第11話 修羅場の夜鷹

浮気が発覚すれば当然修羅場となりますが、人知を超えた外野が乱入すると……。

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 ミセス・ドーソンは顔をゆがめると同時にその場にくずおれた。

 毛足の長い絨毯についた手の甲に刻まれた皺は深く細かい。それは彼女が資産を積んでも取り返せない時間を残酷にも突きつける。

 その指にはめられた大粒の宝石は、時が過ぎても往事と変わらない輝きを彼女の目に突きつける。

 ミセス・ドーソンの細い背中は小刻みに揺れていた。

 泣いている。夫を若い女に奪われた悔しさの涙か、夫の殺害失敗を悔やむ涙なのは彼女自身にもわからないであろう。


 その傍らには人の顔を映せるくらいの手鏡が転がっていた。先ほどまでミセス・ドーソンが怨念を抱いて握りしめていたもの。

 奇怪な悪鬼や食屍鬼の姿が青銅枠に鋳込まれたその鏡、

骨董品アンティークというより考古学の研究対象に近い。それほど年経たものだった。

 

 禍々しい鏡を拾い上げた黒革の長手袋の手が、それをテニスのラケットのようにクルッ、クルッと回転させた。

 その仄暗い鏡面が高級ホテルの凝ったつくりの照明器具を映す。

 反射した光は実際のそれよりも弱々しい。鏡の中の闇が光を吸い取ったかのように。


そして愛憎の修羅場に踏み込んだ夜鷹は、お構いなしに朗々と告げるのだ。

「ミセス、それはおとぎ話に出てくる魔法の鏡ではない。恐ろしい魔物が潜む世界に通じたゲート。それがこのニトクリス鏡の正体だ」

黒い指先が鏡面をトン、とはじく。


「あなたの憎しみと嫉妬をいっぱいに受けて育った魔物は、夫と若い浮気相手を食い殺すだけでは飽き足らず、最後はあなた自身も胃に納めていただろう。このおとぎ話にめでたしめでたしハッピーエンドは存在しないぞ」


 夫と愛人が逢瀬を楽しむスイートルームのドアの前。ニトクリスの鏡をかざしたミセス・ドーソンの願いどおり、黒い魔物は壁を通り抜けて、ベッドの上の2人に躍りかかろうとした。

 同じく壁を通り抜けて現れた、カウボーイハットに仮面の男は『ニッポンのバリツ』という不思議な技で魔物を叩きのめした。

 バリツの妙技に為すすべのない魔物の吠え声は、敵に慈悲を求める悲鳴に変わっていった。

 乱入した仮面の男は不思議なマントの触手を伸ばすや、器用にドアロックを外し、棒立ちの夫人からニトクリスの鏡をひったくった。

 魔物は即座に、安住の地であるニトクリスの鏡の中に逃げ戻り、悲劇は回避された。

 今夜、血は流れなさそうである。


 ウィップアーウィルと名乗った男は、廊下で放心状態となっていたミセス・ドーソンを部屋に招き入れた。

 老婦人はベッドの上に想像したとおりの光景を見ると同時にその場にくずおれたのである。


 俗に言う修羅場。

 ただ一人場違いな衣装の男は、手にした呪いの鏡を回収して立ち去るはずだった。

 男と女の愛憎は彼の守備範囲の外にある。


 手にした鏡面に目を凝らすと、深手を負いうずくまる魔物の姿が浮かび上がってきた。

 2メートルはくだらない魔物が激痛の苦悶にもだえて小さな手鏡の中に吸い込まれていくのをここにいる全員―――キングサイズのベッド上で茫然としているミスタ・ドーソンと秘書のミラを含めて―――目撃している。


「ん……。こういう修羅場では、夫の不貞を高らかに宣告した妻が莫大な慰謝料をもらい、火遊びした男と女狐に社会的制裁を加えるってのがパターンだな」

 夜鷹はベッドの上の裸の2人に視線をやった。2人はその醜態を隠すことも忘れて震えるばかりだ。魔物に、夜鷹に、自分たちの今後に震えが止まらない。

「しかし、そういうことは探偵を使ってやるべきだったな。ミセス、あなたが復讐のために力を借りた相手はスジが悪い。いや、悪すぎた」

 

 ミセス・ドーソンは

 

 慰謝料もらう程度で満足していいのかな?として全財産を相続する道もあるのではないか?貴女の完全犯罪を成し遂げる品物を差し上げましょう

 

 そんな悪魔のささやきにのってしまった自分を痛切に恥じてもいた。

 自分は夫の浮気の被害者。しかし、それ以上に憎しみと嫉妬に頭まで浸かり、悪魔に魂を売った愚かな女でもある。

 惨めにうなだれているより、魔物に食い殺されたほうがましかもしれない。


「もちろん、鏡から出てきた魔物の存在は裁判所も警察も立証できない。ミセス・ドーソン、あなたは法で裁かれることはない。俺もあなたたち3人のこれからに興味はない。好きにしてくれ。ただ、この鏡は壊させてもらうがね」

 男は手刀で鏡を割った。同時に鏡面の中の魔物も真っ二つになって絶命した。


「そうだ、ミセス・ドーソンにこの鏡を売った悪徳商人には用がある」

 割れた鏡の一片をスイートの片隅へと素早く投擲する。

 痛みを訴える声が上がり、何もなかった空間から滲み出るように一人の男が姿を現した。


覗きが趣味か?ピーピング・トムナイ・フォール。いや、這寄る混沌」

 カーキ色で統一したチューリップハットとコートの中年男は、眼鏡の奥の目に怒りの炎を燃やしていた。鏡の欠片で切り裂かれた頬の傷から名状しがたい色の液体が流れている。

「貴様……」

 ナイ・フォールと呼ばれた中年男は不可視の存在になって、自分が売った商品の効果を検分しようとしていたらしい。


「心に闇を抱えた人間を見つけては言葉巧みに売りつける商売上手さと、商品の性能確認までしっかりやる検証熱心さは恐れ入る。でもな、お前のばらまくアーティファクトは人間が使うには過ぎたものばかりで、結果ろくなことにならん。少しは後始末する俺の身にもなれよ」

 ナイ・フォールは頬の傷にカーキ色のハンカチをあてた。

「貴様こそなんだ!に近いくせに何度も私の邪魔をしおって」

混沌お前が、こちら側とかあちら側と秩序だって区切るのはお笑い草だな。もう自分の正体も忘れてるんじゃないのか。こんな『ニトクリスの鏡』の

粗悪模造品デッドコピーしかさばけないなら、もう引退したらどうだ?」

 仮面の夜鷹の揶揄に、ナイ・フォールの全身は憤怒に震えていた。その背後にどす黒いオーラが波打ったカーテンのように沸き上った。

「おのれ、ウィップ!お前は外なる神アウターゴッズが必ず処刑してくれるわ」

 ナイ・フォールは指をつきつけて絶叫するや、どす黒いオーラが形成した空間の歪みの中へ姿を消した。同時に黒い緞帳はかき消える。


「馴れ馴れしくウィップと呼ぶな。俺の方こそ必ず『アンヌの一件』の落とし前をお前につけさせるからな」

 ウィップアーウィルは、数百年来の腐れ縁に対して呟くと、これも来たとき同様に壁をすり抜けてスイートから出て行った。

「アンヌの一件、決して許さん」

 ウィップアーウィルをして二度も言及する『アンヌ』とは何か。それはまたの機会に語られることもあるだろう。



 そして、鏡と2人の乱入者の記憶を消されたドーソン夫妻と若い愛人が数秒後、通常の浮気現場発見の修羅場を開始するはずだ。



 

第11話 完

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