第4話 見えない隣人(前編)

 今回お届けするは、あなたの身近にもひたひたと迫るかもしれないお話。

隣は何をする人ぞ。


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 町村玲子は隣家の監視を終わらせると、カーテンの隙間をしっかりと閉め、ソファにもたれた。

 最近、昼間はソファと、隣家が覗ける東側の窓の間を行ったり来たりするのが習慣づいてきている。

 過労が原因の神経症が悪化し、勤めていた会社を退職して半年。病気は休養と薬物療法でだいぶ快方に向かっている。もう少ししたらまたフルタイムで働けるだろう。

 しかし、子どもが産まれたら育児に専念したかった自分はもう再就職を考えてはいなかった。今現在妊娠はしていないが、自分も31歳。そろそろつくってもいいだろう。

 夫の町村雄二は大手自動車メーカー勤務。今はニューヨークに3か月間の出張中。手がけている企画が成功すれば、本社課長の椅子も視野に入ってくるという話だった。

 心が本調子ではない自分を置いて、夫が長期間家を空けることは不安だった。しかし、共働きが一輪車になってしまったのだから、夫には稼いでもらわないといけない。この家のローンだってまだまだ残っている。

 家をしっかり守って、病気からの回復に専念することが今の自分の役割。

 今の日課は家事と隣家の監視。

 隣家の監視は主婦の役割でもないし、そもそもそんなことに心血を注いでいるのはよほどの暇人で偏執狂だろう。

 玲子はそれを自覚しつつも、暇をみては東の窓のカーテンの隙間から肉眼で、時には双眼鏡で隣の家を監視し続けている。



 始まりは、夫が出張に出て2週間ほど過ぎた日の夜。

 長いこと空き家だった東隣の隣家の窓に灯りがついていた。

 引っ越し屋のトラックが来たような気配もないが、誰かが入居したのは確かだ。

 隣は玲子の家の倍近くの広さと立派なカースペースがあり、彼女はひそかに羨んでいた物件だったので、そこを購入したのはどんな人物なのか興味があった。

 お互い持ち家同士であり、長い付き合いになる。直に挨拶に来てくれるだろうとその時を待った。

 しかし、隣人は引っ越しの挨拶にはやって来なかった。自分は日に1時間程度の散歩を兼ねた買い物以外は外出はしないので大体の時間在宅している。

 また、インターホンの不在時録画もない。

 新しい隣人はご近所への挨拶をする習慣のない人物らしい。

 買い物帰りに確認したが、表札はなかった。

 毎晩リビングの照明がついているので、誰かが生活はしているのだろう。

 それにしては洗濯物が干されたり、買い物に行ってる形跡もないのが気になる。

 意地を張るつもりはなかったが、古くから―――と言っても2年足らずだが―――住んでいる自分から挨拶に出向くこともない。そのうち出会うこともあるだろう。

 最初はその程度だった。


 ある日の午後だった。リビング―――玲子の家は2階にリビングがある――――の南面のバルコニーで洗濯物を干そうとしていた玲子は、玄関のインターホンを押している青いワンピース姿の女性を見た。少し緊張した表情をしているように見えた。

 170センチ近い身長とスレンダーな体型からモデルを職業としていると勝手に推測。

 隣家の家族だろうか。来客だろうか。

 健康回復のために無理をせず、決まりきった毎日を過ごして退屈そのものだった玲子の心に好奇心が芽生えたのは当然だろう。

 玄関のドアが開いた。玲子は洗濯物を持ったまま注視した。いよいよ隣家の住人の姿を拝める。

 しかし、隣家のダークウッドの分厚いドアは玲子の家の側に開いたため、ワンピースの女性を出迎えているはずの住人は全く見えない。バルコニーに半身を乗り出してまでがんばったが無駄骨だった。ワンピースの女性が歩を進め、ドアは閉じられた。

「人嫌いってわけでもないみたいね」

 それだけでも収穫だと思った。

 その夜、ありあわせのもので済ませた夕食の後にソファに座ろうとしたときに東側のカーテンの隙間に光が見えた。隣家のドアが開いたようだ。

 玲子はカーテンの隙間に顔を近づけると、青いワンピースの女性が隣家を辞去するところだ。笑顔でドアの影の人物に会釈すると、体を返して道路に面した黒鉄のポーチを開け閉めしてから駅の方向へ歩み去った。

 ドアはとうに閉じられ、辺りは夜闇に戻っている。

「滞在時間3、4時間。絵のモデルとかそういうのかしら」

 適当な推測で考えを打ち切り、テレビのリモコンに手を伸ばした。


 翌日、やや太めの50絡みの女性。

 その次の日はグレーのスーツを着たサラリーマンらしい若い男。

 豹柄のシャツを着た明らかにカタギじゃなさそうな男、和装の痩せぎすの老人、ブレザー制服の女子高生、と日替わりで来客は午後訪れ、夜に退去のリズムで続いた。その時間は判で押したように同じ。隣家の住人はドアから一度も姿を現さないのも同じ。

 その頃には玲子は隣家の多彩な来客の風体と来訪時間及び退去時間をメモするようになっていた。

「毎日全然顔ぶれが違う人が来る家……」

 玲子は好奇心を強くした。


 来訪者が訪れる夕方近い時間帯。隣家のドアが開くタイミングに買い物帰りの玲子がその前を通りすがる。なんでもっと早く気づかなかったのだろう。偶然を装ってドアの陰の住人をチラ見すればいいのだ。エコバッグをぶら下げて隣家の前を歩くだけ。

「あれ?」

 隣家のドア前には誰もいない。当然ドアが開くことはない。

 玲子はスマートフォンを取り出して時間を確認した。いつもの時間。

 それから数分、突然電話がかかってきたふりをしてその場にとどまってみたが、空振りだった。少し馬鹿らしくなって玲子はそそくさと自宅へ戻った。


 数時間後にもう一度「あれ?」と呟くことになった。

 もうひとつのいつもの時間。客が退去する時間。ドアから自分と同年代と思われる紺スーツの女性が出てきたのだ。

 今日だけ偶然来訪時間がずれたものの客は訪れた?

 なんとなくそうなんじゃないかと感じていた玲子は携帯や財布を入れたバッグを引っ掴むと階段を駆け下りた。

 靴をつっかけて小走りに隣家の前を通るが、すでにドアは閉じていた。

 そうくると思ったわよ。

 玲子の狙いは駅の方へ去っていく来訪客の女性だった。

 何をするか考えてない。とりあえず尾けてみよう。

 紺スーツの女性は急ぐでもなく普通の足取りで駅に通じる道を歩いている。小走りのままだと追いついてしまうので、玲子もペースを落とした。10メートル程度の距離を保つ。

 玲子の家と駅の間には噴水広場やベンチがいくつかある公園がある。住宅街の人間はそこを通る。女性もそうだった。

「え?」

 今日3度目の呟きは公園の植栽の陰を曲がった女性を見失ったからだ。隠れる場所もないただの曲がり角でこの先は一本道で駅に続いているが、人っ子ひとりいなかった。女性がこの道を走り抜けるにしても10秒以上はかかるはずだ。

 念のため小走りに駅まで行ってみたが、女性の姿はどこにもなかった。

 失望を抱えたまま自宅へ戻る前に、広い隣家を一度眺め回してみたが、全ての照明が消された隣家はそこだけ闇を深くしていた。

 それから数日、何度か試みた待ち伏せと尾行はすべて空振りに終わった。

 玲子はこれは偶然ではないと認めるのが怖かった。

 姿なき隣人は玲子がこっそり監視していたこと、好奇心からやった行動を知っている。

 何としても正体を見てやろうと軽い探偵気取りだった自分が逆に、隣人の掌の上で踊らされている。

 鳥肌が立った。



 玲子は警備保障サービスに加入した。待ち伏せ等の行動は控えるようにしたが、カーテンの隙間から監視することだけは続けた。怖かったが、確認しないのはもっと怖かった。自分の知らない間に隣の敷地内で何が行われているのか黙殺するだけの余裕はなかった。

 月に2度通っている心療内科で相談してみようかと思ったが、症状が悪化していると思われるのが関の山だと思って辞めた。

 近所に親しい人がいればよかったが、仕事している頃は朝からほぼ終電近くまで家を空けていて、退職後は病気の影響で人に会うのが億劫だった自分にそんな相手はいなかった。

 こどもがいればママ友がいるんだろうけどな。

 こんな時に海外出張に行ってる雄二が急に恨めしくなった。

 週に1、2度の頻度で国際電話をかけて妻の様子を聞いてくる夫の雄二に話してみた。

 大事な仕事にかかりきりであっても、妻の話を聞いてくれたっていいはずよと。

 向こうニューヨークは出勤前の時間で、雄二はいつも使っているダイナーで朝食をとりながら通話している。

「確かにおかしいことだらけだが、あまり変なことに首突っ込むもんじゃないよ。何かあったって僕はすぐに家に帰れるところにいないんだからな」

 その通りだった。夫の不在中の家を守り、自分の健康を回復するはずが、少しノイローゼ気味だし、不眠症も再発して睡眠導入剤のお世話になって症状は悪くなっている。

「警備サービスに入って少しは安心できると思ったが、最後は警察だな。地元の派出所にパトロールしてもらうように頼めるといいんだが、別に事件が起きてるわけじゃないからな。玲子、あまりよけいなことに首突っ込まない方がいい。不安が増すだけで何もいいことはない。玲子のお母さんに泊まりに来てもらうわけにはいかないかな」

 新潟に住んでいる玲子の母は昨年からたびたび発作を起こしているので都内近郊まで出てきてもらうのは難しかった。父はすでに鬼籍で、妹は母と同居しているが、妊娠8か月の身重だ。雄二の両親は健在だが、玲子は苦手だった。

「こんな時に1人にしてしまってすまない」 

「いいの。ごめんなさい。あなたの仕事が今が一番大事な時だもんね。私がくだらないことに興味もったからいけないの。おとなしくしてる」

「ごめん。僕はもう行かなきゃ。また電話するから……ん、食い逃げ?」

 電話の向こうが騒がしい。英語で誰かがわめいてる。

「どうしたの」

「さっきまで隣でコーヒー飲んでた奴が代金払わないで消えちまったらしい。確かに金もってなさそうな感じだったけど」

 電話切り際にダイナーの主人かウェイターの声か

「あのインディオ野郎め!金払わず消えちまいやがった」

と口汚く罵るのが聞こえた。



 翌日の午後、例の如く隣家に客が吸い込まれていくのを確認した後に、気だるくなった玲子は少し横になろうとベッドルームへ行こうとした。

 インターホンが鳴った。隣の家の客―――今日は黒縁眼鏡をかけた生真面目そうな青年だ―――がこちらに来たのかと胸が緊張でキュッと締まった。

 モニターに映っていたのは、黒いスーツに黄色いネクタイをした長身の男。年齢は20代?もう少しいってるか。やや浅黒い顔はニッコリと営業スマイル。

 黒スーツに黄色のネクタイってヤクザみたい。

「はい、どちらさまですか」

 居留守を使えばよかった、と思った時には返答してしまっている。うっかりそうさせてしまう雰囲気が男の営業スマイルにはあった。

「はじめまして。私、○○製薬の訪問営業で当地区担当をしております豊田と申します」

 名乗り終えて、豊田は一層笑みを深くした。

 薬のセールス?富山の薬売りみたいな?いまどき珍しいわね。

 いずれにしても今は応対することは億劫だった。横になりたい。

「ごめんなさい。間に合ってます」

 モニターの中の顔は大げさに驚いた顔になった。

「あ、お客様。そんなことはないと思いますが、当社の薬は生薬由来でして現代人の抱えるストレスや」

「結構です」

 今度は少し強く言った。 

 豊田は今度は哀願するように

「あ、あ、そんなことをおっしゃらずに。当社の薬はお買い求めいただいてよかったと思」

 モニターを切った。

 鬱陶しいセールス。その胡散臭い服装どうにかして来い。



 その翌日の午後、隣家にロマンスグレーの髪の痩身の男が入っていくのを見届けたと同時に町村家のインターホンが鳴った。

 昨日と同じ薬のセールスマンが営業スマイルがあった。着替えてないのか黒スーツに黄色のネクタイ。

「町村様、○○製薬の豊田です。今日は商品のご説明を聞いていただけたらと思い、お伺いしました」

 セールスマンが来ないわけではないが、2日連続で来るというのは珍しい。根性があるというかしつこいというか。

「昨日お断りしたはずですが」

「お薬いらないですか?必要だと思いますけど」

 わかった。こいつ、私が心療内科に通ってることを知っているんだ。あの医者が漏らしたのか。もしそうだとしたら守秘義務違反だ。訴えてやる。

「私はいりません!帰ってください。警察を呼びますよ」

「警察?」

 とぼけたような豊田の顔が怒りに火を注いだ。自分が苦しんだ神経症を小馬鹿にされたようで我慢ならなかった。

 玲子は迷わず110番した。

 モニター越しに豊田にも聞こえるように言ってやった。

「不審者が家の前に居座ってます。すぐ来てください」

 

 5分程で2人の巡査がパトカーで駆けつけた。閑静な住宅街ということでサイレンは鳴らさずに。

 豊田はとうに去っていた。玲子は玄関先で状況を説明し、パトロールを強化してほしいと頼んだ。

 その時、隣家が視界に入った。今、あの家には初老の男と住人がいる。一連の気味の悪いことを話しておくべきだと思った。

 玲子は巡査達に、隣家にも不審者が行っている可能性が高い、と事実を少し曲げて説明した。嘘になるが、私にとっては不審な事件だ。嘘とまでは言えないと思い込んだ。

「そんなにおっしゃるなら、お隣にも話をうかがってみます」

 巡査達の後に玲子も続いた。警察の訪問があれば住人は出てくるはずで対面できる。

 居留守は使えない。先ほど客が入っていったばかりだ。

「えっと、ここは誰さんの家だっけ」

 巡査が持参したファイルをめくる。住民情報カードは登録されていないようだった。あれは任意提出だから無いのは仕方ない。パトカーに戻って無線で本署に確認すれば判明するはずだが、巡査達はそこまてする必要を感じなかったのか、いきなり隣家のインターホンを押した。

「すいませーん、△△署です。ちょっとおうかがいしたいことがありまして」

 巡査達はモニターに映るように警察手帳を提示した。

 すると、ドアの内側で人が動く音が聞こえた。

 玲子の心臓が早打ちし始めた。いよいよ隣家の住人が出てくる。巡査達の後ろに立って少し縮こまった。

 遠くからは何度も開くのを見てきたドアが遂に目の前で開いた。

「はい。なんでしょうか」

 出てきたのは、先ほど入っていった豊かなロマンスグレーの髪をした痩身の男だった。

 目をぱちくりさせながら、巡査達を見て―――最後に玲子に目をやった。

 玲子は拍子抜けすると同時に、違和感に包まれた。

 この男は今までの客達と同じように入っていっただけで、この家の住人なのか?

 あまりにも普通の結末だ。彼女が感じた疑惑や恐怖、見えざる威圧は全て妄想の産物だったことになる。

 そんな玲子の思いはお構いなしに巡査は事情を説明し、何か気づいたことはないかと尋ね、初老の男――伊豆野いずのといった――そんな不審者は知らない。何か気づいたら通報すると答えた。

「そうですか、お騒がせしました。ご協力感謝します」

「いえ、住民の義務ですからね」

 玲子は、この男がと言ったのにやはり疑念を抱いた。

 証拠は何もないけどこの男はであって、この家の―――私の隣人ではない。

「あのっ、伊豆野さん」

 巡査が玲子を促して退去しようとするのを遮って、玲子は初老の男に声をかけた。

「なんでしょう」

「私、隣に住んでいます町村と申します。ご挨拶が遅くなってすみません。お宅に毎日毎日いろんな人が来られてますけど」

 それ以上は言えなかった。伊豆野の目が細められて真っ直ぐに玲子を射抜いて、言葉を続けられなくした。

 巡査達は特段興味をもたずに、

「町村さん、伊豆野さん、この一帯はパトロール少し増やしますのでご安心ください。何かあればすぐ110番してくださいね」

 と言ってパトカーに戻った。

 非常に気まずい空気の中、玲子は会釈もそこそこに家に逃げ帰った。


 キッチンでミネラルウォーターを飲んで胸をおさえて震えるしかなかった。

 豊田とかいうしつこいサラリーマンも気味が悪いが、恐怖の本命は伊豆野と名乗る男だ。

 いや、私は神経症がひどくなってしまっていて、あらぬ妄想を現実と思い始めてるのか。

 本当はあの家の来客なんて最初からいなくて。

 だから私が待ち伏せしてもいるはずなくて。

 だから私が尾行しても見失うわけで。だって最初からそんな客なんていなかったのかもしれないじゃない。

 でも、でも。

 伊豆野の目。あれはおかしい。嘘をついている。あいつは絶対にあの家の住人なんかじゃない。


 夕闇が濃くなってきていた。

 インターホンが鳴った。


(続く)

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