少年と少女の自己嫌悪
5
「ゆっくり作業しすぎね」
「そ、そうなの? 十分早いように思えるんだけど…」
だが、言われて見ればそうだ。
もう外が暗い。でも、僕はこの時間がもうしばらく続けば良いのにと、良くない願いを抱いていた。
「ボタンがついていた場所にダメージがあるから、付ける位置が難しくて」
四つ目のボタンの位置が決まったらしい。布に針を躍らせる。
「ごめん、こんなことさせちゃって」
縫い付ける手が止まる。
「謝る必要なんて一切無いわ。この程度では見合わない事をお願いする可能性があるもの」
「え? どんな?」
少女は、僕の質問に応える事なく、作業に戻ってしまった。段々会話が短くなってきた。何か話さないとという気分に襲われてしまう。
「さ、最近はどうどうだった?」
咄嗟に出た質問は本当に咄嗟な質問だった。
「大雑把な質問ね。何をどう答えて欲しいの?」
眼鏡越しに水色の瞳がこちらに向けられた。質問に他意があることを察してくれているのだろう。
「久しぶりに話している気がするから、もう少し話していたくて」
「そう。でもこれ以上気温が下がったら作業どころではなくなってしまうから、せめてこの場所は脱出したいわね」
おっと、そうか。風邪までひいてしまったらまずいよ。ただでさえ足を怪我しているのに。
「それで、どうして会話を長引かせたいの?」
「そ、それはもちろん、話してて楽しいからだけど」
少女の顔が僕の方へと向く。その瞳は怒っているような、悲しんでいるような、複雑な光をはらんでいた。
「楽しいというのに、ここ一週間私を避けていたのは誰かしらね?」
ああ、そうか。『不満』だ。
そうだ、この一週間話しかける事なく、距離を置いていたのは僕の方だった。原因はもちろん、友人がもう一人の友人と恋愛関係になったからだ。一番親しい友人二人が、男女の関係になった事で、僕が毎日話している相手は女の子だったと認識するには十分過ぎた。
別に、この少女と僕との間に共通の話題なんて無かった。じっと物思いにふけっている外国人の少女の姿が訳もなく印象的で、ただ、話してみたいと思った。本当にそう思っていただけだった。
自分から女子に話しかけるなんて、我ながら大胆な事をしてしまったと思う。
でも、話せば話すほど面白くて、僕も異性だという事を忘れていたのかもしれない。いや、そんな事はないな。ちゃんと相手は女の子だと意識していた。でも、それ以上の事は思わなかった、いや、思わないようにしていた。少女は良き友人だからだ。
ただ、恋愛という未知の領域に踏み入れた友人に嫉妬を覚えたのだろうか、僕の中に、おかしな欲が生まれてしまった。
この少女の顔をずっと見ていたいとか、完全な金髪でも茶髪でも無い、不思議な髪の毛に触れてみたいとか、男が女に抱いてしまう感情というか劣情の全てだ。
「そ、それは謝るよ。でも、ちょっと、冷静にならないといけない時間が必要で」
まずい。一週間前から引きずっているやましい気持ちが戻って来てしまった。
「……謝るのは私の方ね。こちらから話しかければいいだけの話なのに、一方的に怒りをぶつけてしまったわ」
少女は再びワイシャツの方へと視線を戻したが、手は動かなかった。
「え?い、いつも僕が話しかけてたから、本当は嫌なんだと思ったよ」
「はぁ」
露骨にため息を吐かれてしまった。
しまった。ここまで卑屈な態度を取ってしまったら、ため息も吐かれるだろう。
「そんな言い方をしなくていいわ。あなたは正直だし、男子生徒の間でおかしなロリ外人女で通っている人物のどんな言葉も好意的に捉えてくれるから、とてもいい話相手よ」
「そ、そんな風に言われる程、誠実なキャラじゃないんだけどな」
確かにこの少女はおかしな外人呼ばわりされていた事もあった。
でもそれは見た目に反して言動がやたら変化球で、人を煙に巻いてしまうからだ。
再び、少女の水色の瞳が僕の顔を捉える。
「……私にとってあなたは誠実では無いわ。『正直』よ」
「ん? ど、どういう違いがあるのかよく分からないけど」
ああ、またよく分からない事を。僕にとってはたまらなく興味を惹かれる会話だ。
「そうね、私の定義する誠実は『女子高生的誠実』、とでも言えばいいのかしら」
「ん?」
なんだろうそれは。話の導入がいつも不可解だ。
「言葉の意味ってね、どうしても見解の相違というものが出てくるのよ。そういう時は相手に合わせることにしているの。そこを誤解しないように教えておくわ」
「ええと、誠実の実際の意味と、みんなが言う誠実の意味が違うという事…?」
脳をフル回転させて言葉を咀嚼する。
「そう。どうも女の子達にとって誠実な人というのは、聞いている限りでは自分にとって都合の良い発言と行動をする人物を指すみたいなの。だから私は、本当の意味で誠実な人は正直、あるいは正直者と呼ぶようにしているわ」
「そ、そう。ありがとう」
少女の手は完全に止まっていた。
「ま、女子の足に触れて僥倖という表現を使う男が、女子達の言う誠実に当てはまらないのも確かね。今も靴下を握りしめたままで」
「え!あ、ごめん!」
慌てて靴下をベンチに置く。
少女がなんとも言えない表情で僕を見つめる。
「その靴下の匂い、嗅ぎたい?」
「は、はあ?」
何を試されているんだろう僕は。でも、正直者はどこまでも正直者でいれば良いだけだ。
「どうなの?」
「え、ええと……靴下の持ち主には興味あるけど、靴下の匂いには興味無いよ」
ふふっと少女が笑う。
「そうよ。きっと『誠実』な人だったら、こちらがそういう答えを求めていると察して、嗅ぎたいと答えたでしょうね」
そうか、確かに劣情が混じったような回答の方が、一見正直な答えに思えるが、普通なら別に靴下に興味なんて無いだろう。特殊な性癖が無ければだが。
「そ、そんな事言って、僕が靴下フェチだったらどうするんだよ?」
変な反論をしてしまった。
「進呈するわ。今日は履かないと寒いから、今すぐは無理だけど。ご希望とあらば二日くらい履きっぱなしにしてからにしましょうか?」
「つ、謹んでお断りするよ」
どれだけ人を翻弄すれば気が済むんだろう。こんな言葉を吐かれる度に、どんどん惹かれてしまう自分に気づく。何故誰もこの少女に惹かれないのだろう。いや、気づかなくても良い。僕だけ気付いていれば良いんだ。
しばし沈黙が走る。これじゃあまるで靴下を進呈してもらえる事を期待しているみたいだ。随分小さい靴下だ。僕の妹も小さいが、ここまで小さくはなかった気がする。
はぁ、どうして僕はこの子との会話を一週間も避けていたんだろう。くだらない話をしているだけなのに、なんだかとても気分が良い。これは多分、恋愛とか、そういう感覚ではないと思う。恋愛というのは、もっと心臓が高なったり、触れ合ったりしたくなるはずだ。少なくとも、僕の薄っぺらい想像の世界では。
「ね、ねぇ、もし、家に誰もいないなら、一度国道に出て何か食べない?」
少女は少し思案してから、肯いてくれた。
「そうね、ファミレスくらい奢るわ」
「え?そんな必要は無いよ」
レジ前で女子にお金を払わせるなんていう格好悪い自分を想像しただけで虫酸が走る。どこまで見栄っ張りなんだ僕は。
「この危機を救ってくれたのは誰?気の済むようにさせて」
「ぼ、僕の気は済まないよ。初めて女の子と二人で夕食を食べられるのに奢られるなんて」
少女が顔を上げた。
「そう、初めて同士だったのね」
はぁ、また変な言い方を。でも、先程までのように男子として意識されていないよりはずっと良い。
「良かった。僕が男子だって事今は忘れてないんだね」
再びボタンを縫い付ける手が止まった。一体僕は何度作業の邪魔すれば気が済むんだろう。
「意識の外だったなんて冗談に決まっているでしょう」
「へ?な、なら、いいんだけど」
呆れたという顔をしないで欲しいな。ケレン味たっぷりだから本心ではないんだろうけど。
「……そうね、初めて私に話しかけてきた時のこと、覚えてる?」
突然話題が変わった。回りくどく何かを伝えようとするのはいつもの事だ。
「う、うん。覚えてるよ。とても不思議な物を見るような目をされたから」
確か、留学生かどうか問いただしてしまったんだった。
転校したてで、右も左も分からない中、この少女が普通の生徒だというのは誰もが知る事実だったというのに、僕は本人に問い質すという愚挙に出てしまった。他の生徒に質問すればすぐに判明するのに。
今でもどうしてかはよく分からない。女子に自分から話しかけた事なんて一度も無かった。
「そうね、今も忘れないわ。都会からやってきた変な男に弄ばれた気分だったもの」
「ぼ、僕は何も知らない間抜けを馬鹿にしているのかと思ったよ」
少女の眉間に皺が寄った。
「そう思ったのに何故話かけ続けたの? 内心馬鹿にされていたかもしれないのに?」
「僕は何も知らない間抜けと言う認識で正しかったからだよ」
認めてしまうのは恥ずかしいけれど、そういう事だ。
少女が鼻から大きく息を吐いた。
「さて、初心に戻ったところで質問があるわ。話しかけなくなった理由は? あんなに唐突に」
うわ、今度こそ本格的に怒ってらっしゃる。そんなに僕と話す事を楽しいと思ってくれていたのだろうか。
「それは、その、女子相手に馴れ馴れしく話す自分がおかしく感じちゃったからだけど……ほら、こんな女の子と仲良く出来るような見てくれでもキャラでも無い奴がさ」
「変な事を気にするのね」
そんな事言われても、そう感じてしまっているんだから仕方ない。
「自分の事が好きではないの?」
「まあ、そりゃあ、背が小さくて肩が無いし、暗いし……」
水色の瞳が僕を睨むように見ていた。正直に答えただけなのに、なんで怒るんだよ。
しかし、その目もすぐ下を向いてしまった。
「……ごめんなさい。自分もそうなのに、あなたの言動に腹が立ってしまったわ」
ボタンを縫い付ける手は完全に止まってしまっていた。
「自分もそうって……?」
「分からないの?」
言いたいことは分かるけど、分かりたくないのが本音だ。少女の抱えている負い目は、僕如きの悩みよりもずっと大きくて重い。
「どうせ薄々感じてはいるんでしょう? 見なさいよこの姿。この背。もう一年以上伸びてないから一生このままよ。まだ小学校に上がるかでこんな所に連れてこられて、言葉も通じなくて、食べ物は全部味薄くて食べられなくて……多分、そのせいでこの様よ。この髪の毛も訳が分からないでしょう?生えてる場所ごとに色がめちゃくちゃで。ずっと合うシャンプーが見つからなくて、こんなにバッサバサ。パサパサじゃなくてバッサバサよ」
口を挟もうにも、出来なかった。
ただの自虐じゃない。表情からは途方もない悔しさが滲み出ていたからだ。
「顔の皮膚、見てよ。何この赤いツブツブは。肌の色に合うベースもファンデも無いから隠せないし。必死に日焼け止めを塗ってるのにどんどん広がってく。それにこの目玉よ。なんでこんな色薄いの? コンタクトレンズ無しでゾンビ映画に出演出来るわ…この偏屈した性格とかも……何? 何よその顔? 哀れんでるの?」
吐き捨てるように愚痴をこぼす姿は、この子には悪いけど、僕にはとても可愛く見えてしまった。
僕よりずっと大人かと思っていたのに、こんなに子供な面を見せてくるんだからずるいよ。
「今言ってたところって、全部自分の嫌いなところ?」
「……そうよ。何だと思ったの?」
ぎっと睨まれるが、怯んでいる場合ではない。
今僕の中に沸き起こっている感情は、すごく身勝手な怒りだ。でも、抑えられるほど、僕は出来た人間ではなかった。
「全部僕が気になってるところなのに、嫌いって言うの?」
「あら、気が合うわね。さすが正直者ね」
はぁっと、ため息を吐いてしまった。いらいらが収まらない。どうしてそんな言い方をするんだよ。
少し長い沈黙が走った。
気がつけば、四つ目のボタンがワイシャツにしっかり止まっていた。
二人きりの時間は少しずつ、確実に減り続けていた。
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