第17話 死神は2度ベルを鳴らす(完)


 ミリアムは寝室から持って来た毛布でミズ・マーティンの遺体を覆い、彼女の死後の安寧を神に祈った。

 「その神が今の事態もどうにかしてくれるといいんだがな」

 ウィップアーウィルは革の衣のポケットから小さなガラス瓶を取り出すと、ややとろみのある黄金の液体を口に含んだ。

 「君も飲め」

とミリアムに小瓶を渡す。一口分ほど残っている。

 「今ここへ近づいてくる神は風に乗りて歩むものイタカという。いまいましいトゥチョトゥチョ人どもが召喚した目的は君の抹殺。氷の風の威力はさっき味わった通りだ」

 夜鷹が普段マントにしているショゴスが壁になって防御しなかったら、山荘は倒壊していたに違いない。


 「ショゴスもあれを何度も防げない。旧支配者グレートオールドワンズに捕まると―――説明したくない目に遭う。最適解は『逃げる』ことだ」

 逃げる?この地吹雪の中をどうやって?外気はとうにマイナス15度を下回っている。

 「手段はある。だから早くそれを飲め」

 手元の小瓶を傾けて液体を嚥下する。舌と喉が一瞬熱くなり、全身に軽いしびれのようなさざ波がひろがる。

 液体は蜂蜜酒ミードのようであった。味はある種快感を伴い、おかわりを求めたくなるほど。

 「今から窓を開けるが、絶対にイタカあれを視るな。恐怖でショック死されたら、俺は手ぶらで帰らなければならん」

 夜鷹が自分を助ける理由は自分の脳内の呪文が必要だから。ミズ・マーティンに誓ったとはいえ、自分のことは邪神退治に使える道具としか見ていないらしい。

  

 夜鷹は開けた窓から身を乗り出すや、手にした石の笛を吹いた。

 その音色はごうごうと鳴る風に蹴散らかされてしまったのだが、吹いた本人は構わない様子である。

 山荘が強風によって激しく揺さぶられた。ふたたび防風壁となって倒壊を防いだショゴスの表面がヴルヴルと蠕動する。

 「これ以上はまずい。ショゴス、戻れ」

 窓口から大量の粘液がどどっと流れ込み、夜鷹の背中を覆うマントに変わった。

 守るものがいなくなった窓辺の向こうへ眼を凝らした夜鷹、拳で窓枠を叩く。

 「強風でバイアクヘーを近づけさせないつもりか」

 バイアクヘー。どこかで聞いた言葉。ミリアムは祖父の日記帳にその名が書かれていたことを思いだす。夜鷹とその仲間が移動に使う飛行生物。彼らがバイアクヘーを呼ぶ際、必ず黄金の蜂蜜酒を飲むとも記されていた。

 先ほど飲まされたものがそれで、夜鷹は自分を連れバイアクヘーでこの山荘から脱出するつもりなのだ。

 「どうするのです。できればミズ・マーティンも一緒に―――」

と夜鷹のいる窓辺に近づこうとしたところを長手袋の掌で強く押し返された。危うく転びそうになる。

 「後ろを向いていろ。イタカが現れた」

 

 闇をも見通す夜鷹の『蒼い視界』は町とは反対側にある針葉樹の森から浮かび上がる巨大な人影をとらえている。

 20メートルはある木々の上端は巨影の腰に届くかどうか。

 肉づき乏しいデッサン人形に似た全身は腐敗肉の色で覆われている。身長の8割にもなろうかという長い両腕―――同じく異様に長い指とかぎづめ―――を地にこすりつけて歩く。

 縦長に引き伸ばした頭骨に皮膚を直接貼り付けたような顔―――何かの冗談かのように申し訳程度の頭髪がたなびいている―――は、これもまた長い首から前方にだらんと垂れ下がって、白い呼気を吐き出していた。

 

 「イタカ・ザ・ウェンディゴ。雪と風の支配者」

 夜鷹の声にこたえるかのように、イタカは山荘に向けて鋭く息を吹く。

 「容赦ないな!」

 夜鷹はミリアムとミズ・マーティンの遺体の方へ跳躍、イタカの放った強風に背を向ける形で娘と遺体をかばった。その背後、ショゴスマントが天幕のように広がる。

 爆撃のような雪と風によってミリアムの視覚と聴覚はめちゃくちゃにかき回され、意識を失いそうになる。周りで山荘が木と石に分解され散乱していく。

 露出している顔にあたる空気が一気に冷たくなる。雪風を防ぐ屋根も壁もすでに用をなさないまでに破壊され、無事なのはショゴスに守られた直径数メートルの範囲だけであることがわかった。

 「よくやったぞ、ショゴス」

 黒い収縮生物がゆっくりとマントの形に戻っていく。ミリアムにもショゴスが肉体的な限界を迎えているのがわかった。

 「黄金の蜂蜜酒を飲んでいるから体温が奪われることはない」

 夜鷹の言うとおりだった。急激な寒暖差によるショック症状も副交感神経の異常もない。

 「俺達を守る城壁はどこにもない。バイアクヘーに乗って退却する―――と言いたいが、ここに降りてきたところを狙われたら終わりだ」

 「どこへ逃げるのですか」

 退却でも逃亡でもいい。この雪と風の地獄から脱出できるならどこへでも行こう。

 「セラエノさ」

 セラエノ。夜鷹はそこから直接山荘へ来たと言っていた。アメリカ北東部にそんな地名があっただろうか。

 「あなたの来たところですね。遠いのですか」

 「遠いな。だが

 不可解な回答。

 ミリアムの次の質問を断ち切るかのように夜鷹が夜空の一角を指さした。

 黒ビロードの夜天に青白い星々がちりばめられている。

 おうし座の一角、『すばる』と呼ばれる有名なプレアデス星団が見える。

 「アルデバラン(おうし座の1等星)近くのヒアデス星団に惑星セラエノはある」

 ヒアデス星団。惑星。つまり宇宙!?

 「君をセラエノに連れていくのは予定外イレギュラーだ。しかし、俺は君を守ると彼女に誓ってしまった」

 夜鷹は毛布に覆われた『彼女』に目線を落とし、

 「イタカやクトゥルーの手が届かない最も安全な場所に君を護送する。そしてセラエノの大図書館で調査・解析すれば、君の命を奪わずに邪神対抗呪文を取り出せるかもしれないと考えたのだ」

と続けた。


 仮面の奥の目がミリアムの青い目を貫く。

 「ここさえ切り抜けられれば君は死なない。しかし、もう普通の人生を送ることは不可能だ。旧支配者とその信奉者からすれば殺害対象、俺達イエローサインにとっては監視下におくべき研究対象。どっちもどっちの運命かもしれん」

 つまり。

 「ミリアム・キャリントンは。そのあとは名前をなくした女が誰にも知られることなく星々の世界に隠れ住む。こんな運命、受け入れられるか?今すぐ殺してほしいなら叶える。脳はいただいていくが」

 

 ミリアムは今までの平凡な人生で幾度か『死んだ方がマシ』と言ったことがある。もちろん誰もがそうであるように、本当に死ぬ気で言ったわけではない。

 しかし、今の状況は本当に死んだ方がマシかもと思える。

 選択肢は提示されているが形だけだ。

 どれを選んでも私の望む終わり方じゃない。そんなの認めたくない。許せない。

 「……ウィップアーウィル。やはりあなた、お父様の遺書にあったとおりの死神だった。どれを選んでも私は死ぬのだから」

 今頃になってまた涙が出てきた。この極寒の中で流す涙は蜂蜜酒の効果か凍結せずに頬を流れ落ちていく。

 

 「もう家族はいない。頼れるひともいない。そんな私がこんな残酷な世界で選べる道はひとつしかない。家族を、ミズ・マーティンを、そして自由に生きることを断念しなくてはいけない一人の女を殺したグレートオールドワンズとやらに一泡吹かせることよ」

 彼女は人生で最後に流した涙をぬぐった。

 「セラエノへ行きます。そこでモルモットになろうが、脳だけとられて捨てられようが、少しでも生き延びてやるわ。それがお父様の遺言にかなうことで、ミズ・マーティンの願いで、私の決意。だから今はここを切り抜けましょう」

 ミリアム・キャリントンの双眸に光る祖父ジョン、父ケヴィンと同じ覚悟。


 夜鷹はショゴスマントを脱ぎ捨て、木材の散乱する雪の丘を、彼方の森に向けて降りていく。

 「どのみちセラエノへ行くにはバイアクヘーがここに降りられなくてはな。それを邪魔する元凶イタカは俺が排除する。少し弱っているがショゴスが君と彼女を守るだろう。くれぐれもイタカを視ないよう注意しろ」

 

 ミリアムに背を向けているために彼女はついぞ見ることができなかったが、夜鷹の口元には微笑みが浮かんでいた。

 「だから人間ってのは面白い。賭けてみたくなる」

 誰も聞くことないつぶやきが丘の斜面を流れていく。

 

 一方のイタカも抹殺対象のいる丘へ音もなく歩を進めていた。

 その空洞めいた両眼は山荘が建っていたあたりに注がれ、自分に接近してくる男の存在は無視である。

 強大な神ハスターに従属している存在のイタカだが、たかだかイエローサインの男など取るに足らない。

 旧支配者として当然の態度であった。

 巨大な口腔には白く結氷した空気が吸い集められ、今まさにとどめの一矢を撃とうかというところ。

 

 その顎にアッパーカットよろしく黒い塊がぶち当たり、長い首から垂れ下がったイタカの頭部が斜め後ろに跳ね上がった。

 強制的に閉じられた口から上に向かって漏れ出る冷気が結晶化してきらめく。

 

 何が起こったのかと足元にゆっくりとおぞましい容貌を向けた先。

 仮面の夜鷹は立つ。

 「手強いな。効いてない」

 ビョォォォッと吹きつけられた冷気が辺りを白銀に染め上げた時、すでに夜鷹は飛び退っている。


 着地地点を巨大な影がすくい上げる。イタカの長く鋭い爪が土塊と霜を重機が如くえぐり、その上の夜鷹ごと宙に放り投げた。

 「冷気はフェイントか。抜けてる面の割に考えていやがる」

 直視した者の生命を奪う凶相を、抜けてると評せるのは彼くらいだ。

 空中で身動きがとれないところへ、さらにもう一方の巨腕が襲い掛かる。

 歴戦の邪神狩人ウィップアーウィルも旧支配者との一騎打ちとなってはここまでか。

 

 大量の空気を薙ぎながら、イタカの一撃は夜鷹の体を通り抜けていく。

 彼の秘技、物質透過が間一髪間に合った。

 くるくると回転をつけて着地した時には質量のある体に戻っている。

 

 イタカは再び彼方の丘に顔を向けて口腔を開く。冷気の嵐を撃ち込むことを優先したのだ。善戦している夜鷹を意にも介さず。

 実質無敵、不死の旧支配者は無害な小動物にいつまでも関わることはない。


 「ショゴス!」

 丘の頂上に構築された黒い防壁が強烈な冷気の攻撃を迎え討ち―――四散した。

 「限界か」

 夜鷹はその超人的な視界の中で、ショゴスがかばいきれなかったミズ・マーティンの遺体がバラバラになっていくのを確認した。

 「ミリアムだけは守りきれたようだ」

 半世紀ごしの知己の無残な最期に対して哀悼の意を示す代わりに歯軋りする。

 旧支配者への怒りがそこにある。


 ショゴスに守られたものの、後方に数メートル吹き飛ばされたミリアムは激しく咳き込んだ。

 ショゴスだったものはいくつかに分裂し蠢いている。

 傍らにあったミズ・マーティンの遺体がなくなっていた。どうなったのかは毛布の切れ端と片方の足首だけが山荘の残骸に挟まっていることで理解した。

 「!」

 怒りと悲しみに埋め尽くされた彼女はつい視てしまった。

 丘ににじりよる痩身の巨人の姿を。

 常人が垣間見てはならない狂気の世界の住人を。


 ミリアムのどこかで歯車がキィと動き出す。キィ、キィ。

 それは別の歯車とかみ合い、機関を稼働させる。

 旧支配者を直視したことで、通常の人間であれば瞬時に動きを止めたであろう心臓と血流、脳神経。精神的な機関はそれらを護り、彼女の深奥から圧倒的な情報を一方的に引き出し始める。


「キィぁアアアアきいアらぉぐはアアア―――」


 呪文と呼べるのかもわからぬ絶叫。それは彼女の父ケヴィンが数年かけてインストールした旧支配者対抗の詠唱であろうか。

 呪文自体が生きており、宿主の肉体的な死を防ぐために自ら体外に滲出するとは。

 その奇怪で説明困難な叫びは三次元の距離を無視して、イタカに届く。


 ゆうらゆうらとした巨体を感じさせない足取りで丘を目指していたイタカは何かに阻まれて動きを止めた。

 そして、あろうことか地面をえぐり取りながら引き摺る両手で、いやいやをするように悶絶するのだった。

 


 対邪神呪文、効果あり。

 それを見逃す夜鷹ではない。

 「錬成した闘魂クンフーを一点に集中して撃ち込めば、物理法則を無視する旧支配者といえども打ち貫ける。それがバリツ」

 腹部で錬成した燃える闘魂クンフーを全身の隅々にまで漲らせて、跳ぶ。

 苦しげに歪む大きく長いまとがあった。


 突き出した左膝頭にすべての闘魂クンフーを再集中。

 一撃で終わらせる。はずすことは―――ない。

 イヤァァァァァァァァァオゥッ!


 恐るべき破壊力を満たした膝蹴りを先端にし、夜鷹はイタカの顔を撃ち貫いた。 

 あたりの空間が引き裂かれ、圧縮―――静寂が戻る。

 神話から這い出でた醜悪な巨体は霧散し、その粒子ははるか夜天の高みへと吸い上げられてゆく。



 雪を踏みしめる足音が続き、丘の頂上で呆然自失状態になっている娘の前でやんだ。

 「正気は残っているな。呪文自身が発動機関の君が限界を迎える前に自動停止したらしい。意志ある呪文が勝手に発動するとは予想になかった。しかし、そのおかげでイタカを仕留める刹那の機会を得られた。君と、父のケヴィンに礼を言うべきなのだろうな」

 「……何か恐ろしいものが私の中から湧きだして……」

 「理解できないものは恐ろしいだろうが、ケヴィンの恐怖の遺産は約束どおり俺が継承させてもらう。君はすでにに足を踏み入れてしまったが、いつか地球へ帰ってこられるように努力する」

 ミリアムはおうし座の方を見上げた。ヒヤデスの星々がはめ込まれた夜空。

 「セラエノに行くのですね……」

 「死神とともにな。迎えが来たようだ」

 

 宇宙空間を飛翔する有翼生物バイアクヘーが2体、丘の中腹に舞い降りてきた。

 再生したショゴスマントを身に着けると、ウィップアーウィルは号令をかける。

 「イタカが復活する前に跳ぶぞ。バイアクヘー、フーン機関フルドライブ!」



 翌々日。

 契約通りに食料と生活物資を届けるため、キャリントン家の山荘へ向かったファーストナショナルチェーン店員が原型をとどめていない残骸を発見した。

 通報を受けて調査にあたった地元警察の見解は、

 『きわめて珍しい超局所的な地吹雪により山荘は破壊された。

 同所に滞在していた2人の女性の生死は確認できなかった』

というものだった。

 

 なお、雪どけの時期を待って近辺を再調査する予定である。



(完)

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