少年と少女の自己評価


「どう?」


 女子の足にオフィシャルな理由で触れるという光栄に浴するなんて、僕の人生も捨てたものではないと、素直に思った。

 靴下越しに、彼女の小さな足の片方は、まるで男の足のように腫れ上がっていた。

 一応素人なりに触診はしてみるが、少女はいつまでも口の中で苦虫を噛み潰したような顔をして何の反応も示してくれなかった。


「ちょっと、我慢されたらどう痛いか判断し辛いよ」


 どんな風に触ったり動かしたりしても、ただただ黙って耐えられてと困る。


「どう動かされても痛いもの」

「重傷じゃないか」


 自転車を漕いでいたら、突然足首に痛みが走って腫れ始め、途中までは自転車を押してきたらしいが、バス停で力尽きたんだそうだ。それこそ、自転車のスタンドを立てられないくらいに。

 そして、途方に暮れて寝ているところを僕に見つかったという訳だ。


「親と連絡がつかないなら先生呼ぼうよ」

「金曜日なのに? もし先生がデートでもしていたらどうするの?」


 何を気にしているんだか。確かに僕達の担任はそこそこ美人なのに独身で、しかも若くして農業を営む恋人がいる。逢瀬を邪魔するのは本意ではない事には同意するけど、そんな事を言っている場合なんだろうか。


「ああ、そうだ。僕が自転車漕ぐから後ろ乗れる?」

「いいの? 実はそれをお願いしようか迷っていたのだけど」


 良いも何も大熱望だ。女子を後ろに乗せて自転車を漕げるなんて。明日事故に遭わないように注意しないと。


「そ、そりゃぁ嬉しいよ……あ、ええと、いいよもちろん」


 良いか悪いかという質問に嬉しいと答えてどうする。本音が駄々漏れだ。鎮まれ我が表情筋。ここで薄笑いを浮かべたら本物の変態だ。


「こんなのを後ろに乗せて嬉しいの?」


 またそういう言い方をするのだから困る。結構似たもの同士なのかもしれない。


「こんなのって……漕ぎ手が僕って事に不満じゃないか心配だよ」

「随分自己評価が低いのね。あまりいい事とは思えないわ」


 何を言っているんだろうか。自分を『こんなの』呼ばわりしておいて。自己評価が低いのはお互い様だ。


「とにかく、この状況から救ってくれた人の後ろに乗るというだけではあまりにも私に有利過ぎるわ」


 また妙な事を。

 怪我をしたクラスメイトの女子を救い出して、しかも自転車に二人乗りが出来る。僕が今どれ程得をした気分になっているか分かって欲しい。


「だから、その胸ポケットのボタン、直させてもらうわ」

「へ……?」


 こうして、彼女は僕のワイシャツとにらめっこをする事になったのだ。



 僕の胸ポケットのボタンがなくなっている事には授業中から気付いていたらしい。

 普段から制服をびしっと着こなす彼女にとって、ボタンが脱落したままという、だらしない状態は見ていて気持ちが良いものではなかったようだ。


「ちょっと時間がかかりそうね」


 言うや否や、胸ポケットのボタンには取りかからず、一番上のボタンを除いて、パチンパチンと糸切りバサミで容赦なく切り落としていく。


「え? 全部直すつもりなの?」

「乗りかかった船よ。胸ポケットのボタンは今私が持っている物に付け替えるけど、それは我慢して」


 ボタンを切り落とされてしまってはもう着ることは適わない。どうせ時間はたっぷりある。帰ったところで家には誰もいないし。でも、僕が良いからって相手はそうとは限らない。


「もう暗くなってきたけど……帰らなくていいの?」


 プレハブ内の蛍光灯は数分前、自動的に点灯していた。もうバスは来ないのに、ちゃんと照明設備はある事には驚かされた。公衆電話が設置されているからだろうか。


「日曜の夜までかからなければいいわ。あなたも迎えに来てくれるご両親がいないから、こんな所まで歩いて来たんでしょう?」

「う、うん。そうだけど……」


 あっという間に一つ目のボタンが縫いつけられていく。

 そういえば、この娘も両親が忙しいと言っていたな。小学校時代に、この田舎にある世界的な先端企業へと、研究員だった父親が招かれたんだそうだ。母親も別の仕事をしているらしい。

 全く、ITをフル活用して田舎で仕事したいなんていう適当な発想で移住した我が両親とは雲泥の差だ。


 彼女にとってはいいとばっちりだった事だろう。こんな全く文化の違う場所に単身放り込まれてしまったに等しい。あまり教えてくれた事はないが、苦労を重ねてきた事は簡単に想像出来てしまう。

 そして苦労と同様に努力を重ねた結果なのか、日本語は日本人以上に完璧で、訛りなどまったく感じさせない。

 日本語はゆっくり確実に話すのに、英語は早口らしく、僕達の担任でもある英語の先生によくゆっくり読むようにたしなめられたりはしているから、英語の方が得意ではあるみたいだ。


「どう?」

「え?いや、どうと訊かれても……あ、手つきは凄かった、かな?」


 ボタン付けの良し悪しはさすがに判断できない。でも、手つきの良さは分かりやすい程分かった。


「出来栄えはどうかを訊いているのだけど?第二ボタンは目立つから、私としては丁寧に作業したつもりよ」


 少し、心臓にチクリとした刺激があった。僕なんかの持ち物に、そこまでこだわりを持って作業してくれるとは思いも寄らなかった。


「口角が上がってるけど、何?」


 僕からワイシャツを取り戻しつつ、訝しげな表情を浮かべられてしまった。

 本能に従い過ぎだよ僕の表情筋は。


「え?あ、いや、すごく嬉しくて!」


 少女の視線はワイシャツへと戻った。


「そう。そんなに喜んでくれるなら、他も気合を入れるわ」

「え?あ、ありがとう。でもそこそこでいいから……僕なんかのために、その」


 嬉しいけど、貴重な時間をそこまで割いてもらうのも申し訳ない。


「そこまでかしこまらないで。こちらとしては数少ない特技を人に見せびらかすことが出来て、しかも褒めそやされて。一定の満足感は得られているわ」


 感情に乏しい声でそんな事を言わないで欲しいな。でも、僕の賞賛の言葉をしっかり受け取ってくれている事は素直に嬉しい。もっと褒めるところはないだろうかと探してしまう。


「あ、制服の袖口が変わってるのとか、自分で直したりしてるの?」


 女子のブレザーの袖口は、袖ボタンもないシンプルなデザインなのに、この子の制服だけ袖に切り込みがあり、そこに袖ボタンが追加されている事に気付いた。


「よく見てるのね。そうよ。先週末に追加したの。変に見える?」


 もちろんこの子の姿も、一挙一動も見れる限り毎日見ている。我ながら気持ち悪い。


「い、いや、何も無いよりこっちの方が全然いいよ」


 普段の僕だったら、こんなに人を褒めたいと思う事なんて無いだろう。そもそもここに第三者がいたら、恥ずかしくて出来ない事だ。二人きりで良かった。


「あなたも、いつもしっかり裾をズボンの中に入れていていいと思うわ」


 褒め返してもらえて嬉しいけど、僕がズボンから裾を出さないのはきっちりしたいとかそんな理由ではなかった。


「ああ、それはその、裾を出すと長すぎて情けないから。きっちりしたいとかそんな意図は無いんだよ」

「正直ね。黙って好感度を上げておけば良かったのに」


 女子という集団の好感度は上がるかもしれないけど、僕の隣にいる特定の女子の好感度が上がらないのでは意味が無い。


「誤魔化そうとしたらすぐ見抜くでしょ」

「分かりやすいもの」


 言われ慣れている評価だ。自分としてはそこまで分かりやすいとは思えないが。


「ワイシャツの袖も、少し長すぎるわね。そのせいで華奢に見えてしまうのかも」


 相変わらず歯に衣着せない。でも、僕に気を遣おうとも思わない態度は少し嬉しい。


「ちょうど良いのが無いんだよ……背が低い上になで肩だし」

「そうね」


 ああ、そうだった。

 この子は純粋なアメリカ人なのだが、身長は平均的日本人の女子よりもかなり小さい。

 だから皆、よく彼女と話している僕を幼女趣味呼ばわりをするのだが、この子は歴とした同級生だ。そして、遠目には幼く見える顔には、いつも大人びた表情を浮かべているのだ。

 それがまた、僕を惹きつけてまなかった。まあ、女子の平均身長くらいしかない僕より更に背が低いという点も、惹かれる要素なのかもしれないけれど。


「私のシャツ、本当は中学校のものよ。よく見て」


 本当だ。ブレザーの袖を引きつつ、僕の顔の前に差し出された腕のカフスボタンには、赤い文字で学校名の後に『JH』と書かれていた。Junior Highの略だ。高校の制服は『HS』、つまりHigh Schoolの略が書いてあるはずなのに。


「ほんとだ、妹のと一緒だ」

「ええ、そうよ」


 家族の話は定番だから、何度かしている。兄妹がいるのは、一人っ子だから羨ましいとは言われたけど、僕としては一人っ子に憧れなくもない。ただ妹がいなかったら寂しいとも思う。


「あれ?でも、襟の形が違う」

「付け替えたのよ。サイズを詰めるよりは楽だったから」


 事も無げに言うけど、絶対に難しい作業だ。

 中学の女子のワイシャツは丸襟だが、高校は角襟だ。

 さすが、ボタンの付け直しを買って出てくれるだけの事はある器用さだ。


「そういえば、さっき言ってた自分にばかり有利ってどういうこと?ボタンを直してくれるだけでも十分なんだけど……うちの親、忙しくていつまでも直してくれないから」


 少女が二つ目のボタンを付け終えてから、手を止めた。


「二人乗りが男子だけの夢なんて、誰が決めたの?」

「あ、相手によるんじゃないの?」


 僕は少し、変なのかもしれない。


 この少女が浮かべる不敵な笑みは、どの表情よりも可愛く映ってしまう。


「そうね。でも行為自体は興味あるわ」

「そ、そう……」


 これはなかなかにきつい言葉だ。僕は興味の無い相手だと言われてしまったようなものだ。いや、これで良いのかも。僕は所詮、多くを望んで良い立場の人間ではないんだ。


 三つ目のボタンが縫い付けられ始めた。

 先程の少女の言葉が気持に刺さったのか、少し居たたまれない気分が、僕を支配していた。そうだ、腫れ上がっている足に何もしてあげてなかった。

 鞄からタオルハンカチを取り出して、ベンチを立った。


「ど、どこへ行くの?」


 初めて聞く不安そうな声だった。


「タオルを水に浸けてくるよ。腫れてるんだから少し冷やさないと」

「そ、そう……あ、ありがとう」


 外の田んぼの前を流れる農業用水にタオルを浸す。思った通り冷たかった。

 慎重に靴と靴下を脱がし、腫れている部分に濡らしたタオルハンカチを被せる。


「いつつ……少し楽になるものね」

 寒いのに、靴下だけで大丈夫なんだろうか。


「生足で寒くないの?」

「変なこと気にするのね。本当は冬用のストッキングを履くつもりだったけど、見つからなくて諦めたのよ」


 跪いてタオルを当てる僕を見てくすっと笑う。


「それより、無遠慮に女子の靴と靴下を脱がせた感想はどう?」

「え?あ、ええと、そうだな……」


 博学な少女に試されている気分になってきた。


「えと、僥倖っていうくらい嬉しいかな?ああ、ごめん。何も言わずに脱がせちゃって」


 なんとも愚かな感想を漏らしてしまった。でも、別に格好つけたところで、簡単に見抜かれてしまう。


「こんなちんちくりんの足を触って嬉しい?」


 よくそんな日本語を知ってるなぁ。


「そ、そりゃ、僕も男子だから」


 少女が少しはっとした顔をした。もしかして、男子だと思っていなかったんだろうか。本当に僕の恋愛対象が男とでも思われていたんだろうか。


「……男子だから、人並みには嬉しいよ」


 ちょっと棘のある声が出てしまった。まさかここまで意識されていなかったとは。いや、それも仕方ない。僕も別に、男女の関係を求めて会話していた訳ではなかった。


「そうね、もちろん性別を忘れてはいなかったのだけれど……意識の外だったわ」


 悪びれもせずに「そうね」と返さないで欲しい。


「タオル、温くなったら言って。また冷やしてくるから」

「ええ、ありがとう」


 三つ目のボタンは、ほぼ付け終わっていた。

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