第20話 農園にて(後編)

ヴィクトリア朝の紳士からゴールデンエイジの碩学へ受け継がれる人間賛歌。

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 地下を這って私を追ってくるもの。

 私の耳は農園の草むらから聞こえる虫の鳴き声しかとらえることができないが、ホームズとワトソンには、その存在の執拗な追跡の足音が届いているという。


 追跡者の忌まわしい名など知りようもないが、クトゥルーやツァトゥグァ、またはその同胞はらからに違いない。

 

 自分たちの存在や特性など禁断の知識を得た者を屠ろうとする、やつらの執念は慄然を超えて感銘すら覚える。

 無限の時間を生きる超常の存在にとって、決死の逃亡を模索する私をじわじわと追い詰めることは、退屈な遊戯に過ぎないのかもしれない。

 いずれ私はどこかで捕まり、死あるいはそれよりもおぞましい目に遭わされる。

 黄金の蜂蜜酒を得ない限りは。


 邪神の戯れの標的にされた自称万物の霊長――今となってはお笑い種だが――はどうするべきか。

 蟷螂とうろうの斧を覚悟で血をたぎらせるか、寒気に屈してうずくまるか。


 答えを決める前に体が限界を訴え、私は椅子から転がり落ちた。膝が笑っている。それを情けないとは思わなかった。

 ここにくるまで様々な恐怖に耐えてきた老体だ。ここらでもういいだろう。

 

 私の背を支えたのは鋼のような腕。


「諦めてはいけませんよ、ミスタ・シュリュズベリィ。先ほどは酷な物言いをしたことをお詫びしましょう。あなたは独りでここに辿り着けたことを誇っていい。それがたとえ逃げるための旅路であったとしてもあなたはやり遂げた。このままむざむざやられてなるものかという人間らしい一心があった証左を私は考慮するべきでした」

 

 私の傍らに膝をついた痩せぎすの老人は見かけ以上の力強さをその身にたくわえており、土くれのように崩れかけそうな私の心と体をかろうじてつなぎとめていた。


「ホームズ、君の分を飲むといい」

 ホームズはワトソンが差し出すチューリップグラスを傾け、金色の液体をクイッと一口で干した。

 すると、私の背中にあてられた彼の掌からじんわりとしたぬくもりが感じられるようになった。

 

「ワトソン、すまないがこの指の腹にもう一滴垂らしてくれ」

 ホームズは自由な方の手の人差し指でしずくを受け取ると、

「お望みのものです。口を開いて」

 私の舌の上に垂らしたのである。

 

 蜂蜜酒ミードとは普通甘いものだ。その先入観を裏切る火のような刺激が舌から喉へ落ちていく。

 一粒の液体は胃の腑に到達するや、私の体を巡る血流に寄り添って不可思議な高揚と感動が手足の先々まで到達した。膝の震えが止まった。

 それだけではない。

 私の意識は急速に全方向に向かって広がりはじめ、一瞬で肉体の檻を突き破り、食堂さらには母屋の内側の全てに『私がいる』と認識できた。

 足を踏み入れたことのない奥の間や二階の状況まで手に取るように把握できる。

 

「一滴摂取しただけでも効能がおわかりになったでしょう」

「え、ええ。――あ、ああ。聞こえるっ」

 詳しくは語りたくない。ぼんやりとではあるが距離を隔てた場所の情報を脳で認識・処理できるようになった私の感覚器官が、今も確実にこのサウスダウン農場目指してズルッズルッと這い寄ってくる巨大な粘塊の存在を確かにキャッチした。


 狂騒状態に陥りかけた私を無視してワトソンはカーテンの向こうを指さした。

「ホームズ、地底のだけではないぞ。いくつか松明が近づいている。おそらくインスマウス面が金で雇ったならず者どもだ。悪党でも人間。苦労して農場の周囲に埋めた旧神の印の結界は役に立たんぞ」

「人生とは皮肉なものだね。こちらは犯罪捜査から身を引いたのに、殺意に満ちた犯罪者の方から僕を訪ねてくる。いいかげん放っておいてもらいたいよ」

「有名人の安息はソブリン金貨10枚でも買えないものさ」

 ワトソンはクックッと笑った。


「で、どうするんだい。ホームズ」

 帽子掛けから自分のハットを取ったワトソンの問いかけに、

「少し違う。ワトソンだったらそこまで僕に尋ねたりしない」

と奇妙な返事をしたホームズ。

 彼は愛用のステッキの握りを確かめると、その先でワトソンの胸をちょいと突いた。

「ワトソン、覚えておきたまえ。ジョン・ワトソンはああ見えて戦争経験のある激情家だ。このような事態に遭遇した際、何より先に愛用の拳銃をポケットから出しているだろう」


 私は一滴の蜂蜜酒ではや酩酊しているのだろうか。ワトソンがワトソンではないような口ぶりに聞こえる。


 ホームズは玄関で振り返った。

「僕たちの飲みかけで恐縮ですが、そこに黄金の蜂蜜酒の瓶を置いておきますよ。どう扱うかはあなたの自由意志にゆだねます」

 意外なことを言う。好奇心に負けて邪悪に飲み込まれた者には譲れないと宣言されてからまだ5分ちょっとしか経っていない。

 早すぎる手のひら返し。これはイギリス人得意の二枚舌か?


 ワトソンが私を凝視した。

「シュリュズベリィさん、それは違います。ホームズは、あなたが邪神どもの脅迫や威嚇に屈せずに3,400マイルの遠路を踏破してきたことから、あなたの臆病の裏にある勇敢さを感じ取ったのです。あなたには『立ち向かう意志』がある。まだお気づきでないだけなんだ」


名探偵の最大の理解者ワトソンが私の認識を正す。待て。なぜ私の思っていることがわかるのだ。今だけじゃない、さっきも――。


 私の考えを断ち切るかのようにホームズが引き継ぐ。

「僕はほんの少しだけ人の分析に長じていましてね。自分の結論に間違いはないと判断したのです。次なる世代の戦士に対する敬服を込めての贈り物です」

 そして、威厳のある端正な顔立ちがいくらか柔和になり、

「これを飲んで追跡者から逃げるもよし、感覚をさらに鋭敏にしてご自分の敵を直視して立ち向かうもよし、です」

と告げた。


「あなたたちは……逃げずに立ち向かうのですね」

「ここを焼かれたら、僕の老後をかなり悲観的に考え直さなくてはいけないのですよ」

「ではホームズ、農場から無粋なゲストを追い払うとしよう」

「地下のでかいのは君がやるんだぜ」

「わかってるさ」


 2人のイギリス紳士は戦いを前にして微笑んでいた。互いの背中を預けるに足る相棒の存在が彼らを『立ち向かう者』たらしめているのだ。


「ではミスタ・シュリュズベリィ。ここで先にさよならを言っておきましょう。また、いつかの夜にお会いする日まで」

 そう言うや、彼らは玄関から出て行った。


 食堂を支配する静寂。それを邪魔するのは私の不規則な呼吸音だけだ。

 ようやく黄金の蜂蜜酒を手に入れることができた。私は栓をしっかりと締めた瓶を抱きかかえる。


「それで私はどうしようというのだ」

 誰に向けるでもない独白はガス灯の光に霧散するばかり。

 

 ここから安全に逃げる方法は学習済みだ。

 蜂蜜酒を一杯飲み、ジョン・キャリントンから譲られた石笛を吹いてバイアクヘーという異形の有翼生物を召喚して飛び去ればいい。


 私の目的は果たされる。クトゥルーどもから解放されるのだ。2度と大学図書館でネクロノミコンを閲覧しないと誓おうじゃないか。

 

 おそるおそる玄関ドアの隙間から外を覗くと、静かなる格闘が行われていた。

 ホームズとワトソンに叩きのめされている複数の男たちは明らかに人間だ。

 

 ホームズがステッキで相手の喉をトトンと突いて昏倒させる。

 

 ワトソンはその鈍重そうな肉体にそぐわぬ速さで、ある男に組みつくと同時に、そのならず者は大きく回転して樽を積んだ荷車の向こうへ消えていった。

 

 ホームズの鞭のように捻り込まれた掌を下顎に食らった巨漢は、糸の切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちた。

 

 2人の格闘技術はボクシングともレスリングとも別の技術体系のそれであり、私が世界で最も強いと思っているジャック・ジョンソン(※)もこのヴィクトリア朝に若き日を過ごした老人たちに抗しえないと思えた。

 

「衰えを知らないな、ホームズ」

 ワトソンが微笑む横で最後のひとりを戦闘不能に追い込むや、

「ニッポンのバリツは無敵だ」

と言うのが聞こえた。ニッポンのバリツ。不思議な響きだ。覚えておこう。


 両掌で土埃を神経質そうにはたきながらホームズはワトソンにこともなげに

「地の底のお客人の相手を頼む。ウィップ」

と言う。ウィップとはなんだ?


「俺をウィップと――まあ、よかろう。では行ってくる」


 私はこれまで信じられないものを見てきた。

 悪臭を放つ醜悪な半魚人が足をひきずり迫ってくるのを見た。

 博物館に安置されていたオリエント彫刻の象が生身に変質して、哀れな犠牲者の血を啜るのも見た。

 そして、今。また生涯忘れえない驚異の事象を目にしている。


 血色よく肥えた老紳士が数瞬のうちに別人に成り変わった。


 黒いシルクハットは古びたカウボーイハットに。

 仕立てのよい英国正装はよくなめされた暗色の革の衣装に、背中を覆うのは黒く艶めいたマント。

 ピカピカの黒靴はテキサス風のロングブーツに。

 顔の上半分を覆う仮面、白いものがまじっていた髭は消え去って引き締まった若者の口元がのぞいていた。


 ジョン・ワトソン。世界一の名探偵の活躍をストランドマガジンに寄稿して世間に広めてきた開業医師。

 その姿とウィップと呼ばれた長身の若者はまるで重ならない。別人だ。


 ウィップの姿が地面に沈んでいく。隠されていた深い水たまりに足を踏み入れたのではない。

 固く踏みしめられた黒土の存在を無視して地下へ降りて行ったというしかない。

 呼吸は、視界は、何よりどうやってあの呪われた粘液の塊と戦うのか。

 

「考えるだけ無駄か」

 その時だった。母屋の裏手から女性の大声が響いた。

 マーサの存在を失念していた。ならず者は別方向からも侵入していたのだ。

 ホームズは即座に声のした方へ走りだした。


 バリツという謎めいた格闘術は新手の賊もたやすく制圧することは間違いない。

 私が駆け付けても意味はない。


 そして執念深く私を追ってきた邪神の眷属はウィップという若者と地下深くで

先ほどの戦いが子供のじゃれあいに見えるほどの闘争を開始していた。

 

 黄金の蜂蜜酒で増強された私の眼に映る戦いは、北欧神話の神々と巨人族の戦いが如く思え、ウィップが我々人間よりもクトゥルー達に近い存在であることを仄めかすに十分なものであった。


 みっしりと詰まった黒土や岩石をものともせず、物質を超越した戦場を飛び交うのは吐き気を催す粘液まみれの触手。

 ウィップの長手袋に装着された黒い金属刃が切り刻み、詠唱する呪文が粘液を凍結させていく。

 私の耳にはウラァァー! としか聞き取れないその力強い詠唱が触手の切断面から急速に不浄な生き物の本体にまで凍結を侵食させていき、最後はウィップの打撃の連打――その一撃のひとつひとつがフランス軍の75mm野砲級の威力――により、数百数千の端切れになるまでそう時間はかからなかった。


「再生はさせんぞ。貴様はハスターの魔天で永劫に押しつぶされていろ」

 自分の表現の乏しさが呪わしいが、『見た』ままを説明するしかない。土中に10フィートほどのゲートが開き、その向こう側の宇宙にすべてのかけらは呑み込まれていった。


 戦いは終わった。

 私は安全を確保したのだろうか。数か月ぶりに安眠できるだろうか。

 いや、クトゥルーの眷属はあれだけではない。次なる地底からの刺客が私の痕跡を嗅ぎつける前に早急にバイアクヘーを召喚してここを去るべきだ。

 ホームズさん、私は『逃げる』。安息の中で生きる。


 手の中の瓶に口をつけて黄金の蜂蜜酒を一口含む。灼熱の刺激が口内を暴れまわり、全身の力が賦活してくる。

 石笛を口にしてひと吹き。

 呪文詠唱が終わればクトゥルーの脅威から逃れられる安心が――。


「君、後ろだ!」

 感覚と反射神経が鋭敏になっている私にとって、刃物を腰だめにして突っ込んでくるならず者をやり過ごすのは難しいことではなかった。ひとりなら。

 ホームズの手を逃れた2人目の振りかざした樫のステッキが私の脳天めがけて振り下ろされ。


 無様に転がって逃げることもできた。アーカムでも、この旅路でも常に逃げてきた。どうということはない。


 ――これを飲んで追跡者から逃げるもよし、感覚をさらに鋭敏にしてご自分の敵を直視して立ち向かうもよし、です――

 なんで今ホームズの言葉を思い出すんだ。


 ――あなたには『立ち向かう意志』がある。まだお気づきでないだけなんだ――

 ワトソン、いやウィップの言葉よ、消えてしまえ!



 …………本当は逃げ続けるなんてまっぴらだったんだ!

 逃げるか立ち向かうかを自由に選べる立場になってこそ気づく本当の想い。

 私は自分の責任でこの禁忌の世界に足を踏み入れた。出ていくものか。やつらを研究し尽くしてふんぞり返った玉座から引きずりおろしてやる!


「うおおお!」

 何よりも大事な酒瓶をならず者の赤ら顔に力の限り叩きつけた。

 安息の日々への道が砕け散り、私の『立ち向かう覚悟』は不格好ながらも完成した。


 砕け散ったガラスの破片の上をのたうち回る男の脾腹につま先蹴りを入れ黙らせたホームズと、両手に構えたフライパンでもうひとりの暴漢を滅多打ちにするマーサの姿。


「おめでとう」

とだけ言ってホームズは握手を求めてきた。

 前世紀から現代への世代交代を意識せざるを得ない握手だったと、後々思い返すことになる固い握手だった。


「あらあら、特製の蜂蜜酒が」

 マーサは箒とちり取りを取りに行った。強い女性だ。この農場の召使いはこのくらいじゃないとつとまらんということか。納得できる。


「歓迎するぜ。ラバン・シュリュズベリィ」

 肩越しに振り返るとウィップが腕組みして立っていた。


「だましていたようで申し訳ない。あなたが突然訪れるものだから、彼にはワトソンを演じてもらっていたのです。ウィップも我がサウスダウン農場の蜂蜜酒のお得意様でね。ちょうど買い付けに来ていたということですよ。え、本物のワトソン?今頃ロンドンの自宅で高いびきじゃないですかね。あらためて紹介しましょう。彼は――」


 ウィップが制した。

「ウィップアーウィルだ。邪神退治こんなことしか能がない男さ」


 ウィップ、ウィップアーウィル!思い出した。アメリカ各地で伝承される夜鷹の化身。死すべき魂を狙う凶鳥。

 私が住むアーカムでも酒の席で冗談まじりに噂されているおとぎ話の主。


「同じ道を歩めばまた会うこともあるだろう。ただ、馴れ馴れしくするなよ。俺と付き合うルールはそれだけだ」

 彼は露出した形のよい口元から白い歯を見せて笑みを浮かべた。




 私はその後ミスカトニック大学で邪神に関する研究を続け、有望な若者たちとチームを結成して、クトゥルーと対決していくことになる。

 ウィップアーウィルとも懇意になっていくが、ウィップ呼びを許されるのにはもう少し時が必要だった。

 私はクトゥルーの一派からひどい拷問を受けて救出されるのだが、永遠に光を失いサングラスが手放せなくなった私に、『青い視界』という世界を霊的に見る方法を手ほどきしてくれた時だ。

 いずれそのことを詳しく語ることがあるかもしれない。私自身はおぞましいクトゥルー一派の拷問なぞ思い出したくないが。


 黄金の蜂蜜酒のことを最後に語ろう。

 シャーロック・ホームズ氏から寄贈された著書『実用養蜂便覧、女王蜂の分封に対する観察付き』の中に挟まっていた数枚の便箋には詳細な醸造方法とレシピが几帳面な字でしたためられていた。

 

 新たな立ち向かう者の誕生を祝して  S・H

 

(終わり)



(※)ジャック・ジョンソンは1914年当時のボクシング世界ヘビー級チャンピオン。史上初めての黒人王者としても知られる。 


ラバン・シュリュズベリィは、クトゥルー神話の大御所オーガスト・ダーレスの連作短編シリーズ『永劫の探求』の登場人物。

世界中でクトゥルーと対決する歴戦の邪神ハンターで、黄金の蜂蜜酒飲みまくり、バイアクヘー召喚しまくり、爆破しまくりのすごい人です。ルルイエに●●●しちゃうのはこの人だけ。

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