第14話 イエローサインの娘(中編)
(この手の家の扉が重いのは定番ね……)
軋む音とともに2人は光射す午後から室内の闇に足を踏み入れた。
故バーナード・ビリンガム邸は鎧戸、カーテンをぴったり閉め切っていた。
玄関の扉を開けたまま、配電盤を探す。
左手は大きなトランクを引きずるために使い、右手だけは常にフリーにしておきたいクリスはマグライトを若き遺産相続人に渡した。
「ええと、ここだ。ここにあった」
電源を入れたカイルは最寄りの照明スイッチに手を伸ばす。
玄関口から廊下に続く辺りの視界がひらけ、クリスは用心深く天井から階段、廊下の奥を黒縁眼鏡の奥からチェックする。物音がしないか黒髪をよけて耳を凝らす。
取り立てて妙な気配はしない。
ただし、人間の感覚でわかる範囲では、だ。
クリス・ハートマンは彼女が所属を希望している組織のエージェントたちのような超常的な力は持っていない。これから顕在化する可能性はあるが、今はただの人間だ。その力だけでこの入団試験をこなさなくてはいけない。
何も知らないイギリス人の青年は無警戒に、次々と照明を灯してまわり、庭に面したリビングのカーテンを全開にした。
(少し古臭い趣味が目立つ程度。普通の老人の住まい……)
組織がつかんだ事前情報のとおり、バーナード・ビリンガムが召喚魔術の研究に没頭してその生涯を終えたのであれば、その研究に使われた工房があるはず。
それは2階にあるということになる。
(魔術師本人が死んでも、術式は生き続けるケースだってある……工房に入るときは細心の注意がひつよ)
クリスの思考をカイルの大声が中断させる。
右手をヒップホルスターに突っ込み、奥のリビングへ走る。銃を触っている間の彼女は俊敏な兵士に変わる。
棒立ちになっているカイルを押しのけて、その視線の先にグロック17の銃口を向けた。
「頭の上に手を組んでひざまずけ」
カイルがわっと後じさり、銃を突き付けられた中年の女性はへなへなと崩れ落ちた。
「う、撃たないで。私は隣に住むダナ・ルイスよっ。何もしないから撃たないで」
「クリス、君は銃を持ってるのか」
組織の事前情報とダイナーの主人の話の両方に登場するバーナード・ビリンガムの遺体の第一発見者ダナ・ルイス。首筋にエラなし、瞳孔は人間のもの。大丈夫そうだ。
軽量自動拳銃グロック17をヒップホルスターに収めると、全身の血流が緩慢になったような感覚に襲われる。
「失礼しました。てっきり泥棒だとばかり……」
組織の指導員に注意されたことを思い出しながら、気怠げに謝罪する。
お前は状況を見ずに撃とうとする。それでは長生きできないぞ。
怪しければ撃つ。これのどこがいけないのかしら……。
「ミセス・ルイス。大変な失礼を」
カイルはダナ・ルイスが立ち上がるのを介助しつつオロオロと謝り続けた。
当のクリスはどこ吹く風とばかりに、ふらふらとダナの背後の庭を調べ始めていた。
「クリス!君って人は」
ダナを丁寧に支えたカイルがクリスのいるところまでやってくる。その怒った鼻先に左手の薬指を当て制する。ふわっとした所作であるにも関わらず、カイルの怒りは逸らされ、ダナともどもクリスの調べているものに注目するよう仕向けられた。
「ここから落ちたのね……」
そこはビリンガム邸の庭の境界。その先は崖となっており、30フィート下まで足場もない。
崖手前の芝生が一部こそぎとられており、バーナードがここから滑り落ちたのは明白であった。
「それで下の岩に叩きつけられた。発見したのはルイスさんですよね……」
ダナはカイルに目をやり、「この方、警察の方?」と尋ねる。
「いえ、アーカムの法律事務所の職員ですよ。ちょっと変わってますね。僕もたった今それを知ったところです」
クリスはじっとダナを見つめ、発見当時の状況について答えを催促する。
「そ、そうよ。あの大きな岩と隣の三角形の岩の間に挟まるように」
「血痕がありませんね。雨はここ数日降ってないはずですが……」
「私が彼を見つけたときは血は岩の間から下に流れきってしまったのだと。不思議には思わなかったわ」
それだけ言うと、両肩をぶるっと震わせてダナは隣の敷地の自宅へ戻って行った。
「クリス、カーテンを開けたら、ちょうど窓の前にルイス夫人が立ってて、大声をあげてしまったのは僕だ。でもいきなり人に銃をつきつけるなんて、アメリカではそれが流儀なのか」
「アメリカの流儀ではない。私の流儀よ。そう、あなたにも渡しておくわ。多分必要になる。そのグロックは扱いやすいわよ……」
クリスはヒップホルスターごとカイルに渡した。扱いなれないものを手にして棒立ちのカイルにお構いなしに、クリスはトランクのサイドポケットからスミス&ウェッソンM686というリボルバー拳銃を取り出してジャケットの下に取り付けたショルダーホルスターにスチャッと叩き込んだ。
「お、おい。僕は叔父さんの遺産の検分に来ただけだ。なぜ銃が必要なんだ。説明してくれよ」
「説明は2階に行けば割愛できるはず……百聞は一見に如かずよ」
黒縁眼鏡の奥の瞳はそれ以上の会話を拒否していた。
「2階がどうしたっていうんだ。君は何を知ってるんだ」
「静かに、言っても今更ね……」
階段を上がると、廊下に面した4つのドア。
トランクを置いて、そこで待つように指示するとクリスは手早く各部屋のドアを開けて内部を確認してまわった。
左側の奥の部屋だけドアが施錠されていた。クリスが預かっている鍵では開かない。彼女の細身の体格では肩からぶち当たって破ることは難しい。
「資産価値が落ちるけど。別にいいか……」
スミス&ウェッソンM686を手にするや、3.57マグナム弾を2発ドアノブ付近に撃ちこむのに何のためらいもなし。
「おい、ひとの家になんてことを」
カイルは銃をぶら下げたクリスの視線の厳しさに抗議を中断せざるを得なかった。
この娘は銃を手にすると性格が変わる。アメリカ人ってこうなのか?
「何かあったらあんたを守ることより課題を優先する」
クリスは半壊したドアを蹴っ飛ばして室内に入った。
「やっぱりね」
置かれていた
バーナード・ビリンガムは何かの召喚を企んでいた魔術師である。
おずおずとカイルが入ってくるのを無視して、室内の道具や資料を検分する。
カイルは遺産を相続してイギリスへ帰る。
クリスは魔術師が召喚しようとしていたものの正体、召喚術の成否を確認して組織に報告する。
行先は同じでも目的は全く違う2人のドライブだったのだ。
また、悲しいことに、カイルのこの旅は徒労に終わる。クリスはマサチューセッツ州の法律知識を持ち合わせておらず、カイルの遺産相続手続など手伝う気はないからだ。
(怪しまれずに潜入するために利用したのは悪いと思っている)
しかし、この調査は彼女にとっての重要な試験である。うまくやれば組織への入団を認められるが、しくじれば、余計なことを知りすぎたと判断されて、どんな目にあうかわかったものではない。
(今度はきちんとした法律事務所に依頼しなさいね)
そう割り切ったクリスはカイルへの同情を捨てた。
「なんなんだ、この気持ちの悪いものは」
叔父が魔術師だとは露ほども知らぬ―――会ったこともないから当然だ―――カイルはげんなりした顔でカーテンと窓を開けた。
夕方が近づいている。窓から陽の翳ってきた庭と崖が見渡せた。
クリスは書机の上や引き出しにしまわれていたファイルや羊皮紙の断片に目を通すのに忙しかった。
「クトゥルーやヨグ・ソトースの召喚を企んでいたわけではないようね。術式がグレート・オールド・ワンや
「クトゥルーやヨグってなんだ。君は叔父のイカれた趣味のことを知ってたのか」
「気が散るから黙れ。暇持て余してるなら窓から外見て索敵してろ。新兵」
クリスの口調は年季の入った下士官のそれに変わりはじめていた。
「索敵だって。どこに僕らの敵がいるというんだ。いや、君は一体何者なんだ?」
さすがにカイルも疑念を抱き始めた。気づくのが遅かったのは、この青年の人の好さの証明だろう。何の役にも立たないが。
「ここまでの古代文法は解読しきれない。持ち帰って専門家に託すとするか」
クリスは机の上の書類をバサッとまとめて部屋を出た。階段を上がりきった場所に置いてきたトランクに入れるためだ。
ファイルケースにしまっていると、魔術工房に残っていたカイルの悲鳴が聞こえた。
身を低くして走り、銃を構えながら飛び込む。カイルが腰を抜かして窓の外を指さしている。
「ああ、なんだ。あれは!」
クリスの黒縁眼鏡の奥の目も一瞬大きく見開かれる。
それは夕方のオレンジの光の中を漂う赤い風船に見えた。
その数は窓に切り取られた視界の中だけでも数十はある。
赤い風船はふよふよと漂い、窓外を流れていく。
クリスが窓の下に身を置いて外を覗き見ると、それは無風の中を指向性をもって流れていく。隣家のルイス邸へ、そのまた隣の家へ。さらには村の方々へ。
赤い風船の出所は目と鼻の下、ビリンガム邸の裏の崖の下。魔術師バーナードが事故死した場所したまさにそこだった。岩と岩の間から次々と噴き出している。
「ただの風船ではないわよね」
ルイス邸からダナの叫び声。そのまた向こうの家からも。それより遠くの家々からは届かないが同じような状況だろう。
赤い風船のうちいくつかが、魔術工房の窓に向かってふわふわと漂ってきた。
「クリス、窓を!窓を閉めて!」
カイルがドアまで後退する。
「ちょっと調べてからね」
窓の下からサッと立ち上がり、10フィートほどにまで迫っていた赤い風船に向かって銃撃する。
風船ならパンと破裂するところだが、それは霧散する。
後続のそれらにも無造作に弾丸を見舞う。赤い霧の花は数秒で地面に拡散していった。
「銃は有効、と」
窓を閉じてから、ポケットの予備弾倉を取り出す。
「バーナード・ビリンガムはこの部屋で禁忌の研究に没頭していた。その結果、あの赤い風船―――いや胞子といった方がいいか―――を召喚した。ただし、その代償は自分の命。あの胞子の赤はバーナードが岩に吸わせた血の色かもしれない。作家っぽくなっちまったが、こんなところかしら」
「叔父さんがこれを?」
「私はこれでレポート書いておしまい。邪神や怪物の処理は組織の上の奴らの仕事。あんたはどうする?叔父さんの資産リストを作りたいならここでお別れ」
「お、お前は―――」
「ダナ・ルイスに銃突き付けたところで気づけよ。私は法律事務所のスタッフじゃない。どちらかと言えば法律を破りまくってる方だから」
「ああっ、何がなんだかわからない!僕は店を出す資金がもらえればそれでいいだけなのに。なんなんだ!法律事務所はウソ、叔父は頭のおかしい趣味に没頭、挙句の果ては気味の悪い風船だと」
「風船じゃなくて胞子。推測だけど宇宙か異次元のどこかから呼び出しちゃったやばい何かの胞子。そのグロック17はドアの修理代代わりにやるよ」
クリスはカイルの横をすり抜けて廊下に出た。
不気味な魔術工房に独り残されるのが嫌なカイルは早足で後に続く。
クリスが急に立ち止まったため、彼は背中にぶつかる羽目になった。
「どうしたんだよ」
ギィッ
ギィッ
ミシッ
開け放したままの玄関からまっすぐ階段を上がってくるのは。
隣家のダナ・ルイス夫人。
その後ろに枯れ木のような老婦人と、太った息子のジム。
更に列をなして階段を上ってくる知らない人々。
その全員の皮膚は赤く染まっていた。
そう、あの宙を漂う胞子の色に。
クリスは黒髪をかきあげて、黒縁眼鏡のブリッジを押し上げた。
「イエローサインの入団試験、ハードすぎる……」
(続く)
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