりの奴には申し訳ないが、俺寝すぎて腹が減ってるんだ。まず飯を食いに行こう。チェリオでいいか?」
「……う、うん」
孝太郎は急にしおらしくなった咲を訝しみながらも、彼女を伴って喫茶チェリオへ向かった。
拾
商店街の一角、その半地下に店を構える喫茶チェリオのドアに付いたベルを鳴らし、二人は席に案内された。
「お前、ソファの方座れよ」
「え、……う、うん」
孝太郎に促され、咲はおずおずとソファに腰を下ろした。続けて孝太郎はチェアに座り向かいあい、そして二人はアイスコーヒーと各々の料理を注文した。
「……ねえ、孝太郎。家出る前に、全身全霊の力で足の小指をぶつけでもしたの?」
「なんだ藪から棒に。……藪から棒にってなんかエロいな」
「……スルーするからね。だって今日の孝太郎おかしいよ。今までボクの服なんて褒めてくれた事なかったのに、それも手慣れてる感じだしさ。それに今までご飯食べに行った時も、俺の尻には妖精が住んでいるからとかなんとか言って、一回もソファ席とか譲ってくれた事なかったじゃない。何か凄いショックを受けたとしか考えられない」
そう咲に言われた瞬間、孝太郎の脳裏を二人の女性が駆けた。よく知っているようで、また会った事も無いようで、その実態を捕まえようとすると、それは霞が空に溶けるようにかき消えた。
「……何を言ってるんだ。俺程のベストジェントルマン、草の根分けて探しても出てこないぞ。紳士達が自信を失うからと、英国から俺は入国禁止を食らってるくらいだ」
「それ孝太郎がパスポート持っていないだけでしょ。……でも」
「ん?」
「なんか悪くないね。孝太郎に優しくしてもらうの」
やがて料理がテーブルに運ばれてきた。二人は歓談しながら目の前の皿をつつき、それを空にするとお替りのコーヒーを頼んだ。そして珈琲の香りが二人の会話に溶け込んでいくのを充分に楽しんでから店を後にした。
拾壱
二人は、その一日を楽しんだ。映画を見たり、店を冷やかしたり、どんな尾行のプロも飽きて眠くなるような、なんの変哲も無い休日を過ごした。孝太郎は、そんな普通を楽しめている自分を何故か新鮮に感じていた。
長い夏の日も終わりに近づき、夕陽が傾き始めた頃、咲に誘われるまま、港へ向かった。埠頭から眺めれば、テトラポッドが積み重なる先に夕陽が掲げられ、そのまま海に溶け込もうとしていた。
「やっぱりここからの眺めはいつも変わんないね」
海に向かって突き出したコンクリートの足場の舳先に向かって、咲は歩きながら孝太郎に声を投げた。
「お前が嵌って抜けなくなってビービー泣いてたあのテトラポッドもそのままだな」
孝太郎がその後を追いながら答える。吹き付ける風に潮の匂いが混じり始めた。咲がやがて突端に辿り着き、孝太郎へと振り返った。
「ね、孝太郎。ボクにさ、行くなって、言ってみてよ」
いつの間にか虫の鳴き声は止んでいて、孝太郎には波の音が遥か遠くに聞こえていた。咲の向こうで海を赤く浸している夕陽のせいで、咲の表情は伺えない。
「ど、どうしたんだ唐突に」
「何ちょっと動揺してるんだよ。そういうドラマみたいなやり取りに憧れない?ボクがこの港から遠くの国に行こうとする所を、孝太郎が止めるシーンだよ」
「……お前、決めたのか?」
「いいから、付き合ってよ。ほら、あっちからボクの乗る船が来たよ」
そう言って咲は、何も無い水面の先を指差した。その指先がかすかに震えているのを孝太郎は見て取った。その時、本当に咲が、そのまま何処かに消えてしまいそうとか、もう会えないのかもとか、そういった感情の塊が孝太郎を襲って、その声を自然に出させた。
「……なあ、行くなよ」
その瞬間、咲の左目から、一筋だけの涙が頬を伝った。それは、何回もの涙がその一筋に凝縮されたような真っ直ぐさで、コンクリートに吸い込まれた。
「……ねえ、孝太郎、聞いてくれる?」
「……なんだ?」
「……ボクね、孝太郎の事が好きだよ」
孝太郎には、目の前の幼馴染が泣いている理由が分からなくて、あと少しで分かりそうで、目が離せなかった。
「……今やっとわかったの。なんでボクが孝太郎と小さい頃から一緒にいたのか、なんでボクが孝太郎と一緒にいたかったのか」
「……」
「孝太郎に行くなよって言われた瞬間、本当に、全部どうでも良くなっちゃったの。ボクがあっちに行ってする仕事の大変さとかやりがいとか、ボクに期待してくれている人達への感謝とか信頼とか、そういうの全部。全部放り投げて、幸太郎の胸に飛び込んで、抱き締めて貰う事の方が、全然大切になっちゃったの」
夕陽の赤色が咲を包んで、染め上げようとしていた。
「そういう自分がとても好きになって、でも、それじゃ駄目になっちゃうから」
夕陽が夕闇に変わろうとして、刹那、咲をその光から開放した。孝太郎の目に咲の表情がくっきりと飛び込んできた。
「だから、私、行くね、フランス」
咲が顔に浮かべたそれは、笑顔だった。
「きっと、ボクのままじゃ、孝太郎に依存しちゃって、孝太郎がいなきゃ駄目になっちゃって、孝太郎の事も駄目にしちゃうと思う。だから、孝太郎のことが好きな私の事を、自信持って好きになれるようになりたいから、私、行こうと思う」
「咲、お前」
「ごめんね、孝太郎のことダシに使って。結局私、自分のことしか考えていないんだよね。そうやって孝太郎のことを勝手に好きになって、それを勝手にテコにして、海外に行く踏ん切りに使ったりして」
孝太郎の呼びかけにも答えず、咲は続けた。咲の顔に張り付いた笑顔は、沈んだ夕陽の隙間へ、海から染み出して来た闇に照らされていた。
「なあ、咲」
「折角孝太郎のこと好きって言えたのに、孝太郎はこんな私じゃ嫌いになっちゃうよね」
「咲」
「でも、こう、ボク呼びも卒業して、私、これから」
「咲!」
「……な、なに?」
「無理だけは、するなよ」
孝太郎のその言葉に、また、咲の目から涙が流れた。それはさっきの涙とは違い、只溢れ、頬を容赦なく濡らした。
「……う、うん」
咲は手で涙を拭いながら、なにか言葉を続けようとしたが、どうにも止まらず、しゃくり上げながら、只頷いていた。
拾弐
「あーあ、咲さんやっぱり行っちゃうのかあ。これでこのドブ部屋に来てくれる貴重な女性がいなくなってしまった。こんな男しか居ない大気汚染空間にずっといたら、僕の肺が茶色くなって毛が生えてきちゃうよ」
「まあずっとあっちにいる訳でもないんやろ?それより見送りのネタ考えようや」
それから何日かした明くる日、いつもの部屋に、いつもの三人が、いつもの様にくだを巻いていた。竜二と久一は万年コタツの定位置で何やら話し合い、孝太郎は少し離れ窓の側で寝転び、夏晴れの空を流れる雲を目で追っていた。
「おい孝太郎、そんなところで脳みそのしわを伸ばしとらんとこっちに来て会議に加われや。やっぱ送り出しのプレゼントはスクール水着よりブルマだよな?これを向こうでの初出社の日に着ていきゃあ、ジャパニーズゲイシャっつって一発でフランス人のハートを鷲掴みやろ」
「そんな事したら即ハラキリですよ。そんな事より咲さんの胸にある二つのちょうどいい大きさのフジヤマを活かしたジャパニーズスシの一種ニョタイモリで……、孝太郎、聞いてんですか?」
「……おー」
二人の問いかけにも、日本語を覚えたての象の第一声かのような生返事で孝太郎は答えた。
「……いや、俺は俺でちょっと考えがある」
「……孝太郎?馬鹿の考え休むに似たりって諺、知ってます?」
「なんでてめえは人を罵倒する時だけ諺の引用が正確なんだよ。今日こそはてめえをバラバラにして隣に住む斎藤のばあちゃんちのポチが食うディナーにしてやる」
孝太郎と久一が掴み合いながら狭いアパートの中を転がりまわり始めると、それを見かねた竜二に捕まえられ、適度な大きさの塊へと丸められ窓から外へ投棄された。
そんな童貞達の箸にも棒にもかからない、いつもの日常が過ぎていき、そして咲が日本を発つ当日がやってきた。
拾参
暦の読み方が分からない太陽が、夏も終わりに差し掛かっているにも関わらず、駅のホームに屯する鳩たちを焼き鳥にせんばかりに照りつけていた。蝉の鳴き声も電車のベルをかき消さんばかりに響く中、スーツケースを持つ咲の頬にも汗が浮かんだ。
「いやありがとね、みんな見送りに来てくれて」
咲と向かい合って、同じくホームには久一がいた。
「僕らは二十六歳の大学生ですよ?将棋で言えば成った飛車くらい自由なんですから。それより、僕らの他に見送りがいないなんて咲さんの知り合いも薄情な奴らですね」
「や、今平日の昼過ぎだからね?みんな仕事とかあるし。壮行会とかは開いてもらえたから。それにお母さん達も来てくれてるし、一緒に行ってくれる先輩もいるしね」
ホームの少し離れたところで、咲の両親と話す孝太郎と、咲の先輩らしき人と話し込む竜二がいた。まず竜二は、どうやって持ち込んだのかリヤカーに大量に詰め込んだ味噌と醤油を押しながら咲の先輩に迫っていた。「外国行くと味噌と醤油が食いたくなっても食えなくてホームシックにかかって死ぬらしいですよ!賞とかとった漫画で言ってたから間違いないです!」と喚き、先輩を順調に後ずさりさせていた。
「あのまま江戸時代の兵糧攻めに遭ってる城とかにタイムスリップすりゃいいのに。てか咲さん暑くないですか?なんか飲みもん買って来ますよ。餞別代わりに」
「ありがと、じゃあお願いしていい?ていうか君達からの餞別はそれだけでいいから。なんかさっき見せてきたコスプレとか本当に要らないから」
咲に釘を刺され、肩を落としながら久一はホームの購買へと歩いていった。そこに、咲の両親と話していた孝太郎がやってきた。
「いやーお前の親御さんとも久しぶりに話したなあ。おばさん変わってないですねえなんて言ったらお小遣いくれたぜ、いえー」
「……う、うん」
「……どうしたんだお前。歯切れ悪いな。飛行機乗るのに緊張してんの?」
「……や、違うよ。だって、私、孝太郎とあんな別れ方してから会ってないし、申し訳ないし、恥ずかしいし……」
「なにを気にしてるんだよ。お互い小猿と見分けがつかない頃からの付き合いだろ」
「……そ、そっか、ありがと……。そっか……。じゃあ、孝太郎、最後に一個だけお願いしていい?」
「なんだ?」
「あのさ、あの、行くなよってやつ、もう一回だけ、その、やってくれない?変な話と思うだろうけど、あれ、結構、乙女的にポイント高かったりして」
「……お前がそう言うなら。ん、じゃ、いくぞ?」
「……うん」
「……なあ咲」
「何?」
「……俺も、ついて行くよ」
「……へ?」
咲は、鳩が豆鉄砲を顔面に食らったような顔をした。
「え、……へ?あ、あの、突いていくって、その、何を?」
「……多分漢字間違ってるぞ。いや本当はここで俺の分の飛行機の切符を見せて驚かせてやろうかと思ったんだけどな、パスポートってその場ですぐもらえるもんじゃないのな。それに、あっちに住むとなると七面倒臭い手続きとか色々いるみたいだしな。日本政府は余程俺のような優秀な人材を手放したくないらしい。まああっちでちょっと広めのアパートでも借りて待っててくれ」
「いや、あの、ちょっと」
「ああ、さっき話してお前の父ちゃんと母ちゃんからはさっき話している時にオッケーもらったから。ヒョウ!これで俺も一人前のヒモデビューだぜ!宿主、ゲットだぜ!」
「孝太郎!」
「あ、はい」
咲が張った声を叩きつけると、孝太郎はひとまず口をつぐんだ。
「……孝太郎も、あっちで仕事探してよね」
「……へ?」
今度は孝太郎が面食らう番だった。誕生日の朝に早起きして清々しい気分で窓を開けると、目の前を弾道ミサイルと水爆と核爆弾とが落ちていくのを見た様な顔をした。
「な、なぜ?お前が仕事に行き日銭を稼ぎ、俺が家事全般を受持ち家を守る!女は船、男は港や!俺を幸せにしてくれよ!」
「何言ってるの!やっぱりそんな魂胆だろうと思った!孝太郎に家の事なんて任せたら一週間ごとに住む所移るジプシー生活だよ!それにまだボクにそんな二人分の稼ぎなんてないよ!家計も火の車で火計で火事だよ!ああもうボクなにいってんだろ」
「お前、一人称戻ってるぞ」
「は?あ!」
孝太郎の指摘を受けてさっと頬にさした赤みを、咲は両手で隠した。
「まあ、でも、まあそうやってるほうがお前らしいよ。お前が外国でもそう振る舞っててもらわないと、俺も落ち着かないから放っとけ無いって思っちまった。そう思っちまう理由は、追々探していくつもりだが」
「……ふーん、そっか」
咲は暫く軽く俯いて、何かを考えこむような仕草を見せた。そしてそのまま何回か軽く、意味もなく左右に揺れてみせた。孝太郎は、それは咲が昔から照れ隠しにする癖だと知っていた。
「じゃあ、仕方ないから、ボクが孝太郎を幸せにしてあげるよ」
そう言って咲は、そのまま夏の空に吸い込まれそうな、透き通った笑顔を見せた。
拾四
それからの半年間、孝太郎は大学内を所狭しと走り回り、四方八方x軸y軸z軸に向けて多角的多面的な土下座を雨あられと連発した。その標的には平和に日常業務をこなす大学事務員から、自身の研究や生徒の育成に余念がない大学教授まで幅広くが狙われた。全ては孝太郎の海よりも深く山よりも高く残った卒業単位の力ずくでの取得を目的として行われ、その恥も外聞もない土下座外交戦略が効を奏し、なんとか粗方の単位を修める事ができた。
しかし、孝太郎、竜二、久一の三人が同じ研究班に所属し、三人がかりでサボりまくったゼミの単位だけはどうしても取得できず、結局孝太郎は大学に休学届を提出した。自分がフランスに行っている間に妖精か守護霊の類が代わりに単位を取得してくれている事を祈りつつ、孝太郎は日本を発った。
そして咲とフランスのアパートメントで一緒に住むこととなった。
拾伍
そのまた半年後、都合一年に渡る咲のフランス赴任が終わり、孝太郎と咲は日本へ戻ってきた。
咲はフランスでの成果と、外国での業務経験を評価され、職場での地位が向上した。孝太郎は、大学に残してきた単位達と涙の再会を果たし、熱い戦いを繰り広げ、無事大学を卒業した。そして、フランスでのヒモ生活を留学経験と言い張り、口八丁口八丁な就職活動を展開し、なんとか日本での職にありついた。
そして、お互いが社会的にも経済的にも十全な状態になった頃、二人は入籍した。
拾陸
「ねえ孝太郎ー、今日のお昼は外に食べに行こうよ」
「ん、おお、どこに行きたい?」
二人が同じ名字になってから一年、ある晴れた日、孝太郎と咲は自室で二人の休日の朝をまどろんでいた。
「ボクね、チェリオがいいかな、久しぶりに」
「そうだな、今日は俺が奢ってやろう」
「本当?やったー孝太郎大好きー」
「……お、おお」
「……孝太郎、未だに照れが抜けないね」
「伊達に長い間純血を保ってないからな。もう少しでネバーランドから妖精が迎えに来る所だったぞ」
軽い会話を交わしながら二人は出かける準備を整え、喫茶チェリオに向かった。
商店街への複合商業施設の建設に伴い、半地下では無くなってしまったが、店の内装は大学時代と変わらない、喫茶チェリオのドアを二人はくぐった。店員に案内されるまま、席につく。
「昼飯のメニューを見ながら話すのも何だが、夜はどこ食べに行く?今日くらい少し贅沢しても罰はあたらないだろう」
「……孝太郎、覚えててくれたの?」
「ああ、今日が結婚一年目の記念日だって事か?さすがにスタートダッシュでこける訳にはいかないからな、覚えてるよ」
「そっかそっか……えへへ」
咲は幸せに浸されてふやけたかのような笑顔を作った。孝太郎も、その様子をみて自然に顔がほころぶ。
「ねえ、孝太郎」
「なんだ?」
「ずっと、一緒にいてよね」
仲睦まじく日々を過ごす、幸せな夫婦の姿がそこにはあった。
拾柒
不穏の暗い足音が聞こえてきたのは、それから半年もしない明くる日のことだった。その日の朝、ダイニングで二人は出勤前の朝食を取っていた。孝太郎は食後の珈琲を作ろうとして、キッチンに向かった。
「ああ孝太郎、珈琲飲むの?ボクのもお願い」
「ああ、お前もブラックでいいか?さ……」
その時、孝太郎は、ダイニングテーブルに腰掛けこちらを見ている女性の名前が思い出せなかった。思い出そうとすると、何故か大学のゼミで一緒だった後輩や、大学時代にアルバイトとして働いていた居酒屋の店長の顔が浮かぶ。軽いフラッシュバックに襲われ、孝太郎はキッチンのカウンターに手を突いた。
「ちょ、こ、孝太郎、どうかしたの?大丈夫?」
咲が心配そうに孝太郎に近寄る。その顔を間近で見た瞬間、やっと名前と顔が実線で結ばれた。
「あ、ああ……大丈夫だ、咲。昨日竜二と久一と夜中までモンゴル相撲のDVDを見ていたからな。寝不足がたたった」
「そ、そうなの?只の寝不足ならいいけど……」
まだ何処かひっかかるというように孝太郎を見つめる咲を尻目に、孝太郎は食器の準備を続けた。
拾捌
平穏な日常に入り始めた亀裂の音は、日増しに大きくなっていった。
「なあ、あれどこにしまったっけ?さえ……」
「さえ?」
その日、孝太郎の目には咲がエプロンとジーンズ姿をした長髪の黒髪の女性に見えた。その名を思わず呼ぼうとして、しかしその錯覚は掻き消え、そこには不安そうにこちらを見つめる、見知った女性の顔があった。
「いや、はは、バイトしてた時のこと思い出してたら、冴子さんってお前の事呼びそうになっちまった。小学生が先生の事お母さんって言っちまうの笑えないな」
「……孝太郎、メジャーならその上の棚だよ。窓の幅ならボクが測っておくから、孝太郎は少し休んだら?」
「……お、うん、昨日少し残業が過ぎたかも知れない。ちょっとだけ昼寝してくる」
咲は、寝室に向かう孝太郎の背中を、ずっと見つめていた。
*
またある日、孝太郎と咲が夕食を済ませたあと、ベランダで二人、夏の夜を涼んでいる時にも、それは起こった。
「そういえばそろそろ花火大会だよね。子供の頃はよくあの穴場で見たよね、覚えてる?」
「あの本屋の角を登って行くところだろ?この間前を通ったら、濡れないの?豚!とかいう名前のちっちゃいラブホテルが建ってたぞ」
「え!嘘!結構思い出の場所だったのに!」
「嘘(笑)」
「……牛串五本ね。ごちそうさま」
「馬鹿お前馬鹿!あんな一本五百円もボるセレブの食い物を!あれは匂いを楽しむものなの!……まあでも、それでお前が前みたいにびしょ濡れになって泣かないで済むのなら安いもんだ」
「え?びしょ濡れって?」
「いやお前、俺が大学六年の頃、あの穴場で、雨降っててさ、お前が濡れネズミになって俺を待っててくれて」
「……え?それ、孝太郎、誰かと勘違いしてない?」
「してないって。お前だってそんな時にせんぱいの事が、……って……」
「先輩?」
孝太郎は、自分の言葉が孕む矛盾に気がついた。
「……なんだ、それ?」
呟いて、孝太郎の表情は色を失っていった。咲との思い出を頭の中に浮かべようとすれば、想起されるのは茶髪の小柄な女性が、浴衣を着て泣いている情景だったり、咲と見たことのない映画をその女性と見ている自分の姿だったりした。
「今、俺は何を、誰に喋っていた……?」
自分の脳味噌を引き摺り出そうとするかの様に、孝太郎は自分の額を強く掴んだ。ヒグラシの声が聞こえる夏の終わりの夜にも関わらず、額には汗が吹き出していた。指先にその不快な感覚がじっとりと伝わる。
「孝太郎、どうしたの?顔真っ白だよ!……水、持ってこようか?」
「……すまん、少し、一人にしてくれ」
「で、でも、汗だって凄いよ。熱があるんじゃ……」
「いいから!」
孝太郎が声を荒げると、咲は伸ばした手を震わせ引っ込めた。そして沈黙が部屋に満ちていく。
「……すまん。でかい声出しちまった。少し疲れてるんだ、きっと。こんなん寝ればすぐ良くなるから」
「……孝太郎、何かあるんだったら、すぐに、話してよね……」
孝太郎の肩に触れようとして、やめたその右手を、左手で庇うように咲は胸に抱いた。
「ああ、もちろんだ。……心配かけて悪い」
そう言って孝太郎は、寝室のドアに手を掛けた。そして電気もつけないまま、ベッドの上にうずくまった。
拾玖
その日から孝太郎は、会社を休みがちになり、咲と別の部屋に布団を敷き、そこに閉じこもった。
「……どうしちまったんだ……俺は……」
孝太郎の記憶の海に、今まで見かけなかった漂流物が明らかに増えていた。自分と一緒に暮らしている女性の事を考えるたび、自分が知らない筈の情景が、自分が知っている人との知らない筈の思い出が、その知らない夏に鳴く蝉の声が、記憶を翻弄する。
「……これは、ゼミで一緒だった……。それにこれは、冴子さんか……?」
しかしそれは、確かに経験した実感をともなって思い出された。
「知らない筈なのに、知ってる。……頭おかしくなっちまったのか?俺は……」
頭を抱えた掌の隙間から溢れた呟きは、暗がりの部屋の中に溶けた。
外から女性の声が聞こえた。
「……」
孝太郎は沈黙で答えた。
「……晩御飯、出来てるから。ラップしてテーブルの上に置いてあるから、好きなときに食べてね。……もし良かったら、一緒に食べよ?」
「……」
孝太郎は沈黙で答えた。
「……ボク先に食べてるから、孝太郎もお腹空いたら、来てくれると嬉しいな。……ご飯は、しっかり食べてね?」
女性の足音は部屋の前から離れていった。その音が聞こえなくなった時、孝太郎は膝を抱え直した。そして、か細く、長い嗚咽を漏らした。
弐拾
孝太郎は、暗闇の中目を覚ました。酷く喉が乾いている。体が言うまま、覚束ない足取りで、長い間浸かっていた暗闇から自分を引き剥がし、部屋を出た。
ダイニングにある冷蔵庫を開け、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを飲もうとした。喉はひび割れそうに乾いているのに、少しずつ口に含まないとすぐにむせてしまう。台所に手をつき咳き込んでいると、その音に目を覚ましたのか、パジャマ姿の女性がダイニングに姿を現した。どうやら今は夜中のようだと、孝太郎はぼんやりと思った。
「……孝太郎?」
孝太郎は、焦点の定まらない瞳で、その女性を認めた。三人の女性の顔姿が、壊れた映写機が映し出しているかのように重なりあって、実像が掴めない。そして沈黙した。
「……」
その女性はそんな孝太郎を見て少し戸惑い、困った表情を浮かべたが、すぐに笑顔を作り、孝太郎に問いかけた。
「ボクも何だか目が冴えちゃった。暖かい紅茶でも淹れようと思うんだけど、孝太郎も一緒に飲まない?」
孝太郎は、いつもなら自分の見る目の前の女性の姿に嫌気が差し、断る所だったが、今夜は酷く疲れていた。否定する気力も起こらず、二人でこの部屋に住むと決めた時一緒に選んで買った、パイン材のダイニングテーブルセットに腰掛け、無言で頷いた。確か彼女がこのデザインがいいと言ったのだ。何故かそんなことだけ覚えていた。
「……うん!すぐ用意するから、ちょっと待っててね」
自分が同卓するというだけで、嬉しさを隠さず、小走りでキッチンに向かう女性の後姿を眺めていると、胸が真っ黒な針で刺されたように傷んだ。
*
「……なんだかすごく久しぶりな気がするね。孝太郎とこうして一緒にお茶飲むのも」
向い合って二人は座り、各々の前には湯気が立つマグカップが置かれている。孝太郎は、そのカップの底を見つめるばかりで、手をつけようとしなかった。
「……ちょっとでも、飲んだほうがいいよ。甘めに作っておいたから、元気が出るかも」
目の前の女性は、不安そうに、心配そうに、風邪をひいた子供を気遣うかのように、飲み物を勧めた。その様子をみて、孝太郎は、もう限界だと思った。
「……なあ」
「……っ。うん、なに?」
自分の声を聞くだけで、嬉しそうに反応してくれる。やはりこうした方がいい。
「……俺達、別れないか」
「……え?」
背後からナイフを突き立てられたかのような表情から、その声はか細く漏れた。見えないナイフが刺さった傷口から血液がぼとぼとと流れでていくかのように、その顔からは血の気が引いていった。孝太郎は、彼女に何と呼びかければいいかを少し迷ったが、やがて口を開いた。
「……あ、あんたも、今の俺みたいな奴と一緒にいるのは嫌だろう。俺のために不幸になる必要はない。俺は、多分もう駄目だ。俺の事は放ってくれても、俺はあんたの事を全然恨みになんて思わないから。だから……」
「孝太郎」
孝太郎の言葉を、一言で遮り、そしてまっすぐに孝太郎の目を見つめた。
「それは、ボクの事を思って言ってくれているの?」
「……その、つもりだ。誰だって、俺みたいなやつは見捨てて当然だと思うぞ」
「ハハハ!」
その女性は急に笑い出した。孝太郎はその様子に驚く。
「だとしたらお門違いもいいところだね。……ねえ孝太郎」
彼女は、孝太郎を見つめながら、
「ボクは、孝太郎と結婚してから今まで、不幸だと思ったことは一度も無いよ」
そう言った。
孝太郎は、言葉を失った。
「確かに孝太郎の様子が変になっちゃって、全然二人で喋ったり、ふざけあったりできなくなって、すごく寂しかったけど、でもそんな間も、ボクは自分の事不幸だと思ったことは一度も無かったよ」
「……どうして……?」
孝太郎はその視線の力から目を逸らしたくなったが、不思議とそうすることが出来ず、探るように問うた。
「だって、夫婦でしょ、ボク達」
孝太郎は、その一言に、空気の塊で後頭部を殴られたかのような衝撃を受けた。
「孝太郎がどんなになっちゃっても、一緒に居られるってだけで、一緒にいてくれるだけでいいんだよ。孝太郎がすごく困ってて、とても苦しそうなのを見て、どうしたらいいかわからない自分の事はそりゃ、凄く嫌だったよ。でもね」
そこで一旦言葉を区切り、孝太郎を見つめなおし、微笑んだ。
「でも、そういう孝太郎に何かできる人の中の一人にボクは居るんだ、孝太郎が困っている時、ボクが孝太郎の一番近くにいられるんだ、そう思うだけで、ボクは頑張れるんだよ」
そして、テーブル越しに手を伸ばし、マグカップを弄んでいた孝太郎の手を、両手で包み込んだ。孝太郎は、その手がかすかに震えているのに気がついた。
「もう昔の孝太郎に戻れなくたって、今の孝太郎とボクで、幸せになれる方法はいくらでもあるはずだよ。だから、だからさ……」
握られる手の力は、その瞳から零れそうな涙を堪えるかのように更に強くなった。
「……一緒に居てよ。ボクは、君が思っている以上に、君のこと、大切に思ってるよ」
孝太郎の瞳からも、涙が零れ落ちた。それは土砂降りの雨が降るように、最初一滴垂れたと思えば、すぐに両目から止めどなく溢れた。そして涙で目の前はどんどん滲んでいったが、目の前の女性が誰かは、はっきりとわかった。
「……咲」
そしてその声を聞いた時、咲は涙で濡れた顔で、笑顔を作った。
「やっと……、やっと、ボクの名前、呼んでくれたね」
もう、自分の視界も、頭の中も、咲の姿、咲の名前を見失う事は無いと、孝太郎は確信した。
「なあ、咲」
「なに?」
「俺も、お前と一緒になってから不幸なんて思ったこと無いぜ」
「もう、だからボク昔言ったでしょ?覚えてる?」
そう言って、咲は涙を拭って、その雫さえも輝かせる様に、笑った。
「ボクが孝太郎を幸せにしてあげるよって」
咲の手に、もう片方の手を孝太郎は重ねあわせた。咲は目を閉じ、自然と二人の唇は重なり合った。泣きながらのキスは、二人の涙が交じり合って、官能的な味がした。
その時、遠くで、花火の上がる音が聞こえた。そういえば今日は花火大会の日だった。孝太郎がそう思った時、
ぐニょン
聞こえないはずの音が聞こえて、見えているはずのものが見えなくなった。
孝太郎の視界は点滅し、彩色は明滅した。咲の声だった何かの音をを遠くに聞きながら、灰色になった景色が消えていった。
そして、孝太郎の意識は消失した。
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