第18話 屋根裏の小説家(1)

 昼食べたトーストの消化作業をとうの昔に終わらせていた胃袋が、

次の仕事夕食を寄越せと騒ぎ始める頃。

 階下で電話が鳴り響いた。 

 

  姉ジェインの血を滴らせた斧が時間をかけて振り上げられる。それを振り下ろ すのは一瞬だろうか。希望をすべて打ち砕かれたクリスは、壁に背をつけたまま 逃げることを諦めて最期の瞬間を待つ。

 

 タイプする手を休めひと呼吸。


 しばらくすれば止むだろうと放っておいたが、電話は意地でも耳障りな絶叫を続けるようだ。

 原稿に集中させないつもりか、くそshit

 私は型落ちのワープロから離れ、屋根裏部屋からスキージャンプ台めいた急勾配の階段を慎重に下りる。足を踏み外したら骨折は免れない欠陥設計だ。


 1階のキッチン脇にある電話は、そこにたどり着くまでにおとなしくなってくれないかという私の希望を無視して、忌々しいセミのように鳴き続けた。

 その生命を断ち切るために、勇敢な私は受話器をとる。



「どちらさま」

「ああ、グリーンさん、いらっしゃいましたか。執筆にお忙しいでしょうから単刀直入に言います。先月の家賃はいついただけるんでしょうかね」

 五月蠅さに負けてしまった自分を呪いたい。電話を毛布で幾重にもくるんで放置しておくべきだった。

 電話の相手大家は、ガタのきている貸家の家賃を滞納する売れない作家とその妻の生殺与奪権を持っている。多少おおげさな表現だが事実だ。



「ああ、家賃。はい、週末に必ずお届けにあがります。ええ、振込みだなんて手数料が勿体―――いや、少しでも早くお支払いするのが私にできる誠意です」

「すでにひと月滞納していて少しでも早くとは面白いことをおっしゃいますね。さすがは作家さんだ。しかし、今週末に本当に支払える保証はあるんですか。あなたの奥さん、洗濯工場の仕事辞めてしまったそうじゃないですか」

 

 あまり広くない町の中とはいえ、よく知ってるな。

 正確には洗濯工場の経営者が突然の廃業を宣言して全員が解雇された。そのうちの一人が妻だった、だ。

 訂正しても会話に良い影響を与えるとは思えなかったし、解雇者たちの中で妻は少々幸運な方だったので、私は大家に安心材料を提供する。

「ご心配にはおよびません。彼女はもう新しい仕事に就いています」

 売れない作家と薄給のウエイトレスの夫婦の困窮を電話の向こうから透かし見られているような沈黙が流れた。

「そろそろ出版社から小切手が届く予定なので家賃はきちんとお支払いいたします。もう催促のお手間はとらせないようにしますよ、バーンズさん」

 


 電話が終わるのを見計らっていたかのように、妻のタバサが帰宅した。

 バッグをテーブルに放り投げるや、古ぼけて軋むソファにしなだれかかるように身を横たえる。

「タビー、お帰り。今日も忙しかったかい」

「まずはビールよ、ジョン」

 冷蔵庫にあった最後の缶ビールを手渡すと、彼女は勢いよく半分飲み干した。私が家でビールを飲むことはしばらくなくなった。

「疲れたろう。シャワーを浴びてくるかい?」

タビーはまた缶を傾けた。

「そうさせてもらうわ。おなかも空いてるから夕食の支度お願いね。洗濯工場の賃金は決して高くなかったけど、街道沿いのダイナーの客は総じて下品だし、作り笑顔で接しないと店主は愛想よくしろと小言を言うし、嫌になるわ」

 とまくしたてた。

 私は機嫌のよくない―――しかし、本来は頑張り屋で優しい―――タビーの頬に手を伸ばした。

「君に苦労させて済まないと思っている。もう少しだけ辛抱してくれ。原稿料が入ればこの状況はしのげる」

 私の原稿の対価はベストセラー作家のそれに比べてかなり安価である。いや、はっきり言えば二束三文だ。それでもこの田舎町の古ぼけた家の家賃と贅沢抜きの食生活は得られる。

 今は原稿掲載が決まり、小切手が郵送されてくれることだけを願った。

 大家が来週また催促の電話をしてくる前に。


 重くよどんだ鬱憤に支配されたダイニングの空気を電話が再び切り裂いた。

「大家からの催促にしては早すぎるな」

 勇気を出して電話に向かう。

 待ちに待っていた相手、オクトーバー・ダーレスの声に私は受話器を落としそうになった。ダーレスは私が原稿を送ったアーカム出版の編集者だ。


「ジョン、君が3コールで出るとは珍しいな。屋根裏部屋で執筆していると思ったから30コールまでは我慢しようと思ってたんだ」

「やあ、オック!君の連絡を待って電話の前でキャンプしていたのさ。例の原稿の小切手はもう送ってくれたのかい」

 オックは咳払いのあとに声のトーンを変えた。冷たい何かが私の背中をゆっくりと這い上がる。

「それなんだが。君の原稿―――『巫女の祈りは界境を超えて』は編集会議を通らなかった。編集長ボスの判断は、これ以上改稿しても出版は難しい、だ。非常に残念だよ、ジョン」

 ちっとも残念そうに聞こえなかった。オックの指示に従い、かなりの部分を改稿したのに。

 つまり小切手は発送されない。それどころか私の1か月近い作業時間は無残にも空費されたのだ。

「オ、オック。ちょっと待ってくれ。私は今どうしてもあの原稿を金に換えたいんだ。雑誌連載という形でもいい。なんとか世に出してもらえないか」

 オックがあくびを嚙み殺すのがわかった。

「あいにく雑誌の連載枠は順番待ちさ。君は整理番号6番くらいかな。年内は難しいだろうね」

「ではこうしよう、私が君のボスに直接話をして、あの原稿の良さを―――」

「僕の推しが下手だったから編集会議を通らなかったと聞こえるんだが。そう思ってるなら残念だよ、ジョン」

 担当編集者の興味がどんどん私と私の作品こどもから遠ざかっていくのを感じた。

 まずいぞ、オクト―バー・ダーレスは有能か無能かはさておき、出版社内で力のある編集者だ。彼との関係を断てば、私のつつましやかな作家人生は終わる。それだけは避けなくてはならない。


「そう聞こえてしまったのなら悪かった。君の仕事ぶりに文句があるわけではないんだ。わかってるさ」

「君には文才がある。今回はちょっと編集長のお気に召さなかっただけなんだ。チャンスはまた来るぞ。ジョナサン・グリーンのファンを大喜びさせる

を待っている。僕もそのファンの1人だってことを忘れないでくれよ」

 オック、手元の原稿はちゃんと返送してくれるだろうな。

はもう書き始めているんだ。長くは待たせない」

「ほう、僕は世界で最初に新作の構想を聞けるんだな。君のファンにねたまれてしまうな!」

 

 即興で考えた新作の構想をオックに話す。編集者の興味を惹き、飽きさせないことが私とタビーの生活の安定に必要なのだ。

 ジャンルは私の得意とするホラー。得意というか、ホラー小説で2度重版がかかったことがキャリアピークの私はホラー作家と自認するしかないのだが。

 近郊の町で起きるいくつかの怪事件が巧妙に絡み合い、読者を翻弄する。そしてクライマックスでその複数の事件が一本の衝撃にまとまって―――。


 思いつくままに喋り終えると、電話の向こうのオックは満足そうに笑った。

「早く原稿を送ってくれよ。この電話から太古の邪神にささげる呪文が聞こえてきたみたいな迫力だったぜ、ジョン。あまり待たせるとこちらから刈り取りに行くからな」

 しまった!

 オックを楽しませるために即興で喋ったネタの半分も覚えちゃいない。メモしながら話すべきだった。

「じゃあ、今のブルっちまう話をよろしくな。今の僕の率直な感想を言おう。『そいつは本になるぜ、きっと』」

 


 電話が終わると、虚脱感が私の膝をがくがくと震わせる。

 駆け寄ってきたタビーが私を抱きしめる。

「ジョン、あなたは間違ってない。次の作品はうまくいくわ。だから元気を出して。私も頑張って稼ぐから」

 タビーの激励はちょっと酒臭かったが、子供のいない我々夫婦の絆を感じさせてくれるものだった。

「僕がオックに話した新作のネタ、実は今適当に作ったので、言ったそばから忘れてしまってるんだが、どんな内容だったか教えてくれないか」

「......ごめんなさい。盗み聞きになると思ってよく聞いてなかったの」

 

 彼女はとても優しくて機転の利く妻だ。私の誇りだ。

 そんな彼女に一日中立ちっぱなしの重労働をさせて糊口をしのいでいる売れない作家ジョナサン・グリーン。

 私がやれることは、彼女のために夕食のクラムチャウダーとツナサラダを作ること。

 そのあとは屋根裏部屋のワープロに向かう。

 出版社の会議卓に積まれた山のような順番待ち原稿の中から、編集長やオックに『こいつは金になるぜ』と主張する作品を生み出さなきゃならない。


 私はオックとの電話の内容を思い出しながら、次の作品のピース集めを始めた。

 あっけないボツ通告のせいで落ち込んでいる。否定しない。否定できない。

 だが、私のような書くことしかできない人間は、何があろうが書き続けるしかない。

 これはと思うネタの欠片を興味深く見えるように加工して、文字の連なりを延々とつなげていく。ひたすら繰り返す。

 書くことで何かに耐え、書くことで何かを貫く。

 泣きながら、怒りながら、にやつきながら、叫びながら。書き続ける。


 明け方まで何度も何度もメモ帳を破いた。自分の着想の乏しさに涙した。

 

 血走った目で妻のために質素な朝食を作り、送り出した後、寝不足の頭で屋根裏部屋に戻ろうとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。

 私の運命を変える来訪者だった。



(続く)

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