第20話 農場にて(中編)

世界で最も高名な探偵と愛すべき驚き役。

のちに邪神狩人の第一人者と呼ばれる教授。

作品世界を超えた知られざる邂逅の行方はいかに。

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「理由をお聞かせいただけますか。ホームズさん」

 私は最高級のトカイワインを嚥下して尋ねた。食道をとぅるりと液体が落ちていく感触を堪能するような気分になれなかった。


 夕食時にいきなり押しかけた非礼をとがめるどころか、馳走までしてくれたことで私は自分の要求が受け入れられるものとたかくくっていたかもしれない。

 甘えていたのは自分だが、少しは私の抱えている深刻な事情を聴いてくれてもいいではないか。元とはいえ、探偵という仕事は依頼人の話を聴くことから始まるはずだ。


 真向かいに座るシャーロック・ホームズは私の控えめな抗議を涼しげに受け流して、

「ミスタ―・シュリュズベリィ。私が『あれ』を製造していることをどのようにしてお知りになったのかは聞きません。そう、あなたが教鞭をとるミスカトニック大学は不思議とに縁深い。自然科学をいささかはずれた研究に夢中になってしまった碩学の一人や二人いてもおかしくありませんね」

と言ってのけた。


 口には出さなかったが答えはイエスだ。

 自然科学部の教授ジョン・キャリントン(※1)は私とは別の学術的アプローチからクトゥルーをはじめとする旧支配者や外なる神の存在にたどり着いた。

 私とジョンがアーカムの行きつけの酒場で人目を気にしつつ、忌まわしき前史の存在について語らうようになったのも自然な流れだった。


 彼は私よりもフィールドワークを重視しており、環太平洋の各国を探査し、現実に海棲生物と人間の間に産まれた存在やそれらの主人である異形の神々についての情報を持ち帰って来た。

 あるときは現地の呪術師に教えられたという難解な発音を必要とする口承の呪文の一部分まで披露したものだ。(※2)


「ご推測のとおりです。そしてこの科学の時代を嘲笑うよこしまで旧き存在のことを知ってしまいました。また、が近い将来この星の主人の座に返り咲かんとしていることもです」


「ご愁傷さまですと言うべきなのでしょうか。知らなければよかったことに気づいてしまったことを」

 そのホームズの言葉を継ぐように彼の隣に座るジョン・ワトソン博士が

「おめでとうと言うべきでしょうか。無知の罪から脱却した開明の主になれたことを」

と引き取った。


「イギリスの方の冗句は洗練されすぎてアメリカ人の私には受け入れがたいところがありますな」

 クトゥルーら邪神の存在を彼らは知悉している。その恐ろしさも不可分に。

 しかし、こちらと違って彼らの態度には恐怖に立ち向かう手段を得ている者の少なからずの傲慢が感じ取れた。


 ホームズはここで表情を少し崩して声を出さずに笑う。

「お気を悪くされたなら失礼。ミスター・シュリュズベリィ。大西洋を渡ってこの田舎までお越しいただいたお客人に対する物言いではありませんでした。謝罪いたします」

 だったら笑うなと言いたかったが、私には彼がつくる『黄金の蜂蜜酒』が必要だ。ここまで不快な思いをさせられて手ぶらでは絶対に帰れないと鋼の意志がむくむくと頭をもたげてきた。

 感謝しますよ、ミスター・ホームズ。


「ふむ。怒りをただ怒りとして発散するでなく、自らの目的を達成するための燃料にするご性格のようだ」

 ワトソンが太い指を一本立てた。そういえばこの男は医師だった。問診の延長のつもりだろうか。


「謝罪を受けましょう。そして、私のおかれている非常に不安定な状況に少しでもお気持ちが寄り添ってくだされば嬉しいのですが」


 ここは強くいこう。それなりの対価も用意している。私は何としても今夜中に『黄金の蜂蜜酒』を受け取ることを決意する。

 サウザンプトンの港までの道のり、大西洋、ニューヨーク、そしてアーカム。どこで邪悪の崇拝者に襲われても対抗できる手段を得るためにもここは硬軟織り交ぜた交渉が必要だ。


「あらためて伺います。『黄金の蜂蜜酒』をお譲りいただけない理由を」


 召使いのマーサが主人に代わってトカイワインを注いでくれる。テーブルの上をたゆたう険悪一歩手前の空気もどこ吹く風である。彼女らイギリス人が大英帝国を築けた精神力の一端を垣間見た気になる。


 ホームズの灰色のまなざしが深く私の心に入りこむ。

「あなたの状況に共感をしたとしても、僕があなたをお助けすることが必要なのかどうかということですよ」

 テーブルの下で私は掌をギュッと握り締めて耐えた。追い打ちは右斜め前から来た。

「ペストにかかった患者を駄目を元々で救うべきなのか。これ以上罹患者を出さないよう即座に隔離するのか。医師は常に悩むものです」

 なんと医師らしいせりふだろうか、ジョン・ワトソン!


 私は視線の剣先で2人のイギリス人を突いた。ホームズもワトソンも胸から血を流したりしなかったが、イギリス人特有の傲慢で固められた心に少しでもキズをつけられたらいいとは思った。


 持つ者と持たざる者の差はテーブルの向こう側とこちら側の距離より離れている。


「ミスタ―・シュリュズベリィ。あなたにあれをお譲りできない理由を聞いていただきたい。これは私の信条にもかかわることですのでね」


 聞かせてもらおうではないか。ただし、これ以上愚弄するのなら私にもそれ相応の覚悟があるところを見せなくてはならない。アメリカは銃とともに育った国であることを思い知るだろう。


「ホームズ、シュリュズベリィさんが胸の拳銃を強く意識する前に簡潔に説明してあげたらどうかね」

 ポケットの護符『旧神の印』を見抜いたホームズ。そして今、私の左胸のコルトのふくらみを察知しているワトソン。

 観察眼は常に働かせておくことが肝要だと教えられたよ。この観察力は邪神から身を守る為に不可欠である。嫌味だが優秀な教師だよ、あなた方は。


 ホームズはどこか遠くの方へ耳をそばだたせる素振りをして、先ほどドアから外を見渡した時と同じ鋭い眼でワトソンを一瞥した。

「聞こえたろう。だから簡潔にと言ったんだ」

 深くかけていた小太りの体を椅子から離したワトソンは食堂から奥の間へ出て行った。


 ローストビーフとヨークシャープディングを囲んでいるのはホームズと私だけとなった。

 彼は両の手をこすり合わせて語り始める。

「ささいなことがきっかけでの世界につま先を踏み入れてしまう不幸な方々を多く見てきました。ええ、ロンドンで諮問探偵として興味深い事件を追っているときからずっとです。彼らの不幸さはテムズ河で泥ひばりをするしかないやせ細った子供たちや、やむにやまれず春をひさぐかわいそうな立場になってしまった女性にも劣らない」

 そこまで言って彼は椅子から立ち上がった。自然、私は軽く彼を見上げるかたちになる。


「深夜のフラワーディーンストリートで不可視の何かに体を引きちぎられたトマス・ピット。テムズ河から伸びてきた触手に足をからめとられ臭い水底で生涯を終えたロバート・スワンソン。ヨークシャーの館の自室の天井に磔にされてこと切れていたレディ・オープンショウ。皆、不幸な偶然によっての注意をひいてしまった方々です」


 それは私の明日の姿かもしれないのだ。他人事ではないと思うと肌が粟立つ。


「しかし、ミスター・シュリュズベリィ。。あなたは探求心と恐怖を天秤にかけた結果、この語るも忌まわしい歴史を知ってしまった。いや、自ら調べて接近したのですよ。引き返す機会は幾度もあったにもかかわらず!」


 ホームズは窓辺のカーテンを小さく手繰り、外の様子を窺う。その背中には明らかな怒気が立ち昇っていた。


「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ、だ。文学に暗い僕ですら知ってるんだから御存知でしょう」

 

 知っている。中世イタリアの詩人ダンテの『神曲』地獄篇第三歌に登場する地獄の門に銘打たれた言葉。


「あなたは学者の探求心を理由にして自ら地獄の門をくぐってしまったのです。その責任をとろうとも考えずにね!」


 くるりとこちらを向いたホームズの糾弾は、かつて犯罪者たちを追い詰めたときと同じであろう鋭さで私の心をえぐった。

 言の葉の剣先も私は彼にかなわなかったのである。


 私が興味本位から入り、好奇心そして急速に膨らんで探求心と名前を変えた衝動に逆らいもせず、クトゥルーら邪神とそれを信奉するプリミティヴな宗教勢力に学術のメスを入れていったのは事実である。

 友人のジョン・キャリントンと同じく、のぞき見していたつもりが向こう側からも覗き込まれていたことを知り、霊的な加護をもって身を守るために奔走していることも否定すまい。


 ジョン・キャリントンが南洋で入手した『旧神の印』のおかげでインスマウス面と呼ばれる水棲生物の血をひく者たちやアジアの秘境から欧米に進出してきたトゥチョトゥチョ人、喰人鬼グールから距離をとれているうちはよかった。


 護符が通用しない悪しき力を有するもの、即ちクトゥルーの落とし仔と称される巨大な眷属、魔境の象が如きチャウグナール・ファウグン、ゾンビ―の王グラーキといった面々が私に目をつけ始めたのだ。

 頼りにしていた護符をものともしない禍々しい生き物の跳梁を知った時、ジョン・キャリントンは南洋に出かけていて連絡がとれず、アーカム近郊の魔術に通暁した者達も私を救うことを拒否した。巻き添えは誰だってごめんだろう。


 さる情報屋から入手した「黄金の蜂蜜酒と石笛があれば邪神から身を守れる」という話は善なる神――存在すればだが――の導きに思えた。

 その特殊なアーティファクトを製造している者達で最も早くその所在が知れたのがこのイングランドの南端にある養蜂業を営む目の前の元名探偵であったのだ。

 私は『旧神の印』とコルト拳銃のほかに小切手を用意していた。アーカムのカーウェンストリートにある自宅を売り払えばそれなりの金額になるはずだ。


「小切手に500ポンドと書かれてもホームズは首を縦には振らないでしょう。ホームズは金の問題ではなく、邪神の領域に足を踏み入れてしまったあなたの覚悟を問題にしているのです」

 再び食堂に姿を現したワトソンだった。

 その手にしているのはインペリアル・トカイのお代わりではなく――。


「それ……は」

「サウスダウン農場謹製の黄金の蜂蜜酒ですよ」

「お、おお!」

「逃げることだけ考えている者がその瓶に触れることは許さない」

 反射的に伸ばした私の手をホームズの声の鞭が打ちのめす。


「これは、人類など塵芥程度にしか思っていない宇宙から来た神々に

を持つ者だけが触れられるのですよ、ミスター・シュリュズベリィ」


「立ち向かう、ですと。警察も軍隊も魔術師もかなわない超常の力をもつ存在に立ち向かうですと!?」


「覚悟。覚悟をかき集めることです。あなたが生きてアーカムに帰りたいならね」

 ワトソンのセリフが引っ掛かった。


「どういう意味です……まさか」


「いまこの農場へ向かっているものがいます。僕とワトソンには聞こえているのですよ。あなたを追って地下深くを這いずる音がね」


 私の最悪の想定をホームズは残酷に肯定した。


(続く)


(※1)第16話「エンディングの後で」に登場

(※2)呪文のその後については第17話「死神は2度ベルを鳴らす」参照

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