第20話 農場にて(前編)

今回は、クトゥルー神話の有名アイテムについて。有名人も出てきます。

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 その8月は人類が初めて世界大戦という愚挙に突入した、いつもと空気が違う8月だった。


 私の祖国アメリカは中立を宣言し、巨大な暴力の渦から距離をとってはいるものの、乱雑に飛び交う弾丸がいつ大西洋を越えて飛んでくるか国民は不安を抱いていた。


 しかし、私の心の大半を占める不安の種は世界大戦よりも邪悪で不浄な事象であり、その懸案解消のために危険な大西洋―――ドイツ帝国の潜水艦が無差別攻撃を始めるという噂は本当だろうか―――を渡ってイギリス南端のサセックス州までやってきた次第だ。


 鉄道から馬車に乗り換えて、目指すサウスダウンの農園にたどり着いたのは夏の陽がなだらかな丘陵の向こうに姿を消しかけた頃合いだった。


 見ず知らずの相手の家を訪問するにはいささか礼を失する時間かもしれず、村の宿に一泊してからとも考えなくもなかったが、旧大陸にあっても我が身に迫る危機は回避できたと誰が保証してくれようか。

 ボストンを出発する前に電報は打ってある。相手が寛容な人間であることに期待して農園へつながる道を歩くことにした。両側の草はきれいに刈り込まれている。


 農園の中心部にある母屋は、のどかな農園風景から少し浮いているようにも思えるスティック・イーストレイク様式のそれであった。

 これは19世紀後半に流行した、比較的新しい建築様式で、外壁に張られた板が必ず水平、垂直または対角線と角度を意識して張られている。

 レンガの煙突を生やした半切妻屋根は急傾斜で、切り落とされた両妻の頂上部には窓がはめられている。

 一階は前方にせり出していて、二階部分のポーチになっている。


 この家と農場を買うのはそれ相応の資産がないと難しい。この農場主は世間の評判通りに本業で図抜けた存在だったことは間違いない。

 一介の大学教授の私とは大違いだ。

 

 母屋の一階から光が漏れており、主人が在宅していることは確認できた。

 私は頑丈なオーク材の扉のノッカーを打ちつけた。

 

 待つこと十数秒。

「どなたさまでしょうか」

 張りのある老女の声。

「こんな時間に失礼。私はアメリカ―――」

 答えきる前に扉が開き、ドアノブをつかむ骨ばった手が見えた。

「電報をいただいていた教授ですな。ようこそ。ちょうど夕食を摂ろうとしていた時でね。あなたは運がいい。マーサのローストビーフとヨークシャープディングを味わえるのだから」

 そう言って、同年代の痩せた長身の紳士は私と握手を交わすと母屋の中に私を招き入れた。

 扉を閉じるときに外を一瞥した目は鷹のように鋭いものだった。


「マーサ、遠来のお客人に君の自慢の料理をサーブしてくれ」

 マーサは、農場主より10歳は年長と思われる小柄な老女だったが、にこやかな表情と滑るような足取りは若々しいものだった。

「マーサは僕がロンドンにいたときの下宿の主人でしてね。今もこうして田舎でだらしのない僕の身の回りの面倒を見てくれているのですよ」

 農場主―――60歳は超えているはずだが引き締まった体と黒々とした髪の毛は彼の全盛期の姿を髣髴とさせるものだった。


「お、そうだ。彼を紹介しましょう。あなたの御用にも通じている人物ですよ」

と言って農場主は食堂のテーブルを見回すが誰もいなかった。

「いやあ、すまない。ディナーにはせっかくだから私のお土産のこいつを開けなきゃと思って探していたんだ」

 私達が入ってきたのとは反対側のドアから入ってきたのは、髪にいくらか白いものがまじったふくよかな紳士だった。その片手には明らかに年代物と知れるフルボトルが掲げられている。

  

「そうだった!君の素晴らしいお土産のことをすっかり忘れていたよ。インペリアル・トカイ!」

 

 主人の言葉に驚きを隠せなかった。

 トカイワインの最上もの!?ワインに詳しくない私だってそれくらいは知っている。どうしてこんなところにそれがあるのか。だってあれは―――。


「お客さん。そうですよ、正真正銘。ウィーンのシェーンブルン宮殿のセラーからいただいたインペリアルです。エッセンシア種ですから甘いのだが、もし甘口がお嫌でなければおつきあいいただけますかな」

 私の心を読んだかのような説明の後に小太りの紳士が微笑む。

「そ、それは光栄です」


 痩身の主人が、うかつだったと広く知性的な額に掌をあてた。

「これは失礼をしました。自己紹介がまだでしたね」

 深みまで覗き込むような黒い瞳が光った。


「ホームズ。シャーロック・ホームズです。ようこそ私のサウスダウン農場へ。そしてこちらは―――」

 世界一の諮問探偵はテーブル向こうでトカイワインの瓶を開けている紳士へ手を向けた。

「ジョン・ワトソンです。医者を引退していたのですが、この戦争です。来月から大英帝国軍医に復帰する予定でしてね」

 シャーロック・ホームズの同居人にして記録著述者としてワトソン氏の名前も広く知られている。


 この高名な2人に対して気おくれしたが、私も名乗らなくては。

 その時シャーロック・ホームズが愉しげに細長い指を自らの口元に添えた。


「電報では私の農業について教えを請いたいという内容でしたが、それは半分真実。残りの半分はお隠しになってましたね」

「それはどういうことでしょう?」


 ホームズは首を傾けながら両の掌をこすり合わせる。

「簡単なことです。あなたのような哲学の教授が引退した諮問探偵に農業の講義を依頼するわけがない。イギリスとアメリカの農業は基本から違います。仮にイギリス型農業を学ぶならロンドン大学でもオックスフォード大学でも行くはずです」


「それは―――」

 ホームズは私とよく似た鷲のような鼻梁に少しシワを寄せて、

「私は養蜂については少なからず他人にお教えできますがね。かつてロンドンで犯罪界を細かく観察したように小さな働き蜂を観察してきた成果がこれです」

と傍らにあった本を取り上げてかざした。


 実用養蜂便覧、女王蜂の分封に対する観察付き


と銘打たれた表紙が灯りに輝く。


「あなたのお目当ては私の養蜂に関係があるという意味で半分真実と申し上げたのですよ。そして、残り半分は―――」


 ホームズだけでなく、ワトソンまでもが同じような視線で私の心の奥を貫く。


「クトゥルーという名の神とその信奉者たちから身を守る手段が欲しかったのではないですか。サウスダウン農場特製の『黄金の蜂蜜酒』があれば奴らの接近を避けられますからね。スーツのポケットからのぞいてるそれは『旧神の印』の石でしょう。つまりあなたは、かつて地球を支配した邪悪な勢力と戦う決意を固めた狩人になったか、折り悪く巻き込まれてしまった不幸な獲物のどちらかでしょうな」


 私はあっけにとられていた。世界最高の名探偵の冴えはいまだ健在で、私は目をぱちくりとさせるだけで精一杯だった。

「そ、そのとおりです……。私は『黄金の蜂蜜酒』をわけていただきたくて失礼を承知でここまで来ました」


「おっと失礼しました。初対面の相手のことを言い当てるのは私の職業病でしてね」

「おい、ホームズ。職業だろう。今の君は農場の人間なんだ」

 つっこみを入れるワトソンの顔には『またやったか』と書いてある。


「皆さま、お夕飯が冷めてしまいますよ。ささ、お席にどうぞ」

 マーサが急かす。


「ミスカトニック大学のラバン・シュリュズベリィ教授。あなたを歓迎しますよ。さあ、トカイをどうぞ」

 完全にホームズのペースに乗せられた私はグラスに注がれる艶めいた液体に目をやるしかなかった。


「では教授とワトソン君の来訪を祝して乾杯」


 最高級の甘美なトカイワインを飲んだホームズは、テーブルの向こうから冷ややかに宣告した。


「シュリュズベリィ教授、最初に申し上げておきます。ご所望の『黄金の蜂蜜酒』をおわけすることはできません」


 私の舌の上を踊っていた美酒が瞬時に味を失った。


(中編へ続く)


 





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