第18話 屋根裏の小説家(2)
腫れぼったい目で魚眼レンズを覗き、驚いた私はあわててドアを開けた。
オクトーバー・ダーレスその人が薄ら笑いを浮かべて立っていた。
「オック!一体どうしたんだい」
痩せた長身をオーダーメイドのブラックスーツで包んだ敏腕編集者は、私が横に飛び退いて道を開けるまで悠然と待っていた。
大家のバーンズとは別の意味で私の生殺与奪権を握っている彼の立ち振る舞いは王侯貴族のそれを想起させるものであった。
「奥様はもうお出かけだね」
「あ、ああ。19時まで仕事なんだ」
「ふむ。ではそれまでは屋根裏部屋に籠ろうじゃないか」
「どういうことだい」
オクトーバー・ダーレスは上から私の顔を覗き込むようにして言ったのだ。
「ジョナサン・グリーンはこれから最も恐ろしいホラー小説を産み出す。作品が完成するまで僕は毎日通う。ホラー小説に通じたアドバイザーとしてね」
何人も作家を抱えているであろう敏腕編集者が、売れない作家のためにここまで
するか。私の疑問は至極当然のものだろう。
「ジョン、僕は君の文章が化ける可能性に賭けてるんだ。僕を失望させないように頼むぜ」
「そ、その気持ちはとてもありがたい。しかし、毎日って他の仕事は大丈夫なのかい」
「心配無用だ。24時間付きっ切りというわけじゃない。君の奥様が帰宅する前には失礼する。そのあとに自分の仕事を片付けるさ。ちなみに奥様の休みは―――日曜か。では日曜は互いに休もう。それ以外の日は新作だけに集中してもらう。君が一日でも早く原稿を完成させてくれれば嬉しいね。お互いハードワークだが、アメリカ、いや世界を怖がらせる傑作のためにやり遂げよう、ジョン」
オックの言葉は興奮剤のように私の心をたぎらせ、睡眠不足を忘れさせた。オックが私に賭けている。私の才能を見出してくれている。私は作家としてそれに応えたい気持ちに満たされた。
絶対に成功してタビーに楽をさせてやりたい。家賃の催促にびくつかない生活を。
そのために飛ぶように売れる本を書く。オックのアドバイスがあればいける。それは確信だった。
「コーヒー、昼食は僕がサーブしよう。なあに、こんなことは慣れてる。ジョン、君はひたすら思考とタイプに徹してほしい」
私が異を唱えることはできなかった。オックはただ決定事項を告げるのだ。
「床に散乱していたプロットを見たが迷走しているな」
私たちはこれから産み出す物語のテーマについて語り合っていた。
「ホラーは人間の最も原始的な本能―――恐怖に訴えるものだ。つまり、日常を殺せ、常識を殺せ、理性を殺せ。これでいい」
オックの説く理論は簡素で直球。目的地へ最短距離で到達する。
「そ、そういうものなのかな。序盤、中盤と物語の背景や謎の提示、非現実に足を踏み入れたキャラクターの心理を丁寧に描いて、終盤に向けてボルテージを高めていくものがホラー小説の基本だと―――」
「その基本とやらを優等生みたいに順守した結果はどうだった」
オックは短いつぶやきで私の心臓をえぐる。その基本からはみ出さないようにやってきた結果が、今の自分の境遇なのだ。
「基本をないがしろにしろとは言わない。その基本の真上にバケツ一杯の鮮血をぶちまけて塗りたくっちまえと思うだけだ。それが新しい時代に君臨するホラーの帝王の文章表現。君が座る玉座へのレッドカーペットだ」
「
「君が創造主、僕は君の言葉を紡ぐ預言者。そんな立ち位置でやっていこう。主役はワープロのキーを叩いて読者を引きずり込む君さ」
オックは立ち上がると階下へ通じるドアへ音もなく向かう。
「さて、預言者はコーヒーを淹れてこよう」
「か、階段に気を付けてくれ。慣れてる自分でも時折踏み外しそうになるんだ」
「薄暗い階下で首と手足があらぬ方向にねじ曲がったまま放置されている
天窓からの光が床にまき散らされたプロットの紙屑を照らしている。さながら風化して散らばる白い骨片のよう。その骨の主はきっと今朝までの私に違いない。
預言者オックが先触れの喇叭を吹き鳴らす中、鮮血の足跡をペーパーバッグに押し付けながら行進する
オックのアドバイスは的確で、凡愚な私の目を何度も覚まさせるものだった。
「オック、君の意見はグロテスクへの執着と倫理破壊が過剰すぎるようだ。クライヴ・パーカーのようなとんがりすぎたホラーは一部のマニアしかついてこれない」
「そうだな。ではストーリーが転換するごとに、わざとらしく希望の灯をかざしてやろうじゃないか。読者はその灯を追ってページをめくる。君はそいつらに捕まらないようどんどん先にすすむ。そして終盤になったら手元の灯をパッと吹き消してやれ。残るのは絶望のエンディングだ。突き落とされる快感が癖になった読者は『ジョナサン・グリーン、続きをを!新作を!』とおねだりするのさ」
彼の自信に満ちた口元が笑みを形作ると、私にも自信が伝播する。
「オック、聞きたいんだがこの殺戮の現場に集まった主要人物達は相反する反応示すのが自然だ。それぞれから恐怖を感じているさまを伝えきるのはなかなかに難しいが―――」
彼は私の問いかけや逡巡を最後まで聞かない。断ち切って、ただ預言するのだ。
「簡単だ。ひたすら読者の心をかきむしってやればいい。真っ暗闇で手すりのない崖っぷちを走らせればいい。そして、いいか。大事なことは韻を踏むことだ。そう、忘れ去られた異教の神々を呼び出す呪文のように。ページをめくる手を止めさせない呪われたリリックを常に意識しろ」
不思議とオックの助言を聞くたびに、それにかなう文章が浮かんできた。タイプの手が休まることはない。
すさまじいまでの血と暴力、徹底的に踏みにじられる生命の尊厳、人知を超越した存在の無情なふるまい、そして読後までまとわりつく恐怖と続きへの渇望。
序盤を書き上げたところでここまでの手ごたえを感じたのは初めてだ。
この作品は売れる。この作品は読まれる。この作品は希求される。
そんな確信が分不相応にも私を覆い、キーをタイプする手がガタガタと震える始末だった。
2度目のコーヒーブレイク。
オックの淹れたコーヒーは馥郁たる香りと気持ちを高揚させる酸味が利いた素晴らしい一杯だ。。
「君の淹れてくれるコーヒーのおかげで原稿がとてもはかどる。うちのキッチンにある豆をどうブレンドすればこのような味に化けるのか教えてくれないか」
オックは目を細めて微笑む。
「差し入れだ。アーカムにいい豆を仕入れる店があってね。だが豆がいいだけじゃない。淹れ方がいいんだ」
お世辞抜きで絶品のコーヒー。この奇妙な二人三脚が終われば、これが味わえなくなるかと思うと悲しくなる。
天窓から光が喪われていき、薄暗くなるころ。
「もう奥様の戻る時間だ。ここまでにしよう。明日の昼飯はアーカムで人気のチャイナフードを買ってくるよ」
たしかに19時近い。家の掃除も夕食の支度もしないままに原稿に没頭した一日だった。
「本当に感謝しているよ。スティーブン・キングが憑依したような気持ちで書けたよ。このペースなら一週間で一冊はいけそうだ」
片目をつむった敏腕編集者はこう返したものだ。
「馬鹿言うなよ。キングの椅子に君が座るんだ。今日はホラー小説の歴史が変わった日と後に言われるだろうな」
最上級の賞賛に気持ちが高揚していた。オックの言葉を信じかけている自分がいる。
「お帰り、タビー。すまないが原稿に夢中になってて夕飯の支度はこれからなんだ。シャワーでも浴びててくれ」
「ジョン、あなたゆうべは徹夜だったのに大丈夫?」
「ああ、タイピングが苦痛じゃないってのは素晴らしいことさ」
妻が気づかってくれるが無用の心配だ。私はもう一晩徹夜してもいいくらい気分が乗っていた。すぐにでも屋根裏部屋に行って続きを書きたいのだ。
冷凍食品をレンジに入れ、粉末スープの素を鍋の湯に投じる。
今日は少し手抜きさせてもらおう。
零時近く。私は屋根裏部屋で何一つ進められずにいた。
ワープロを前にしても、資料の書籍のページを手繰っていても、作品とキャラクターは1フィートも動いてくれないまま数時間が経過している。
額にびっしりと浮いた汗をタオルで拭い、執筆机をバンと叩いた。
どうしてだ!?泉のように湧き出たアイデアと詩想が一気に枯れたのだ。
昼の執筆で今日出せるものを出し尽くしてしまったのだろうか。
オックに電話しようと思ったが、彼は今自分の仕事にかかりきりだろう。そこまで迷惑はかけられない。
書き進めていた時の高揚感と、現在の失速感が私の神経を絶えず震わせ続けている。安酒をたらふく飲んだ後の酩酊にも似た……。
休むことにした。明日に備えて寝ておくべきだ。
洗面所で睡眠薬を飲み、ベッドに潜り込む。
半ば意識のある状態でひどい夢を見た。
目覚めるとその内容はすとんと頭から抜け落ちてしまっていたが。
朝食を作り、妻を送り出してからシャワーを浴びた。
昨日と同じ時間にオックはやってきた。
途端、創作意欲が湧きあがり、脳は今日これから書き進める展開をどんどん閃かせ始めた。
夕べの苦悩はなんだったのだろう。書ける、書けるぞ私は。
「さあ仕事に入ろう。コーヒーは必要か、ジョン」
(続く)
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