第12話 若き怪物の肖像(7)
白銀の血との対決を控え、新たな精鋭チームの最後の一人に指名されたのは過去の邪神事件で精神を病んでしまったフーヴァーの父ジョージだった。
しかし、心を閉ざして日常生活もままならないジョージをどうするのか。
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「君の父親を知っている。数年前に邪神カルト潜入捜査を指揮した際、俺も身分を偽ってチームメイトとして同行したからな。彼の勇敢な仕事の結果、多くの人命を救うことに成功した」
「この国の男ってのは、ときに邪神の威光もひっくり返す番狂わせをやってのける。君の父親はその数少ない例だ。その代償として、幻覚と現実の間で迷子になる後遺症を負ってしまったがね。―――ああ、君と同じ。俺も彼を可哀想だとは思わんよ。なるべくしてなったことだ。
ただな、事情も知らないくせに一方的に父を蔑むのは辞めることだ。
今、真相を知ったのだから君だけでも父親を誇りに思いたまえ」
自宅に忍び込んできたウィップアーウィル、私の心を読み取った時に確かこう告げていたはずだ。そのときは過去の存在である父のことなど気にもとめなかったので忘れていた。
私の父親が私と同じ連邦政府、それも司法省の職員だったのは知っていた。
幼い頃の私が、「父さんはどんなお仕事をしているの?」と尋ねても、父は何も答えようとしなかったし、母は出世ルートから早々に外れた父の仕事内容を知ろうともしなかった。
父は、私がハイスクールの頃に精神を病んで以来、自室で椅子に揺られて、母の鬱憤晴らしの罵倒を浴びせ続けられるだけの存在だった。
父の早すぎるドロップアウトが母の偏愛が私に向けられる契機だった。。
そして、母の強い干渉は、私の人格を母好みの成功者の鋳型にはめていったのだ。
いや、母のせいだけにするのは間違っている。私自身も父のようにはなりたくないと父を反面教師にしていたことは認めなくてはならない。失敗は悪だ、成功への階段を駆け上るには父のようなルーザーになってはいけないんだ……と。
その父が、ジョージ・エドガー・フーヴァーが、邪神テロ対策チームの最後の一枠だって?
「ううむ、ウィップアーウィル……君も見ただろう?私の父が今どういう状態にあるのかを」
ストークスは時代遅れの気障野郎で、ハイタワー(ション・ブライアント)は黒人だが能力があることは渋々ながら認めよう。
しかし、椅子の上で唾液を垂らしながら意味不明の妄言をつぶやくだけの初老の男が何の役に立つのかは理解できなかった。
父はもう人間の尊厳すら失いかけている病人だ。この短期決戦のテロ取り締まりに担ぎ出す者として最も適性に欠けているではないか。
「ずっと椅子とベッドの上で過ごしていたから筋力は相当弱っているだろうが、歩けなかったらジョン・ブライアント―――ハイタワーでいいのか?彼に担がせてでも同行させる価値があると俺は評価している」
ウィップアーウィルは真剣だった。
「いいか、君の父は1度邪神カルトと戦って勝利してるんだ。実績だけで比べたら、まだ何もしていない君よりも上ということになるが」
それは今だけの話だ。もう加点することのない父より上に行くのは時間の問題ではないか。
「しかし、父の精神はもう―――」
「治せばいいだけだ。
平時は私が指揮権を持っているはずなのだが。
異を唱えなかったのは、哀れすぎて自分の中でも存在を抹消したくなっていた父が治るかもしれない―――この男に期待してもいい―――と思ったからだ。黒人と帰宅したら母のアニーは金切り声をあげるだろうな。
車から臨時オフィスまで父を背負ってきたハイタワーはウィップアーウィルの指示で父を長椅子に横たえた。
父はパジャマの上によれたガウンを着たまま、自分がどこに運ばれてきたのかもわからぬ様子でぶつぶつと何かを呟いていた。
「フーヴァーは両手を、ハイタワーは両足をおさえていてくれ。場合によっては暴れるか自殺しようとするだろうからな」
自殺だと。冗談ではない。痴呆になっても父は父だ。
「心配するのか?君の中でジョージはかなりどうでもいい存在だったのではなかったかね」
表情を読まれたか。
私は黙って父の両手をおさえた。
夜鷹は外側に小さな刃をちりばめた物騒な
「では行ってくる」
の一言を残して瞑目した。
同時に父もすっと眠りに落ちた。ウィップアーウィルは息ひとつせず、彫刻が如く微動だにしない。
非科学的の誹りを受けることを承知で言うと、夜鷹の精神が掌の接触面を通じて父の心の中へ入っていったような印象を受けた。
「おいフーヴァー、この人は……何者なんだ」
「ストークス、彼はお前と同じ
「催眠療法に似てるようですが、この手法は見たことがありません」
とフィリップ。
「常識ってあやふやなものなんですね」
ハイタワーの意見に異を唱える者はいなかった。
ストークスの懐中時計が5分ほど進んだ頃に異変が起きた。
父が急に暴れ出した。私はともかくハイタワーまでが握った両足を離してしまいそうな勢いで。
両眼を限界まで見開き、涙を流して父が叫ぶ。
「フングルイ ムグルウナフ クトゥルー ルルイエ ウガ ナグル フタグン!」
その言葉を繰り返す。どこの国の言葉なのか誰にもわからない。私は父の両腕―――やせ細った病人の腕が出す力ではない―――をおさえきれなくなった。すかさずストークスが一緒におさえてくれた。この細い手足にどうしてこんな力が!
両足に苦戦するハイタワーにはフィリップが加勢する。
「フングルイ ムグルウナフ クトゥルー ルルイエ ウガ ナグル フタグン! フングルイ ムグルウナフ クトゥルー ルルイエ ウガ ナグル フタグン!」
もう聞くことがないと思っていた父の大声。内容不明の叫びは何十回か続き、電池が切れたように父の大暴れと叫びはおさまった。
4人がかりでおさえこんでいたが全員汗をかいて顔が紅潮していた。
「久しぶりのサイコダイブにしてはうまくいった」
ただ1人ウィップアーウィルが涼しい顔をして復活した。
「説明して欲しい。何がなんだか」
「ジョージの意識の中を旅して、彼の心を深く傷つけている病根をメスで切り取った。完全に発狂していると意識が乱れまくって旅は困難を極めるんだが、彼は流石だ。あれだけの目に遭っても狂気の淵に落ちずに踏みとどまっていた」
私には彼の言っていることがわかりかねた。
「ジョージは数年前に政府の密命を受けて、ミシシッピでの大量誘拐殺人事件の捜査指揮を執った。ちょうど現地の有力者の子女も誘拐された疑惑があり、州政府とも連携できて、大がかりな捜査網を張れたんだ。結果、沼沢地の奥深くにあるクトゥルー信者達のアジトに武装して乗り込んだ」
「君も警官に扮してその場にいたのだったな、ウィップアーウィル」
「警察が武装していると言っても銃だけではダメだ。相手に魔術師や神話生物がついていたら到底勝ち目はない。ちょうど、そのカルトが俺の求めているものを微量ながら保有しているという情報も掴んでいたので、用心棒兼砂金採りのつもりでついていった。それは正しい選択だった」
フィリップがすすめた椅子に腰をおろすと、ウィップアーウィルは首から提げている黒いドーナツ型の金属を指で弄び始めた。奇妙な透かし彫りが入っている。
「ディープワンが数匹出てきたところで警官の何人かは腰を抜かした。しかし、ジョージは至近距離まで飛び込んで見事な銃撃でディープワンを倒した。かなりの腕前だった。そこまではよかった」
「あ、あ、う、あ」
長椅子に寝ている父が呼気とともに何か呟いていた。元のままじゃないか?
「警察が踏み込んだとき、カルトは集団でクトゥルーに祈ってる最中で、ルルイエに眠るクトゥルーと精神回線がつながりやすくなっていた。クトゥルーの強力なテレパシーはその場にいた全員の脳味噌をかき回したのだ。信者も警察もさらわれた者も等しく意識を失った」
クトゥルー、ルルイエ。先ほど父が何十回も叫んだ語句にあった。暴れている最中の父は今ウィップアーウィルが語っている恐怖を追体験していたのだろうか。
「君もその、クトゥルーのテレパシーにやられたというのか」
「トゥルーメタル―――何のことかは知らなくていい―――探しに夢中になっていた。意識が飛んだのは事実だ」
少しばつの悪そうな表情もするんだな。
「翌朝に州警察の第二陣が駆けつけて、逮捕と保護が同時に行われた。ジョージはその日から心を病んでしまった」
初めて知る父の知られざる姿、英雄的行為と引き換えに負ってしまった心の病の原因を知って、痛切な悔悟に襲われた。
―――私は父を負け犬だと思っていた。
―――私は父のようにはなりたくないと思っていた。
―――私は父をいない者として無視していた。
―――母の罵倒を浴びることだけが存在価値だと思っていた。
全て否だ。父こそが私の目指す新時代の捜査官像そのものだ。
「グロテスクで強力なディープワンを物怖じせずに殺し、多数の人質を助ける陣頭指揮をとった強い胆力は君達の誰よりも優れていると思う。勇敢なジョージ・エドガー・フーヴァーが5人目として必要だという論拠に納得いただけたかな」
フィリップが挙手した。
「ミスター・ウィップアーウィル、ひとつ教えてください。あなたはフーヴァー部長のお父さんの精神世界で病根を切除した、と言いましたがもう少しわかりやすく説明してくださいませんか」
「大いなるクトゥルーの精神攻撃の前にあっては人間などひとたまりもない。それをもってジョージを惰弱とおとしめることはできない。彼はあの恐怖の夜から、自分の内的世界でクトゥルーの影からひたすら隠れ、逃避し続けていた。俺はそこへ行って彼に幻想をぶち殺す銃を与え、ともにクトゥルーの影を倒すことに成功した。彼を脅かすものはなくなり、現実に帰還するドアは開かれた。これでいいかね」
衣ずれの音。それに続き裸足で床をゆっくりと歩く音。
「長い長い夢をみていた」
髪は乱れ、身に着けたガウンもよれよれだったが、明確な意志と力強い声音に全員が釘付けになる。
手足はか細くなっていたが、一時代前の捜査官の面構えがまだ残っていた。
「わしはずっとクトゥルーの影に苦しめられていた。ジョンには同じ轍を踏ませたくないが、これも運命というものか」
ウィップアーウィルと握手を交わすのは悪夢から醒めた往年の英雄。私の父。
「父さん……ジョンだよ。わかるかい?」
父はこくりと頷いた。ほぼ毎日『見かけてはいた』が、『会う』のは数年ぶり。
「ジョン、わかるとも。大きくなった」
父さんの細い手が私の肩に触れた。軽いが温かい。
「わしが精神を病んだせいで、家族には大変な迷惑をかけてしまいすまなかった。今の事情は夢の中で
ウィップアーウィルはストークスから受け取ったリボルバーを父に差し出した。
「ジョージ・エドガー・フーヴァー。もう一度銃をとるか」
グリップをしっかりと握って、父は宣言した。
「数年間、クトゥルーの影から逃げまわっとった。このままで終われるか」
「5人目。いいな?ジョン・エドガー・フーヴァー」
私は本当ならこの謎めいた夜鷹に心からの御礼をするべきだったのだろうが、なぜかはばかられた。
部下の前だから?父の前だから?
両目にたまった何かが流れ落ちないようにするためだった。
月光の下、3台の車が街道を走る。車内で簡素な夕食をとりながら邪神テロ対策チームは目的地に向かう。
先頭車にはストークスとハイタワー、真ん中にはフィリップとウィップアーウィル、最後尾の車には私と父ジョージ。
ヴィンセント・マックニールの潜伏先―――奴は潜伏しているつもりなどなく堂々としているのかもしれない―――はウィップアーウィルの仲間であるイエローサインの1人が突き止めていた。黄色いブローチを着けたイエローサインメンバーは、同志ウィップアーウィルに1枚の地図を手渡すや、奇妙な生き物―――バイアクヘーというらしい―――に騎って飛び去った。
「彼は参加してくれないのか」
「別にイエローサインは人類の味方というわけではない。ましてや1つの国家がどうなろうが気にしないメンバーも少なくない。人類の秩序がどう変わろうが我々の行動には関係がないからな。イエローサインはあくまでハスターのエージェント。そういう意味ではクトゥルーを崇めるカルトやナイアルラトホテップに焚きつけられてる奴らと同類よ」
「ウィップアーウィル、君もそうなのか。君は何か違う……人間の自由のために戦っている気がするのは私の思い違いかね」
「さあな」
出発前にそんな会話を交わした。
今はハンドルを握り、地図に示された場所に向かうことに専念する。助手席の父は髪と髭を整え、小ざっぱりしたスーツに身を包んでいる。体はひとまわり小さくなったが、取り戻した眼光の冴えは往年を髣髴とさせるものがある。
「父さん」
「何かね」
「この強硬捜査は正直に言うと生きて帰れるかわからない。せっかく悪夢から醒めたのにこれでいいのか。母さんにだって何も言ってないじゃないか」
「ジョン、わしは治ったら治ったで今度はまたアニーに働け働けと罵られるさ。どうせそうなるのなら、その前に元司法省捜査官としてけじめをつけたいんだよ。あの邪神どもに一泡噴かせることでな」
「父さん、私―――僕が父さんを守る」
「ろくに実戦の場に出てもいないひよっこの部長殿に守られるほど、腕はなまってはおらん―――自分のことを大事に動け」
私はアクセルを踏み込んだ。
久方ぶりの父との会話に集中しすぎて2号車とだいぶ距離が開いてしまったからだ。
明日までにヴィンセント・マックニールはじめテロ集団を法の名の下に逮捕する。急がねばならない。
それが私、司法省急進主義対策部長ジョン・エドガー・フーヴァーの任務だ。
(続く)
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