第21話 キングスポートに霧は煙る(7)
窓枠に半分ほど残ったガラスに映るのは、白髪を振りかざした老婆が組み付く姿。
ジャケットの両脇の下からまわされた老婆の細腕は彼の後頭部の真後ろでしっかりとクラッチされている。
レスリングのフルネルソンに近いが、競技ルールでは危険防止のため、後頭部からずらしてクラッチすることになっている。
老婆が競技ルールを知っているとは思えないが、危険行為をものともしない精神状態にあることだけは間違いない。
キャヒャーッ
しわがれた喉から無理に絞り出される嬌声、いや狂声のけたたましさに閉口したラヴクラッシュ。
耳をふさごうにも老婆の筋肉量や体躯からは考えられない剛力によって体の自由を封じられてしまっている。
そのまま老婆は自分の体を軸にぐるぐると回り始め、じゅうぶんに勢いがついたところで、振り回されるがままの彼の体を床に思い切りたたきつけた。
ラヴクラッシュの体は2度バウンドして転がり、窓とは逆側にある暖炉にぶつかることでようやく止まった。
激痛が自然と彼の体を海老のように丸めさせた。
『痛みに顔をしかめるのは相手を殺してからでいい』を信条としているはずの彼が自身のあり得ない挙動に戸惑いを覚えた。
相手の追い打ちが来る前に反撃しろ。
この程度の力に屈するほどヤワな体じゃないだろうが。
しかし、彼の体は痛みを拭いきれず、立ち上がる意志を拒む。
キャヒャーッ
スカートの裾からのぞく老婆の枯れ木のような細い足はよれよれの毛糸靴下と年季の入った室内履きに覆われている。 その貧弱そのもののつま先が大きく後ろに振りかぶられ、次の瞬間、破城槌のような勢いで彼の脇腹を襲った。
ダメージを認める声をあげなかったのはせめてもの意地か、その余裕すらなかったのか。
老婆は50年若返った体力で幾度となく蹴り続ける。
数々の町の噂を伝え広めた口から軟体動物めいたぬらつく赤い舌が、それ自体独立した生物のように小刻みに蠢いた。
レロレロレロレロ
見るもの大半が床面の状態になっているラヴクラッシュは激痛に耐えるなかあの石板を視界におさめた。
『あと何分もつかな』
と、文字がくねくねと嘲弄する。
蹴られるがままの彼の体は自然と暖炉の口に押し込まれていく。
Let's switch leadership. 主導権交代といこう
右掌にすくった灰を老婆の顔にぶちまける。部屋に忍び込む白い霧をグレイが侵す。
狂乱に身を浸し暴れ続けた代償に眼鏡をどこかに落とした老婆の目は無防備であった。
ウップァァァ
反射的に両手を顔にやり、攻撃を中断した老婆。
見上げる彼から格好の標的となった彼女の
グァヒュッ
老朽化した肺が中の空気を吐き出す奇妙な呻きを発した後、老婆は2度目の失神に倒れた。
そのくずおれるさまは、暴れっぷりと正反対に静かなものであった。
くらくらする頭、両膝に手をつき、肩で大きく息を整えてゆっくりと立ち上がる。
こんな醜態誰にも見せたくないな、と苦々しさでいっぱいの彼は見た。
伏し倒れた老婆の首筋から6インチ(約15.2センチ)ほどの大きさの生白いものが窓辺を目指して這い進むのを。
蟲、であった。
考えるまでもないが老婆の狂態の原因に違いない。
靴底で思い切り踏みにじりたい怒りを何とか退ける。
生態のわからないモノを軽々に扱うのは避けるが鉄則。
それがいかに小さく、逃亡を図ろうとしているとしても。
異界の生物を軽視した結果、最後の一針で滅んだ例にいとまはない。
暖炉脇の薪入れにさしてあった薪を軽く打ち下ろす。
ぐにゅん
想像以上の弾力で押し返された。
蟲の躯は見た目以上の弾性を有している。ダメージは与えられていない。
白い怪異は逃走速度をあげた。
蟲の弾性がどこまでのものなのかを測るように少しずつ薪を振り下ろす力を強めていく。
数回の殴打に耐えきった蟲の逃走劇は、生白い漿液がプチュっと散ることで終わりを迎えた。
窓辺まで1フィート足らずのところで。
物理的な力には強い、とデータ整理する。
......バリツと相性がよくないな。
燭台に火をつけて近づけると柔軟な体表部分からジジジと燃え始めた。燃焼抵抗力は平均的か。
オーン婆さんには悪いがインドの良茶葉で淹れた紅茶をかけて消火する。
今この部屋で起きたことは言うまでもなくフードの者―――古き結社のしわざであろう。
自分が石板の文字に意識を向けている間にオーン婆さんに取りつき、格闘家顔負けの力をふるう人間凶器に変えたといったところか。
フードの闖入者に不意打ちで投げたティースプーンを拾った。
見た目に変わったところは認められなかったが、詳細を調べる機会があるかもしれない。ハンカチに包んでジャケットの胸ポケットに差し込んだ。
「ひっ、ひぃっ」
割れた窓からこわごわと顔をのぞかせたのはオーン婆さんと同年代の女だった。
ラヴクラッシュと倒れているオーンを見て逃げ出そうとする。
「待ってください、ジーナさんですね。オーンさんに聞いてます」
彼女がオーン婆さんを医者に走らせた隣人のジーナとの推測は当たった。
足を止めたジーナに丁寧に話しかける。
「私とお茶を飲んでいた最中に、オーンさんが突然の発作をおこしたのです。申し訳ありませんがダウンタウンのシュルツ
ラヴクラッシュは『言いくるめ』に成功した。
オーン婆さんには気の毒だが、こちらもひどい目に遭わされたのだ。後はジーナに任せて行かせてもらおう。
ラヴクラッシュは霧を突っ切ってシップ・ストリートの路上に出た。
人間のふりをしていれば探索がスムーズにいくと思ったが。とっくに奴らに察知されてたとは。
もう弱くなっている必要もあるまい。堂々とセントラル・ヒルに乗り込んでやろうではないか。
蟲使いや醜怪な奉仕種族が待ち構えていようが関係ない。一気に圧し潰して盗まれたトゥルーメタルを取り戻す。
あのグレートオールドワンズが浮上する星辰が揃う刻までに少しでも多くのトゥルーメタルが必要なのだ。
彼は念じる。
パワード・ラヴクラフトからウィップアーウィルへ戻ることを。
危険な相棒ショゴスの帰還を。
騎り慣れた星間宇宙生物バイアクヘーの飛来を。
......。
彼の念はそよ風ひとつ起こさなかった。
相変わらず彼は、製糸工場主任の青年パワード・ラヴクラッシュのままであったし、いつまで待っても頼りになる使役生物の気配はを近づいてこない。
「これは―――」
霧の切れ目からあの石板がのぞいた。
シップ・ストリートの傍らに立てかけてあるそれには
『町がお前の力を消した。お前自身もじきに消される』
と、記されていた。
そして、またもフルートの音色が霧の中を通り抜ける。
「邪悪なるフルートの奏者といえば
答えを求めて石板に目をやったが、霧がひと撫でした後、そこには何もなかった。
(続く)
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