第12話 若き怪物の肖像(3)

フーヴァーは考える。白銀の血と戦えるのかどうかを。

夜鷹はそんな彼の心に潜むすべてをさらけだす。

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 街を歩くときは常に前後を警戒するよう意識しているフーヴァーだったが、この夜の彼はそれを忘れて家路を急いでいた。

 

 高揚と不安がない交ぜになった不思議な熱。それをもたらした男、ウィップアーウィルのことが頭から離れない。

 科学万能の時代が躍起になって忘れようとしている前時代的な迷信の残滓。

 死すべき者のそばに近づき、肉体から離れた魂をかぎ爪で掴みとる亡霊。

 祖父または曾祖父以前の時代から伝わる伝承では、彼はインディアンのような外見をしていた。

 別の地域に残る記録では不老不死の東洋人だったり、アステカ王国の血をひくメスチーソというロマンティックな設定もあった。おとぎ話なんてそのようなものだ。

 語られる地域や語り継ぐ人間の思いの数だけ彼は存在する。彼は千の仮面をつけかえることで、誰にも真の姿は見せていないのかもしれない。

 今日、伝説の霧の中から自分に接触してきた彼は典型的なアングロサクソン系だった。

 彼は本当の仮面の夜鷹だったのだろうか。それともフーヴァーが人種差別主義者であることを知っていて、自分が気にいるような白人の仮面をつけてきたのだろうか。

 

 見てくれペルソナを都度変えて現れるウィップアーウィルを本当に信用して良いものだろうか。

 通常ならノーだ。

 伝承の中の住人、正体不明の亡霊。彼の出生記録などどの役所にもないだろう。

 調べがつかないものは信じてはいけない。把握できないものや信じられないものは、明確な敵か潜在的な敵のどちらかだ。

 それがジョン・エドガー・フーヴァーのかたくなな信念であった。

 

 しかし、信念と並んで自分の武器である

『観察によって他人の経歴書を作成するスキル』

は彼をと訴えている。

 鋭く観察眼を駆使しても、謎めいたあの男の言っていることから虚偽の尻尾を見つけ出すことはかなわなかった。

 厳然たる理性の観察の追尾をふりきることができるのは、本物の神秘だけである。

 いないと思っていたその存在を認めざるを得ない。

 初めてのことだ。

 信じよう。彼は仮面の夜鷹ことウィップアーウィルだ。



 よし、ウィップアーウィル本人であることは認めるとしよう。ではその存在と協力に価値は見出せるか?

 まずは情報―――。

 司法省が掴んでいる情報と彼の情報はほぼ一致した。もう一度整理しよう。


 今回の同時多発テロは共産主義者の暴走を隠れ蓑にした異教徒―――それもとびっきりイカれている奴ら―――の政府転覆計画である。


 邪教勢力の放った暗殺者は姿形も人間とかけ離れた悪魔めいたフリークス。

 これまた世界各地の伝承に住む半魚人、食人鬼、空を飛ぶ馬面の鳥。原生生物のような巨大な粘液の塊も目撃されている。


 てんでばらばら好き勝手に割拠していたそれらを、強力な実力とカリスマで一枚岩の地獄の軍団レギオンに仕立て上げたのは旧大陸ヨーロッパから来た名指揮者ヴィンセント・マックニールを初めとする魔術結社『白銀の血』のマスター達。

 白銀の血は、空前のオカルトブームに乗って勢力を拡大し続ける魔術組織。表向きは上流中流層に受けがよい友愛団体として活動している。アメリカわがくにでも巨額の寄附金をおさめている資本家がひきもきらない。

 その金は白銀の血のテロ資金に姿を変えて、あなた方の政府や産業を破壊しているというのに!

 なんとしてもこの破壊の協奏曲を止めなくてはならない。オーケストラの忌々しい指揮者を逮捕して2度と社会に出てこられないようにする。

 それが自分に期待されていること。同時に私のを引き寄せるロープ。

 

 次に戦力―――。

 残念ながら私には、ヴィンセント・マックニールのように

アメリカ全土の構成員オーケストラを指揮する力量はない。少なくとも今は。

 各州の行政府とそれに直結する議員・警察は、既得権益の侵略者とである若造が振るタクトを無視するだろう。


 初めからわかっている。何の役にもたたない烏合の衆を宛てにするより、私の声を尊重してくれる精鋭チームで臨むしかない。

 自宅を爆破され、家族に負傷者が出たことで怒り狂っているパーマー司法長官は、急進主義対策部長である私の要請に可能な限りのスタッフをアサインしてくれた。優れた調査係、明晰な分析官、勇猛な捜査員。

 かなり強力な火器の使用許可も得ている。万全だ。


 人間が相手ならば。


 パーマー長官や複数の議員は、このテロの裏側に潜む魔術的な力の脈動を認識しているにも関わらず、連邦政府が用意できる武力は物理的な火力のみ。超自然的な力に対抗する術をもたないのだ。

 怪物には怪物、魔術には魔術。最終的には合衆国憲法の下に引きずり出してやるが、それには敵と同種の力で対抗することが不可欠だ。

 エリザベス女王の時代のように宮廷魔術師ジョン・ディーがホワイトハウスにいるか?

 ノーだ。

 金に糸目をつけずに各国の自称魔術師を動員すればよいか?

 バッドだ。偽物ばかり。

 残る選択肢はひとつ。今回の同時多発テロを防いだ実績をもつグループとの連携。

 それしかない。

 彼等は、産業革命の隆盛の陰で忘れ去られた古き力を行使する。有効であるなら、利用するだけだ。

 その力を持っているウィップアーウィルが私のところへやってきた。

 おとぎ話の住人と手を組むことなど、どうということはない。

 力を貸してくれさえすればいいのだ。私にできることは何でもしよう。



 考えながら歩けば、自宅はすぐに着いてしまうものだ。

「ただいま、母さん」

 玄関を入ってすぐ右の部屋の奥、こちらに背を向けたままでロッキングチェアに身を委ねているのは父だ。私と同じ連邦政府職員だった父は、私がハイスクールにいた頃に仕事が原因で心を病み、以降療養が続いている。1日中ああやって椅子に揺られ、時たま錯乱状態になって、母の罵倒を浴びている。それが父の療養だ。私はここ数ヶ月父と会話していなかった。

「おかえりなさい、ジョン。わたしの自慢の息子」

 父の幽閉されている部屋と廊下を挟んだ反対側のリビングから母アニーが出てきて、私を抱きしめた。私も母を抱きしめる。

「毎日遅くまで大変ね。夕食の用意ができているからお食べなさい。片付けはわたしがやるから、明日のおつとめに備えてなるたけ早くベッドに入るのよ。あなたはアメリカのためにとっても大事なお仕事をしているのだからしっかり休んで」

 ダイニングに向かうとローストビーフとスープが用意してあった。

 しばらくすると、父の部屋から母の怒鳴り声が聞こえてくる。


  あんたみたいな貧乏な男と結婚したのは私の間違いだった!

  あんたの仕事は毎日椅子を揺らすだけ!?

  みているだけで腹が立つ!

  『あたしの』息子エドガーは出世の階段を上っている!あんたは恥ずかしくないの?


 昔は耳を塞いだものだが、最近は気にならない。母と父の関係は司法省部長の権限をもってしても不可能。

「ご馳走様。母さん、おいしかったよ」

 父を罵倒するのに夢中の母に私の声は届かない。2階の自室に引き揚げた。



 自室の南側に面した窓が大きく開かれ、あの男が窓枠に腰掛けていた。

「フーヴァー、君も順風満帆な人生を送ってきたわけでもないんだな」

「不法侵入だぞ、ウィップアーウィル!」

 許可なく自室に入り込んでいた夜鷹に対し、私は感情を露わにしてしまった。ここは私が私でいられる数少ない場所なのだ。信用できない亡霊がこの部屋で何を見たのか私は不安を覚え、動悸が高まるのを感じた。

「君が俺を信用していなかったのと同じように、俺も君を手を組む相手としてふさわしいか試したくなったのさ」

「試すとはどういうことだ?」

 ウィップアーウィルは口元をくいっとあげた。私にはそれが残酷な悪戯をする予告に思えた。

「君は他人を調べてその情報を握ることに偏執的だ。もしそれを自分がされたらと思っただけでゾッとしないか?」


 その通りだ。私は司法省に入った時に自分に関するファイルはこっそり廃棄した。他人の情報は私の手の内に置くべきで、私の情報は白紙にしておきたい。知られることが恐ろしいことを私は誰よりも認識している。だから他人の情報は把握したい。それが精神的に優位に立つ術なのだ。まさか……。


「まさか、だよ」

 亡霊ではない。こいつは悪魔だ。

「もう!私の心を読んでいると!いうのか!」

「さあ今から心に踏み込みますよという予告が必要だったか?なのだな。大きな野望を実現させたいなら、君は最大の恐怖に打ち勝たなくてはならない。それができたなら、俺は君を認めて力を貸すことを約束しよう」

 脂汗にまみれた顔が鏡に映っていた。こんな姿!畜生!私は私は……両手を力のかぎり握りしめた。ブルブルと震える足腰。覗かれている……。


「君の父親を知っている。数年前に邪神カルト潜入捜査を指揮した際、俺も身分を偽ってチームメイトとして同行したからな。彼の勇敢な仕事の結果、多くの人命を救うことに成功した」

 ウィップアーウィルと父が知己だったとは。

 では、父が精神を病んでしまった原因についても知っているというのか。


「この国の男ってのは、ときに邪神の威光もひっくり返す番狂わせをやってのける。君の父親はその数少ない例だ。その代償として、幻覚と現実の間で迷子になる後遺症を負ってしまったがね。―――ああ、君と同じ。俺も彼を可哀想だとは思わんよ。なるべくしてなったことだ。

 ただな、事情も知らないくせに一方的に父を蔑むのは辞めることだ。

 今、真相を知ったのだから君だけでも父親を誇りに思いたまえ」

 ウィップアーウィルの言葉は淡々としていたが、父の名誉を回復してくれるに十分なものであった。

 

「ふむ。父親を否定する原因は母親の刷り込みによるものか。君の中で母親はとても大きな比重を占めているのだな―――どうした、顔色が悪いぞ。君の母アニーはエリート志向が強く、とても厳格な女性だ。これは心を読まなくともわかるさ。そして息子達の恋愛にも口を出してくると。君も大学時代に結婚を考えた女性をアニーの反対で諦めているね。おっ、でもこれは母親に感謝しなきゃいけないぞ。

 『

と言われたんだろ。その通りだ。その女はインスマスの汚れた血の末裔だ。数年経った今頃はもっと魚臭く、エラができるくらいに変貌しているだろう。間違っても再会しようとは考えない方がいい」


 くそ、本当に心を読んでいる。なんて無礼で不愉快な奴だ。しかも聞きたくもない補足までして!私は怒りと恥辱で失神しそうだった。

 

「強すぎる母親、虐待される父親、恋人を諦めた喪失感。そんな八方塞がりの君の心の中で芽生えてきたものは……ほう」


 ああ、その先は。その先は残酷な言葉に表さないで欲しい。

 心を読んだだけで十分だろう。明確な言葉で私を裸にしないでくれ。

 私の愛を壊さないで……。

 そうだ、懐の銃を抜き出して、この男を殺してしまえ。

 

「フーヴァー、そんなに思いつめるな。君が厳重に鍵をかけた部屋でどんなドレスを着ていようが好きにしたらいいさ。

 そんなことは俺にとって大した論点イシューにならん」


 それに、と続けた。


「君が同性を愛するようになったのもそれが自然な流れだったということだ。インスマスの女と寝るより


 私は膝より下の力がすべて抜け落ちていくままに跪いた。

 これはなんだ。私は自分に問うた。

 赦しか? ノー。

 共感か? ノー。

 理解か? ノー。

 本当にどうでもいいと思っている? exactly correct(まったくそのとおり)


「俺の故郷は、長い歴史をもつ完成された社会だった。そんな非の打ちどころのない社会がいきつくところ。頽廃と悪徳、そして形骸化した愛だ。何の価値も感じない。それに比べれば対象が異性か同性かよりも、味わって美味い愛かどうかに価値があると思うのさ。君も君の愛人も互いを必要として今を生きている。それは無味乾燥じゃないはずだ。だからお前の愛を否定することはないのさ」


 いつから流れたかわからない涙のせいで前が見えなかったが、歩み寄ってきたウィップアーウィルの手を押し頂いていた。

 私の人生でただ一度、剥きだしの心で彼の言葉に感謝した。

 赦しも共感も理解も超えた『どうでもいい』が私を包み込んだ。

 

「ハイスクールを卒業して、議会図書館で働きながら大学卒業。ロースクールを経て司法試験合格。図書館勤務時代に卓越した情報処理能力とファイリングスキルを体得。司法省に入省後は在留敵国人登録課長で高い評価を得て、現職―――と。今回の抜擢の理由は図書館技能のおかげか。君は指揮官に向いているようだ」 


 ウィップアーウィルは私の心を読み終わったようだ。

 私は彼の課した試練に打ち勝ったらしい。

 そして自分の趣向との葛藤も越えられた。

 すべてさらけ出した私はこの亡霊の前に胸を張って立ち上がることができる。


 同じ目線にあるウィップアーウィルはほんの少しだけ微笑を浮かべて言った。

「君に俺の力を貸そう。白銀の血が2回目の大規模テロを起こす前に、首魁ヴィンセント・マックニールを討つ」

 

 私も微笑を浮かべ、訂正した。

「逮捕、だ」


 ウィップアーウィルは最初に腰かけていた大窓へ向かって去ろうとした。その背中に呼びかける。

「あなたに強く要望する。2度と私の心を読まないでもらいたい」

「今夜の勝利者たる君にはそれを要求する資格があるな」

 チラと横目で私を一瞥した彼は窓の外へ身を躍らせた。

「では俺からもひとつ。人種差別はほどほどにな」


 駆け寄った窓の外、彼の姿はどこにもなかった。この時から私は彼に奇妙な友情を感じ始めていたのだろう。



 階下からいまだ母が父を罵る声だけが聞こえていた。


(続く)

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