第9話 現代のプロメテウス(2)


 チューリッヒに小さな銀行を構えるシャイロック氏は、自分の資産を誇示するために購入した邸宅から毎朝きっかり7時に車を出す。護衛兼運転手のビクターがハンドルを握り、リムジンの後部でタバコを燻らしながらその日のビジネスについて考え込む。

 その日も20分程でオフィスに到着する予定だった。何事もなければ。

 軽い衝撃とともにリムジンは緊急停車した。シャイロックの頭の中の融資データが乱れる。

「何をしている、ビクター!」

「申し訳ありません。誰かがぶつかってきたようでして」

 ビクターはドアを開けて車外に出て行った。



 人身事故だと?ふざけるな。どうせ金目当ての当たり屋に決まっている。

 それよりも不愉快だ。

  1.私の車に傷がついた

  2.私の今日の効率的な資産運用シミュレートが乱された

  3.轢いたのが誰であれ、スイスの銀行家の車が事故を起こしたとなったら、私の信用が損なわれる

 このままでは通勤時間の人々の耳目を無駄にひいてしまう。

 シャイロックは普段自分では持たないビジネスバッグで顔を隠しながら後部座席から降りた。

「ビクター!私と私の銀行に泥を塗るな。けが人をこの車で病院まで搬送して、後は弁護士のハウプトマンに任せるのだ。私から電話をしておく」

 もちろん相手が当たり屋だろうが不注意な通行人だろうが弁護士が少しの金を握らせて丸くおさめればいい。忌々しい出費だが信用には変えられない。

「車の修理費は給料から引いておくぞ、ビクター」

 シャイロックはけが人の顔も見ずにそそくさと現場を後にした。

 残されたビクターをけが人の知人とおぼしき数名の男が取り囲む。


 午前は融資相手との交渉、午後は出納帳のチェックに没頭していたため、シャイロックは自分の車が起こした人身事故のことなどすっかり忘れていた。

 ビクターは車を修理屋に出させた後、弁護士とともに警察に事情説明に出向かせた。その他事故対応は全て弁護士に丸投げだ。自分の知ったことではない。

 その日は代理の運転手と車を手配して帰宅した。

 弁護士から被害者の意向として

「示談金はいらない。裁判にもしない。その代わりに事故を起こしたビクターが数日間つききっきりで看病すること」が求められている旨の報告があった。

 金を払わなくて済むならそれでいいと了承する。もちろんノーワークノーペイの原則に従い、その数日間のビクターの給料はゼロだ。

 彼は次の来客まで小一時間空いていることを確認すると、大金庫を開けるように指示した。

 他人はまず疑ってかかるシャイロックは、自分の使用人が骨董品コレクションを盗む、またはうっかり傷つけることを怖れて自分の銀行の大金庫に収めていた。

 公私混同だが、従業員に専制君主をとがめる者はいない。

 今はコレクションを愛でてリフレッシュしよう。

 


 ミ=ゴの代理人であるメアリー・シェリー夫人の脳味噌は、スピーカーから歓喜の声をあげた。報告をした部下の耳を貫くハウリングが響き渡り、部下は顔をしかめた。人身事故を起こした運転手ビクターを取り囲んだ数人の中にいた顔である。

「素体がすぐに手に入るなんて、今日はすばらしい日ねっ」

 メアリー・シェリー夫人は、待望の素体が運び込まれた手術室へ移動するため、部下に機器を運ぶよう命じた。

 そして自身は、それを密封している円筒缶ごとふらふらと浮遊して廊下を進む。

 背後からミ=ゴの機器を抱えた部下が続く。機器と円筒缶は3本のコードでつながっている。

 途中、拠点としている館のハウスキーパーをつとめている中年の女がこちらへ歩いてくる。

 女は宙を滑る円筒缶に対し、うやうやしく一礼した姿勢のまま、主人が通り過ぎるのを待った。

 この拠点のスタッフはミ=ゴの信者で固められており、全員が円筒缶を終の棲家にすることを夢見ている。

 ここは狂気の館だ。


 素体は可哀想なことに、いまだ正気を保っていた。

 本人の同意無しに拘束されたストレッチャーの上でその巨体を揺すって無駄な抵抗を続けている。

「うおおおおお、やめてくれええ!」

 懸命に拘束を引きちぎろうとする四肢の張り詰めた筋肉をメアリー・シェリー夫人は歓喜の口笛を吹いた。

 呼吸器官も唇もない彼女がどうやって口笛の音をスピーカーから出すことができたかは誰にもわからない。

「あら、私としたら口笛なんて。聞かれたらお父様に叱られるわね」

 そのお父様は百数十年前にこの世を去っている。

「見なさいよ。ゴリアテのような逞しい体。この筋のひとつひとつにたっぷりと命がみなぎっているのね」

 部下は手術着に身を包んだ3人の執刀医たちに目配せする。

 ストレッチャーは両脇を固める者たちによって黙々と手術台へ押されていく。

「舌を噛んで自殺してもよくてよ。私がすぐに生き返らせてあげるから。何度でも無意味な自殺を試みるといいわ」

 メアリー・シェリー夫人は愉しげだった。宙に浮く円筒缶は小刻みに振動する。

 おぞましい人体改造の欲望を露わに耳障りな哄笑が手術室を支配し、哀れな素体の叫びを打ち負かした。


 手術が始まる。

 円筒缶の振動が大きくなり、部下はフタが開いてしまうのではないか、とまで心配した。

「素晴らしい肉体の割りには情けない声をあげて、もう。男なんて筋力があるだけで一皮むけばこんなもの。これから文字通りあげるから、もっとすてきな悲鳴をあげて欲しいわね。さあ、コードをにつなぎなさい」

 部下は円筒缶から伸びたコードのソケットを自らが抱えている機器から丁寧に抜き取ると、部屋の傍にぽつねんと立っている精巧な球体関節人形の延髄につなぎ直していく。

 背の高さ5フィートといえば成長期途中の頃の少女と同じくらいであろうか。

 球体関節人形にはつやのある黒い髪の毛が肩甲骨のあたりまで伸びている。もちろん鬘であろう。

 眉の部分には化粧筆で美しい弧がひかれている。

 すぐ下の右目のくぼみには紅のガラス玉が、左は蒼いガラス玉が対にはめ込まれれキィンと輝く。

 口を模して彫られた溝の周りには唇に見えるよう、薄くルージュで彩りが添えられていた。

 なんと、おお。その溝は緩やかに上下に開き、その奥に覗くのは歯列―――ちろと動く舌。

 どのような仕掛けの所為であるかわからぬ。

 冥王星の唾棄すべき科学技術を駆使し、よこしまな行為のためにのみ動く新たな体。

 メアリー・シェリー夫人は脳だけの超越存在に進化しながらも、肉体を持っていた昔日へのをセンチメンタリズムを捨てきれなかったのだろうか。

 人形は何も答えを示さない。

 全身の球体関節をクルクルとまわして円滑な動きの可否を確かめると、カック、カックと手術台へ歩み寄る。

 喜劇役者が演技じみたぎこちない歩みは、人形の関節の数、足の構造上どうしてもそうなってしまうのだった。

「ギリシア神話では人間に火を使うことを教えたのは巨人ティターンのプロメテウスだというわね。私は人間に第2の火―――種の限界を超える力―――を授ける現代のプロメテウスになるの。人間、お前は果報者よ」

 ぎこちなく動く主人に執刀医の場を譲った闇医者は、銀のトレーの手術器具をデザート皿のように差し出す。

 人形は堅い掌に大ぶりのメスを乗せ、五指を意識して動かして、なんとか正しい握り方を再現することに成功した。

 「指の動かし方なんて忘れかけてたわ」

 部下が麻酔用のクロロホルムを持ってくるが人形は空いている方の手を突き出して

「ノン」

と下がらせた。麻酔処置など興を削ぐ。

「では、ハイ」

 人形は予備動作もなくいきなりメスを素体の頭部に突き刺した。

 これまでで最も大きな苦痛の叫びがあがる。

フランケンシュタインモンスターじんぞうにんげんになるの。

 フランケンシュタインモンスターじんぞうにんげんになるの。

 フフフフフヒャヒャヒャヒャ」

 スピーカーから彼女のけたたましい哄笑がこだまし、ビクターの悲鳴をかき消した。


 

 数日後、シャイロックのもとにビクターが帰ってきた。事故の被害者はシャイロックが念のために弁護士経由で渡した小額の見舞金とビクターの謝罪を兼ねた看護によって、事故の和解に応じたのである。

 シャイロックはビクターを数日差し出した程度のことで、自身が事件の関係者として法廷に呼ばれ、新聞におもしろおかしく書かれるという事態を回避できたことに心から安堵していた。

 ビクターは四角いチェス盤のような顔に、以前と変わらぬシャイロックへの忠誠を表していたが。

 なにものも用心深く観察することで、金融という魔物の戦場を生き抜いてきたシャイロックは、ビクターが時々全身を抱きしめるようにして震えているのを見逃さない。

「どうした、からだの具合でも悪いのか」

 と訊く。実はあまり心配していない。

 ビクターは自分の大事な手駒だが、手駒は消耗品であり使えなくなれば取り替えればいいだけだ。

「なんともありませんや……」

 ビクターの震えは、彼に与えられた現代のプロメテウスから送られた

贈り物ちからを持てあましているがゆえであることに流石のシャイロックも気がつかなかった。



(続く)

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