第3話 神話の住人を招いて
約束の時間の15分も前に男は現れた。
リックは鏡の前で何度も練習した笑顔で出迎える。
本当に来ていただけるとは。さあ、どうぞ
なんとか震えずに言えた。最初の一言さえはっきりと口に出せれば取材はうまくいく。これは彼がこの稼業に就いて19年間破られていないジンクスである。
長身の男はドアを開けた時からわずかにも目線を動かさず、その先にあるオフィスの奥へ進んだ。
ドアを二重施錠しながらそれを見送ったリックには、男の身のこなしが密林に潜む捕食獣のそれに思えた。
男は用意された来客用の椅子を素通りすると、5階の窓を背中にする形でリックの執務椅子―――11年酷使されスプリングが軋む代物―――に陣取った。
リックは笑顔を崩さず、来客用椅子を執務机まで動かして自分が腰をおろした。
無遠慮な取材対象はごまんと相手にしてきた。拳銃をちらつかせないだけまだマシだ。
「何か飲みますか?コーヒー、紅茶。ご所望でしたらウィスキーでも」
返答はない。男の目は自身の前方に向けられている。
リックは男の視線が自分に焦点を絞っていないことに気づいた。男は盲目というわけではない。
男の視界において、真ん中にいるリックは傍らにある乱雑に詰まれた原稿束や背後の黄ばんだ壁紙と同じく、景色の一部として認識されているだけにすぎないのだ。
無意識に唾液を嚥下している自分に気づく。緊張している。
副大統領、プエルトリコ過激派の指導者、果ては逃亡中の連続殺人犯にまでインタビューを敢行してきた19年選手の自分が、だ。
リックは、政治や社会問題、凶悪事件を追い世界各地を飛び回るうち、出向いた多くの土地で起きた超常的な怪事件にもジャーナリストとしての目を向けるようになった。
生物学において未確認の陸上生物が暴れまわったとおぼしき破壊の爪痕、
人間と魚怪の通婚の伝説が伝わる忌まわしき辺境の集落、
月光に照らされた有翼生物に乗った戦士たちの目撃談、
脳味噌だけを掻き出された遺体の数々、
これら『表に出せば正気を疑われる』ネタの取材ノートと録音テープは、彼のキャリアが増えると比例して積み重ねられていく。
数え切れないほど資料を突き合わせた果てに、リックは一見ランダムに見える怪事件を横串で一気通貫する法則、否、存在に気づいたのである。
この宇宙には神と呼ぶしかない程の齢を重ね、人類にはその片鱗すら理解できない異能の力をふるう存在がおり、地球にもそのいくつかが眠りまたは暗躍していることを。
先達の暗示はすでにあった。
1938年に世を去った不遇の文筆家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトはじめ彼の霊感を共有した仲間の作家や詩人の作品に綴られた神話に、真実が大胆に、或いは暗喩として仄めかされていた。
その霊感を受け継ぐ者はこの1980年代に至るまで途切れることなく現れており、『クトゥルー神話』と呼ばれる創作の一分野に形を変えている。
一連の調査分析が指し示すものが、小説家サークルの設定継ぎ足しの遊戯であるかどうか、その生き証人に聞けばよい。
目の前に座るこの男に。
今宵、この古びたオフィスに招くことに成功した目の前の男、リックが幼少の頃、いや、リックの数代前の先祖たちもその存在を聞かされて育ったであろう人物である。
昏い歴史と事件の影にちらつく仮面の夜鷹。
伝説に囁かれた翼はなく、牙も生えていないどころか、恐怖と畏敬のシンボルとなった仮面すらつけていない。
妙な視線はともかく、ニューヨークのどこにでもいそうな黒い帽子に黒スーツの男。
いい子にしないとブギーマンが来るよ!
幼児を躾けるために親が創りだした都合のいい悪役。
男は自分がこのオフィスの主であるかのようにリックの執務机に両肘をつき、
沈黙をもってこの場を支配している。
ジャーナリストとして真実を探り出し、このオフィスの持ち主として執務机を取り戻すため、リックはインタビューを開始しようとした。
機先を制したのは男の方であった。
「リック・フライアー」
男の声は金属が軋るような少々耳触りな響きを伴っていて、リックは反射的につま先を立ててしまった。男からは執務机に隠れて見えない。
「はいっ」
「眠れる神々の存在を裏付ける数々の資料、そして私が事件を片付けているところを撮影した写真を渡してもらいたい」
「あ、あなたが人体発火事件の現場で妙な生き物を殺害したときの写真はインタビューに応えていただく条件としてお渡しします。しかし、それ以外の資料を交渉材料にした覚えはありませんよ」
「お前を殺してから、ここを焼き払うこともできる」
こう言われたのは初めてではなかった。ここからがリックの腕の見せ所になる。
「写真はそのデスクの一番上の引き出しの茶封筒にあります。それ以外の資料はここにはありませんからね。私の連絡が途切れたら国内の複数の報道機関と国務省に送られる手配はできてるのですよ。ここは当初予定どおりインタビューといきませんか。ミスター」
一息で言い切り、テープレコーダーのスイッチを入れる。問答無用の相手ならばとっくに殺されているはずである。主導権を手放しさえしなければ、ここを乗り切ることは可能だとリックは踏んだ。
「録音を開始。1989年4月1日。18時50分。インタビュアーはリック・フライアー。インタビュー対象は仮面の夜鷹、ウィップアーウィル氏」
男は茶封筒を手に取ると中をあらため、数葉の写真を机上に置いた。
その上に音を立てずに左手を添えた。
「長話はしない。10分だけだ。それ以上続けるならお前の足首から下をこの窓から投げ捨てる」
リックは再び爪先立ちになった。もしかすると人生最後の爪先立ちになるかもしれない。
彼も馬鹿ではない。オフィスの隣の部屋には合鍵と拳銃を持った2人のボディーガードが控えている。来客と同時に別のテープレコーダーも廻りはじめている。
神話の住人ウィップアーウィル相手に完全な防備は張れなくとも、抑止力にはなるはずだ。
「今後も現場主義を貫きたいので足は失うのはごめんです。では直球でお聞きします」
「あと9分」
時間を気にしている間は何もしないだろう。リックはインタビューに集中した。人生の何分の一かを費やして追ってきた課題に解答を得る時に一秒も無駄にできない。
「あなたは仮面の夜鷹、夜鷹の亡霊、ウィップアーウィルなどと呼ばれていますが、どう呼ぶのが適切ですか」
「好きに呼ぶがいい」
「わかりました。仮面の夜鷹の伝説はアメリカ創立の前からネイティブアメリカンやスペイン人の間でも流布されていました。ざっと500年もの間です。あなたは常識を超えた長命の者なのですか、それとも代替わりしているのですか」
「次の質問にいけ」
押し問答している時間が惜しい。聞きたい質問はまた後で形を変えて問うことにしよう。
「あなたが世界の各地で関わっている事象について。私は長いこと、これらの事象―――超常現象や非常に閉鎖的な宗教儀式が主です―――について調査してきました。その結果、この人類以前の地球に数多くの超越的な力をもつ生命体が跋扈し、今もその残存勢力は生きている。もっと言えば、『神』と呼んでも差し支えないそれらの存在は今も深海や人跡未踏の地で休眠していると考えざるをえなくなったのです。これについてコメントを」
ここで初めて、男の意識がリックに向けられた。オフィスの背景の一部分から対話する相手に昇格したようである。
「そうだ。この星は太古に飛来した神々とそれに奉仕するものたちの領土だ。人間など神々が眠っている間に湧いて出た矮小な存在にすぎない。神々が目覚めたら、この星は一瞬にして本来あるべき姿に塗り替えられるだろう」
「それはクトゥルー神話のことですね。これは真実を示していると?」
「全て正しいわけではない」
男は軋る声音に些かの高揚が混じったのを聞き逃さなかったリックは、畳みかけるように問う。
「ウィップアーウィル、あなたがご存知の部分を教えていただけますか」
「
「万物の王アザトースは究極の混沌の玉座で終わらぬ収縮を続け、その御使いは冒涜的な音楽を奏でることで王の無聊を癒す」
「一にして全なるものヨグ・ソトースは全ての時空に接している」
「シュブ・ニグラス。黒い巨大なる霧をまとった豊穣の母」
「這い寄る混沌ナイアルラトホテップは千の化身となり、全てを嘲笑し、外なる神の計り知れぬたくらみのために行動し、人間の歴史にたびたび干渉する」
「次は
「クトゥルー。太古の地球の大半を支配した神。ダゴンやハイドラといった従属する神、海洋を住処とする
「ハスター。名状しがたきもの。星間宇宙を飛び、黄衣の王となって復活することが預言されている。おうし座ヒアデス星団の湖ハリにて封印されている。お前が写真に撮ったバイアクヘーという有翼生物はこの神の奉仕種族だ。他にもイエローサインという忌まわしい者たちが仕えている」
「ツァトゥグァ。
「クトゥグァ。火炎の神。全てを焼き尽くさずにはいられないその存在は現在フォーマルハウトに封印されている」
「ガタノトゥア。見た者を石に変える神。古代ムーのヤディス・ゴー山にて眠る」
それからいくつかの神々の説明が続いた。このままでは時間切れになることを恐れたリックは手で制した。
「よくわかりました、ミスター。では質問を変えて。人類以前に地球上で繁栄した神々が封印され、または永い眠りに入り、復活の刻を待っている。これはなぜでしょう。ナイアルラトホテップを除く神々がほぼ同時期にと言っていいでしょうか、現在に至るまでの休眠に入ったのかご存じですか」
「神々の行いを私が全て知ると思っているのか。リック・フライアー」
神経を逆なでするノイジーな響きにいらだちを聞き取る。でも、ここは押し時だと リックは思った。
「神々が相争ったダメージから眠りについたという説があります。そして、これは確証はないのですが、その神々を壮絶な戦いの末に打ち負かしたさらに上位の存在が仄めかされています。『旧神』と呼ばれるその存在の力により、神々は強制的な封印に閉じ込められた。神々に仕える種族はさまざまな手を使って主人の復活をもくろんでいると―――」
男が左手で写真を握りつぶした音もしっかり録音されたことだろう。
ここまで感情を露わにしたのは初めてだ。
「旧神など妄想の産物だ」
「否定なさる?」
「月に一瞬立ち寄った程度にしか宇宙のことを知らぬ人間が考えそうなことだ。神々と旧神、二極対立で推し測れるようなものではない」
リックは時計を見た。あと2分。
先に有耶無耶にされた質問をもう一度仕掛けてみた。もちろん聞き方は変えて。
「最後の質問になりそうです。ウィップアーウィル。あなたはご自身がバイアクヘーとおっしゃった翼のある生き物に乗ったところを写真に撮られている。先のお話からすれば、あなたはハスターという神の陣営に属しているということでしょうか。たしかイエローサイン、と言いましたか?」
咳払いをはさみ続ける。
「あなたは何かの事情でハスターに関係することになった人間なのでしょうか。それとも今までお話いただいた神話の住人なのでしょうか」
男は一瞬にして立ち上がった。古びた椅子はリックが腰を上げる時に必ず悲鳴のような音をたてるのだが。無音であった。
「話は終わりだ」
一方的な通告にリックのジャーナリストとしての矜持が立ち向かった。
「まだ1分ある!あなたは約束を守らなくてはいけないぞ。私の質問に答えてください。簡潔にでいい!」
男は執務机ごしに顔を突き出して抗議するリックを意識の外に押し出したらしい。
首を左右にめぐらせて何かに耳を傾けている。
「聞こえる。これは―――」
「何も聞こえない。話をそらさないで」
男は右掌でリックを突き飛ばした。
「何をするんだ!」
隣の部屋で待機しているボディーガードを呼ぶ合図のブザーを押す。
予行演習通りにはならなかった。廊下を走り、合鍵でドアを開け、拳銃を構えてなだれ込むはずの2人の屈強なボディーガードはどうしたのだ。
男は突き飛ばしたリックに目もくれずに、両手で耳をふさいでいた。
「
慌てて耳を澄ましたがリックの耳には届かない、鳴き声。
「どういうことなんだ。まさか……」
突然、執務机向こうのカーテンが室内に向かって大きくはためいた。
窓から吹き込む風。ニューヨークの雑踏が遠く聞こえてくる。鳥の鳴き声はしない。
「窓は施錠していたはずだ」
男は突き飛ばされたように、執務机の上を背面跳びの形で宙を滑り、リックのそばに無様に落下した。
窓の前に立っていたのは。
「リック・フライアー。君の最後の質問に対してだが、ノーコメントだ」
時代遅れのカウボーイハット。顔の上部を覆うフェイスマスク。黒い羽根のようなマントと革の衣装に身を包んだ唐突な乱入者こそ―――
「あなた、夜鷹……」
伝説どおりの、そしてリックが写真におさめた時と同じ装いの本物の仮面の夜鷹は執務机に片手をついて飛び越えた。その大仰な身ごなしにもかかわらず、物音ひとつたてない。これぞ真の捕食獣―――否、空の殺戮者の夜鷹そのもの。
「現場写真を交渉材料にして、俺にコンタクトしたつもりだろうが、その裏ルートは、奴らに傍受されていた。お前は俺に成りすましたこいつにインタビューの後、脳味噌を取られるところだったのだぞ。お前の脳を直接探れば、分散させた資料のありかはすぐわかるからな」
恬淡と恐ろしいことを言う仮面の夜鷹は、立ち上がろうとする偽者の額を指さした。前髪の生え際を半周する縫合痕がカーブを描いていた。帽子を目深に被っていたので気づかなかったのだ。
「この男も脳味噌をほじくり出されたらしい」
「あ、あの、これは」
リックの調査で何度も遭遇した脳を失った遺体の数々。その事件前後に目撃されたコウモリの翼と光る脳味噌を有する甲殻類の化け物のことが思い起こされた。
「ミ=ゴの仕業だ。奴ら、冥王星の前線基地からこうやって操り人形を使っていろいろやらかす。誰もやらないから、俺が害虫駆除をやるしかない」
仮面の夜鷹は知らず知らずのうちにリックの求めている情報を垂れ流していることに気づいているのか。それともこれは形を変えたインタビューなのか。
ミ=ゴの手下はオフィスのドアへ走った。二重施錠したドアだがこの男が全力でタックルをすれば、ドア板ごと吹っ飛ばすかもしれない。
夜鷹の黒いマントが翼のように広がり、その一部が触手が如くオフィス内を跳ぶ。
逃走者の両足首に巻きつくや、何の躊躇もなく捻じりきった。
「アアアアアッ」
スピーカーの高周波のハウリングのような耳をつく悲鳴が上がる。
「足首を失ったのはお前の方だったな。んー、しかし不快な悲鳴だ。ショゴス、何とかしろ」
夜鷹は誰に命令したのだろうか。同時に足首を解放した触手が男の口内に錐のように差し込まれ、
ブヂュリュッ
という音とともに室内に静寂を取り戻させた。リックは何がどうなったのか想像することを拒否した。
腰から下の力が抜けてへたり込んだリックの横をマントが蠕動しながら進み、ドア前の男に熱いコールタールよろしくのしかかっていく。
「俺のマントがディナーを終えるまでの間、インタビューに応えてもいいが?」
背後から聞こえる肉が咀嚼され、骨が粉砕され、体液がすすられる音の拷問から一刻も早く逃れたかったリックだったが、ジャーナリストとしてこれだけはつまびらかにしたい疑問があった。
「あなたは
夜鷹はマスクに覆われていない、精悍な口元に笑みを浮かべる。
「お前が俺と
「し、しかし、尾けるどころか、今こんなことに」
震える指先で肩越しに背後を指す。遠慮のない食事は終わりつつあるようだ。千載一遇のインタビューもここまでらしい。
「俺自身のことを他人に、それもミ=ゴの下僕なんぞに吹聴されたくなかったのさ。気がついたら飛び込んでいたってことだ」
「では失礼する」
5階の窓に向かって王者のような足取りで進む夜鷹の背中に、収縮しながら這い進む黒い塊が張り付いて、翼めいたマントに変化した。
その表面を伝うさざ波のようなうごめきが、満腹の歓喜をあらわしているのだとリックは本能で理解した。こんなに近くで見てしまったら、もうだめだ。
これらの件からは距離をとらないと次は自分の番だ。
ジャーナリストの矜持より命が大事。人間という生物は本当の恐怖にさらされたときに命の継続だけを優先するプログラムが施されているのだ。
そんな恐怖を悠然と払い、更なる恐怖に進んで足を踏み入れる仮面の夜鷹ことウィップアーウィル。インタビューするまでもなく、彼は人間とは違う何かなのだろう。
カーテンをめくった先の空中に待機していた有翼の生き物バイアクヘーにまたがったウィップアーウィルがリックに告げた。
「お前の分散させた邪神の資料な、俺の仲間が全ておさえたからあきらめろ」
残念だが仕方のないことだとリックはうなずいた。
バイアクヘーがわずかに進み、もう一度停止した。
「教える義理もないんだが……。この部屋の資料をあさるのは面倒なんで、1分後に部屋ごと吹き飛ばす。隣の部屋で先に叩きのめしといた奴らを起こしてとっとと逃げたほうがいいぞ」
リックは悲鳴をあげてドアに飛びついた。
持ち主のいなくなったオフィスでテープレコーダーは最後の瞬間までまわり続けた。
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