この少年と少女が、互いに一歩踏み出すには

アイオイ アクト

再会


 収穫を終えた田畑が広がる農道の真ん中に、そのバス停は存在していた。

 待合プレハブの中、三人掛けのベンチの片側の隅に僕が座り、人ひとり分空いたもう片方の隅に、少女が座っていた。


 その少女は金色の両眉を真ん中に寄せ、その手に持ったワイシャツをじっと眺めていた。

 少女の瞳は水色そのもので、顔の肌は一目で欧米人と分かる程には白く、金色の髪と茶色い髪が混在したような髪の毛を後ろでまとめ、幼く見える顔にはやや年寄り臭さを感じさせるような、太いフレームの眼鏡がかかっていた。本人曰く、瞳の色を目立たなくするためらしい。


 僕の視線はいつも、太いフレームの奥底にある目の隈や白い肌に広がった紅色のそばかすに釘付けになってしまう。

 格好を付けた言い方をしてしまえば、それがこの少女が少女たる所以だった。

 くすみ一つない肌に何の価値があるんだろう。


 その少女は年寄り臭くふんと鼻から息を吐いてから、裁縫セットの糸切りハサミを取り出し、その手の中にあるワイシャツの胸ポケットに残った糸を丹念に取り除いていく。

 そのワイシャツの持ち主である僕はどうする事も出来ず、ただインナーシャツの上からブレザーを羽織り、その姿を見ていることしかできなかった。


 僕とこの少女が通う、地域唯一の私立高校の指定ワイシャツは胸ポケットにボタンが付いている。だが、そのボタンが無事な男子生徒は少ない。

 男子生徒はその胸ポケットに生徒手帳を収納し、ボタンを止めて落とさないようにしなくてはならないという校則があるからだ。

 普通であれば、生徒手帳なんてブレザーの内ポケットに入れておけば良いはずなのだが、やたら強力なセントラルヒーティングを導入した校舎はとても暑く、男女問わずブレザーは脱ぎ、コートと一緒にかけてしまう。その状況を鑑みて追加された校則なんだそうだ。

 しかし、これがなかなかの困りものだった。生徒手帳がこれでもかというくらいに邪魔だ。頭を突っ伏した際に机の隅だの、教室の出入口だの、日常のあらゆる場面で生徒手帳が引っかかったり、生徒手帳によって前に出っ張った胸ポケットのボタンが引っかかったりしてしまう。

 僕のワイシャツの胸ポケットも多聞に漏れず、ボタンはどこかへ吹っ飛んで消えていた。

 それを見咎め、直すことを申し出てくれたのが、このクラスメイトでもある少女だった。胸ポケットのボタンなんて無くて良いのだけど。生徒手帳はそう簡単には落ちない。


「……喧嘩でもしたの?」


 少女の声は、相変わらず落ち着いていた。少しハスキーといえば良いんだろうか。


「ん? なんで?」


 少女の体がぐいっと僕に近寄ってくると、思わず息を詰めてしまう。


「一番上以外全部取れそうになっているのだけど」

「いや、大した理由ではないんだけど」


 喧嘩なんていう理由だったら、ちょっとは格好がついたんだけど。


「そう。要するに一方的にやられたのね」

「え? 違うから!」


 不敵な笑みを浮かべつつ、眼鏡越しに青い瞳でじっと目を合わせてくる少女はとても可愛いと素直に思う。

 だけど、そんな僕の気持を誰かに打ち明けたら、僕は変な奴呼ばわりされてしまうかもしれない恐れがあった。


「ごめんなさい、実は現場を見てたの」

「いや、謝らなくても」


 謝られても困ってしまう。なんとも恥ずかしいところを見られてしまった。


「あんな痴情のもつれを目撃してしまって、あなたが本当にそっちの人かと思ってしまったの。それについての謝罪よ」

「痴情のもつれ……? そっちの人……?」


 一週間程前、ちょっとした事から友人に服を掴まれ、それを振り払って逃げただけなんだけど。

 ボタンは一つも脱落しなかったものの、止めていなかった一番上のボタン以外が緩くなってしまった。でも、私立の高価な指定ワイシャツは三枚しかないので、ボタンが外れそうなんていう理由でローテーション落ちさせ、新しいシャツを買う訳にもいかなかった。

 思い出してみると、確かに目撃者からは痴情のもつれと思われても仕方のない出来事だった。

 恋人が出来たばかりの男に胸ぐらを掴まれて、それを振り払った。

 傍から見れば、友人の彼女を僕も好きで、それを取られてしまった惨めな奴に見えなくもない。


「まさか、愛しの彼をよりによって女に奪われてしまうなんて。不憫ね」

「へ……? え? そんな……!」


 ちょっと待って。確かにあいつとは仲良いけどそれは違う。


「女子の間ではそういう事になっているわ。一部だけれど」

「いや、現実にそういうのを持ち込むのはダメだって!」


 確かに僕は小さくて華奢なのは認めるけど、性的嗜好は男じゃない。


「彼とは随分仲が良いでしょう。妄想をかき立てるような態度を取ったのはまずかったわね」

「そ、そんなこと言われても!」


 会話がどんどん妙な方向へとズレていく。この少女との会話は、いつもこんな具合だ。



 何故、僕がこの少女と二人きりでこんな場所にいるのか。それは全くの偶然だった。


「おーい。俺達二人乗りするからさ、俺のチャリ使えよ」


 校門を出てバス停へ向かおうとした僕にかけられた声だ。言葉足らずだが、一緒に帰ろうという意味だろう。

 一年前に東京の高校から編入した僕に、初めて出来た友人だ。顔はお世辞にも格好良いとは言えないが、世話を焼くのが好きで、不思議な包容力がある人気者だ。


「で、でかい声で二人乗りとか言わないでよ!」


 その横で恥ずかしがっている女子も、その男子の『元』友人という縁で仲良くなった間柄だ。

 ここ一年、三人で自転車通学をするのが常だったが、先日晴れてこの二人が互いの思いを告げ合い、友人関係が恋人関係となった事で、その自転車通学生活は途切れた。僕が切ってしまった。


「あ、ああ、ええと……僕はいいんだけど……」

「なーに遠慮してんの? たまには一緒に帰ろうよ!」


 彼女も同意しているのか。

 うーむ。今日くらいはお言葉に甘えようかな。わざわざ僕の日直仕事が終わるのを待っててくれたんだから。

 それにあれだ、この二人がこういう関係になったのは僕のお陰でもあるんだ。全く、彼女がいかに可愛くて完璧かを僕にまくし立てるだけの無駄な日々を終わらせてやったんだ。彼が僕に語った原文そのままを彼女に告げる事で。

 その事については感謝してもらわないと。


「分かったよ。でもボウリングとカラオケ以外ね」

「分かってるってー!」


 この友人もその彼女も本当にいい奴だ。

 一週間前に、僕のワイシャツを危うく駄目にしてしまいそうになったのもこの友人なのだが、僕の服を掴んででも止めようとしたのは恋仲の二人に遠慮する僕に、前と同じように接して欲しいと願った結果だった。


「さーてどこ行く?」


 ここしばらくはバス通学で寄り道なんて出来やしなかったから、二人きりのところを邪魔して申し訳ないが、少し楽しみだ。

 しかし、ぶいんという携帯のバイブ音と共に、珍しく高ぶった僕のテンションは地の底まで堕ちた。


「うわ、親からお使い命令来ちゃった……」


 せっかく待っていてもらったのに申し訳ない。我が家は父も母も忙しいのは彼も彼女も知っている事だ。

 二人は後日必ず一緒に帰ろうという約束を僕から取り付けると、あっさりと引き下がってくれた。


「はーあ……」


 母親からのメールだったのは事実なのだが、実際のメールの内容は違った。父も母も帰りが遅くなるので、妹が帰ったらどこかで夕食を済ませてくれという内容だった。

 この事実を二人が知ってしまったら、帰りの遅い妹が帰ってくる時間まで、とことん僕に付き合ってくれるだろう。そこまでしてもらうのは心苦しい。


 でも、僕は自らの不逞をよく理解しておくべきだった。人に噓を吐くと、必ず罰が当たるのは世の常なのに。

 普段なら、夕方のバスは付近の中学校も回るので五分以上遅れて来るのだが、今日に限って時間通りだったようだ。その証拠に、バス停で待っている生徒が一人もいなかった。


「ああもう……」


 ぼやき声を発しつつ、バス通りを歩く。

 忘れていた。今乗るべきだった便を逃すと次は三時間後、部活帰りの生徒向けの便まで来ないのだ。

 GPSで確認すると、徒歩での家への到着予想時間は三時間ちょうどくらいだった。


 あのまま校舎内に残ったら、教職員の誰かが車で家まで送ってくれただろう。

 だけど、自分の不注意で迷惑をかけてしまうのは本意ではない。三時間のウォーキングくらい楽しくやってのけようではないか。

 ただ歩くのもつまらないので、自転車通学していた頃とは別の道を選ぶ。迷わないように見覚えのある道を選び、ひたすら家路を目指す。なかなか心地良い孤独感だった。


 とうの昔に刈り取りが終わった田んぼを見つつ、人っ子一人いない農道を歩く。

 どうせ家に戻れば、母親が置いて行ったお金がある。妹と一緒にピザでも食べよう。東京と違って一店舗しか宅配してくれないのは不満だけど。

 帰宅部の僕と違って、ちゃんと部活をしている妹は自転車で十九時には帰ってくるだろう。それまでには辛うじて間に合うはずだ。


 しかし、再びのバイブ音でその予定も散った。

 妹は友達とご飯を食べて帰るとメールをよこしてきた。すっかりピザが食えると思っていたのに、一人じゃ食べきれやしない。ウォーキング開始数分で、やる気がすっかり失せてしまった。

 そうだ、今歩いているバス通りではなくて、すぐ近くを走る広域農道にバス停があった。あそこならまだバスがあるかもしれない。我が家付近へのコースからはずれてはいるが、家に着く時間を多少早める事が出来るだろう。


 今にして思えば何故、そのバス停の時刻表をスマートフォンで確認せずに行動を起こしてしまったのか。


「あれ?」


 バス停の横には、見覚えのある自転車が横たわっていた。

 ピンク色の小径自転車のフレームに、大きなバッテリが装着されている電動補助自転車なんてありふれているが、シートが極端に低くセットされているその自転車のその持ち主は間違え様がなかった。どうしてスタンドも立てずに横たわっているのかは分からないが。

 まさかと思い、バス停のプレハブの扉を開けると、中のベンチに横たわる持ち主を見つけた。


「だ、大丈夫!?」


 思わず叫び声を上げ、救急車を呼ぼうと取り出した携帯電話は、その倒れていた人物に掴まれてしまった。

 その人物こそ、今隣りに座っている少女だった。しかもここ一週間、僕がずっと避けていた少女だった。

 こうして僕達二人は再会、いや、『再会話』したのだった。

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