第16話 エンディングの後で【第一期 完】

邪神クトゥルーの復活を阻止すべく奔走するを探索者たち。

今回はある探索者たちが辿り着いたエンディングの後をお届けします。

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 星ひとつない夜闇の空に巨大な炎の柱が伸びている。

 炎は風に煽られて神殿を焼き尽くすはず。あの島に巣食っていた元は人間だった奴らの死体も黒焦げだ。

 島の植生に多少は延焼するだろうが、じきにこの南洋では珍しくない強烈な一雨がくる。消火は雨に任せよう。

 

 島と、それに迫る雨の前線から全速で遠ざかるべく水上を疾走する船の船尾でキャリントン博士は小さくなっていく島の火柱に背を向けた。

 この南太平洋に眠る太古の邪神クトゥルーの復活をもくろむダゴン秘密教団の拠点のひとつを調査の末に発見。今夜、同志達によって結成された決死隊とともに急襲して壊滅させることに成功。

 人智をはるかに超えた存在であるクトゥルーを直接どうこうすることは事実上不可能だとしても、その復活の準備に介入することで、その『運命の日』を少しでも遅らせる努力は続けなければならない。

 それはキャリントン博士だけの考えでなく、彼をリーダーとするチーム全員の考えである。心身にこびりついた汚れと疲労は、使命達成の勲章である。

 今回の探索と戦闘で死傷者を出さずに済んだことも喜ばしい。

「見てのとおり今回のミッションが完璧に遂行できたのは君のおかげだ。……ミスタ・ウィップアーウィル」

 博士のそばに腕組みして佇んでいた、カウボーイハットに顔上半分を仮面で覆った男は戦いの舞台となった小島に視線を向けたまま

「偶然目的が重なっただけだ。用事は終わったし、そろそろ帰らせてもらうとするよ」

とヒップホルスターから小さな石笛を取り出した。

「おい、つれねえことを言うなよ。

あんたの加勢もあって深きものどもディープワン含めてくそったれのインスマス面達を殲滅できたんだ。ウィップと俺達は仲間だぜ」

 舷側から近づいてきた男女の1人、ネッドが髭面をほころばせて話しかけてきた。元は南氷洋でクジラをとっていた海の男だ。今は銛を銃に持ち替えて邪神勢力と戦っている。

「『いつまでも夜更かししてると夜鷹の幽霊に連れて行かれちゃうよ』って親から脅されて育ったの。まさかその本人と会えるとは思ってなかったわ。プロヴィデンスに戻ったら母さんのお墓にあなたと一緒に戦ったことを自慢しに行くつもり。本当にありがとう」

 調査主任兼通訳のルイーズがウイスキーの小瓶を片手に微笑んだ。

 探索の途中でインスマス面の混血種に捕まり、儀式のメインディッシュにされかけたにしては精神への影響は少ないように見える。そうだとしても飲まないとやってられない体験だったろう。

 命がけのボランティア活動を幾度も経験してると精神もタフになる。

 否。健全な日常を愛する精神はとうに摩耗し、残った正気が最後の怜悧さを見せているだけなのかもしれない。

 ウィップアーウィルは自分と親睦を深めたそうな2人に一瞥をくれ、

「髭面、俺をウィップと呼ぶんじゃない。あと生贄未遂の君は自分の子供のしつけには俺をダシにしないでくれるとありがたい」

と言い放つ。

「俺のことを記者に話したり、酒場でネタにしたら。どういう目的でかは言わせないでくれ。ではキャリントン博士、操舵手と船首に陣取ってる無口少尉によろしくな」

「バイデンとデービスにも守秘義務は遵守させるとも。さようなら、ウィップアーウィル」

 

 いあ! いあ! はすたあ! はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ! 


 初めて彼らの前に現れた時と同様に夜空から舞い降りてきた奇怪な有翼生物―――バイアクヘーというらしい―――にまたがった男はなんの余韻もなく飛び去った。



 海を切り裂く船のエンジンと強くなってきた風の音だけが残った。

 銃が床に落ちる音、続いて誰かが倒れる音が船尾の3人に聞こえた。

「行こう」

 船首にかけつけたキャリントン博士の足元に、チームの戦闘リーダーである第一次世界大戦帰りのデービス・クックの生首が転がっていた。

「デービス!なんてことだ」

「くそったれ」

 ネッドが博士を守るように小銃を構えて前に出る。その銃口は、船首の最先端部分に立っている人物に向けられていた。

 船の操舵室上部から前方に向けられたライトに照らされたのは17、8歳とおぼしき少年だった。豊かな黒髪を海風がなぶるにまかせ、揺れる船上で意識せずバランスをとって微動だにしない。僧服のような黒い衣装をまとっている。

「ダゴン教団の残党か、てめえ」

 ネッドは今にも引き金を絞る勢いで問うた。

 デービスは、ネッドに銃の使い方を教えてくれただけではなく、数多の戦闘においてアタッカーとしてともに死線を潜り抜けてきた仲だ。

 ルイーズは異変に気づいた操舵室のバイデンにハンドサインで指示を出していた。ハイスピードで蛇行して少年を海へ振り落せと。自分はキャリントン博士とともに柱に手を伸ばす。

 少年はネッドを見つめて口を開いた。

「ダゴン教団ではありません。彼らは大いなるクトゥルーを崇める奉仕者です。僕は、自分で言うのもなんですがですからね」

 言い終えるや、足元のデービスの遺体を片手で拾い上げると、黒い太平洋に放り投げた。

  少年の穏やかな態度の裏側にはりついた冷酷さと人間離れした膂力は、血気盛んなネッドの怒りに火をつけ、同時に魂まで震える原初の恐怖を臓腑に突き入れた。

 相反する感情に翻弄されるネッドはただ銃の引き金を引くことだけ許された木偶人形となっていた。銃身は発射の反動で小気味よく踊り続ける。

 

 突如少年の前に黒い一枚壁が生じて全ての火線を吸い込む。弾丸は突き抜けるでもなく、弾き返されるでもなく、黒い一枚壁に永遠に呑み込まれた。

 キャリントン博士はそれを見て、先の小島の戦いでウィップアーウィルのマントが同じような役割を果たしていたのを思い出した。

 まさかあれもショゴス……。

 黒い壁は急速に収縮し、しなやかな黒い四足獣に変じた。

「なんだ、こいつは!」

 強まってきた海風を上書きするような更に強い風が船と人々に叩き付けられて、掴まるところがなかったネッドが宙に浮いた。

 その体を横から巨大な馬に似た長い頭がくわえこんで、噛み潰した。

 人体が砕かれ、弾け散る音ともにネッドの血が甲板の床に滴り落ちる。

「シャンタク、いきなり喰らうとはお行儀が悪いぞ」

 少年にシャンタクと呼ばれた馬面の巨鳥―――全身は羽毛のかわりに鱗に覆われている―――はすりガラスをひっかくような不快な鳴き声をあげて飛び去った。

「博士、操舵室の中へ!」

 ルイーズが博士を突き飛ばして自分も続こうとしたが、飛びかかった黒い獣に押し倒された。ルイーズは両手を突き出して必死に抵抗を試みるが、いともあっさりと獣の前肢に抑え込まれる。

「なんだ、お前もおなかがすいていたのか。食べていいぞ」

 ルイーズは、邪教の生贄として囚われても気丈に振舞っていた彼女は、今こそ剥き出しの恐怖に身も心も弄られる。

 甲高い悲鳴は太平洋を渡る海風によってかき消されるのみ。

 獣はその体色と対照的な白く輝く牙で彼女の肉を噛み裂こうとはせず、艶めく全身を軟泥のように崩しながら彼女を覆い尽くしていく。ゆっくりと。ゆっとりと。

 キャリントン博士は、黒く光る泥を突き破るように四肢をばたつかせるルイーズの姿を見た。その手足は次第に黒い泥の中で短くなっていき、彼女の身体は徐々に小さくなっていき、最後は泥の中で消失した。

「ル、ルイーズ……」

 歴戦の探索者ジョン・キャリントン。ミスカトニック大学自然科学部で教鞭をとっていた知性満ち溢れる老科学者は、ただ茫然と立ち尽くす。

「そいつはのが好きでしてね」

 愉しそうな少年の声は耳に入らなかった。


 操舵室の中。船の舵を預かるバイデン・ガーフィールドは汗まみれの顔をぬぐう余裕すらなく舵と格闘している。

 ルイーズがハンドサインで示した通りに急激な蛇行を試みたものの、船は舳先の向きを変えるどころか、進んですらいなかった。

 スクリューが壊れたのか?

「博士!船が、船がいかれちまってます」


「では最後にご紹介しましょう。海の従者です」

 少年は距離をおいて侍る召使を呼ぶように指をひらめかせる。

 船がぐらん、と。キャリントン博士は柱に掴まったまま甲板に倒れた。

「ふ、船が浮いてるだと」

 南太平洋は20ヤード眼下に広がっていた。船の下部から滴った大量の水が海面をたたいている。

 そして。

 操舵室を横から覗き込むのは3フィートはある黄色く濁った眼球。

 目があったバイデンは即座に精神崩壊した。操舵室の床にへたり込み、ゲラゲラと笑い始めた。それは他のメンバーに比べ、幸せな逃避だったかもしれない。

 船首と船尾を巨大な水かきのついた手―――がしっかりと握り、船をおもちゃのように抱えているのは、先ほど小島で何人か倒した深きものどもディープワンだ。

 ただし、大きさは数十倍。

「彼はあなたたちが先ほど倒した水棲のアレの突然変異種なんです。何度もアレらと遭遇してきたキャリントン博士も初めてご覧になる珍種でしょう?」

 巨大なディープワンは大木のような両腕の力を入れ始めた。船を両端から圧縮している!

 金属のひしゃげる耳障りな音が響き渡り、火花があちらこちらで散りしぶく。

 船は元の3分の2の長さまで押し潰され―――唐突に折れた。

 バイデンは笑い続けたまま操舵室の計器盤に頭部を叩きつけられて動かなくなり、キャリントン博士は夜の海に放り出された。

 巨大なディープワンは船を彼方へ放り投げ、無表情のまま再び海中に沈んでいく。

 南太平洋の波は荒く、キャリントン博士は木の葉のように翻弄される。老人が泳いでどうにかなるほど海の搦め手は優しくないものだ。

 四方から押し寄せる水にのまれてもがくキャリントン博士の耳に強制的に少年の声が割り込む。

「僕は人間という支配しやすい種族を好もしく思っています。ただし、僕の邪魔をしない人間に限って、というエクスキューズがつきますが。大いなるクトゥルーの復活を邪魔するような人間は僕の好意を得られない。蠅みたいにうっとうしいあなたたちにはこの舞台から退場していただきます。ジョン・キャリントン。あなたのことは、復讐心に駆られたこの海域の深きものどもディープワンがもてなしてくれるそうですよ。僕はゲテモノが苦手なので失礼します」

 ネッドの命を奪った馬面の有翼生物シャンタクの翼がはためき、少年の声は聞こえなくなった。


 キャリントン博士は海水の重さと冷たさに、少しずつ近づいてくる死を認識していた。

 しかし、そんな死は訪れない。

 

 自分を中心にした数ヤードの同心円状にいくつものディープワンの頭が見え始めた。

 キャリントン博士に向かって、その環は少しずつ狭くなって――――。


 邪教狩りのエンディングの後、狩人は知らず知らずのうちに生贄となって、自ら祭壇に身を横たえた。

 


 シャンタクにまたがった少年は、誰も知らない彼の住処へと進路をとっていた。

「海の底ルルイエに眠る大いなるクトゥルーよ。

 あなたも長すぎた《午睡ひるね》に飽きたろう。

 クトゥルーの巫女、最も忌まわしい魔女アンヌ・クロフォードの血をひく僕が 必ずあなたを復活させてみせよう」

 

 少年は神の眠る海域をひと飛びし終えると、バイアクヘーに乗った仮面の夜鷹が去った北東の方角にシャンタクを向ける。

「あなたは調子に乗りすぎてますよ、




 もぞり。

 南太平洋。南緯47度9分、西経126度43分。

 もぞり。

 深く沈み込んでいた大いなるクトゥルーの意識が、小さくではあるが蠢動を開始した。

 もぞり。

 1925年3月。地球の覇権が人類にせものから、真の主人のもとに奉還される刻が訪れようとしていた。

 


第16話 完


(第一期 完) 

 

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