第9話 現代のプロメテウス(1)
1928年。スイス連邦はチューリッヒという街の片隅にある骨董品屋で事件は始まっていた。
銀行家のシャイロックは、資金運用と同じくらい入れあげている骨董品収集のためにその店を訪れていた。中国の景徳鎮の名品をじっくりと眺めてから、吝嗇家らしく店主と価格交渉に時間を割いていた。いつものことだ。
ようやく妥協できる値段に落着して支払いを済ませようとしたとき、店先に飾ってあった黒い金属製の腕輪のようなものに目が行った。
「君、これは何かね」
店主は眼鏡を片手で持ち上げてその品物を注視して、
「ああ、これはアンデス山脈かどこかから出土した昔の足輪だか腕輪ですよ。輸入した時に貨物の中に入ってたんですがね、注文した記憶もなくて」
「誰か物好きが買うのを期待して飾っといたと」
「そういうことです」
「ふうん……」
その時、店に入ってきたのは見たこともない男だった。泥棒ばかり働いているジプシー(ロマ)かと思ったが、アメリカのインディアンのようだった。身なりは立派でスーツをきちんと着こなしている。
自身が一般の欧州人から差別される民族の出自でありながら、得意の資金運用と蓄財で銀行をかまえるまでに成り上がったシャイロックにとって、有色人種とは自分の不愉快な身の上を白く塗りつぶすために必要な見下す対象だった。彼らを差別することで自分は欧州人に溶け込めると信じていたのだ。
(最近はこの銀行の街にもこんな奴らがうろついているのか。ろくに金も持ってないくせに良い仕立ての服を着やがって)
言葉には出さないものの、苦々しい思いは隠せない。
そのインディアンは、シャイロックが何とはなしに話題にした黒い金属の輪を目にして、喜びの表情を浮かべた。お目当てのものを見つけた顔だ。コレクターの自分には馴染みの顔。しかし、有色人種の喜びは邪魔したい。あの顔を悲嘆に曇らせたい。シャイロックは吝嗇だが、自分の優位性を示すための見栄には金を払う嫌な男だった。
「おい、店主。私はあの黒い輪も買うぞ。これで足りるか」
景徳鎮の代金に10スイスフラン硬貨を足した。
「はい。10、でいいでしょう」
「ではあの私のものを他の誰かに盗られないようにここへ持ってきてくれたまえ」
シャイロックは、店主がインディアンの目の前からアンデスの黒い輪を引っさらって彼のところに持ってくるまでの間、笑いをかみ殺すのに耐えていた。
インディアンの顔から笑顔は消え、目は店主が無情にも自分のところへ運ぶ金属の輪に注がれていたのだ。ざまあみろ。
こんな輪っか本当は欲しくもないが、目の前から取り上げてやったのは気分がいい。嗜虐心を満たす為なら10スイスフランは払ってやってもいい。
店を出ると、後ろから声がかかった。案の定だ。
インディアンが真摯な顔をして
「今あなたがお買い上げになった黒い金属の輪についてお話させていただけませんか」
流暢なドイツ語を話すのに内心驚いたが、言葉がわからないふりをした。
「申し訳ないがあなたのおっしゃる言葉は訛りがひどくて理解できません。急ぐので」
くるっと背を向けて銀行へ向かう。
インディアンは追いすがってきた。
「フランス語なら通じますか。その輪は私がずっと探し求めていたものなのです」
言葉がわからないふりをするよりも相手にして手ひどく扱った方が面白いなと思った。シャイロックは立ち止まってインディアンに向き直った。氏より頭一つ分背が高かったのも気に入らなかった。
「ドイツ語でもフランス語でもイタリア語でも通じますよ、異国の方。あれは私が正規の方法で所有したのをご覧になっていたでしょう。あなたが探していたかどうかは私には関係のないことで、私がどうしようが勝手ということもご理解いただけると嬉しいですね」
インディアンは困ったような顔をした。いいぞ、もっと憐れみを乞うてみろ。品物はやらんがな。
「では私に3倍の金額でお譲りいただけませんでしょうか。あれには美術的価値も考古学的価値もありません」
シャイロックは手にしていたステッキをカッと石畳に突いて、その汚れた先端をインディアンに向けた。
「お断りだ。たとえあなたが10倍出すと言っても無駄ですぞ。私はあれを手放す気はありません。たとえ寝室のテーブルに転がしておこうが、暖炉にくべてしまおうが私の自由です。それに申し上げておきますと、私は銀行をやっておりましてな、スイスの銀行家は信用が第一でして、こうしてあなたのような異国の……当銀行と無縁のような方と路上でお話しするだけでも、冷や冷やしているのですよ。苦労して築いた信用が落ちてしまわないかとね。お、少し言いすぎましたな。失礼。品物はお譲りできませんが、これをアメリカに帰る船賃の足しにでもしてください」
とシャイロックはポケットから5スイスフラン硬貨を取り出してインディアンの足元に放った。石畳を転がった硬貨はインディアンの靴に当たって止まった。
あっはっは。言ってやった。これは相当堪えたろう。頭の皮でも剥いでいたらどうだ、野蛮人が。
インディアンの目がすぅっと冷たくなった。
シャイロックはステッキを強く握って体を固くした。相手が街中で暴力的な手段に出てくるとは考えてなかったのだ。この辺は少し想像力が足りない。
インディアンは目をシャイロックに据えたまま、冷笑した。
「あなたのお考えはよくわかりましたよ。ムッシュ・シャイロック。私もそろそろ気分が悪くなってきたところでしてね。あなたの頭の中は差別されることへの恐怖でいっぱいだ。その反動で他者、それも貧乏人や有色人種を知恵の限り侮蔑することに躍起になっていることもわかりました」
「いかがしました?」
シャイロックは安堵した。自分の護衛兼運転手を務めているビクターが駆けつけたのだ。身長2メートルを超すこの屈強な男は、敵の多い自分にとって使いでのある番犬だ。
「ビクター、行くぞ。私はアメリカの田舎くさいのが苦手でな」
シャイロックはこめかみを流れる汗をそっとハンカチで拭い、銀行へ向かった。
忠実な番犬ビクターはしばらくインディアンをにらみつけていたが、主人がステッキを振って早く来いと指示するのを見て従った。
チューリッヒの明るい舗道に独り残ったインディアンは
「俺に譲っておかなかったことを後悔するぞ、シャイロック。何せミ=ゴもそれが欲しくてたまらないのだからな」
とつぶやいた。
同じチューリッヒのやや郊外にあるミ=ゴ信奉者の拠点。
そこに君臨する『祝福を与えられた者』メアリー・シェリー夫人の脳は、ひざまづくまだ人間の部下に対し、スピーカーを通じた金属的な声で、自身の描いた図面と資料を持ってこさせた。
脳を納める金属製の円筒缶から伸びた3本のコードはミ=ゴ製の怪しい機器に接続されている。
「いいこと?ミ=ゴ様は、私にプロメテウス計画を進めるようにご指示を下さったわ。そう、脳を除去したがらんどうに新たな力を植えつけるあの計画よ」
メアリー・シェリー夫人が発言するたびに機器の表面にある複数のランプが明滅。
部下はランプの色から、主人が興奮していることを知った。
生前の主人は、死体のパーツから創り出された人造人間の悲哀が胸を打つ文学作品をものしたと聞いているが、今度は神であるミ=ゴの力を借りて、本物の
「さっそく、フランケンシュタインモンスターに必要な素材を調達してきて頂戴。スイスは衛兵輸出を産業としている国。うってつけの人材には事欠かないことでしょう。別にバラバラでなくともいいわ。とてつもない破壊力を秘めた偉丈夫の死体ひとつあれば、一夜にして完成させてみせる」
「銀行家のシャイロックが例の金属を入手したという情報が入っております」
部下の報告を受けた途端、メアリー・シェリー夫人の脳は興奮物質が更に分泌され、機器のランプが目まぐるしく明滅する。
部下は目に痛いその光を手で遮断した。
「奪うのよ。あの希少金属がミ=ゴ様にとってとてつもない価値をもつものなのは知ってるわね。黄金やダイヤモンドですらあの金属に比べたら鉄くず以下!」
「では腕利きを何人か集めて」
立ち上がろうとした部下を金属音声が止めた。
「お待ちなさい!そう、
「同意いたします。被献体の収集を先に進めることといたしましょう」
性格は脳缶詰になっても変わらない。
メアリー・シェリー夫人はすぐれたインスピレーションの持ち主であり、面白いと思ったことに夢中になりやすかった。
興奮と情熱による気まぐれからくる命令だとしても、部下は首肯して従うだけだ。
自分もいつか永遠の生と無限の快楽を得るために、この程度の忠勤はやすいものなのである。
精密機械産業が盛んなスイスにミ=ゴの科学工房があるのは不自然ではない。
しかし、偶然にもそこにミ=ゴ最大の敵が滞在していたのは皮肉と言えよう。
チューリッヒの街角にたたずむスーツ姿のインディアンは、彼を見た通行人がおののいて足を速めるほどの挑戦的な笑みをたたえたまま、
「シャイロックから何としてもあの金属をいただく。ミ=ゴに先を越されてたまるか」
と言ってシャイロックが投げ捨てた硬貨をピンと指ではじくのだった。
(続く)
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